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プロオケを指揮してから  -グリーグに惹かれて-

 

プロのオーケストラを指揮してから、すでに二ヶ月近く経った。

モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲とプロコフィエフの「古典交響曲」に頭をいっぱいにした時期はひとまず終わり、

二ヶ月の中で色々な曲に取り組んで来た。ベートヴェン「プロメテウスの創造物」序曲、オッフェンバック「天国と地獄」序曲、

スッペ「詩人と農夫」序曲、シューベルト「未完成」交響曲、ウェーバー「舞踏への勧誘」序曲…。

 

そして今はグリーグの「ペール・ギュント」組曲を振っている。

グリーグの曲を勉強していると、曲に入り込めた時には周りの温度がすうっと下がるような感覚を覚える。

とはいってもただ冷たいのとは違う。透明感のある温かさで、優しい手触りだ。

「グリーグは心に雑念があると振れないよ。濁った気持ちでグリーグは振れない。」と師匠がかつて呟いた言葉の意味を改めて悟る。

そして、なぜ師匠がアンコールにしばしば取り上げたのかも。

 

パフォーマンスのような指揮ではこの曲は演奏できない。

音楽に誠実でなければ決してグリーグは人の心に届かない。

師がアンコールで取り上げるグリーグの言葉にならない美しさに心を揺さぶられ、

指揮を学びはじめたばかりの未熟な身にも関わらず、師の背中を追って背伸びして

僕も演奏会ではことあるごとにグリーグの曲をプログラムに入れて何度も振ってきた。

南京大学の学生たちを東京で迎えたときに演奏させて頂いたグリーグの「はじめての出会い」という小品。

中国からはるばるやってきた学生たちが涙を浮かべながら聞いてくれ、そしてオーケストラのヴィオラ奏者が

涙を流しながら弾いてくれていたのを後から知り、これ以上無いぐらい幸せな気持ちになったことを覚えている。

 

グリーグの曲にどこまで入り込めるか。グリーグの美しさと儚さをどこまで人の心に届けることが出来るか。

これからもずっと、「濁った気持ちでグリーグは振れない。」という師の言葉を思い起こしながら、

何十年もかけて勉強し、少しでも心に届くように指揮していきたいと思う。

ハイデガーの面白さ。

 

ハイデガー、というのは僕にとって近付き難い哲学者の一人でした。

『存在と時間』の邦訳は浪人していたころから持っていたし、色々な文脈でハイデガーの名前が出てくるにつれ

「読まねば」と思い続けていたのですが、それでも「しかし僕にはまだ早い。」という思い込みで遠ざけていました。

 

ですがこの春から休学してから、ドイツ語読解力を落とさぬようにと『存在と時間』の原著Sein und Zeitを一日に一ページずつ、

色々な解説本を参照しながらゆっくりゆっくりと読み始めていました。

論が進むにつれて「どうしてもっと早く読まなかったんだ!」と叫びたくなるぐらいの衝撃に駆られます。

ああ、当時/後世の思想家や哲学者たちに(あるいはナチスに)影響を与えたのも頷けるな、と。

 

最終的に「共存在」が民族や共同体と接続されていくところはやはり納得できませんが、それを抜きにしても

やはりハイデガーは読まなければならない。そして今まで色々な思想家(たとえばナンシーの『無為の共同体』)の

著作を読んできましたが、その中にはハイデガーを理解しないことには理解出来ない(何が本当に問題なのかが分からない)ものも

沢山あったことに気付き、自らの不明を恥じました。僕は何にも分かっていなかった!(そして、きっと今も。)

夏の間にハイデガーのこのSein und Zeitを何とか一通り読み終えて、もう一度ナンシーやリクールを読み直してみるつもりです。

同期の友人たちはみな卒論に追われつつも、就職も次々と決まって社会人へとその歩みを進めつつあり、

その様子を見ていると少し自分の現状が不安になりますが、その一方で、こうして休学という身分を利用して

ゆっくりとハイデガーを一人で読み進めることが出来る時間を得られたのは、かけがえのないことだなと思っています。

 

