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Sur la prière.

 

ブラジル風バッハ五番のアリアを勉強していたら、何の前触れもなく、一つの言葉を書きつけていた。

 

「芸術に携わるものなら押し並べてせねばならないことがある。それは祈ることだ。誰に?もちろん、自分に。」

 

自分に祈るということはどういうことだろうか。それは、自分の中のなにものかに入り込み、思いを馳せるということだと思う。

「祈る」という行為は、対象を慈しみ、尊び、心を注ぐということなのではないか。

祈りに満ちた曲を演奏するとき、対象に向かって心が研澄まされる感覚になる。逆もそうだ。

対象に向かって感覚を研澄ますと、「祈り」という行為を思い起こさずにはいられない。

祈ることを考えてからブラジル風バッハ五番のアリアを見ると、この曲が全く違う深みを帯びて見えてくるし、また

改めて「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲を読み直すと、もっと純化された音楽が立ち上がってくる。

いちどこの間奏曲を振ったとき、師に「こういう曲は淡々とやるほうがいい。」と言われて、そのときは「そういうものなのかなあ。」と

いまいち納得できなかったのだが、今ならその言葉の意味が理解できる。変にテンポを落としたり揺らしたりしなくてもいいんだ。

小細工ではなくて、祈りで純化された音楽が滔々と流れていけばいいんだ。

 

たぶんベートーヴェンの「運命」もそう。「英雄」もそう。人為的な小細工をして演奏する曲じゃない。

ここから遅く「します」ではなく、ここから遅く「なります」のはずだ。

祈りから溢れ出れば、自然に抑揚もテンポ変化も生まれてくるに違いない。

祈るように演奏する。演奏して祈る。ヴィラ・ロボスがそのことを教えてくれた。

 

 

ブラジル風バッハ五番を学ぶ。

 

ブラジル風バッハ一番を終えて、五番をレッスンで見て頂くことになった。

五番はこのブラジル風バッハという一連の曲の中で最も有名だろう。一楽章のアリアの旋律は一度聞いたら忘れる事の出来ない憂愁に満ちている。

歌詞はポルトガル語で書かれていて、日本語訳では

…….

夕暮れ、美しく夢見る空間に

透き通ったバラ色の雲がゆったりと浮く!

無限の中に月が優しく夕暮れを飾る。

夢見がちに綺麗な化粧をする

情の深い乙女のように。

 

美しくなりたいと心から希みながら

空と大地へ、ありとあらゆる自然が叫ぶ!

その哀しい愁訴に鳥たちの群も黙り

海はその富の全てを映す

優しい月の光はいま目覚めさす

笑い、そして泣く、胸かきむしる郷愁を。

 

夕暮れ、美しく夢見る空間に

透き通ったバラ色の雲がゆったりと浮く

…….

 

というような歌詞。もうこの歌詞だけで美しさに眼がくらむ思いがする。

とはいえこれはあくまでも日本語訳。この曲を振るためには、ポルトガル語を理解せねばならない。

そこで楽譜の研究と並行してポルトガル語を勉強し始めたが、イタリア語とフランス語をやっていたこともあり

比較的すぐに理解する事が出来た。一晩集中的に文法書を読み込んだ結果、この曲のアリアの歌詞なら

ポルトガル語のままで追える。(しかし二楽章のダンスとなると早すぎてまだ全然追う事が出来ない。)

次のレッスンまでに徹底的に楽譜とポルトガル語を勉強して臨みたい。

残された時間は限られていて、もう二度と学べないレッスンを日々受けていることを肌で感じている。

 

 

 

ブラジル風バッハ一番を終えて。

 

ブラジル風バッハ一番のレッスンを終えた。

ここに書く事は出来ないぐらい多くの事を学び、多くの事を教わった。

音楽に対する考え方を変えられ、また自由になることが出来た。振る前と振った後ではモノの見え方が違う。

ブラジル風バッハ一番はベートーヴェンの運命に近いところがある。運命の中にブラジル風バッハ一番が聞こえ、ブラジル風バッハ一番の中に運命が聞こえる。

いつか必ず、この二曲をセットにして演奏会をしてみたい。

 

