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スポーツで人と出会う一日。

 

 昨日は看板のデザインに没頭していてブログを書く余裕が無かった。でもとりあえず完成したので良しとしよう。

画像を載せようと色々やってみたのだがなぜかエラーが出て画像が表示されない。仕方ないので文字で宣伝する。以下、宣伝。

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五月祭で焼鳥を食べたくなったあなたは、【焼鳥屋とぅるてるたうべ】 にどうぞ!

一本100円でネタはネギマ・かわ・砂肝から自由に選択できます!また、味は塩とタレの二種類を用意してあります!

「ブログを読んで買いに来ました。」なんて言えば、もしかすると秘密のサービスがあるかもしれません。お楽しみに!

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宣伝終わり。

というわけで是非来て下さいね。

 

 さて、今日は二限がソフトボール。暑いぐらいの日差しに涼しい風が時折吹いてきて、最高に気持ちいい天気。

こんな天気の下で運動をしてテンションが上がらないわけがない。楽しく試合をやって、連勝した。今のチームは守備も攻撃も

素晴らしく上手い。キャプテンということで、前回の試合ではあんまり打たないようにしていたのだが、みんながガンガン打っていく

中で凡退するとちょっと悲しくなるので、今日は遠慮せずに打って打点4。真芯にあててセンターに返すととても爽快な気分になる。

 

 続く三限の政治Ⅰを自主休講にしてテラスで山川出版の『新体系日本史2 法社会史』を読んだりフラ語の単語を覚えたり、

エーリヒ・クライバーとACOの『田園』(確か1953年ぐらいの録音)を聞いたりしていると、向こうから見覚えのある人がやってきた。

先ほどソフトボールで一緒だった人である。四限の授業で同じものを(かんさんじゅん)を選択していたので、一緒にかんさんじゅんを

受ける。朝鮮戦争にまつわる映画(Joint Security Area)を見た。自分では絶対レンタルしない内容の映画だ。

でもレポートを書かねばならないので、一応真剣に最後まで見る。内容はここに書き切れるものではないから書かないが、

ショットの切り替えが安易すぎて映画の価値を落としているように思えてならなかった。

 

 五限は高等動物の比較生物学。今日のテーマは、動物も痴呆症にかかるか、というもの。

前回の「毒」にまつわる話に比べてあまり面白くなかった。

ピアノで久石譲 Asian Dream Song を何回かさらったのち、ボウリングに行く。

やたら盛り上がっている団体が二組いてお互いとても楽しそう。きっと大学生だろう。

投げているうちに、横のボックスで投げていらっしゃった妙齢の女性とちょっと親しくなる。色々話をしながら9G投げ切った。

はじめて話した人なのに「また一緒に投げましょうね。」と言って頂き、社交辞令だったとしても大変嬉しい気持ちになる。

 

ついでにここに書いておこう。

僕がボウリングを続けている一番の理由は、色々な人と交流を持つことが出来て楽しいから、という理由である。

スポーツとしてボウリングをやっていると、年齢層も職業もばらばらの人と仲良くなれる。

自分と全く違う世界を生きてきた人たちの話を聞かせてもらうことが出来る。思い返せば、ボウリングをやっていたことで様々な人に

出会ってきた。大阪フィルの元奏者の方、主婦の方、左官屋さん、企業の社長さん・・・年上の人に限らず、先日にはコンパ前に

ボウリングに来ていた日本大学の一年生の集団ともl仲良くなった。このように多様な方々から教えて頂いたことや、

見せてもらったことは、到底ここに書き切れるものではない、いろんな世界があるんだなあと毎回毎回思う。

 

