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ヴィラ=ロボスよ、駒場に響け。

 

いよいよコマバ・メモリアル・チェロオーケストラの本番を迎えた。

わずか30分の演奏時間、場所もいつも授業で使っている教室で響きも期待出来ないとはいえ、本番は本番。

出来る限りのものを出しに行く。忙しさにかまけて広報も大してしなかったのに多くの人が興味を持って下さったようで嬉しい限り。

 

師匠が愛したこの曲を、同じようにして自分が取り上げて実際に演奏出来る事が幸せでならない。

ヴィラ=ロボスよ、ブラジル風バッハ一番よ。師匠の棒には遠く及ばないけれど、我々の若いエネルギーと引き換えに、

サヴダージに満ちて駒場キャンパスに朗々と響け!

 

 

ひとりの時間

 

音楽は楽しい。だが、音楽を楽しく出来る環境を整えることは大変だ。

指揮者はリハーサルでも本番でも、常に自分の最高の状態で指揮台に立たなくてはならないし、

譜読みの段階でも、冷静に頭を働かせ、楽譜に全エネルギーを賭して向かい合う必要がある。

だが、現実には様々な要素が僕を惑わし、揺らす。まっぴらだ。一人静かに楽譜だけ抱いて孤独の中に沈み込み、

誰にも何にも邪魔されずに没頭することが出来ればどれほど良いか。

 

現実が襲いかかる。けれども、何があっても冷静に、そして笑っていなければならない。

立ち止まって溜め息をつく時間はない。

 

 

Spread (邦題:「愛とセックスとセレブリティ)

 

Spreadという映画を観た。邦題は「愛とセックスとセレブリティ」というもの。

端的に言って、感想を書く時間が勿体ないぐらいつまらない作品だった。

セックスシーンの描写も俗だし、台詞回しも平凡、ラストの作り方も露悪的!

主役の男性(アシュトン・カッチャー)のファッションが好きなことと、途中で出て来た女優のスタイルが素晴らしかったこと以外何ら記憶に残らない。

同じセックスを描くにしても、「ベティ・ブルー」のような作品での描き方とは大違いだ。なんという単調さ!!

 

 

 

 

コマバ・メモリアル・チェロオーケストラの第二回リハーサル

 

駒場祭三日目、11月27日に指揮するコマバ・メモリアル・チェロオーケストラの第二回リハーサルを終えた。

「チェロオーケストラ」といっても、中身はチェロ八本。オーケストラの人数には程遠い。しかし、八本のチェロの音が共鳴すると、

「オーケストラ」としか言い様のない、凄まじい深みのある音が鳴る。

 

演奏するヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ一番」は、チェロにとって屈指の難曲として知られ、アマチュアではちゃんと演奏するのは極めて難しいとされている。

今回のメンバーは全員アマチュア、東京大学の学生が五人、残る三人が東京外大・多摩川大学・開成高校だ。

練習回数はわずか三回しか無いが、数少ない練習時間の中で、この技巧的にも表現的にも難しい曲にがっちり挑戦してくれていて、

指揮者としても気合いが入る。そしてまた、この曲は僕の師の愛した曲でもあるから、中途半端な演奏は絶対にしたくない。

あと一回のリハーサルでどこまで形になるか、全力を尽くしてみようと思う。

それにしてもブラジル風バッハ一番、凄まじく良い曲だ。師が言っていた。「一回ずつ違うように演奏したくなるんだよね。」と。

実際にやってみた今ならその言葉の意味するところが分かる。譜面や小節がどうでも良くなるような大らかさと流れがある。

ヴィラ=ロボスの音楽、師と同じように、生涯を通して取り上げて行きたい。

 

 

 

エリック=エマニュエル・シュミット “Odette Toulemonde” (邦題:「地上五センチの恋」)

 

Odette Toulemondeという映画を観た。

人気作家が新作を評論家にけちょんけちょんにやられ、凹んでいたところ妻に浮気され(しかもその評論家と)、絶望したところに、その作家のファン(未亡人)からの手紙が届き、

心を動かされていく、というラブストーリー。冒頭のdebtのところから爆笑させてくれるし、最後まで肩の力を抜いたまま観させてくれる一本だ。

随所に配された台詞が洒落ている。「傷つきやすいから書けるんだ。」という一言には頷かされるし、いくら売れっ子になっても大切な人に

「結局、尊敬されていないのさ!」と叫ぶところ、色々な記憶に訴えかけてくるものがある。

 

「何を手に入れても僕は幸せじゃない。自分じゃなくて他人の幸福を生きて来たからだ。」

「運命の人以外とは寝ないの。あなたは通りすがりの人よ。また出ていくわ。」

詳しくシナリオを書くことはしまい。オデット・トゥールモンドを演じるカトリーヌ・フローのどこまでも強くどこまでも柔らかく明るい物腰に心打たれる。

そして最後にふと気付いた。カトリーヌ・フローは母に少し似ているな、と。

そのせいか、病院に運ばれるシーンでは(こんなに単純なシナリオなのに)ちょっと涙ぐんでしまった。

 

 

 

 

 

広告と音楽

 

昔から「広告」に興味があった。

心を動かし、コミュケーションを作り、欲望をコントロールするもの。

しかしある日からそうした広告、とりわけ広告の仕組みや広告を語る人たちの言説に違和感を感じるようになった。

この違和感は何なのだろう?言い方は良くないが、偽善的な、というかワザとらしい感じを受けるようになったのだ。

まるで、落とし穴にハメられたあと、落とし穴の作り方を上から得意気に解説されるような気持ち悪さ。

恋に落ちてゆく過程と仕組みを第三者に「ほら、このイベントがこういうふうに君の気持ちを動かしたからだよ。」と説明されるような居心地の悪さ。

 

