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珈琲とバルザック

 

もう六年ぐらいお世話になっている珈琲屋さんから、また新しい豆とアイスコーヒーが届いた。

さっそくパナマのストレートを集中して淹れる。浅煎りの豆でこんなに美味しいと思えるものには滅多に出会わない。

クッキーのような軽やかな香ばしさ、果実と蜂蜜の合わさったような心地よい酸味と甘さ。膨らんですっと抜けて行きつつも長く残る余韻。

この珈琲に、この珈琲を煎るマスターに(まさに「職人」)巡り会うことが出来ただけで浪人していて良かったと思えるほどに、無くてはならないものの一つ。

 

ぼんやりと考えていて、珈琲といえばバルザックだ、と思い出す。

「精神の緊張」を求めたバルザックは夜中にとんでもない量の珈琲を飲んでいたらしい。

それは三種類の豆のオリジナルブレンドだったという話もあるし、デミタスカップで一日に五十杯ぐらい飲んでいたらしいという話も残されていて、

彼の手による『近代興奮剤考』の中にもこんなことが書いてある。

「(珈琲によって)神経叢が燃え上がり、炎を上げ、その火花を脳まで送り込む。するとすべてが動き出す。戦場におけるナポレオン軍の大隊のように観念が走り回り、戦闘開始だ。記憶が軍旗を振りかざし、突撃歩でやってくる。比喩の軽騎兵がギャロップで展開する。論理の砲兵が輸送隊と弾薬入れを持って駆けつける。機智に富んだ言葉が狙撃兵としてやってくる。登場人物が立ち上がる。紙はインクに覆われる。というのも、戦闘が黒い火薬に始まりそして終わるのと同じく、徹夜仕事も黒い液体の奔流に始まりそして終わるからだ。」

 

それは幾らなんでも言い過ぎではと思わないでもないが、とにかく珈琲に普通ではない興味を持っていたことが伺えるだろう。

『近代興奮剤考』はこの部分しか知らなかったので、この機会に珈琲に関するところを原典で読んでみようと思い立ち

パブリックドメインで公開されているものをダウンロードしてみた。(便利な時代だ!)

そうすると実に強烈なバルザックの「珈琲論」が展開されていて驚く。たとえばロッシーニが

 

« Le café, m’a-t-il dit, est une affaire de quinze ou vingt jours;le temps fort heureusement de faire un opéra.»

(「コーヒーが効くのは二週間から二十日ぐらいで、それは有り難いことに、オペラを一つ仕上げるのにちょうど良い期間だ。」)

 

と言っているのに続けて«Le fait est vrai. Mais, »(「その通りだ。でも…」)と更なる珈琲の活用法や効かせ方があることが力説されていったりする。

おいおい、と突っ込まざるを得なかったのは

Enfin, j’ai découvert une horrible et cruelle méthode, que je ne conseille qu’aux hommes d’une excessive vigueur [...]

Il s’agit de l’emploi du café moulu, foulé, froid et anhydre (mot chimique qui [...]

二つの時間 -Les Cailloux du Paradis Racines -

 

 

クロード・クルトワのレ・カイユ・ド・パラディ ラシーヌ・ブラン2009というワインを飲んだ。

結論から言えば心底感動した。これほど時間とともに表情が変わりゆくワインには初めて巡り会った気がする。

 

抜栓してすぐには桃の香りが僅かに顔を出し、その後にしっかりとした酸味と苦味がやってくる。

しっかりした酸味を味わいながら二杯目を注ぐうちに、いつしかその酸味は去り、桃の味が前に立ち現れる。

いま飲んでいるのは果たして白ワインだったかと疑うほどに親しみやすく、旨味のある桃の味わいが口に広がる。

その味わいを確かめるかのように三杯目を注ぐと、桃の果実味は遠くに去り、最初に感じた酸味が回帰している。

あれは幻だったのか、と驚きながら最後の四杯目を含む。すると苦味と酸味のバランスの取れたしっかりとした

「白ワイン」のフォルムが全体を支配しており、桃の香りを舌にそっと残しながら優しく消えて行く…。

 

 

このお酒に合わせたのは手作りの餃子だった。

かつて読んだエッセイに、「餃子には桃の味わいのするお酒が合う」と書かれていてそれを試してみたかったのだ。

なるほど、確かに肉料理のソースには桃を使ったものがあるから合いそうな気はする。

そうして、タレ無しに口にほおばった後にワインを流し込み、餃子と一緒にワインを噛んで口の中で混ぜ合わせてみると、。

言葉にならぬほどの旨味が途端に炸裂した。料理とお酒を合わせることを「マリアージュ」と表現した人は凄いな。

そんな事をぼんやりと考えながら、お酒を嗜むことが出来る幸せと、作り手が計算したであろう「二つの時間」に思いを馳せる。

 

