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七月の終わりに。

 

迷いが晴れた。

チャイコフスキーの交響曲第五番の一楽章を振り終わって、「何があったんだ。」と師匠が言葉を下さる。

何かがあったわけではないけれど、ここ三ヶ月で一番気持ちが乗った。

と同時に、揺れ動いていたものがピタリと腰を据えて、「大きな流れ」としか言い様のない全体が見えたのだ。

こういう気分になるときはいつも、スコアの見え方が全く違う。ある程度暗譜しているスコアとはいえ、

一度目を落とした瞬間に全体が飛び込んでくる。それもアーティキュレーションの細かな部分まで。

それはスコアだけではない。なぜか今いる部屋の隅まで詳細にズームイン可能な錯覚すら覚える。

ずっと先まで広々と見通せる気分のまま、もう一人の自分が上から自分を見下ろすような気分のまま、

理性のもとで感情に突き動かされるようにして棒を振る。

ウェーバーの「魔弾の射手」序曲を振って以来遠ざかっていたあの感覚が久しぶりに戻って来た。

 

ただただ、楽しかった。

偶然の産物ではなくて、暗闇を抜けた先に少しだけ到達したのだという確信がある。

一つの暗闇を抜けてしばらくするとまた次の暗闇がやってくるかもしれない。

それでも今の気持ちを忘れないようにしようと思う。

音楽は厳しくも、その本質はこんなに楽しかったのだ。

 

 

 

出発の哲学

 

しばらく音を聴きたくもなく、棒を振りたくもなかった。

少し覚えたはずの歌を失い、心は全く揺れず、呆然として立ちすくんだ。

 

文字通り真っ暗な中にいた。

作品のどこに立てば良いのか分からない。

どれを信じ、誰と音楽をして、何を求めれば良いのか分からない。

難しいことを考えるのは止めて楽譜を読もうとするけれど、楽譜は以前のように立ち上がらず、語りかけてくることもなく、

ただ石化した記号となって静寂に横たわる。

 

三ヶ月ぐらいそういう暗闇の中で踞っていました。

二人きりの時間にそう伝えると、師は柔らかに笑いながら言う。

「君はこれから何十年も棒を振らなければならないのだから、そういう時期があっても良いんだよ。」

 

大きな掌に包むようなこの言葉を僕は一生忘れまい。

さも当たり前のように下さった「何十年も」という言葉を、そして、悩んでいることを大らかに許して下さるその言葉を。

 

ずっと『悪の華』の最後の二行が響き続ける。

Plonger au fond du gouffre, Enfer ou Ciel, qu’importe ?

Au fond de l’Inconnu pour trouver du nouveau !

戻ることも止めることもしない。自分で自分の道を切り開くしかない。

傷つきながらも、いまを潜り抜けた先に何かが見えることを切望して、

これが何十年のうちの大切な一部となることを信じて歩く。

もういちど信じることを思い出そう。それは脱出ではなく、「出発」のために。

 

 

 

 

二十六歳の夏休み

 

小林康夫先生の『こころのアポリア――幸福と死のあいだで』(羽鳥書店)刊行記念トークセッションがYoutubeにアップされていたことを知って観ていた。

(URLはこちら:http://www.youtube.com/watch?v=u30VQGYoauU)

この半年間、小林先生と一緒にボードレール、そしてモデルニテの絵画を勉強させて頂いたわけだけど、

「学者になろうと思ったのではない。書くという行為に携わり続け、書くという行為に生きるために大学に残ることを選んだのだ」という言葉は

いつ聞いても響くものがある。それが良いとか悪いとかではなく、少なくとも僕には、ある種の憧れと共感を持って響く。

 

院生としての最初の半年間の授業は早くも先日で全て終わってしまった。

学部以上に、大学院の授業は授業というよりは「刺激」と呼ぶのが正しい気がしていて、

沢山頂いた「刺激」を自分のうちにどう取り込んで「書く」か、そこに殆どが掛かっているのだと痛感する。

小林先生から頂いたボードレールとマラルメ(ミシェル・ドゥギーの『ピエタ・ボードレール』読解を通して)、モデルニテの絵画を辿るうちに現れたカイユボットとドガの「光」、

そして寺田先生から頂いた文学史の見通しと19世紀のスペクタクルの諸相をいかにして書くか。まずは京都の出版社の友人が下さった連載に対して、僕はいったい何を書きえるのか。

 

 

同時に、読まねばならぬ。

助手として二ヶ月近く立花先生と一緒に関わっていたことが一区切りし、五万部印刷されたものの一部を手元に頂きに久しぶりに猫ビルへ伺った。

小さいものだけれど、こんなに印刷されるものに関わらせて頂けることは滅多にないなと思うと感無量なものがある。

しかしその感動はすぐに消え去った。猫ビルの膨大な書籍に囲まれ、立花先生とお話しさせて頂くと、自らの無知に改めて気付かされ、悔しくなる。

僕は何も知らないし、何も読んじゃいない!