 ボウリングを通じて、本当に貴重な出会いをしてきたと思う。その意味では、学生連合に入って投げていた昨年は本当に不毛だった。

学生連合に入って投げる、ということは、組織に所属しているという安心感を得られるかもしれないが、色々な人と出会うという

可能性を自ら拒否することになってしまう。開かれた環境でボウリングを通じて自由に人との交流を行うことが可能な今のほうが、

よっぽど楽しい。昔、僕の師匠が

「マイボウラーとかハウスボウラーとか、そんなものはボウリングにとって関係ない。学生たちが大声で騒ぎながらやろうが、

腕に何かメカメカした装置を付けたおじさんが一生懸命投げていようが、それはどちらもボウリングだ。

ボウリングはマイボウラーのためのものではない。レジャーの楽しみ方だってあっていい。だから、レジャーボウラーにいやな顔をする

なんて論外で、レジャーボウラーたちと一緒に楽しく横のボックスで投げれるようにならなければいけない。楽しく、良い投げ方で

そして良いスコアを出していれば、注意なんかしなくてもレジャーボウラーは右側優先を守ってくれるようになる。

周囲の人との関わりを楽しみながら、とにかくボウリングを楽しめ!」

と言っていたが、まさにそういうことなんだと今になってこの言葉の意味を噛み締めている。

 

 そんなこんなで、今日はスポーツを通じて色々な人と出会う一日だった。

アイデアが湧くのをひたすら待ちつつ、色々読む。

 

 昨夜からずっと、五月祭でクラスが出す模擬店の看板デザインを考えている。

以前Fresh Start用の立看板を作ったときにも感じたことだが、ディスプレイよりも遥かに形状が大きく、そして横長のものを作ろうと

するとイメージがなかなか湧かない。バランスなどを想像しづらいのである。

それだけではなく、今回は店名が非常に難しい。「焼き鳥屋 とぅるてるたうべ」と言うのだが、この「とぅるてるたうべ」という文字が

曲線だらけで、なかなかスタイリッシュにならない。カッコよく背景を作ったとしてもその上に「とぅるてる・・・」と載せると、どうしても

脱力感に襲われてしまう。かといって、曲線を生かした可愛らしいデザインにして、ついでに端に鳥のイラストでも載せようもんなら

「焼き鳥」の字と相まって、「・・・この鳥が今から焼かれるのか。」 と妙に生々しくなってしまう。どことなく吉田戦車っぽいシュールさ。

これは困った。いっそレトロな感じにしてみようかなあ・・・。

 

 看板の締切が迫っているので詳しく内容を書く余裕が無いが、とりあえず 『古代天皇制を考える』(講談社,2001)と、

唯川恵『ベター・ハーフ』(集英社文庫,2005) 、それから『国家史』(山川出版社,2006)を読了。この三冊を並べて書くと変な感じだ。

『国家史』の第二章で「陣定」について、「注意すべきなのは下位の人から順に全員が意見を述べる慣行である。上位の高次の権力を

もつ人から発言したとすれば、下位の者は当然それに影響されるだろう。下位の参議から順に全員が判断を述べ最後に大臣が発言

する形式は、民主的な会議の運営方式であり、公卿各人の自主判断を重んじる方式である。」との一文がとても印象深かった。

 

なお、昨日の金森ゼミでネグリの生政治論について学んだことから、三年前に読んでイマイチ理解できなかった

『帝国 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(以文社,2003)を再読しはじめた。

一年の間にフーコーとドゥルーズを集中的に読んだことで、浪人中よりはこの本を理解できるようになった気がしている。

 

 

風と陽射しの一日。 『王権を考える』(編:大津透 山川出版社 2006年)

 

今日は風がとても気持ちいい陽気だった。ただ、夕方ぐらいからちょっと風が強すぎるて自転車を漕ぐのに一苦労。

「坂道+向かい風+空気抜けたタイヤ」という奇跡のコラボレーションが出来上がってしまい、電車で行けば良かったとちょっと後悔。

 

 まず二限がハンドボール。ハンドボールは今学期から始めたのだが、なかなか面白い。

キーパーの動き方にもかなり慣れてきた。最初はサッカーでGKをやっていた時と同じ動きで動いていたのだが、

それでは不十分な対応しかできない。下からボールが浮いてくることの多いサッカーでは、ボールが上に浮いてくる力を流すように

して手のひらや指先に乗せればゴールの外に持って行ける。しかし、ハンドボールではそうにはいかない。

身長と手の長さに加えてジャンプが加わるから、自分の頭の上からボールが叩きつけられるようにしてシュートが来る。

サイドに流すことは可能なのだが、それは角度のついたシュートを処理するときにしか通用しない。上から来るシュートに対しては

自分の体に当ててはじく方法しか無いんじゃないだろうか。だからこそポジショニングが重要になってくる。幸いにしてサッカーよりも

ゴールが圧倒的に狭いから、シュートコースを切るポジショニングが比較的やりやすい。どこに立つか、をもっと意識して掴もうと思う。

 