「二つの時間」 — 色合いを次々と変えて行くこのワインには、「寝かせた時間」と「口を空けてからの時間」という

二種類の質の違う時間が含まれている。変化を十分に味わうためにはある程度の時間が必要で、そのためには大人数では無く

気の合う人と二人でテーブルを挟み、ゆっくり時間をかけながら飲むことが必要になってくる。

そう考えると、このワインに限らず、良質なワインというのはそうした二つの時間に立脚した芸術なのかもしれないな、と思わずにはいられない。

香水のように、あるいは音楽のように、(香りも音も「時間」を前提とした芸術であることを忘れてはならないだろう)

時間とともに様々なノートが、楽想が行き交う。「今/ここ」で味を作り出しながら飲むようなライブ感を与えてくれる見事な一本だった。

 

 

 

大地と時間の芸術 - マルセル・ダイス,マンブール2006 -

 

こんなにも、飲むことを「恐ろしい」と思ったのは初めてだった。

マルセル・ダイスのマンブール2006。黄金という表現が似つかわしい色合いに、信じられないほど長く続く余韻!

 

舌に含み、口の中から姿を消した時からこのワインは本当の姿を見せ始める。フルーティーな味わいが消えたあと、物凄い密度のほろ苦い旨味が迫ってくる。

遠くからやってくる、というよりはズームで迫ってくるようなその密度に圧倒されるが、引き方は儚く、くどくない。

九月の終わり、夏の余韻が秋風にさらわれて消えて行くように、静かにすうっと過ぎ去って行く。

思い出すのはシューベルトの『未完成』交響曲の最後だ。

何か神聖で巨大なものが膨らんで迫ってくるクレッシェンドに、霞の中にフェイドアウトするようなディクレッシェンド。

あの一小節と同じように、このワインは、一瞬だけで忘れられない記憶を与えてくれる。

 

 

後味が完全になくなったあと、きっとこう問いかけたくなるはずだ。

「今のはいったい何だったのか?」

それは美味しいとか味がどうだとか、そういう次元ではもはや語れない世界で、

貴腐ワインのような美しい色合いの中に、味わいだけでなく「時間」という要素を濃厚に含んでいる。

フィニッシュの余韻が上等なウィスキーのように鼻から抜けて行き、頭を痺れさせる。

徹底的にテロワールに拘るマルセル・ダイスが生み出した、アルザスの大地と時間の芸術だ。

 

飲みすすめて味が開き始めると、グレープフルーツに似たほろ苦いアタックが鮮烈になり、肌まで震わせる。

舌に乗せた瞬間の柔らかいフルーティーさの上にこの苦みが押しかぶさってくる。

苦味のクレッシェンドはより急激になり、そのぶん、余韻は長くなる。

そしてじっくりと細胞の一つ一つに染み渡るように引いていく感覚に、思わず目を閉じてしまう。

 

次の一杯、あるいは食事を、このワインは容易に口に含ませてくれない。

もっともっと、と求めてしまう美味しさなのだが、あまりの印象深さゆえ、音が完全に消え去るまでは次の音を重ねることが出来ないように、

真に心打つ演奏の終わりには拍手すら出来ないように、この美しい余韻が響き渡る中に身を任せてじっとしていたくなる。

この世界から醒めたくない、と思う。

 

ゆっくりゆっくりと杯を重ね、最後の一口を傾けながら、飲む事が出来た幸せと終わりが来てしまう寂しさで、涙が出そうになった。

こんなふうな気持ちにさせてくれるお酒を、僕は他に知らない。

 

 

 

Manbourg Grand Cru 2006

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Manbourg Grand Cru 2006 -2-

2012年、バランタイン30年。

 

あけましておめでとうございます。

現在、一月一日の午前二時。ベートーヴェンの交響曲一番を勉強していたらいつの間にか日が変わっていました。

この曲は冒頭から「ええっ!」と驚くような和音ではじまり、調性が安定しないまま序奏を終え、Allegro con brioで

ようやく走り出します。そして走り出してからはモーツァルトの四十一番「ジュピター」の第一楽章が確かにその中に聞こえるのです。

伝統と革新を同居させ、「これからは俺の時代だ!」と意気込むような、若きベートーヴェンの野心が見える気がします。

新年一発目に勉強するのにこれ以上相応しい曲もないかもしれません。

 

 

勉強にキリがついたところで出して来たお酒がこのバランタイン30年。

色々な巡り会わせがあってこうして飲む機会を得たお酒なのですが、

今の僕には不釣り合いなぐらい上等な一本で、その余韻に思わずうっとりしてしまいました。

 

 

30年、ということは僕の年齢よりも六つも年上のお酒なわけです。

このお酒の年齢と同じになったころ、つまり2018年に僕はどうなっているのだろうか。

結婚してもしかしたら子供の一人でもいるのかもしれないな、などと考えながら、

大切に大切に、時間が深く刻まれたこの琥珀色の芸術を堪能するのでした。

 

ともあれ、乾杯!

