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政治的パラダイム・シフト

 

 昼からフルートのレッスンに行ったあと、いつものように経堂で8ゲーム投げ込む。

楽器をやると異様に集中できるのでその集中を引きずったまま練習する事ができた。

8ゲームのアベレージが198。8ゲーム中スペアミスがスプリットの時を除いて一つしか無かった。

特に7ピンのカバーが冴えている。僕は7ピンを取る時にはドライ用のボールを使って一投目と同じフォームで肘を入れ、

リリースの瞬間に回転軸を縦(場合によってバックアップ気味にすることもある)に変えて曲がらない球を投げているのだが、

今日はこの時に肘が非常にスムーズに鋭く入っていて、7ピンをミスる気がしなかった。こういう状態がずっと続いて欲しいと思う。

 

 帰ってからは情報メディア伝達論のテストに使うために拾い読みしたものの全体を読んではいなかった

吉田康彦 『「北朝鮮」再考のための60章 日朝対話に向けて』(明石書店)を読了。センシティブな内容なだけに詳細や感想をここに

書くのは避けるが、北朝鮮の実態を知ることが出来るという点では(コラム代わりのTopicsの項も面白い。)良い本であろう。

 

 夕方からはカミュのL’Étrangerを辞書と必死で格闘しつつ読む。和訳なら一時間ちょっとあれば余裕で読めるのに、原書では

二時間かかって五ページがいいとこである。まあでも、このペースでいけば9月中旬には何とか読み終わりそうだ。

夜はA氏に、金森ゼミで集中的に学んだbio-politique及びビオス/ゾーエーの概念や様々な生命倫理の問題を説明した。

ゼミと同じく、一通り説明したあと、最後に「マルタとジョフ」という思考実験を教えてこれについて考えてもらう。

deaf=聾唖者の夫婦であるマルタとジョフは、遺伝子検査の結果、遺伝的な要因による聾でないと分かる。

しかし、マルタとジョフは、子供が自分たちと同じく聴覚障害者であることを望んだ。

この欲望から、着床前診断により、聴覚障害になるような胚を選択して着床させたとしよう。

もちろんマルタとジョフは「子供の幸せ」を思ってそうしたのである。deafの両親の下でははじめからdeafとして生まれ、Deaf culture

に生きたほうが幸せだろうと両親が考えた結果の行動である。

だが、この行為は許されるのか?命を逆方向へEnhancementしているのではないか?

 

 もちろん、はっきりした正解がある問ではないのだが、僕が思う答えはこうだ。

マルタとジョフは夫婦という関係を絶対的な物として信頼を置き過ぎている。自分たちと同じ聴覚障害者の子供を作ったはいいが

夫婦が突然別れてしまって、両親の行方も知れずという状況になった時を考えてみよ。

残されるのは、「わざわざ聴覚障害を持たされた子供」だけである。夫婦の絆が絶対的なもので無い以上、親の意思で子供を

不利なほうへ改造するのは正しい行為ではないはずだ。そしてまた、マルタとジョフの行いは、子供の所属するコミュニティを

生まれる前に限定してしまっている。可能性を敢えて狭める方向へ産み分ける事は、ハンチントン舞踊病を回避するための産み分けと

異なり、非常に不自然なものに映る。

 

 こんな事を議論しているうちに選挙の開票速報が出始めたので、パソコンを立ち上げてニュースをあちこち巡る。

自民党の大敗。大物がバシバシ落選し、壊滅的に議席数を減らしたようだ。その一方で民主党の記録的な躍進。政権交代。

政治というデリケートな問題について確かな思考を持っているわけでもないので、そのことの良し悪しをここで書く立場に僕は無いが、

ただ一つ言えることは、今回のメディアの報道姿勢はあまりにも偏っていたのではないかということだ。とくに読み間違いを巡る報道。

公の場で読みを間違うことはもちろん良いことではないけれど、果たしてあそこまで騒ぎ立てるほどの問題なのだろうか。

子供のように読みの間違いを上げ足取って指摘するぐらいなら政策論争の時間を一分でも多く取った方がよほど有益ではないのか。

(ただ、失言や読み間違いに対する対策が余りにも遅かったことは確かだ。読み間違い自体は大した話ではないが、メディアが

過剰に騒ぎ立てる流れになってしまった以上はもっと対策する必要があった。そして自民党敗北の根本の原因は

首相の能力如何の問題以上に、党内のバラつきや内紛を国民に知らしめてしまったことにあると思う。)