 三限は英語二列。大して面白くはない。必修の授業とはそういうものだ。

四限は比較芸術の授業で、駒場美術館へ。矢内原忠雄の特設展を見たり、秘蔵の展覧会カタログ所蔵室に入らせてもらったり。

カタログ所蔵室はなかなか面白かったが、以前に国立新美術館のカタログ所蔵室に入らせてもらった経験があるため、

量・内容ともにやや物足りなかった。もちろん、大学の中に4000冊ものカタログが所蔵された場所があるのは凄い事だと思うのだが。

 

 授業終了後、テラスのベンチで五月祭で出す模擬店の看板デザインをラフスケッチする。

何個か案が浮かんだがどれも実現にとても手間のかかるものばかりだ。普通でいいのに、よく分からないコダワリが邪魔をする。

 

なお、本日は『王権を考える 前近代日本の天皇と権力』(編集:大津透 山川出版社 2006年) を読了。

2005年11月に開かれた史学会シンポジウムの内容を纏めたもの。様々な時代を対象に「王権」「権力」などをテーマに分析が

為されている。少し前に退官された五味文彦先生の東西王権論(今回は殆ど東の王権に関する議論だが)も読めて面白い。

なぜこのような本を読んだかと言うと、日本史の本を定期的に読むようにしていることに加え、先日紹介したマルク・ブロックの

『王の奇跡』を読んでいて、日本の王権はどうだったのか知りたくなったというのが主な理由である。

日本史を紐解いて王権を考えることは、必然的に天皇制について考えることに繋がるはずだ。

というわけで講談社の『古代天皇制を考える 日本の歴史8』も併せて手元に置くことにした。

これを読むために、長い夜を覚悟してミントジュレップを作る。

ミントジュレップは五月初旬に開かれるケンタッキー・ダービーの名物カクテルで、ミントの葉をソーダーとシュガーシロップを混ぜた中で

潰しておき、それをクラッシュドアイスを一杯に詰めたグラスにバーボンウイスキーと一緒に注いで作るカクテルである。

単純だが、とても美味しい。夏を感じる日差しになると飲みたくなる。とはいってもいちいちミントの葉を調達してなんかいられないので、

今回は既成のミントジュレップを使用した。ベースはアーリータイムズである。これを氷を入れたグラスに注いでステアするだけ。

ミントジュレップ、即席バージョン。とても美味しい。度数もそれなりに高いので、夜中の目覚ましにもなる。

 先述の本は中々読むのに難儀しそうだが、このお酒と一緒なら良い気分で読めるだろう。

 

下の画像はちょっと前に頂いた百合。つぼみだったものが綺麗に咲いた。

部屋の中が百合の良い香りで満たされていて幸せである。

頂き物の百合。とても綺麗に咲いた。

『経験を盗め』 (糸井重里 中公文庫,2007)

 

 糸井重里『経験を盗め 文化を楽しむ編』(中公文庫、2007)を読了。

随分前に買って最後のほうだけ読み忘れていたので、ドイツ語の時間に暇を見つけて読んでしまった。

日本を代表するコピーライターの糸井重里が、各分野の達人たちとその分野を巡って繰り広げた議論の様子が収録されている。

さすが「欲しいものが欲しいわ」のコピーを生み出した糸井だけあって、「経験を盗め」というタイトルも刺激的。思わず買ってしまう。

 