 

「戦争と文学」講演会@早稲田大学大隈講堂

 

早稲田大学大隈講堂で立花先生の講演会の助手をしてきました。

大隈講堂の舞台の上に昇るのはもちろんはじめて。よく考えたら東大の安田講堂にも昇った事がないかもしれません。

舞台の上から客席を見ると二階席までかなりの人数で埋まっており、身が引き締まる思いをしました。

 

講演会自体は集英社の「戦争×文学」というコレクションの発刊に関するもので、立花先生は「次世代に語り継ぐ戦争」といテーマで

「戦争×文学」に収められたエピソードを適宜引用しつつ、沖縄の話からアウシュヴィッツ、香月泰男まで幅広く「戦争」のリアルな側面を

話されていました。前日に先生と打ち合わせた内容と随分話の展開が変わっていて助手としては焦りましたが、僕が立花先生の助手をしていて

一番好きなのは、こういう予想外の脱線や閃き、その場の雰囲気で流れががらっと変わるアドリブの部分なので、神経を尖らせて助手仕事をしつつ

「どんなふうに昨夜準備したこのスライドを使うのだろう」とワクワクしながら先生の話に耳を傾けます。

準備段階では資料を探してそれらを一本のストーリーで繋げる先生の構成力(と体力!)に毎回驚かされますし、

講演会でこうしてアドリブになればその博覧強記ぶりに圧倒されます。知識や本、映画や絵画がまるで呼吸するように湧き出てくるのです。

話しながら先生自身もワクワクしている様子が肌で伝わってきて、「ああ、こういう仕事を出来るようになりたいな。」と思わずにはいられませんでした。

 

先生と一緒にお仕事をさせて頂くと、自分の無知に嫌というほど気付かされます。日々勉強あるのみですね。

 

遥かなるヴィラ・ロボス

 

「展覧会の絵」を終えて、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ一番」という曲を見て頂いている。

ヴィラ・ロボスを振らせたら日本で師匠以上の人はいない。それだけにこの曲は門下の秘曲の一つであり、憧れの曲だった。

僕のようにまだ入って二年足らずの若造が見て頂ける曲ではないのだけれど、色々あって恐れ多くもヴィラ・ロボス協会の会長である

師匠の前でヴィラ=ロボスを振り、直々に指導(と喝)を受ける日々が始まった。

 

ブラジル風バッハ一番にしてもそうだが、ヴィラ=ロボスの曲はどれも温かく、大らかだ。

パリで培った巧みな作曲技法・管弦楽法の中に、ときおり野生味が顔をのぞかせる。神経質になることはないが、常に纏まりがある。

楽譜を読んでいると、視野がぱあっと広くなった錯覚に陥る。あたりに立ち並ぶビルが次々と消え、視界が広がり、地平線に沈む夕日が目に浮かぶ。

夏の海が大好きな僕にとって、この音楽はとても受け入れやすくて、初めて聴いた瞬間から親しみが持てた。

師匠の豊かなヴィラ=ロボスを少しでも自分のものにしたい。あの官能的で力強い旋律が頭から離れない。寝ても覚めても。

 

 

「展覧会の絵」を終えて。

 

ムソルグスキー作曲/ラヴェル編曲の「展覧会の絵」を指揮し終えた。

一曲ずつ仕上げて行って、最後に、頭のプロムナードから終曲のキエフの大門まで一気に通して振る。

沢山の発見があり、沢山の感動があった。一つずつ細かく書くことはしないが、箇条書きにして少しだけ残しておこうと思う。

 

1.プロムナード

軽い音楽ではない。ロシアの響きにするためにはどうするか。楽器が増える意味は何なのか。

 