メディアの報道だけでなく、「口が曲がったやつに政治を任せていていいのか」などと発言した某議員なども僕は心から軽蔑する。

口の角度が政治と何の関係があるのか説明してみろと言いたい。いっそ議員をお辞めになって、『口の角度と政治体制の関連』とかいう

トンデモ本でも書いて、Amazonで限りなく☆0に近い評価を貰ってボコボコに叩かれればいいと思う。

 

 まあとにかく、今回の政権交代は一つの政治的パラダイム・シフトと呼ぶに相応しい大事件であろう。

だが肝心なのは政権が交代することではない。民主党のもとで、どのような施策が展開されていくのか、どのような日本が作られて

いくのか、そしてメディアとどのような関係が構築されていくのか注意深く見守りたいと思う。

 

 深夜にはサイバネティクス・システムについて勉強して関連書籍をリストアップする。

パソコンを打ちながら、Amazonで買って届いたばかりのTargusのCooling Podium CoolPadの使いやすさに感動。

万年筆について熱く語れる先輩である機構のHさんが使っているのを見て買ってみたのだが、予想以上に使いやすい。お薦めです。

関連書籍のいくつかをノリで注文してしまったりパーフェクトソルフェージュの課題をいくつかやったりしたあと、朝6時頃に布団にダイブ。

台風が接近しているらしく、窓に打ち付ける雨の音がよく聞こえる。この音を楽譜に起こすと凄い変拍子の譜面になりそうだ。

 

 

レポート・ラッシュ

 

 民法(法Ⅰ)のテストが終わった。「隣人訴訟判決について10行から15行で、指定語句に下線を引いた上で論述せよ。」

という問題があって、何となく東大入試の世界史第一番を思い出した。入試のとき、下線を引くのを忘れていないか妙に気になったのを

覚えている。しかも本番の解答用紙のマス目はかなり小さいので、僕のように悪筆かつ字が大きい人間には、このマス目が

最大の難関となった。しまった間違えた、と思って一行消すと、上の一行や下の一行まで消えてしまう。これに対処するため

ペン型の細い消しゴム(TOMBO MONO ZERO)を直前期になって購入した。この消しゴムによってかなり助けられた感がある。

国語の解答欄にも有効なので、東大入試を受けなきゃならない人にはお勧めです。

 

 そんなわけで一つテストが終わったので、次のマルク・ブロックとアナール学派についてのテストまでは

山のように溜まっているレポートを書いていくことにする。各レポートのテーマはだいたい決まった。

記号論はバルトの「神話作用」に依拠して、デノテーションとコノテーションの概念から現代のモードを分析するというテーマで

書くつもりだ。基礎演習で書いたテーマを発展させ、見方を少し変えた内容である。

表象文化論はパフォーミング・アートについてであれば何でも良いそうなので、趣味に走った内容にしてみようと思っている。

タイトルだけは先に決めた。「カルロス・クライバー、舞踊的指揮と指揮的舞踊」というタイトルである。中身はまだ全く書いていない(笑)

生権力論は以前書いた「マスクと視線の生政治」というテーマで、TONFUL騒動について生権力・生政治の観点から分析する。

ついでに少し前にここに挙げた(「生命倫理会議」というエントリーで)「臓器移植法A案」をビオス/ゾーエーの観点で捉えてみる、

すなわち「A案が極めてゾーエー的な内容である」という事もこのレポートに入れようと思っていたが、某女帝に

「その内容で書こうと思ってたからやめて」と言われたので大人しくやめておくことにしよう。

美術論は年代の限定がキツイため、下手をすると扱う画家がみんなと被ってしまう。有名どころは大抵被るだろうと読んで、

昨年出会って衝撃を受けたマリー=ガブリエル・カペの自画像で書くつもりだ。この女性はほとんど無名の人だが、「自画像」の魅力は

凄いものがある。輪郭がどうだとか、眼が綺麗だとかを超えて、「美への自信」が感じられる。一度見ると忘れられない。

あと、神道についてのレポートを書かねばならないのだが、こちらのテーマも何とか決まった。

神道を語る上で外せないであろう、「雅楽」について比較文化論的に書く。(ただし時間が無ければ諦めるかもしれない。)