 この本の中で触れられているテーマは、グルメ・墓・外国・骨董・祭・作曲と詞・日記・花火・ラジオ・トイレ・豆腐・落語・水族館・喋り

などである。一見して分かるようにかなり広範囲にわたるテーマを扱っており、糸井との対談に登場する方々も多様である。

同じくコピーライターの仲畑貴志が骨董を語るかと思うと、東大先端研の教授である御厨貴が話術について語ったりする。

(まったくどうでもいいのだが、この両者を取り上げたのは「たかし」が共通しているからである。そういえば立花さんも・・・。)

全体を通じて軽妙な書き起こしで、大変読み易い。

印象に残った部分は「グルメ」についてを扱う章で里見真三が述べた言葉。

「これは私の持論ですが、上半身であれ下半身であれ、粘膜の快楽を過度に追求する者はヘンタイと呼んで然るべきです。」

次に、「花火」についてを扱う章で冴木一馬が述べる

「日本の花火は三河地帯が発祥とされています。中国人が作った花火を最初に見たのが徳川家康で、一緒にいた砲術隊が家康の

生誕地である三河に技術を持ち帰って伝えた、と。当時、火薬は砲術隊、鉄砲屋しか扱えなかった。ところが徳川政権が安定してくると

戦争がないから鉄砲が売れない。それで鉄砲屋が花火屋に移行していったようです。」

という言葉。

そして「豆腐」についてを扱う章で吉田よし子が述べる

「ちなみに穀類プラスその二割の量の豆を食べるだけで、全必須アミノ酸をバランスよく摂ることができるんですよ。

人類は、穀類と豆の組み合わせで生き延びてきたと言ってもいい。」

などだろう。「落語」を扱う章には先日行ってきた新宿の末広亭の名前が挙がっており、何となく嬉しくなった。

あと、御厨さんが登場する章では、御厨さんの様子を御厨ゼミに所属しているS君から時々聞いているので、

それと重ね合わせて読むと妙に面白く思えてしまった。 (読後すぐにS君に本書を紹介した。)

さらっと読める割に、内容がしっかりある良い本だと思います。

 

楽器トライアスロン、『戦争を読む』(加藤陽子 勁草書房,2007)

 

 火曜日は基本的に、楽器の練習に一日を捧げることにしている。

今日もその例に漏れず、いくつか授業を受けてからは音楽に没頭する一日だった。

まず、ピアノでパガニーニ変奏曲を弾く。

といっても難しすぎて中々指が回らないので、第一変奏、第二変奏、第三変奏・・・と区切って片手ずつ弾く。

最初はゆっくりと、それから段々早く。うーむ、難しい。作曲者ファジル・サイの演奏をYoutubeで見る事が出来るのだが、

とんでもないスピードで弾いている。確かに、この曲をフルに活かすにはサイぐらいのスピードで弾かねばならないだろう。

第一変奏が速いからこそ、第二変奏以降との対比が際立つのだ。とはいえ、そんなテクニックは僕に無い。

ひとまず七割ぐらいのスピードで確実に弾けるように練習していく。

今日はサイの半分ぐらいのスピードで最後まで弾き、ラストの和音8連打だけは本来の速さで叩いて満足した(笑)

少し休憩して、Hさんに貰ったモーツァルトのロンド(フルートとピアノのためにランパルがアレンジしたもの)の楽譜を広げる。

まずはピアノで、それからフルートに持ち替えて最後まで通して吹く。フルートを吹くのは久しぶりだったので、高音が時折ぶれる。

何度かやっているとかなり落ち着いてきた。ここでまたピアノに変えて伴奏部分を弾く。さきほどよりテンポ感がかなりマシになった。

 

次にバイオリンでCoriolan序曲の1st部分を適当に弾く。

Coriolanの総譜。浪人中から愛読?しているため、もはやボロボロである。珈琲までこぼしてしまった。ベートーヴェン様ごめんなさい。

Coriolan 23小節目から。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この曲には静と動の激烈な対比が描かれている。が、技術的には難しくないので、僕のような初心者が練習するにはもってこいだ。