2012年も実り多き良い年になりますように。

バランタイン30年とベートーヴェンの1番。手前はブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」。

 

 

日曜日のすごしかた。

 

久しぶりに予定の無い日曜日だった。

昼前までゆっくりと寝て、ゆるゆると布団から這い出て家事をし、着替え、Pierre Bourdieu – Agent provocateur -という本一冊と

財布と携帯だけを持って、お気に入りの小さなカフェへ。い つものように、マスターのドリップの手つきが良く見えるカウンターの端に座る。

もう何十回と来ていて顔を覚えられているから、頼まなくても一杯目はブレンドを出して頂ける。

丁寧に蒸らして淹れながら「今日は何の本を?」と初老のマスターが顔を上げずに僕に尋ねる。

「今日はこれです」そう言って持ってきた本 を見せると、マスターはふっと顔をあげて、いつも通り「そうか。ゆっくりどうぞ。」と笑顔で

珈琲をくださる。会話はそれっきりで、時々他のお客さんが入ってくると賑やかにもなるけれど、静かに時間が流れてゆく。

店内にはビゼーの「カルメン」の組曲が控えめな音量でかかっていて耳に心地よい。ブルデューもビゼーもフランス人なんだな、と

とりとめもないことをぼんやりと考える。珈琲の香りが、目の前にある緑と金で縁どられたジノリのカップから、あるいは煎りたての豆が

並ぶカウンターの向こうから、ふわりと豊かに漂ってくる。

 

お客さんが増えてきた三時頃、軽く睡魔に包まれながらそっと店を出る。

起きた頃には高かった陽はもう傾きはじめ、西日が世界を斜めに照らす。ああ、もう一日が終わり始めている、と嘆息する。

眠気の残る頭のまま、予約もせずに美容院へと向かう。うとうとした心地のまま誰か他の人に髪を洗ってもらい、切ってもらう。

そんな幸せなことがあるだろうか。身体に触れる手の温度が心地いい。こうやって人の温度をゆっくり感じたのは久しぶりかもしれない。

そうだ、今日は自分のために一日を使おう。まどろむ思考の中で決意した。

 

そうして、二カ月に一度通っている中国整体へ足を運ぶ。

ここで身体のバランスを見てもらうのが僕にとっては一番の体調管理。疲労もゆがみも身体を見れば一発で分かる。

身体は正直なものだ。しばらく無理を重ねていたから背中に相当な負担が来ていたことを感じつつ、南京で覚えた拙い中国語で先生と

話し、「日本語も中国語も難しいね!」と呵々大笑する。施術が終わると、背中から誰かがはがれたみたいに身体が軽くなっていた。

 

身体が軽くなると、すぐに動きたくなる。じっとしていられない。昔からそうだ。

近くのカフェに入ってフランス語をやり始めたもののすぐに我慢が出来なくなって席を立ち、自宅に走って帰って準備をし、

いそいそとボウリングへ出かけた。もう一つの体調管理。ボウリングは僕にとって禅のようなもので、集中力チェックの意味を

果たしてくれる。日々の音楽の勉強で学んだことがボウリングに影響を与えてくれる。指揮もボウリングも、立った瞬間から

勝負がはじまっていて、背中で語らなければならない。一歩目、二歩目は楔を打ち込むようにしっかりと、しかし擦り足で弱拍。

我慢の限界というほどにゆっくりと歩くと、周りの景色が違って見えてくる。背中に静寂が吸いこまれていく感覚がある。

そして四でがっしりとタメを作り、時間と時間の隙間に無重力の一瞬を生みだして、一気に、しかしリリース・ゾーンを長く取って、

全エネルギーをボールに乗せて放つ。その繰り返し。ひたすら自分の精神と身体に向かい合う。

軽くなった身体で、一心不乱に七ゲーム投げ続けた。

帰ってまた本を開き、疲れたところでフランス語を始める。

そうするうちに夜はどんどん更け行き、日があっという間に変わってしまう。焦りとともに、指揮の課題として勉強しているバルトークの

ミクロコスモスNo.140.141を開き、読み込み、この目まぐるしく移る変拍子をイメージする。運動ではなく、音楽として感じられるように。

少しでも音楽が出来るように。

続けて、5月に指揮するプロコフィエフの「古典交響曲」のスコアを開いてCDを流しながらざあっと読んでみる。

わずか15分足らずの曲なのに、編成もハイドン時代の古典的な編成なのに、がっちりとした枠の中に多くの逸脱がある。

大胆な和声、意表を突く和声、楽器のテクニカルな交差。形式の中に刻み込まれた皮肉とユーモア。プロコフィエフの天才。

どうやったらこれを表現出来るのだろう。

新聞屋さんがポストにカタンと音を立てた。

もう五時だ。一日の終わりに、もう10年近く使っている万年筆を手に取り、原稿用紙に向かう。

書かなければならないことは沢山あって、書きたいこともとめどなく湧き出てくるのに、書けることはほんの僅かだ。

ため息をついて椅子の背もたれに寄りかかる。お風呂上がりに淹れたお茶はすっかり冷めてしまっていた。

朝六時。そろそろ寝よう。世界が動き始める。日曜日を終えるのは怖いけれど、月曜日を始めなくてはならない。

ヨーロッパ滞在記 その7 – コレージュ・ド・フランス -

 