 

現在、朝の五時。暑いけれども今日はとても天気が良いようです。

アイスコーヒーを淹れて、ハイデガーの邦訳とウェーバー「舞踏への勧誘」のスコアだけ持って

携帯も財布も家に置いたまま、公園に寝転がって、陽射しが眩しくなるまで読んでくることにします。

音楽も思想も文章も同じ。所属しないことを楽しみながら、一年間をゆっくりと、

自分が本当に学びたいもののために捧げたいですね。

 

 

「アイネ・クライネ」の中に「フィガロ」を聴く。

 

楽譜は読めば読むほど発見がある。そして時間が経てば見え方も変わる。

門下の後輩がレッスンでアイネ・クライネの一楽章を振るのを聞いて、

アイネ・クライネの中に「フィガロの結婚」序曲が突然聞こえた。

 

フィガロは五月にやったプロオケとのコンサートのために隅から隅まで勉強した曲。

そしてアイネ・クライネは一年前の駒場のコンサート(そこで初めて僕はオーケストラを指揮した)で振った曲。

電撃に打たれたように、二つの曲がこの一瞬で繋がった。

 

一 年のうちに色々な曲を指揮してきて、ようやくアイネ・クライネのことが少し分かってきた。

モーツァルトならではの遊び、モーツァルトならではの憂愁、そう したものがフィガロだけでなく、

アイネ・クライネにも息づいている。あの良く知られた「小夜曲」(=Eine Kleine Nachtmusik)の中に

モーツァルトのエッセンスが詰まっていた。心から思う。アイネ・クライネはなんて良い曲なんだろう、と。

フィガロを猛烈に勉強し、最高の奏者の方々と一緒に演奏させて頂いた今なら

この曲をどう「表現」すればいいのか、少しは分かる気が する。

 

 

一年前の自分は何にも分かっていなかった。若くて未熟で青かった。

そして一年後の自分も十年後の自分も、過去に向けて再び同じことを言うのだろう。

でも、音楽を勉強するとは、きっとそういうものだ。

 

モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」@新国立劇場

 

二日ぶりの新国立劇場、今度はモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」に行ってきました。

コジ・ファン・トゥッテ、すなわち「女はこうしたもの」というタイトルのとおり

恋愛を巡る話なのですが、プッチーニの「蝶々夫人」とは全く違う恋愛観が展開されます。

自分の彼女が浮気するか確かめてみようぜと二人のカップルが実験して、お互いが

お互いの相手に見事に浮気してしまうという、モーツァルトでなければ許されないような

軽やかな笑いに満ちたオペラ・ブッファです。今回は演出が非常にポップであったこと

もあり、現代的な感覚で最後まで楽しませて頂けました。休憩時間、コジファントゥッテの

軽やかさに身を浸しながら、昼間からキンキンに冷えた白ワインを頂く幸せ。

これだからオペラは楽しいのです。

 

楽曲自体は非常に演奏が難しいことでも有名で、なぜなら

ほとんど二重唱や三重唱、四重唱になっています。明るい曲調が多くを占めますが、

ところどころにモーツァルトならではの明るさの裏に憂いを潜めた音楽が鏤められており

大笑いしたかと思うとその直後に唐突にやってくる旋律の美しさ・儚さに息を呑む事もしばしばです。

とくに後半でピアノ協奏曲27番の2楽章がこだまする部分には感動してしまいます。

音楽はもちろん、名台詞も沢山あってここには書ききれないほどですが、モーツァルトが

このオペラに込めたメッセージはつまるところ

 

「色々うまくいかないこともあるけど、理性を持ちつつ時には感情に身を委ね、

前向きに気持ちを持って、あなたの時代や人生を楽しめ!」

 

というふうに集約されるのではないでしょうか。

思わず「そうだ!それでいいんだ!」と膝を打ちたくなるぐらい

モーツァルトのそうした考え方が僕は大好きで、意気揚々と上機嫌で

新国立劇場を後にしたのでした。コジ・ファン・トゥッテ、おすすめです。

 