50小節目までと52小節目以降の劇的な変化はいつ聴いてもゾクっとする。

102小節目以降や134小節目以降のテンポは指揮者によって解釈が大きく異なるが、僕は速いテンポの演奏が好きだ。

焦燥や不安に煽られているような感じがこの曲には相応しいと思う。ドキドキして進むからこそスフォルツァンドが効果的に聞こえる。

前のめりになるように走り抜け、時に心臓を掴まれるようなスフォルツァンド、そしてまた音量を落として駆けだす。

声を失ったかのような一瞬のゲネラルパウゼの後、叫ぶようなフォルティッシモ。最後は静かに、息を引き取るように終わる。

自分で弾いていると下手さ加減に呆れてくるが、楽器を離してスコアを見ていると本当に手に汗が滲んでくる。

どうやったらこんな曲が書けるのか。天才としか言いようがない。

 

 

 片付けなど溜まっていた雑事をこなし、読書タイム。

加藤陽子『戦争を読む』(勁草書房、2007)を読了。立花隆の『僕はこんな本を読んできた』のジャンルを特化したような本だ。

細谷雄一の『大英帝国の外交官』を紹介するくだりで、 

 

「・・・どれも珠玉。バカラのグラスを用意する。大きな氷塊を一つ入れ、とっておきのウィスキーを注ぎ、一二回半撹拌し、

ベッドへゴー。読書灯をつけ、一日一章ずつ読む。ああ至福、極楽。」

 

と書かれていたので、僕も同じ事をやろうと思ってCHIVAS REGAL12年を引っ張ってきた。

バカラのグラスなんて持っているはずもないので適当なタンブラーで代用。大きな氷塊も無いので普通の氷。

よく考えたらベッドも読書灯も我が家には無いので、布団を敷いて蛍光灯を一段暗くして本を広げる。

いささか怪しい状況である。文章化するなら、

 

「適当なタンブラーを用意する。100均で買った製氷器で作ったごくごく普通の氷を入れ、日常的に飲むウィスキーを注ぎ、

なぜか家にあるバースプーンで撹拌し、布団を敷く。蛍光灯の灯りを一段階落とし、わざわざ読みづらい中でガシガシ読む。

正直、布団で読む必要が感じられない。」

 

・・・あまりリッチな光景ではない。

 

 まあそんなことはいい。読んでいて興味を惹かれたのは、「川奈提案」というものについて。川奈提案とは、

98年4月、橋本首相がエリツィン大統領に対して行った北方領土問題解決と平和条約締結に向けた秘密提案のことである。

 

この内容はいまだ機密扱いだそうで、大変気になった。プーチンが来日ついでにバラしてくれないかなあ。

 

面白かったのは「本はともだち」と題された第三章である。

それぞれの本屋の様子が目に浮かんでくるようで、本の紹介と一緒にスイスイ読ませて貰った。

この本に挙がっている坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』は、本屋に並んでいるのを見るばかりで読んだ事は無かったので、

この機会にAmazonで注文した。合わせて金森先生に勧められたArendt ”The Human Conditon” も注文。

洋書なので相当の値段を覚悟していたが、意外に手に入れやすい価格で安心した。

  

 

 

夏日、それからプロとの試合

 

 今日はとても暑かった。

ニ限のソフトボールをやっている間なんて、もう夏が来たんではないかと思ってしまう暑さだった。

怪我防止のため長袖のアンダーアーマーを下に着ていたのだが、怪我云々の問題はさておき着たことを後悔した。

みんなの鉄壁の守備と好打によって圧勝したので良いとしよう。やっぱり試合に勝つと素直に嬉しい。

 

 三限の政治Ⅰの時間は機構で仕事という名のもと、かっぱが買ってきてくれたたこ焼きを食しつつ色々ミーティング。

四限の姜尚中の情報メディア伝達論は講義の内容よりも教官のトーク力に感心してしまう。講義というよりは講演会のように流暢で、

ニ階で授業を聴いている僕から見た限り、机の上にさしたる原稿もなさそうだった。原稿なしにあれだけ話せるというのは凄い。

ボイスレコーダーで録音しながら一生懸命ノートを取っている女の子がいた。きっとファンに違いない。

 