フランスを経つ前日には、コレージュ・ド・フランスへ行ってきました。

僕のようにフランスの思想を専門にしている人間にとって、コレージュ・ド・フランスはちょっとした聖地みたいなもの。

訪れるのを楽しみにして、カルチェ・ラタンで下車。コレージュ・ド・フランスへ寄る前に、近くにあるノートルダム寺院を見て来ました。

ノートルダムの辺りには日本人の方も沢山いらして、久しぶりに日本語を聞いた気がします。ノートルダムは「すごいなあ。」という印象

だけで終わってしまったのですが、帰国してからインタビューさせて頂いた照明デザイナーの石井リーサ明里さんが

このノートルダム寺院のライトアップを手掛けられたのだと聞いて、あとから驚きました。

 

さて、コレージュ・ド・フランス。ソルボンヌ大学の向かいにあって、ちょうどその日は「フランスの文化公開週間」みたいなものに当たって

いたようで、中まで入ってみる事が出来ました。かなりの行列が出来ていたのですが、ここを訪れないわけにはいかないので、フランス人

に混ざって(アジア系は僕だけでした)並ぶこと一時間、ようやく敷地内に入ります。ホールではブーレーズの講義動画などが流れて

いて、ああこのホールでレヴィ・ストロースやフーコーが講義をしていたのか、と思うとちょっと感無量。まさにここで、世界最先端の

「知」が語られていたのです。ここで講義を受けられる日が来たらいいのにな、そのためには語学をもっとやらないと聞きとれないな、

などと思いながら、二回もコレージュ・ド・フランス内をぐるぐると回ってしまいました。

 

あとで気付いたのですが、コレージュ・ド・フランスの入り口の近くの花壇のような場所には、それぞれ名前がついていて、

その一つが「ミシェル・フーコー スクウェア」となっていました。自分の名前がついたスペースがコレージュ・ド・フランスの

前にあるなんて素敵すぎますね。

 

そのままソルボンヌ大学の近くのカフェに入り休憩したあと、シテ島とサン・ルイ島まで足をのばしました。

シテ島はざわざわとしていて観光客が沢山いたようですが、サン・ルイ島まで歩くと一気に静けさが訪れます。

歩き過ぎて少し疲れたこともあり、川べりのベンチに座って、本屋で買ったばかりの本を開きながら、ゆっくりと静かな時間を

過ごしていました。と言いつつ、サン・ルイ島の通りは素敵なお店ばかりで、つい散財してしまったことを付け加えておきます(笑)

 

そこから、ルイ・フィリップ橋を渡ってリヴォリ通りを歩きまくります。

オテル・ド・ヴィルからセント・ポールまでの間には可愛いお店がいっぱい。僕の好きな文房具屋さんが沢山あって、思わず

財布の紐が緩くなってしまいました。

 

最後に、そのまま歩きに歩いてポンピドゥーセンターへ。現代アートのような外観で知られるレンゾ・ピアノのこの建築には

もちろん驚かされましたが、いちばん印象的だったのが、ポンピドゥーセンター前の広場の活況。

手品をやっている人がいたり、ヴァイオリンのソロ演奏をしている人がいたり、大道芸をしている人がいたり。

それを傾きつつある陽を浴びながら、みんな地べたに座って思い思いに楽しんでいるのです。いいなあ、と心から思いました。

広場ではカップルが堂々とキスをしていましたが、それがこの街・人では不思議と絵になる。そのままキスをしていてほしいなと

思うぐらい、彼らは都市の中に溶け込んでいました。さりげないけれど細部に配慮された美がこの都市には息づいています。

 

ここまで歩いたところで、充電のためにいちどホテルへ。

もう辺りはずいぶん暗くなっていて、フランス最後の夜がすぐそばにやってきていました。

伽羅珈琲と『現代言語論 ソシュール・フロイト・ウィトゲンシュタイン』(新曜社)

 

 先日の記事に「虫垂炎で倒れてます。」と書いたところ、沢山の方からメールを頂き、びっくりしました。

クラスの友達やゼミの友達に限らず、結構様々な方が見ていらっしゃるんですね。ご心配をおかけして申し訳ないです。

点滴を受けて抗生剤を飲み続けた甲斐あって、虫垂炎の方はほとんど完治しました。かといっていきなり動き回るのも怖いので、

数日は自重気味に過ごすことにしています。空き時間にはフランス語をやったり本を読んだりしているので今までと変わりませんが、

珈琲を一日一杯までに控えているのは大きな変化かもしれません。(一杯は飲まないと何か落ち着かないので)

 

 今日は五限が休講になったので、家でまったりしつつ立花ゼミの仕事をこなし、昼からはノートPCと本を持って自転車で出かけました。

そして西太子堂の病院に行って経過を見てもらった後、ゼミまで時間があったので三軒茶屋まで足を伸ばしてみました。

三軒茶屋に来たのははじめてだったのですが、お洒落なお店や美味しそうなお店を沢山発見しました。

騒がし過ぎることもないし寂れているわけでもない、個人的には好きなサイズ感の街です。関西で言うなら元町みたいな感じかな。

 