 

 

 

プッチーニ「蝶々夫人」@新国立劇場

 

立花ゼミのOBとなってもうゼミにもあまり顔を出していなかったのですが、

いつの間にか「木許オペラ」なる企画を後輩が立ててくれていました。

彼は、彼が一年生のときに僕がリヒャルト・シュトラウスのオペラ「影のない女」に誘った後輩で

それ以来オペラの魅力にハマってしまったそう。そこで上級生になったいま、オペラの楽しさを

後輩たちに伝えるべく、新しくゼミに入った一年生を誘って、僕と一緒にオペラを見に行く会を企画してくれました。

 

当日、新国立劇場に向かうとなんと12人もの後輩たちが参加して下さっていて、本当にびっくり!

みんなどこか緊張した面持ちで、スーツの着こなしも一年生らしいものでしたが、かえってそれが微笑ましく

「彼・彼女たちは今から楽しんでくれるかな。終わったときどんな顔をしてこの劇場を出るのかな。」なんて

考えてしまいます。そして、簡単な解説と聞き方だけを手短に説明したあとは、みなS席(学生の特権で5000円!)へ。

おそらくはじめて来たであろう劇場の壮麗な雰囲気に圧倒される一年生たちを見ていると何だか幸せになってしまい、

開演前にそっと一人で一杯だけ飲んでしまいました。

 

あっという間に一幕、二幕。そして三幕。

舞台セットはほとんど動かず、固定したままのもの。そのかわり照明と影に工夫が見られました。

あの照明の使い方は凄く好きです。白い壁に映し出されるシルエットが何とも雄弁に物語ります。

音楽としては、一幕ではやや前に前にと突っ込む感じとフレーズの終わりの処理があっさりしているのが

少し気になった(もう少し間が欲しい!)のですが、二幕以降は迫力でぐいぐいとシナリオを進めていたように思います。

そして改めて、プッチーニはやはり旋律に溢れた作曲家だなあと感動しました。

 

一幕最後、有名な「愛の二重唱」で「小さな幸せでいいから。」と蝶々夫人が

歌い上げる場面では思わずウルッと来てしまいましたし、幸せに満ちたその音楽の中に

数年後に迫る悲劇を案じさせる、呪いの動機(ボンゾが登場したときと同じフレーズ)が一瞬顔をのぞかせる

ところにはゾッとします。そして三幕の「私から全てを奪うのね!」と内から黒い感情を溢れさせる

場面の音楽なんて、憎しみと絶望と諦めの折り混ざった、暗い情念の渦巻く旋律で、

もうプッチーニの天才と言うほか無いようなものでしょう。

 

結末は非常に残酷なもので、蝶々夫人の自害した瞬間に子供が相対してバンッと電気が落ちる

瞬間には思わず涙を零しました。結末を知っているのに泣いてしまう。結末はずっと前から暗示されているのだけど、

なかなかその結末はやってこず(音楽と演出がそれを先延ばしに先延ばしにし、時間を自由に伸縮させるのです)

それだけに最後のカタルシスは壮絶なものがあります。「ああ、いい時間を過ごしたなあ」としみじみと思いました。

 

劇場から出てみると、後輩の女の子は目を赤くしていましたし、

感想を話したくて仕方ないという様子の子もたくさん。みんな次の公演の演目を

楽しみにしているようで、パンフレットを見て「これはどんな話なんですか。」と次々に

聞いてきてくれます。「なんだ、オペラって楽しいじゃないか!」と思ってくれたなら

僕としてはこれ以上嬉しいことは無く、これからもゼミのみんなで、あるいは友達や大切な人と

誘い合わせて、歌と音楽に満ちたこの時間を楽しんでもらえたらいいなあと願うばかりです。

企画してくれた植田君、そして一緒に来てくださった皆さん、どうもありがとうございました。

 

駆け出しながら音楽に関わるものとして僕はこれからもこのオペラという総合芸術を

応援していきたいと思います。そして、いつかは自分も指揮できるようになれたらいいな。