 五限は高等動物の比較生物学。前回の授業はイマイチ面白くなかったが、今日はめちゃくちゃ面白かった。

テーマは「天然毒の研究と創薬」で、獣医学専攻の教官による講義。

「毒」はギリシャ語でToxicon、「矢」がギリシャ語でToxonであることから、毒というのは矢に関係したものであったことが分かる。

(ギリシャ語で矢につける毒をToxicosという) このような語源の話から始まり、PoisonとToxinとVenomの違いなどの説明を

導入として、様々な毒を紹介して頂いた。カイメンから色々な毒がとれ、それは有効利用できる毒になるそうなのだが、

カ採れる毒の一つにホスファターゼ阻害剤として応用されるOkadiac acid、すなわちオカダ酸というものがあるらしい。

この名前がやたらツボに入って(分かる人は分かるだろう)、今度あの人に会ったらOkadiac acid先生と呼んでみようと決心した。

キノコから採れる毒としてのムスカリンの話からアセチルコリンやニコチン受容体の話に広がったり、ビンアルカロイドの話から

抗癌剤、さらにはチューブリンの話に拡がったり、全体として「毒」を切り口にして生物の体に迫ろうという意図が感じられた。

声が聞きとり易かったことも手伝ってとても面白く聴かせて頂いた。

 

 授業終了後、急いで帰宅してボールバッグを取って経堂ボウルへ。今日はプロのレッスン&試合である。

レッスンでは、肘を入れるタイミングを一定にする(トップから一気に入れる)ことと、手の傾けによるアクシスローテーションの調整に

関するアドバイスを頂いた。気合が入ると更なる回転を求めて肘入れのタイミングが不安定になりがちであるのは意識していたので、

プロの指摘はこれを意識する上でとても役に立つものだった。プロの的確なアドバイスと練習の成果あって、追い求めてきた投げ方は

かなり完成形に近づいたように思われる。豪快なキックバックを見せてくれるような満足な球も高い頻度で投げられた。

しかしこのあとのプロとの勝負には1勝2敗、トータルで負けてしまった。アベレージは195.3。プロは210ぐらいだったか。

プロが6つストライクを続けてくるところでこちらはダブル‐スペア‐スペア‐ダブルとストライクを続ける事が出来なかったのが痛かった。

支配人さんがギャラリーにいたので、いいところを見せようとついつい力が入ってしまったのかもしれない。ナチュラルに投げねば。

それにしても一度見つけたラインに確実に同じ球を投げ込んでくるプロの技量はやはり凄い。次回こそリベンジしたいと思う。

 

 暑い日が続くだろうがボウリング場はいつも涼しい。強い日差しは無いし、飲み物も自由に飲めるし、座って休憩する事も出来る。

夏には良い競技かもしれないな、などと思いつつ、長谷部恭男『憲法学のフロンティア』(岩波書店、1999)を再読。

長谷部教授の本は新書でも単行本でも難しい事を分かりやすく説明してくれるので愛読している。

(岩波新書『憲法とは何か』や、ちくま新書『憲法と平和を問いなおす』など。他には杉田敦と共著の朝日新書『これが憲法だ!』)

この本では随所に設けられた「プロムナード」のコーナーが楽しい。

もしも法学部に進学することになったら、是非とも長谷部教授の下で勉強してみたい。

というわけで、とりあえずは明日の一限にある法Ⅰの授業に備えて寝ます。

 

HOMMAGE à PIAZZOLLA (Gidon Kremer,1996)

 

 ピアソラと言えば、Libertangoの演奏を思い出す人が多いかもしれない。

確かにリベルタンゴには何度でも聞きたくなる高揚感がある。最初の速いパッセージからノリノリで、弾いていても凄く気持ちいい。

文句無しに良い曲だ。だが、ピアソラにはもっと良い曲が沢山ある。これを聴かずして死ぬわけにはいかない、というわけでこのCD。

 

 このCDには、ピアソラが残した素晴らしい曲の数々が、クレーメルのヴァイオリンをメインにしたアレンジによって収録されている。

クレーメルはどちらかというと「ドライ」な音を出すヴァイオリニストとして有名であるが、このCDではドライな中に、時折物凄い色気を

含んだ音を聴かせてくれる。甘ったるい感じではなく、流し目のような色気である。

 