 東京である程度栄えた街にはもはやお決まりの自転車大量放置にはやや辟易としましたが、駅前には無印良品やドトール、スタバが

密集しており、時間を潰すのには苦労しなさそうです。どこかに入って本でも開こうと思い辺りをうろうろしていると、中々渋い店構えの

珈琲屋を見つけたので入ってみました。(後で知ったのですが、ここは地元の人には結構有名な珈琲屋さんだったようです。)

 

 店名は「伽羅珈琲」。パッと見ると漢字四文字の画数の多さ(というか見た目の複雑さ)になんだか圧倒されます。

店内はカウンターがメインで、いくつかあるテーブル席を入れても15人ぐらいで満席になりそう。大人数で来るところではなく、

一人の時間を楽しんだり、二人でゆっくりと話し込むのに使うべき場所だと思います。今回はお客さんがあまりいない時間帯だったのか

適度に空いていたので、誰も座っていないカウンターの真ん中に座らせて頂きました。そして迷わずブレンド(550円)を注文。

 

 カウンターの奥の棚には美しいカップが整然と並べられており、それを見ているだけでも飽きません。

珈琲好きとして僕も淹れ方にはこだわりがあるので(というよりは、プロの淹れ方から色々と盗んでいきたいと思っています。)

棚だけでなくマスターが珈琲を入れる様子も集中して見ていたのですが、蒸らしは短めで一気に湯を注ぎ切るタイプの淹れ方を

していらっしゃいました。美味しい珈琲を出されるお店ではいつも感じることなのですが(伽羅珈琲のマスターもそうでした)

プロが珈琲を淹れるときの顔つきの真剣さはとても素敵ですね。精神を集中して目の前の一杯にかけるその様子は、

まさに「職人」を感じさせます。僕が珈琲の美味しさを本当に教えて頂いた、神戸の『樽珈屋』というお店のマスターは

「一杯の美味しい珈琲に辿り着くには、1.良い生豆を選定する目 2.質の高い焙煎技術 3.淹れ方の技術 が高いレベルで必要。

たった一杯の飲み物かもしれないけど、そこには沢山の技術が詰まっている。それぞれの店のマスターの個性そのものだよ。」

と言うような内容の事をおっしゃっていましたが、様々な珈琲屋に足を運ぶたび、珈琲を淹れる真剣な顔を見ては

この言葉を思い出します。

 

 待つこと数分、繊細なカップ(食器にはあまり詳しくないのですが、たぶんGINORIのカップだったと思います。)で出された珈琲は

非常に香ばしく、深い味。酸味も苦味もそれなりにありますが、のど越しは淡い甘みを感じさせます。とがったところの無い味です。

少し温度が下がって来てから飲むと甘みが最初より強く感じます。どことなく高級なクッキーやビスケットの味を思い出しました。

ほっとする味で、お店の雰囲気と合っていてとても落ち着きますね。

 

 ひとしきり味を楽しんだあとは、持ってきた本を開けてゆっくりと時間を過ごさせて頂きました。

本を開けて気づいたのですが、このカウンター、光量が絶妙です。店の照明自体は全体としてかなり薄暗くしてあるのですが、

カウンターで本を開けてみるとページに柔らかくスポットライトが当たったようになり、周りの暗さと相まって文字がとても読みやすい。

映画のワンシーンのような、というと言い過ぎかもしれませんが、そんな感じで落ち着いて本に集中することが出来ます。

良い喫茶店に巡り合いました。これからも時々行ってみたいと思います。(あとは分煙だったら最高なんですが、そうもいきませんね。)

 

 喫茶店を出てゼミに向かい、あれこれとゼミで時間を過ごしたあとは指揮のレッスンへ。

今日は平均運動を使ってコラールを振らせて頂きました。平均運動メインとはいえどもフェルマータが頻発する曲なので、

呼吸を調節するのが大変です。伸ばし過ぎるとわざとらしくなるし、早めに切り上げるとどこか物足りなくなってしまう。

次の拍に行きたくなるところをあと一呼吸だけ粘るように意識すると少しは上手くいったように思います。

いつもどおり師にお手本を見せて頂いたのですが、びっくりするぐらいこの曲が自然なリズムと息遣いで流れていきました。

余りにも自然なために、師が振るのを見ているとこの曲が簡単そうに見えるのですが、いざ自分が振ってみるとやっぱりどこか違う。

フレージングがぎこちない。フェルマータの伸ばしにも迷いが感じられる。(振っている僕が迷っているわけなので当然ですね・・・。)

自然な息遣いというのは本当に難しいものです。自然を意識した瞬間にそれは自然でなくなる。

「自然にやるぞ。」と思って振り出すと、流れてくる音楽はおよそ自然とは言い難い、力みが感じられるものになってしまいます。

「こうでなければならない」という経験に裏付けられた確信によって、何も考えなくても勝手に体が動くこと。楽譜と格闘するのではなくて

ただ音の中に生きて呼吸すること。バトン・テクニックのみならず、そういった説明不可能なものを師からしっかりと学びとらねば

ならないなと痛感します。来週までにしっかりと考えて練習せねば。

 