 

相変わらず立花先生はものすごい。指揮はどうなの,研究はどうなの、あの本は読んだ?と質問攻めにして下さる。

しかも、その質問の仕方は自然かつ絶妙で(これがインタビューの達人の業だ)僕の拙い発言を確実に拾いつつ、何倍にも広げて返して下さるのだ。

そしてまた、絵画の話になったとき、膨大な書籍の山から迷わず一冊の場所を僕に指示して引き抜きつつ、

「このアヴィニョンのピエタの写真と論考が素晴らしいんだ」と楽しそうに語られる様子に、凄まじい蓄積と衰えぬ知的好奇心を垣間見た思いがした。

その一冊が『十五世紀プロヴァンス絵画研究 -祭壇画の図像プログラムをめぐる一試論-』で、丸ノ内KITTE内のIMTでお世話になっている西野先生の学位論文であり、

渋沢・クローデル賞を取られた著書であったことには、色々な方向から物事が繋がって行く偶然の幸せを感じずにはいられなかった。

 

とにもかくにも、夏休み。

幸せなことにまた幾つものオーケストラでリハーサルがはじまる。

昨年指揮させて頂いた団体から今年も、と声をかけて頂けるのは嬉しいことだ。

東北でまたコンサートをさせて頂き、フィリピンに行くオーケストラの合宿をし、オール・シベリウス・プログラムのオーケストラの設立記念演奏会に関わらせて頂く。

毎年恒例のチェロ・オーケストラも今年はさらにメンバーを充実させて開催することが出来そうだ。

長らく温めていたけれど、そろそろ自分の団体についても動き出して良い頃だろう。

並行して、駒場と丸ノ内で頂いている室内楽の企画も進めて行かねばならぬ。

 

日々の苦しみと同じぐらい、楽しみなことがたくさんある。

一つ一つ大切に棒を振り、めいっぱい読んで、書く夏休みにしようと思う。

触発する何かが生まれる事を信じて。

 

 

 

 

半過去についてのまとめ

 

L’imparfait(半過去)についてLe bon usageほか色々な文法書を使って勉強していたので、まとめをアップしておきます。

自分用にメモがてら作ったものなので正しいとは限りません。ご注意下さい。

 

<半過去の基本的な意味と用例>

☆過去の一点で、まだ完了していない出来事を表す。それゆえに始点や終点を示すものではない。

→ここから、半過去は継続や反復を表すのに適することが導かれる。したがって習慣も表しうる。

例:Je me promenais souvent au bord de la mer.

複合過去が点的な過去であるとすれば、半過去は線的な過去だと言える。

単純過去や複合過去が物語の骨子を述べる時制だとすれば、半過去は物語の環境を描く時制である。

一回きりで終わる動作でないから、過去の情景描写や状況説明で用いられる。

例:On était vaincu par sa conquête.(V.Hugo, Les Châtiments)

参考:19世紀の自然主義文学は半過去の用法について非常に意識的。対してカミュの『異邦人』、複合過去のオンパレード。

 

<半過去の特殊な用例>

1.他の出来事の避けがたい結果として半過去を使う事がある。条件法過去と似た意味になる。

例:Elle mit la main sur le roquet. Un pas de plus, elle était dans la rue.(V.Hugo, Les Misérables.)

また、過去時制におかれた主節に導かれて、「過去における現在」を表すこともある。(時制の一致)

 

2.基本的な意味に反するが、叙述的、あるいは歴史的な半過去は、過去のあるはっきりした瞬間に行われた、繰り返されない出来事を表す。

例:Giannni revenait au bout d’une heure. (Edmond de Goncourt, Frères Zemganno)

Brunetièreによって書かれた、絵画的で、分断し、囲い込む(?)半過去というものもある。

 

3.口語においては、我々が会話し始める前に始まった出来事が半過去で表されることがある。

 

4.条件法Siのあとには、半過去が義務的に使われる。これは現在あるいは未来における仮定的な出来事を表すためである。

例:Si j’avais de l’argent, je vous en donnerais.

 

5.幼い子供達やペットたちとの会話という特別な用途に限定されるが、愛情を表す半過去、甘えたようなニュアンスを醸す半過去というのがある。

例:Comme il était sage!

 

6.直接法半過去には、一歩引いて口調を和らげる働きがある。

例:J’avais [...]