July 2014
M T W T F S S
« Jun   Aug »
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

蓮の美学、覚え書き。

 

【周敦頤(1017-1073)「愛蓮説」】

水陸艸木之花、可愛者甚蕃。

晋陶淵明独愛菊。自李唐来、世人甚愛牡丹。

予独愛蓮之出淤泥而不染、濯清漣而不妖、中通外直、

不蔓不枝、香遠益清、亭亭浮植、可遠観而不可褻翫焉。

予謂、菊花之隠逸者也、牡丹花之富貴者也、蓮花之君子者也。

噫、菊之愛、陶後鮮有聞。蓮之愛、同予者何人。牡丹之愛、宜乎衆矣。

水陸草木の花、愛すべき者甚だ蕃し。

晋の陶淵明、独り菊を愛す。李唐自りこのかた、世人甚だ牡丹を愛す。

予独り蓮の汚泥より出でて染まらず、清漣に濯はれて妖ならず、中通じ外直く、

蔓あらず枝あらず、香遠くして益々清く、亭亭として浄く植ち、遠観すべくして褻翫すべからざるを愛す。

予謂へらく、菊は華の隠逸なる者なり。牡丹は華の富貴なる者なり。蓮は華の君子なる者なりと。

噫、菊を之れ愛するは、陶の後、聞く有ること鮮し。蓮を之れ愛するは、予に同じき者何人ぞ。牡丹を之れ愛するは、宣なるかな衆きこと。

 

【范成大(1126-1193)「州宅堂前荷花范成大」】

凌波仙子靜中芳 也带酣紅學醉粧

有意十分開曉露 無情一餉斂斜陽

泥根玉雪元無染 風葉青葱亦自香

想得石湖花正好 接天雲錦畫船凉。

 

【李白(701-762)「採蓮曲」】

若耶渓畔採蓮女 咲隔荷花共人語

日照新粧水底明 風飄香袖空中挙

岸上誰家遊冶郎 三三五五映垂楊

紫騮嘶入落花去 見此踟躕空断腸

 

G.Mahler(1860-1911):Von der Schönheit(Das Lied von der Erde, vierter Satz)

Junge Mädchen pflücken Blumen,
pflücken Lotosblumen an dem Uferrande.
Zwischen Büschen und Blättern sitzen sie,
sammeln Blüten in den Schoß und rufen
sich einander Neckereien zu.
Gold’ne Sonne webt um die Gestalten,
spiegelt sie im blanken Wasser wider.
Sonne spiegelt ihre schlanken Glieder,
ihre süßen Augen wider,
und der Zephyr hebt mit Schmeichelkosen
das Gewebe ihrer Ärmel [...]

夏は来るのだ。

 

 

Da gibt es kein Messen mit der Zeit, da gilt kein Jahr, und zehn Jahre sind nichts, Künstler sein heißt: nicht rechnen und zählen; reifen wie der Baum, der seine Säfte nicht drängt und getrost in den Stürmen des Frühlings steht ohne die Angst, daß dahinter kein Sommer kommen könnte. Er kommt doch. Aber er [...]

ひとりで。

 

夏は吹奏楽の季節だ。また今年も、はじめての中学校からお声がけ頂き、吹奏楽指導をさせて頂いた。

指揮する曲は、指揮を習い始めて間もない頃、吹奏楽指導へ赴く師匠に同行させて頂いたときの曲だった。

あのとき僕は、言葉なしに棒だけで音楽をがらりと変えてしまう師匠の凄みを、そして指揮という芸術の恐ろしさを目の当たりにした。

その瞬間のことを思い起こしながら、僕はいま、ひとりで中学校への道を歩く。この夏はあの夏よりも暑い。

時間が経ったのだ、と唐突に思う。だがしかし、過ぎた時間を惜しむことも、過ぎてしまったものに慌てることもしまい。

 

四楽章

 

1.名前をつけるとすれば、それはDevenirであり、L’airということになるだろう。

そしてこれこそが固有の時間と空間-そして音-を作り出す決定的な何物かに直結している。

 

2.芸術家は想像力が全て。湧き上がる想像力に対して、練成した技術で応えていく。その順序が逆であってはならない。

リハーサルののち、斎藤秀雄の指揮で弾いていた、という偉大なヴァイオリニストの先生がぽつりと語った言葉に震える思いがした。

 

3.夢を諦める瞬間がなぜ来るのか。それは夢の可能性が現実の重さに屈服するからだ。

一年前の自分は、現実をはっきりと見る事無く、それでいて、なんとかして現実を納得させてやろうと奮闘していた。

今は違う。襲いかかってくる現実を認識してもなお、凪いだ心で、自らの夢の持つ可能性を信じることができる。だから、もはや動揺することはない。

 

4.見出したものは、全て一言で表すことができる。それは「愛する」ということだ。

忘却でも赦しでもない。ただ「愛する」ということなのだ。

 

結晶の精神

 

リルケと世阿弥とコクトーが、同時にきっかけをくれた。

ここ数週間、いや長く見れば一年半にわたる負荷を経て、そしてまたここ数日の「文字」で座禅を組むような時間を経て、天に穴が空いた。

それは言葉にならないものだけれども、明確に違う次元なのだ。

 

海の微風が静かに吹く、嵐のあとの境地。

無関心とは違って凪いでいる。文字通り波風立たぬ平面でありながら、再び嵐を巻き起こそうと思えばそうすることもできる。

細かいことがどうでも良くなるような大きな海、それでいて、無限に細やかな波紋を刻み付けることもできる海。

明鏡止水、水鏡無私。水鏡無私,猶以免謗,況大人君子懷樂生之心,流矜恕之德,法行於不可不用,

おそろしく均衡の取れた領域が広がる歓待の空間。この延長上に目指すべき境地があることを確信する。

ここからスタートして、精神の強度を高めていくのみ。

 

結末

たとえばそれは、ある種の失恋に似ている。

一年間愛し続け、あの美しい木のホールに響かせることを夢見続けた曲が、直前になって演奏できなくなった。笑顔を続けることが出来なくなった。

けれども演奏者の皆さんが個別にメールを下さる。少ない人数でも、条件の整わないリハーサル環境でも、何とかできる事をと思って奮闘し続けた一年間だったが、

僕のやって来た事は間違いではなかった、と少しだけ安心する事ができた。それだけでほんの少し、救われた気持ちになる。

一年間かけてゆっくりと、ゆっくりと、ようやく心が繋がりはじめたのに。ああ、あの人たちと一緒にステージに立ちたかったなあ。

 

Fragment

 

Ein Kunstwerk ist gut, wenn es aus Notwendigkeit entstand. In dieser Art seines Ursprungs liegt sein Urteil: es gibt kein anderes.