 なお、本日は新曜社から出ているワードマップシリーズの『現代言語論 ソシュール・フロイト・ウィトゲンシュタイン』を読了。

レヴィ・ストロースの『構造人類学』を原典で読んでゆく過程で、音韻論などの言語学的な知識を補強することが必要だと感じたので

しばらくは集中的に言語学関連の書籍を読み漁ることにします。新曜社のワードマップシリーズは浪人中に購入した

『現代文学理論 テクスト・読み・世界』や『現代文学理論のプラクティス』でもお世話になりましたが、コンパクトに纏まった概説と

豊富な巻末の参考文献一覧(正確には「ブック・ガイド」と題されている。これだけでも買う価値があると思います。)が相変わらず

素晴らしい。このシリーズには外れが無いので、いずれ全巻揃えることを考えています。

 

(追記:塚原先生のホームページを見たところ、以前このブログで紹介したことがきっかけとなって『理性の限界』(講談社現代新書)を

お読みになられたとのことです。先生がホームページで紹介される本を参考にして「これから読むリスト」に入れている僕としては

ちょっと嬉しいものがありました。先生はお仕事をなさっているにも関わらずあれだけお読みになるのだから、学生の僕はもっともっと

読めるはず。『二十歳の君への宿題』を集めていて身に染みたのですが、学生なんて社会人の方から見れば気楽で暇なものなのです。

重い責任を負っているわけでもないし、信頼に立脚しているわけでもない。

いくら忙しいと言っても、誰か別の人のために忙しいわけではなく、結局は自分がやりたいことをやって忙しくなっているに過ぎません。

20歳はとうに過ぎてしまいましたが、そう考えると僕は学生の身分でいられる間にもっと沢山のことが出来るはずだし

やらなければならない。フランス語の勉強を理由に最近一日一冊ペースが崩れていたので、ここらで立て直したいと思います。)

 

 

『二十歳の君への宿題』メールフォーム

 

先日ここに書いた、立花ゼミ駒場祭企画『二十歳の君への宿題』のメールフォームができました!

URLはhttp://kenbunden.net/20/です。作ってくれた技術班の方々ありがとう。

このブログをお読み頂いている方で21歳以上の方は上のURLをクリックして、立花ゼミの企画に是非ご協力ください。

20歳以下の方はご両親や御親戚などにこのページを紹介して頂けると大変嬉しく思います。

また、ホームページやブログをお持ちの方はこの企画を宣伝して頂けると幸いです。どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

さて、しばらく更新できていなかったのでまた纏めて色々書いておきます。

 

・ボウリング

プロとの試合で、4ゲームトータル973というスコアが出ました。たかが4ゲームに過ぎませんが、アベレージ243。これは珍しい。

スコアシートの画像を添付しようと思ったのですが上手くいかないので、内訳を書いておきます。Xがストライク、/がスペアです。

1G 9/XX9/XXXXXXX9⇒268

2G XXXXXX9-XX8/X⇒245

3G 7/XX9/7/XXXX9/9⇒234

4G X818/XXX9/XXX9/⇒226

ノーヘッド(1番ピンに当たらないこと)は0でした。イージーミスは7ピンの一回、スプリットは7-10の一回。

ポケット入って7-10スネークアイが出た時は「あちゃーこれで終わった。」と思ったのですが、なんとか立て直せたようです。

面白かったのは1G目。僕が先攻で投げていたのですが、あとから投げるプロも10フレーム二投目まで僕と全く同じ展開、全く同じ

スコアでした。5フレから7つストライクを続けて来て、「これで勝ったかな?」と思っていたら、プロも5フレから7つ続けて来ます。

ここまで来ると我慢比べですね。スタッフの方や一般のお客さんの方も僕らが投げているボックスの後ろに集まって成り行きを

見守っていらっしゃったようで、大変熱い展開になりました。結局、10フレ最後で僕が9本だったのに対してプロはストライクを

出したので268-269で負けてしまいました。恐るべしプロ。

 

・指揮

師の「平均運動」が美し過ぎて感動しました。何気なくやっているように見えるのに、あれは絶対真似できない。凄い。

最近ベルリオーズの幻想交響曲の同曲異演を集めてスコアを読んでいるのですが、師の書き込みだらけのスコアを発見したので

その場で大体を書き写して帰りました。師が研究に研究を重ねて書き込んだスコアというのは、それだけで一つの宝物です。

 

・ブログ

立花ゼミに新しく入った有賀くんのブログとリンクしました。彼とは前期教養課程で同じクラスで良く呑む仲です。家もすぐ近く。

哲学科に進学するだけあって彼の思考はとても面白い。刺激を受けます。

 

・映画

「アメリ」を見ました。奇怪なオープニングにびっくり。「元通りしまうこと」というくだりでL’étranger,enfantと言っているように聞こえた

のですが、字幕で確認するのを忘れてしまいました。全体的にコミカルな(ある意味で「俗」な)展開なのですが、雨が降る所を

上から映したショットなどはフランスらしい色彩感に満ちていて美しかったです。また、主演のオドレイ・トトゥは右斜め上45度からの

写りが抜群に綺麗だなと感じます。「人間に人生に失敗する権利がある」とテレビの登場人物が語るワンシーンが印象的でした。

 

