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Le courage à la vérité

 

これであって、これ以外無い。

月がたくさん浮かんでる!

 

月がたくさん浮かんでる!

電気照明が都市に展開しはじめた120年前のパリでも、人々はそんなふうに思ったのだろうか。

深夜二時。修士論文の執筆で加熱した頭を冷やしに外へ出て、人気のない街に点された街灯を見上げながら、そんなことを考える。

大通りの奥へ向かってずっと伸びて行く街灯。球形をした光源がぽつりぽつり並んでいて、その先には本物の月が浮かぶ。

 

 軽やかな空気のなか、星からガス灯にいたるまで、すべてが明るかった。空にも街にも明かりがいっぱいだったので、闇までが輝いているようだった。光きらめく夜は、太陽がいっぱいの昼間よりもずっと楽しい。

ブールヴァールでは、カフェが熱気でいっぱいだった。人々は笑ったり、そこらをうろうろしたり、飲んだりしていた。おれは劇場に入った。ちょっとの間だったが、どこの劇場だっただろう?わからない。中があまりに明るかったので、いやになって外に出た。二階桟敷席にかかるけばけばしい光や、巨大なクリスタルのシャンデリアの人工的な輝き、ランプの明かりの行列などのショックで、少し気が沈んだ。シャンゼリゼに着くと、カフェ・コンセールが木の間ごしに火と燃える劇場のように見えた。黄色い光を浴びたマロニエの木々は絵に描かれたようで、光を発する樹のようだった。あまたの電球は蒼く輝く月がたくさんあるようでもあり、空から降ってきた月の卵のようでもあり、生きた、不思議な真珠のようでもあり、その聖なる明かり、神秘的で堂々たる明かりの下で、汚らしくて卑しいガスと色ガラスの花飾りを圧倒していた。

― ギ・ド・モーパッサン「夜」(『モーパッサン短編集』所収、山田登世子訳、ちくま文庫)p.287,288

原文はGuy de Maupassant, Contes et nouvelles,tomes II, «Les Nuits» Paris, Gallimard, 1979. P. 945 ―

 

「光きらめく夜は、太陽がいっぱいの昼間よりもずっと楽しい」(Les nuits luisantes sont plus joyeuses que les grands jours de soleil.)

1887年に書かれたこの一節を呟きながら、月の冴えと空気の鋭さに冬を思う。夜明けまであと少し。

 

同じレゾンで。

 

修士論文をひたすら書き進めて、やや朦朧とした頭で大学院のゼミに出る。

あと数ヶ月で退官される大先生は十五分遅れて教室にいらっしゃる。

前触れなく唐突に読み上げられたPhilippe JaccottetのTruinas : le 21 avril 2001に、直ちに頭が覚醒してゆく。

「雪」と「言葉」をめぐる一節に涙しそうになる。ジャコテの言葉の強さ。引用されるヘルダーリン。そして、それを読み上げるこの先生の言葉の力。

言葉の力を信じ、言葉の力を引き出し、言葉の力を体現することが出来る。そういう人がどれだけいるだろうか。

 

夏との別れ

 

L’automne, déjà !

ランボーのAdieuの冒頭を読み上げてから講義に入る駒場の大先生。

おそらくは、その人にとって自らの世界に入る呪文のような役割をしているランボーの一節。

聞き慣れた声。しかし僕は聞いた。そこに、いつもとは違った震えが宿っていたことを。

ただの秋の訪れではない。その全人生における秋の到来であり、長かった夏との別れを宣言するものだった。

 

Oui l’heure nouvelle est au moins très-sévère.