「雅楽」について調べると、面白い事が大量に出てくる。西洋の音楽との比較だけでも十分面白いし、その性質からして

宮廷文化史とも関わっているから、「雅楽」的なものが伝播した地域の宮廷文化史・王朝史を比較するとそれぞれの特質が見えてくる。

 

 話は全然変わるが、先日、AKGのK-702というヘッドフォンを購入した。定価の30パーセントという超破格値でゲット。

姉妹機のK-701(やたら売れているらしい。アニメ「けいおん」で、あるキャラがつけていた事が理由だそうな。)と違ってシックな色合い

かつケーブルが取り外しできるようになっている。購入当初は音がやや曇っていて、値段ほど音場に拡がりが感じられなかったが、

しばらくエイジングしていると音場がどんどん広がって、高音の抜けも素晴らしいものになった。楽器の位置がはっきり分かる。

前に使っていたヘッドフォンATH-A900と違ってオープンタイプであるから音漏れは盛大だが、そもそも自宅でしか使わないし、

オープンタイプの良さが存分に感じられるものなのでこれで十分だ。K-702はフルオーケストラにも合うけれども、小編成の室内楽的

な曲にこそ、その真価を発揮しているように思う。ピアノ・トリオにも最適だし、編成の小さなコンチェルトなんかも素晴らしい。

特に、これで聞くハイドンのピアノ協奏曲は絶品だ。今度これを振る事になるかもしれないので、今日はスコアを眺めつつ演奏者を

取り換え取り換えひたすらリピートして聞いている。おかげでレポートが全然進まないが、アイデアはいつもこのような時間から

生まれるものなので、それでいいのだろう。Und die Ideen? の答えはlange Weile、そしてLangweileなのだから。

 

  

生命倫理会議

 

 という会議がある。東大でも教えていらっしゃる小松先生や、僕が師と仰ぐ金森先生らが所属している、

生命倫理に関する議論にコミットする団体である。特に臓器移植法に関して先日記者会見を行ったので、耳にされた方も多いだろう。

生命倫理会議の総意として、臓器移植法A案可決に対して反対の立場をとっており、この主張には僕個人としても全く賛同出来る。

臓器移植A案を端的に言えば、「脳死は人の死」と認定し、ゆえに「脳死になった際に臓器提供するかしないかをはっきりして

いなかった人からは家族の承諾があれば臓器提供を可能とする。以上より、臓器提供の年齢制限は撤廃される。」というものだ。

この案には多大な問題が含まれていることを生命倫理会議は主張している。詳しくはhttp://seimeirinrikaigi.blogspot.com/を

参照して貰えば良いと思うが、とりわけ、「人の生死の問題は多数決に委ねるべきではない」という小松先生の言葉は重い。

 

 また、このページから金森先生の記者会見動画を見る事が出来る。

わずか二分ほどの時間、慎重に言葉を選んでいつもの半分ぐらいのスピードで話される先生の頭にあったのは、

ジョルジョ・アガンベンが述べるビオスとゾーエーの議論、そしてフーコーのビオ・ポリティーク概念だったのではないか。

(アガンベンの「ホモ・サケル」第六節には、脳死に関する言及が見られることにも注目すべきだ)

A案は人の死生観や「最後の瞬間」への認識を変えてしまう可能性がある、という言葉には、ビオスにゾーエー的なものが

侵入してくること、生政治が強力に発動されることへの危機感があるように思う。

人はあくまでも「伝記の対象となる可能性」や「特定の質」を持った存在、ビオス的な存在である。

もちろん「カタカナのヒト」=「ヒトという種」というゾーエー的な意味合いを我々は内に含んでいるだろうが、我々がそれを意識することは

ほとんど無いと言ってよい。いわばゾーエーは悠久の大河であり、ビオスはそこに浮かぶ泡、一瞬一瞬周りの風景を映し、変化させ、

そしていつしか消える泡である。しかし、人の生の本質はこの泡、ビオスにこそある。

このようなビオスとゾーエーの概念を今回の臓器移植法A案に適用するならば、この案がある意味でゾーエー的な案である事が

分かる。個人の意思を勘案しないことはいわばビオスの排除であり、ゾーエーの管理ではないか。

脳死を一律に人の死と認定する事で、個人の意志とは無関係に臓器が提供されてしまう。この定義においてビオスを剥がれた

ゾーエーたる「脳死」は「生きるに値しない生命」という概念との距離を近づける。

誰かを「生かす」ための措置が、誰かを確実に「殺す」ことに繋がっている。

 