・珈琲と紅茶

珈琲の方はいつもお世話になっている樽珈屋という珈琲屋さんから届いたコロンビアの中煎りを飲んでいます。

ミルはカリタのナイスカットミルを使用し、一杯ずつペーパードリップ。香ばしさの中に甘さを感じられる、とても美味しい豆です。

紅茶の方は近くのカルディでJanatの葉が缶で安売りされていたのでブレンド・セイロン・アールグレイの三種を買い込みました。

Janatの紅茶は香りがとても良く、(たまに「?!」となるようなものもありますが)ミルクティーにしても香りが消えないものが多いので

愛用しています。夜中に飲むと癒されますよ。缶のデザインもお洒落ですし、後期課程でフランス科に進学する身としては書かれた文章

(Pour l’amor de mon chat,qui m’a inspiré des bonnes idées et que j’aime toujours.)に妙に親近感を覚えます。

猫の絵がかわいい。

 

・デザイン

KIRIN-東京大学パートナーシッププログラムのフライヤーのデザインが最終稿まで終了しました。内容に配慮しながら、文字情報を

すっきりと見せることを心がけました。背景に敷いた写真と、アクセントに入れた薄紫の文字が気に入っています。

 

・虫垂炎

虫垂炎にかかってしまったようです。夜中に苦しんだあと、一日学校を休んで病院へ。久し振りに点滴を打ちました。

血液検査の結果次第ですが、もしかしたら一週間弱ほど入院するかもしれません。

一日休むだけで予定が6つおじゃんになり、4か所に電話をかけて事情を説明する羽目になりました。色々痛すぎます。

 

 

まさかの大澤真幸

 

 社会学者の大澤真幸教授が京大を辞職されたことを知った。

原因はどうやらセクハラのようだ。それを聞いて本棚に並んだ大澤の『恋愛の不可能性』を眺めると何とも言えない気分になった。

この書で大澤は欲求と恋愛の不可分性を述べていたが、今回の事件、ある意味で恋愛の不可能性に陥ってしまったようにも見える。

 

 高校時代から僕は大澤真幸の著作に大きく影響を受けてきた。

そして大澤真幸の著作はほとんど購入してきた。あの分厚い『ナショナリズムの由来』ですら浪人時代に買った。(初版だった)

内容というよりはむしろ、テーマへの切り込み方や文の運び方を尊敬していた。

大澤の師匠である見田宗介もそうであったが、とにかく「読ませる」文章を書かれる人だ。

書き手の思考の切れ味や知性がバシバシ伝わってくるような文章で、こんな文章が書けたらいいなあと少し憧れていた。

問題への切り込み方も本当に鮮やかだった。『美はなぜ乱調にあるか』で彼は最後に「イチローの三振する技術」という論考を

掲載している。たとえこれが「トンデモ」だと言われようと、この論考がとても魅力的である事は変わらない。

(最後につけられた脚注を読んで欲しい。大澤はここで、野球において打者は中世の「騎士」であり、投手と捕手という「夫婦」の

関係を攪乱する第三者であるという読む者の目を驚きに開かせる注をつけている。)

大澤の文章の巧みさについては、松岡正剛先生が「千夜千冊」というサイト(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/)の

2005年12月14日の記事、『帝国的ナショナリズム』の評で「能」の用語を用いて説明されているので、それを引用させて頂こう。

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能はカマエとハコビでできている。(最近の大澤の文章は)そのハコビに緩急が出てきた。そうすると読者も「移り舞」に酔える。また、能の面の動きはテル・クモル・シオル・キルに絞られているのだが、十分にゆっくりとした照りと曇りが見せられれば、突如の切り(面を左右に動かす)が格段の速度に見える。そうすると観客の心は激しく揺すられる。学問といえども、その70パーセントくらいは読者や観客に何を感じさせたかなのである。カマエもハコビも大事だし、テル・クモル・シオル・キルも習熟したほうがいい。ついでながら学問の残りの20パーセントは学派をどのようにつくって、それがどのように社会に応用されたかどうかということ、残りの10パーセントが独創性や前人未踏性や孤独感にかかわっている。学問はそんなものなのだから、どこで才能を発揮してもいい。

もともと大澤真幸はかなり早口で喋っていても、その語りをもう一人の自分でトレースできる才能をもっている。いま自分がどんな言葉をどの文脈で使おうとしているか、その言葉によって話がどういう文脈になりつつあるのか。それを聞いている者にはひょっとするとこんな印象をもったかもしれないが、それをいま訂正しながら進めるけれど、それにはいまから導入するこの用語や概念を説明なしに使うが、それはもうすこし話が進んだら説明するから待ってほしい、それで話を戻すけど‥‥というふうに、自分で言説していることをほぼ完璧にカバーできる能力に富んでいた。アタマのなかの”注意のカーソル”の動きが見えている。 ぼくはどうもうっとりできないんですよ、「考える自分」と「感じる自分」とが同時に動いていて、その両方を観察してしまうんですよ、と大澤自身がどこかで言っていた。まさにそうなのだろう。それがいいところなのだ。

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大澤真幸の文章に親しんでいる人なら、「そうそう、まさにそんな感じ!」と頷いてしまう、的確な評だと思う。