2.グノーム(小人)

迫り来るもの。不気味に踊るもの。ぞっとするような、血の気の引くような感覚。青ざめた死。

 

3.プロムナード(Moderato e con delicatezza)

平静な心。喪失の感情。時間を巻き戻すような感覚。

 

4.古城

イタリア語で書かれている理由。スラースタッカート&テヌートの意味するもの。湖。霧。石造りの城。時間の風化作用。

 

5.ティユルリー、遊んだ後の子供の喧嘩

他愛なさ。平和な光景。市民革命の後の開けた空気。見守る大人の存在と走り回る子供。

 

6.ビドロ(牛車)

苦しみ。重い荷物を引きながら遠くから目の前を牛車が横切る。泥濘に足をとられながら。

同時に悲劇。荷物を引きずる牛と、虐げられたポーランドの民衆のアナロジー。処刑。

息のつまるような苦しみ。目の前に轟音を立てて迫ってくる光景。

 

7.卵の殻をつけたひな鳥のバレエ

黄色の原色。よたよた歩き。滑稽さ。Scherzinoであることの意味。遊びの要素。

 

8.サミュエル・ゴールデンベルグとシュムイレ

二人のユダヤ人。怒りとすがり。沸き上がる感情と一歩下がりながら要求するもの。ポグロム。

 

9.リモージュの市場

取っ組み合いの女のスケッチ。リモージュ市場のかしましい女たち。沢山のパーツがさりげなく鏤められる。

accelerando前後の心情。色が一気に変わる。

 

10.カタコンブ

死。絶望。墓。音楽はギリギリのところで動く。心が沈み込む。深く鈍い音。

 

11.死者の言葉で、死者に。

lamento.冷たい青。六拍子であることの不気味さ。非現実的な音の冷たさ。死者の世界、死者の言葉。ハープの意味。

 

12.バーバ・ヤーガの小屋

重み。死の衝撃。静かではない死の世界。唐突さ。厚み。死から現実、現実から死へ。壮大なブリッジ。

 

13.キエフの大門

未完成。ロシアの芸術、目指したものの姿。ガルトマンへの追悼。プロムナードが木霊する。

差し込む光。強烈な光。視界が真っ白になるような金色の光。悲しみに満ちて輝く。

 

 

展覧会の絵は明るい曲じゃない。悲しみや追悼、死。そういったものがこの組曲全体を支配している。

どんなに明るい曲でも、ムソルグスキーは決してガルトマンの絵の事を、ロシアのことを、「死」のことを忘れてはいないように思う。

この曲を指揮するのが一つの目標だった。けれども、ゴールだと思っていた「キエフの大門」を振り終えたとき、キエフの大門をあけたとき、

そこに見えた光景はゴールではなく、限りなく広がるスタートだった。

 

プロムナードの旋律に導かれ、キエフの大門をくぐって音楽の入り口へ。

果てしなく広がる音楽の世界へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生を賭けて。

 

「君を一人前の指揮者に育てるのが、僕の最後の仕事だな。」

師がそう呟いていらっしゃった、ということを知った。5月にプロオケを振らせて頂いてから、より一層、

師匠が命を燃やして教えて下さっていることをひしひしと肌で感じる。だから僕も命を賭けて学ぶ。

 

言葉を持った音、語る棒。

 

ムソルグスキー「展覧会の絵」の最後に置かれた壮大な曲、「キエフの大門」。

今の僕には、その壮大さに心が打ち負けてしまうような曲。未熟なりに振り終わったあと、

師匠がぽつりと漏らした言葉を僕は一生忘れない。

 

「音符に言葉を話させ、棒で語れ。君はそういう指揮者になれ。」

 

 

音符に雄弁に物語を紡がせ、口ではなく棒ひとつで音と言葉を語り、奏者に伝える。

何十年かかってもいい。そういう指揮者になりたい。