January 2015
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祈りの宛先

 

端的に言って、年が明けてからずっと、「祈り」ということを考え続けている。

久しぶりに高熱を出した前夜も、うなされながらずっとそのことを考えた。

翌日ふらつく頭で「展覧会の絵」とバーバーのアダージョを振りにいったときも、頭の中ではずっとこの問題が流れていた。

何か特定の宗教に関することではなく、行為としての「祈り」。彼岸の領域を超えるもの、生と死を繋ぐもの。

演奏するときに、指揮するときに特別な時間が訪れるのは、内面からこの「祈り」と言うほかない感情が溢れてくるときだと気付くのだ。

 

だとすれば祈りとは何か。祈りの宛先はどこか。いまだ言葉にはならないけれども、考えは徐々に形を取り始めている。

「指揮者としての私は、ただ音楽に奉仕する存在なのです」というカルロ・マリア・ジュリーニの言葉と、小林康夫の一文が重なり合う。

「祈りが目指している出来事に対して、祈る者は非力であるのでなければならない。

激しくそれを願うが、しかし願い祈る以外のいかなる世界内的可能性も絶たれている者にとってのみ、はじめて祈りは可能になる。」

物を書くとき、話すとき。それから指揮するとき。おそらくは何かしらの出来事を呼び込むという点において、「祈り」という身振りは全てに共通する。

だからこそ、この身振りに対して、僕は自分の人生を賭けようと思う。

 

新幹線の車窓から「天使の梯子」がふと見える。その中を舞い上がる飛行機の姿に感動する。

気付かないだけで、身の回りには奇跡的な出来事がたくさん宿っている。

今年一年は「祈り」という問題を考え続けながら、日常の奇跡に敏感でありたいと思う。

 
 

さあ、今から奈良でリハーサル。新しく沢山の人たちに会うだろう。

音楽に関わることが出来るということもまた、僕にとっては一つの奇跡なのだ。

 

 

 

 

自省録

 

 

なお君の内なる神をして、男らしい人間、年配の人間、市民であり、統治者である人間の主たらしめよ。

その統治者は何者にも縛られることなく、人生から呼び戻される合図を待ちつつ、宣誓をも、証人をも必要としない者としてその地位に就いたのである。

曇りなき心をもち、外からの助けを必要とせず、また他人の与える平安を必要としないようにせよ。

まっすぐ立たせられるのではなく、まっすぐ立っているのではならない。

 

être

 

僕は直感する。
 

言葉が追いつくのはそのあとだ。
 
 

出発の儀式

 

 

あけましておめでとうございます。

大晦日に一年のまとめをしようかと思ったものの、譜読みに集中したりバタバタ片付けをしたりしている間に2015年になってしまいました。

昨年は海外含め26回のコンサートを指揮させて頂き、修士論文を提出するというハードな一年でしたが、体調を崩さず過ごせたことに感謝しています。

 

しかし何より大きかったのは12月に師匠を亡くしたこと。悲しみは未だ消えませんが、それを直視しなければ僕の2015年は始まらないと思えて、

元旦の朝には師匠から頂いた日本酒(木許にはこれだ、と旅行の際に選んできて下さったもので、飲みきるのが惜しくて少しだけ残してありました)を

コートのポケット に入れて新幹線の始発に飛び乗り、早朝から湯沢に登ってきました。

 

本当は山頂で朝陽を見ながらと思っていたのですが、現地は大雪だったため、ひとまずガーラから石打へ向けてしばらく滑走。

午後になると少し晴れ間が見えた ので、眼前に広がる魚沼平野を見下ろしながら最後の一口を頂きました。涙が出るほど美味しかった。

そして、ベートーヴェンの「田園」を教わったときの「君は田園の景色をまだ知らないねえ」と笑うあの声が聞こえたような気がして、しばし呆然。

時間だけが容赦なく流れて行く….。
 
 
Je partirai! /Steamer balançant mâture, /Lève l’ancre pour une exotique nature!
 
(出で立とう!備わる帆柱の総てを揺振っている蒸気船よ、異国の自然を目指して、いまこそ錨を掲げるのだ!)
 
 

——マラルメの「海の微風」を思い返し、ひとつの決意を固めてから、一気に麓まで滑り降りて帰りの新幹線に。

今年は出発の一年になりそうです。2015年もどうぞよろしくお願い致します。