アカデミズムの構造を利用したセクハラは許されるべきではないが、一読者として大澤真幸の著作は楽しみにしているので、

これからも魅力的な書を書き続けて頂ければなあ、と思う次第である。

 

 そんなこんなで今日は一日家でゆっくり。

少し前にプールへ行ってバカみたいに2キロ泳いだ(1キロを平・クロール・背泳ぎで。残り1キロをビート板を使ってパドリングだけで。)

ので、身体が筋肉痛でやられていて動く気にならない。いつもなら8ゲームほど投げに行くところだが今日は自粛。

その代わりにネットサーフィンをして良さげな新作ボールの動きを見る。

Stormのレイン、900Globalのブレイクポイント・パールの動きは見ていて欲しくなる。自分の回転数とセンターのオイルの関係上、

どうしてもパール系の球ばかりが欲しくなってしまう。ブラックパールとソラリスの予備も買っておきたいし、Kineticのエピセンターも

投げてみたい。でもそんなに買ったら間違いなく破産するし、まず家に足の踏み場がなくなってしまうだろう。というわけで我慢。

もし走る球を購入しようと考えている方がいらっしゃれば、新作ではこの辺りのボールがお薦めだと思います。

 

 夜、冷蔵庫のあり合わせを使って三つ葉と豆腐のお吸い物と出し巻き卵を作り、白旋風の水割りと合わせて頂く。

卵焼き用ではないフライパンだが、それでも十分に綺麗な卵焼きが作れるようになって嬉しい限り。外はふんわり、中はややトロである。

我ながら美味しい。一杯のお酒とそれなりの御飯があればとても贅沢な気持になれるものです。

なお、『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記(上巻)』と『日本の近世 14.文化の大衆化』を読了したので、

また日を改めてレビューを書きます。

 

セカンド・ディメンションと『白旋風』

 

 プロと手加減なしの4ゲームマッチをしてきました。

ちょうどStormのセカンド・ディメンションをドリルしたばかりだったので、このボールをメインにして最後まで投げました。

このボール、予想していたとおり僕の球質にとても合うようです。とくに横回転を多めにして外側へ振って投げると、かなり奥まで走って

「ガタ‐落ちる!もう駄目です!あ、あ、さような・・・なんちゃって」という感じで、凄い加速感とともに内側へ切れ込んできます。

かなり回転を入れてもスムーズに走ってくれるため、無理やり手前を走らせる必要がありません。ピンアクションは壮絶の一言。

タップは普通にしますが、キックバックがとても激しい。誇張抜きに、跳ね散ったピンが左右に一往復しているように見えます。

難点はStormのボールに特有の「微妙なフレグランス」です。Stormのボールには大抵香りが人工的につけられていて、

今回のSecond dimensionにもリンゴっぽい匂いがつけられています。高校生の頃に使っていたStormのX-Factor Reloaded

にはシナモンアップルの香りがつけられていたのですが、ボールバッグにこのボールと一緒に入れていたシューズやら小物やらが

みなシナモンアップルの香りになってしまっており、さらには同じロッカーに入れていたユニフォームまでシナモンアップル臭に

犯されしまっていた経験があるので、今回はちょっと警戒しています。投げ友達の中に、Stormボールの香りに辟易して

ボールにファブリーズをぶっかけたツワモノがいるのですが、彼曰く「ファブリーズでは勝てんかった・・・」とのこと。

消臭作戦では歯が立たないようなので、今回は生政治的に隔離作戦を推し進めていこうと考えています。

 

 ボールのフレグランスに話が流れてしまいました。

ともかくこのボールを使って、久し振りに思いっきり出して思いっきり戻すラインを投げ続けました。

220-179-201-230でアベレージ207.5。対するプロはなんとアベレージ233。4ゲームまではプロにくっついていけたのですが、

最終ゲームで268を出されては230を出しても全く勝ち目がありません。プロの本気と精密なライン取りを目の当たりにしました。

また来週にリベンジマッチをやる予定なので、次こそは追いつきたいと思います。

 

 帰宅してからは、買ったばかりの焼酎用グラスに『白旋風』(宮崎県櫻の郷醸造)をロックで開けます。

この焼酎、ネットで検索してもあんまりヒットしないマイナーな焼酎なのですが、かなり美味しいです。

ジョイホワイト芋という特殊な芋を使っているために、どことなく柑橘系のニュアンスを感じるものになっており、とても爽やかな口当たり

のおかげで疲れている時でもスイスイ飲めます。一方で焼酎らしい重さがないために水で割ってしまうと味がちょっとボケてしまうので、

冷蔵庫で良く冷やしてロックにするのが一番美味しい飲み方じゃないかと思います。

異文化交流と称してこの焼酎を飲みながらフランス語の復習をやってL’Étrangerをゆっくりと読み進め、

最後にパーフェクト・ソルフェージュを少しとピストン・デヴォート『和声法』の「非転調型ゼクエンツ」の項を勉強して一日終了。

いつの間にか外が明るくなっていました。8月に比べて朝方はだいぶん涼しくなりましたね。