Hommage a Piazzora (Gidon Kremer)

3番のOblivionの憂鬱、4番のEscualoの心地良さは何度聞いても忘れ難い。

6番のConcierto para quintetoの高揚感と哀愁の対比なんか最高だ。

Paul Meyerのクラリネットが良い味を出している。

Concierto para  quintetoは自分でも演奏してみたいと思い、

適当に音を採ってバイオリンで合わせてみた事があるのだが、

リズム、ニュアンスのつけ方ともに全然上手く行かず挫折してしまった。

このCDの最後、7分41秒ぐらいからの部分だけでも上手く演奏することが

出来たらどれだけ幸せだろう。もっと昔から弦楽器を習っておけばよかった。

なんにせよ、このCDはおススメの一枚である。

夜中にひっそりと聞くと良い気分になれると思う。

きっと聴き終わった頃には8番のBuenos Aires hora ceroのテーマと加速感が

耳から離れなくなっているはずだ。

 

『花祭』(平岩弓枝 講談社文庫,1984)

 

 平岩弓枝 『花祭』(講談社文庫、1984)を読了。

前述した山田詠美の小説と一緒に古本屋で50冊ほど纏め買いした中の一冊である。

話の筋は別段上手いわけでもないし、ちょっと最後も予測がつく展開。

「こうなったら最後はこうならざるを得ないだろうなー」と思って読んでいるとその通りの展開。おそらく殆どの読者が予想する通り。

裏表紙には「激しい愛を寄せる青年調香師・彰吾が現われて」とあるが、それはちょっと違う気がする。

激しい愛を寄せたのは別の人間であって、主人公の彰吾自体は密やかな愛を寄せていたのではないか。

本文中に「ゲランの夜間飛行を愛用している」という一節があったが、今となってはこの香水が入手困難であるだけに、

この小説が書かれて20年以上前のものであったことを感じさせる。

内容は取り立てて良いとは思わないものの、『花祭』というタイトルが素敵だと思った。

 

益川先生講演会 その2

 

 さて、益川先生の講演会の内容について書くことにしよう。

最初に益川先生の為されたこと、および素粒子論の簡単な説明を東大の教官にしていただいたあと、

益川先生にお話をお願いするという運びであった。壇上にゆっくりと上がられた益川先生を見て、その舞台さばきに感動した。

沈黙、そしてゆっくり話し出す。まず、講演会を開催した関係者各位にお礼を述べられ、そして実際に頭を下げられた。

話の最初に関係者にお礼を言う人はたくさんいても、実際に頭を下げて静かにお礼をされる方を僕は初めて見た。

先生がこの講演で伝えられたことのうち、印象的だったことをいくつか挙げておく。

 

1. 21世紀中、それも前半に、ダイナミックなパラダイムチェンジがもう一度起こるのではないか。

  それは量子重力に関する新しい理論の登場によるものであろう。

 

2. 若い人は間違いを犯す勇気、大胆な説を唱える勇気を持っている。年を取ると安全に走ってしまう。

  新しい理論を大胆に唱えるような研究者は、みな20代から30代の若手の研究者である。

  「秀才の極限としての天才」であるハイゼンベルクも、「誰も認めないような仮説から誰も認めないような理論に達する天才」

  であるランダウも、「包括的に物事を見て定式化する天才」たるディラックも、みな20代から30代までに大きな仕事をしている。

  その意味では、大学生にはあと10年ちょっとしか残されていない。

 

3. 分からないから気になる。これが全てのスタート。研究は一番最初の着想が大事であるが、それを「続けるか/諦めるか」 

  の見極めが難しい。早々と「まずいぞ。」と考えて転身してしまっては、大魚を取り逃すことになる。

  その判断に際しては、共同研究者とのDiscussionが大事である。迷いやズレを正しい道に戻すのは共同研究者だと思う。

 