 

 このような事をぼんやりと考えながら、(僕の浅い理解では根本から間違っているかもしれない。だがいずれにせよ、臓器移植法を

巡る政府の行動が「生政治」そのものである事は確かだ。)獣医学のレポートを書いた。

取り上げたのは「動物の脳における性差」と「天然毒の研究と創薬」と「ペットとヒトとの新しい共存」の三つ。

書くうちに詰まってきたので、さっぱりしそうなBastide de Garille VdP d’Oc Chardonnay Cuvee Fruitee を飲んだ。

Bastide de Garille VdP d'Oc Chardonnay Cuvee Fruitee 2007。1000円ちょっとのクオリティとは思えない美味しさである。グラスはSCHOTT ZWEISEL 社のDIVAシリーズの白。何とも艶やかなフォルムだ。

 

合わせたのは意表をついて「そうめん」である。

氷をゴロゴロ入れてキンキンに冷やし、このワインに合うようにめんつゆを

作る。合わせて厚焼き卵を作り、これも一緒に食べる。ふわっと広がる砂糖の

甘みと、そうめんのさっぱりした味、そしてライチのようなフルーティーさと

まろやかな酸味のあるワインとがあいまって食が進む。

日本とフランスの素敵なマリアージュ、生きてて良かったと思う瞬間である。

 

時計を見るともう夜中の三時。週末に力を充填したので、また一週間

頑張れそうだ。とりあえずは明日のソフトボールに備えて寝るとしよう。

 

 

 

アイデアが湧くのをひたすら待ちつつ、色々読む。

 

 昨夜からずっと、五月祭でクラスが出す模擬店の看板デザインを考えている。

以前Fresh Start用の立看板を作ったときにも感じたことだが、ディスプレイよりも遥かに形状が大きく、そして横長のものを作ろうと

するとイメージがなかなか湧かない。バランスなどを想像しづらいのである。

それだけではなく、今回は店名が非常に難しい。「焼き鳥屋 とぅるてるたうべ」と言うのだが、この「とぅるてるたうべ」という文字が

曲線だらけで、なかなかスタイリッシュにならない。カッコよく背景を作ったとしてもその上に「とぅるてる・・・」と載せると、どうしても

脱力感に襲われてしまう。かといって、曲線を生かした可愛らしいデザインにして、ついでに端に鳥のイラストでも載せようもんなら

「焼き鳥」の字と相まって、「・・・この鳥が今から焼かれるのか。」 と妙に生々しくなってしまう。どことなく吉田戦車っぽいシュールさ。

これは困った。いっそレトロな感じにしてみようかなあ・・・。

 

 看板の締切が迫っているので詳しく内容を書く余裕が無いが、とりあえず 『古代天皇制を考える』(講談社,2001)と、

唯川恵『ベター・ハーフ』(集英社文庫,2005) 、それから『国家史』(山川出版社,2006)を読了。この三冊を並べて書くと変な感じだ。

『国家史』の第二章で「陣定」について、「注意すべきなのは下位の人から順に全員が意見を述べる慣行である。上位の高次の権力を

もつ人から発言したとすれば、下位の者は当然それに影響されるだろう。下位の参議から順に全員が判断を述べ最後に大臣が発言

する形式は、民主的な会議の運営方式であり、公卿各人の自主判断を重んじる方式である。」との一文がとても印象深かった。

 

なお、昨日の金森ゼミでネグリの生政治論について学んだことから、三年前に読んでイマイチ理解できなかった

『帝国 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(以文社,2003)を再読しはじめた。

一年の間にフーコーとドゥルーズを集中的に読んだことで、浪人中よりはこの本を理解できるようになった気がしている。

 

 

『病魔という悪の物語』(金森修 ちくまプリマー新書,2006)

  
 実在したチフスキャリア(健康な保菌者)であるメアリーを巡る話。
メアリーが隔離されたのは、彼女がチフスキャリアであったからだけではなく、社会的な背景があった事を説く。
ここにフーコーの議論を重ねたとき、すぐさま生権力論が想起される。
「正常」という状態を作り上げ、個人を「正常」な方向へ生かし、時に「正常でない」個人を排除する力学。
bio-politiqueあるいはbio-pouvoirを説明するための導入には最適な一冊であろう。
著者がゼミの教科書に指定したのも頷ける。