それは大先生の最終講義の初回だった。

46年間の駒場の生活は教えたというより学び続けたという思いがしている。前期課程向けに最後の講義をして駒場を去りたい。

いつものように即興で印象的な言葉を紡いで行く先生に、広い教室を埋めた学生たちが静まり返る。

僕にとっても前期課程向けの講義に潜るのは久しぶりで、周りの若い熱気に気圧されそうにもなる。

 

向けられる問いは我々に対してではなく、先生自身に向けられたものだ。問いを自分自身に向けて、先生は我々の瞳の前で戦い、考える。

問いの中に、一緒に読ませて頂いたボードレールやミシェル・ドゥギーが顔を出す。

ランボー、ドゥルーズ、ナンシー。そして驚くべきことにコルトレーン。今日の変奏の行き着いた先はAfter the rainだった。

Ballade(バラード)であってBalade(逍遥)、これは授業ではなくある種の降霊術であり、儀式だと思うのだ。

師の語りに何が宿るのか。出来事が生成される瞬間を目撃し、共有させて頂けることを幸せに思う。

 

 

 

 

 

 

 

過去の再読

 

休学中にここに書いた文章を読み返す。三年前だ。

あのときのような真っ直ぐな決意を持った文章を書くことができるか?

あのときの溢れんばかりの宣言に応える強度を今の自分は持っているか?

あのときから周りの環境も、自分の年齢も随分と変わってしまった。

三年のうちに、後戻りの出来ないところまで来てしまったことを実感する。

 

けれども。一瞬の躊躇を挟みつつ、僕は三年前に答えるだろう。

これが本望だ。

 
 

三本の指揮棒

 

フィリピンで一ヶ月続いたコンサートツアーが終わったあと、セブ島にあるSeven Spirit音楽教室の子ども達に、僕の使っている指揮棒を三本渡した。

最初から渡すつもりでいたわけではないのだけれども、二月に訪れた時に指揮を教えた子どもと、今回の指揮者体験コーナーで見事な指揮を披露してくれた子たちにせがまれて譲ってしまった。

 

指揮棒は単なる棒に過ぎない。これで弦をこすっても音は鳴らないし、息を入れる場所もない。一人で振り回したって何にもならない。

それでは一体、指揮棒とは何か?もちろん指揮棒を持つことによって生まれる技術的なメリットというのは沢山ある。

しかし正直なところ、これが無くたって指揮することはできるし、持たない指揮者だって沢山いる。

 

けれどもやはり、指揮棒を持つということは、指揮者として認識されるということだ。それは技術というよりむしろ精神に関わっている。

音の出ないものを用いて、いかにして音を作っていくか。棒を手にした子どもは、それが音が出ないものであるからこそ、そう考えるに違いない。

ステージの上で唯一、みずから音の出ないものを持って、しかし最前列に立って大勢を導いて行く。指揮棒を取るということは、そういう「勇気」を表すものだと思うのだ。

 

 

三本の棒を渡すときにふと考えた。

三本というのは、とても良いな。それは過去と現在、そして未来だ。

大袈裟かもしれないけど、三本を渡す事によって、二月・九月と一緒に過ごした時間を思い出しながら、その先を、未来を指揮してほしいと思ったのだ。

 

次にセブを訪れるのはいつになるだろう。

演奏会の終わったステージで、即興演奏をはじめる奏者たちに手にしたばかりの棒を振り回し、「ほら!」と嬉しそうな顔をこちらに向ける子どもたち。

いつまでもその勇気と笑顔を忘れないでいてほしい、と心から祈った。

 

 

未来を預ける

地元礼賛

 

地元で30年続く定食屋さんがランチメニューを出していたので、ふらりと入ってみた。

夜には何度かお世話になっていたのだけど、昼は初めてだなあと思って聞いてみると、なんと僕がランチ第一号だった。

 

ずっと通っている常連さんたちも30年の間にお年を召されて、「夜に来るのは大変になっちゃったけど、食べたいんだよなあ」という声があったらしい。

それに応える形で今日からランチを始められたそうだ。ご夫婦だけでやっていらっしゃる小さなお店だけれども、地元の人に愛されて長く続いてきたのだなと感動してしまった。

 
 

静かな店内に厨房でハンバーグをこねる音が聞こえてくる。

この一つ一つの仕草に30年の色々が詰まっているのだ、と物思いに耽るうちに、「来たよ〜!久しぶり!」と次々に白髪の常連さんがいらっしゃって、お店が賑やかに。

思いがけず過ごさせて頂いた温かい時間。こういうお店と人があるからこそ、僕はこの街を愛する。