4. 先生や先輩に教えを乞うのは良いことだが、それでは最小限の知、無難な正解を得るのみだ。

  真に大切なのは、「同じぐらいの知、異なる志向を持つ友人と、一つの問題について夜を徹して話し合うこと」である。

  当初の問題から脱線しても全く構わない。自分とは違う道を歩くはずの友達と、一つの問題を巡って話し合うことで

  より広い視野を持つことが出来る。友達の経験を自身に取り込み、自分の経験を1.5倍ぐらいに拡張し得る。

 

 

 講演会後、レセプションにも参加して、御飯を食べたりお酒を呑んだりしてきた。

赤ワインが結構美味しくてついつい4杯ぐらい飲んだ気がするが、周りも結構呑んでいたのでまあいいだろう。

想像していたより気楽な雰囲気だったので、関西人仲間と一緒になって益川先生に京都トークを振ってみたり、

果ては学部生を代表して益川先生及び居並ぶ駒場の先生方の前でスピーチをしてみたり、貴重な経験をさせていただいた。

ちなみに学部生代表スピーチ(というほどのものではないけれど)は、M君と僕とS君の三人でやったのだが、三人とも全員関西人で

あったことを付け加えておく。こういうときのアドリブ性の高さは関西人の強みかもしれない。単なる「無謀」とも言えるだろうが、

講演会で、「若い人は大胆に走る勇気を持っている」と先生がおっしゃっていたので良いことにしよう。

 

 最後に写真を沢山撮って頂いて解散。 写真に映った益川先生は、とても穏やかな笑顔をされていた。

       

   

益川先生講演会について その1

 

 

 数日前に紹介した、益川先生の講演会に行ってきた。

行ってきた、というよりスタッフとして働いていたというほうが正しいかもしれないが、まあいいとしよう。

講演会の内容については次の記事に書くとして、講演会の状況について少し書いておきたい。

 

 土曜日の昼という中途半端な時間に加え、新フェス前日で忙しいはずなのに沢山の一年生が来てくれていた。

講演後のレセプションである先生がおっしゃったように、益川先生の「磁力」のなせる業だろう。

人数が溢れたときに備えてもう一つの教室を一般来場者用に確保してあったのだが、何とか900番に全員入ってもらうことが

出来そうだったので、来場者は学生、一般の方ともに900番へ入ってもらう。その結果、ちょうどいいぐらいに900番が埋まった。

事前に打ち合わせを行った通りの来場者見込みで、一般来場者に900番へ移動して頂くこともあらかじめ計画してあったため、

かなりスムーズに進行したのではないだろうか。

 

 ある人が「駒場のイベントは広報が不足している」と書いていたが、まさに駒場のイベントの広報に関わっている僕に言わせれば、

それは非常に無責任な言葉だと思う。駒場のイベントの広報、少なくとも学部が行うイベントの広報に関してはこれが限界かつ十分だ。

予算、時間との兼ね合いを考えてもこれで限界だし、広告しすぎて予定より多くの来場者が来ては教室の手配などで混乱が生じる。

今回の遠隔聴講の件にしても、そもそも人数が溢れたときのセーフティーネットという意図から計画されていたものだ。

遠隔聴講せずに聞くことが出来るなら、それはそれで良いではないか。

 

 学部が行うイベントは、学生やサークルが行うイベントとは比べ物にならない手間がかかっている。

一つの学部イベントがあるだけで、先生方は自分の研究を留め置いてイベントの準備に奔走される。

研究を除いても、先生方はイベント以外の学内行政も沢山抱えていらっしゃるため、その大変さは想像を超えるものである。

終電を無くし、歩いて帰られることもしょっちゅうだ。連日に渡る夜遅くまでの作業で体調を崩され、それでも医者に行く暇も無く

作業を続けられることもしばしばある。その様子を何度も見ているし、他の学生スタッフが自分の時間を提供して

夜遅くまで一生懸命作業しているのを知っているから、広報が不十分だなどとは決して思わない。改善点は勿論あるにせよ、

毎回毎回、先生方やスタッフは時間や予算の許しうる限界までイベントの準備をされていることは確かだ。

とにかく、まずは先生方、スタッフの方々、本当にお疲れ様でした。