  
 僕は今、この本の筆者である金森先生のゼミに参加している。このゼミ(というより授業に近いが)は本当に良い。
今まで受けた授業の中で最も知的興奮を覚える。ニ時間あまりノンストップで手を動かしたくなる
(「動かさねばならない」、ではない。「動かしたくなる」のだ。)授業は、現実問題として大学においては珍しいだろう。
それは扱う内容が個人的に関心のあるフーコーやアガンベンといった思想家の思想にまつわるからだけではなく、
金森先生の語りが絶妙であるからだ。知識がとめどなく溢れ出す。しかもきちんと論理立っている。

 前回のゼミでは、フーコーの生権力論が応用された例としてナチスにまつわる問題を扱った。
書き始めると凄い量になってしまうから詳しくは別の機会に譲るとして、一つだけ前回の授業で学んだ事を書くにとどめる。
 

 なぜ、ナチスはあれほどまでのユダヤ人を殺し得たか。それには、虐殺の手法の変化を直視する事が必要である。

 
【当初】
突撃隊EinsatzGlupenにユダヤ人を集めさせ、森の方に連れて行き、先に掘っておいた穴の前に座らせて後頭部を打ちぬく。
そして穴に落とす。この方法で一日300人あまりのユダヤ人を虐殺した。しかし、これはまだ原始的な手法である。

 
【ポーランド侵攻期】
T4(ティーアガルテン四番地)作戦あるいは動物園作戦と呼ばれる手法が取られた。
ポーランドの重度の精神障害者を集めてきて収容する。夜中に患者の就寝している病室に一酸化炭素ガスを充満させて殺す。

ここで「安楽死」という概念が生まれる。つまり、重度の精神障害者は「生きるに値しない命」だと考えられ、生きるに値しない命は
「人道的理由から」奪ってもよいものと考えられた。これがいわゆる「Mercy Killing/Gradentod 慈悲的な殺し」の思想的基盤となる。
 
(1895  Adolf Jost “Das Recht auf den Tod” 「治療し得ない精神障害者は国家によって殺しうる」)
(2001 Adolf Hoche, “Die Freigabe der vernichtung lebensunwerten Lebens”  
直訳では、「生きるに値しない命を殺すということについての解除」。邦訳は「生きるに値しない命とは誰のことか」2001年)

 
ここに至って、ナチスは原始的な手法で殺していた初期と異なり大量殺害のノウハウを獲得するに至る。

 
【ユダヤ人へのT4作戦転用】
T4作戦で用いた手法、すなわち毒ガスを用いた大量殺害の手法をユダヤ人に転用する。
この手法では、「人が人を目の前で撃つ=その手で殺す」という作業が必要ではなくなる。集めて、部屋の外からスイッチを押す。
これは極めて合理的、系統的に殺しを行う手法である。ここに、銃で命を奪っていた頃とは決定的に異なる状況が生まれる。
すなわち、人を「平常心に限りなく近い状態」で殺すことが出来るようになった。極限状態になることなく、平常心に近い状態で殺しを行う。
いわば「事務的」に殺しを行う事が可能になったからこそ、ナチスはあれほどまでのユダヤ人を殺し得たのである。
(これがナチスの行った事で一番許し難い事である、と金森先生はおっしゃった。平常心で殺す状況が生まれたことから、ナチスの中には
「死体から金歯を抜きとる」という行為までが起こる。これが如何に酷い行いであるか。人を人とは見ていない!)
 
 
 他には
「ナチスに医者があれほどまでに協力したのは何故か。」
「ナチスの健康論とは何か。(決してナチスの時期は知的停滞期ではなかった。)
「ナチスの〈血〉と〈水〉に根ざした大地の思想と肉食への敵意の関連はどこにあるか」
「人種衛生学Rassenhygieneとは何なのか」などを学んだ。
近日中に理解したところを纏めてみたい。昨年より精読を続けている佐々木中 『夜戦と永遠』(以文社、2008)と合わせて、
フーコーに関する知識と理解をニ年の間に小論として組み立てる事が出来れば、と考えている。