この問題についてある人と話していて、朧げな答えが出た。端的に言えば、そうした心に訴えよう訴えようとする行為があざといのだ。

心に働きかけるという意味では広告と音楽は似ている。「move=動く、感動する」させるものだから。だが、心に働きかけるやり方が対極にある。

もちろん全てはないが、心に波を起こして(ボードリヤール風に言えば、欲望に働きかけ)行動へと繋げさせるその仕組みを作るのが広告だとすれば、

一方で音楽(これも全てではないが、少なくとも僕が目指す音楽)は、その正反対だ。心に訴えかけよう訴えかけようとする音楽はあざとく、下品だろう。

もっと自然で、自然と心に届く。その結果として感動がある。最初っから感動を狙ってやるものではない。

 

すなわち、広告と音楽は働きかける対象を同じにしながら、ある意味で正反対の性格を持つ。

それゆえに僕は広告に惹かれ、音楽を学び始めるのとほぼ軌を一にして広告に違和感を感じ始めたのだろう。

それだけではない。広告に関わる、というのはそれだけでメタな次元、一段階高い次元にその身を置きうる。

だからこそ、僕らと同年代の学生たちが、同年代の我々を引っ掛けて落とそうとする仕組みをしたり顔で書いていることにある種の醜さすら感じてしまう。

しかもその言説が有名な広告家の言葉を借りただけであったり、見るからに書き慣れない修辞やメタファーに満ちた文章であったりする!

その上から目線(がどうしても含まれてしまう)にどうしようもない違和感を覚えるのだ。

 

昔は広告が作り上げられて行く過程や分析に興味があった。

いまはむしろ、そういう背景を見たくないなと思う。欲望を掻き立てられるなら、自然と掻き立てられたように錯覚したままでいさせてほしい。

手書きの手紙を貰って感動した後に「やっぱり手書きだと濃密なコミュニケーションを作る事が可能だよね。」なんて言われたくないし、

モーツァルトが「ほら、ここにこの和声を入れたら聴衆は感動すると思うんだよね。」なんて得意顔で話しながら曲を作っていたとしたら、興醒めだ。

 

 

 

 

 

視覚と音楽

 

ベートーヴェンのエグモント序曲を再び勉強していた。

「ああ、これは凄いな。」と思ったエグモントの演奏は三つ。

三十年前の師匠のレッスンでの演奏と、フルトヴェングラーの演奏、そしてジュリーニの1976年9月5日ライヴだ。

ジュリーニのライヴは忘れがたい一小節がある。Allegro con brioに入る前のVnのドーーーーソの部分。ジュリーニはこのソの音を弱音で啜り泣くように演奏させている。

 

ジュリーニがどう考えてここをこう演奏したのかは誰にも分からないが、少なくとも僕はこういうことだと考える。

決然としたドーーーーの音がエグモント伯爵の生き様(エグモントは力強く処刑台に向かう!)と信念を表し、

啜り泣くようなソの音が愛人のクレールヒェンの悲嘆を表す。スコアには何の指示もない。完全にジュリーニの解釈だ。

しかしある意味で、この壮絶な劇を一小節で表現しきっているように思われる。「劇的=Dramatic」という言葉がまさに似つかわしい。

オペラ「夕鶴」で知られる木下順二が『“劇的”とは』(岩波新書)という著作の中でこう書いていたことを思い出す。

 

 

ある願望があって、それも願わくは妄想的でも平凡でもない強烈な願望があって、それをどうしても達成しようと思わないではいられない

やはり強烈な性格の人物がいる。そして彼は見事にその願望を達成するのだが、それを達成するということは、同時に彼がまさにその上に

立っている基盤そのものを見事に否定し去るのだというそういう矛盾の存在。

『オイディプス王』から『人形の家』まで、すぐれた戯曲をつらぬいているものは、この絶対に平凡でない原理であるように思う。

そしてその原理こそがドラマであり、その原理の集約点がつまりドラマのクライマクスである。

(木下順二『“劇的”とは』P.62、『ドラマとの対話』からの引用部分)

 

 

ベートーヴェンがその音楽の元としたゲーテの『エグモント』はまさにそうしたドラマだ。

そしてジュリーニはそのクライマクスを輝かしきフィナーレではなく、フィナーレの前のあの弦の部分に持ってきたのだ。

進撃するAllegro con brioがまるで後奏のように響くのは、その前のあの部分であまりにも鮮烈に映像が展開するからだろう。

 

 

 

ジュリーニの演奏に留まらず、エグモント序曲という楽譜、そして音楽からは「映像」が強く立ち上がってくる。

エグモントの74小節目からのSfのティーーヤヤ、ティーーヤヤという弾力に富んだフレーズからは、馬に乗ってしなるような歩みで

進撃する様子が浮かんでくるし、続く82小節目からのザンザンッ、ザザンザンッ!という決然としたフレーズからは立ちふさがる敵をなぎ倒すような

光景が浮かぶ。だとすれば、弦楽器のボウイングもそれに近づくのではないか、と考えるのは間違いではあるまい。

 

なぜならば、生演奏が基本であったクラシックの音楽において、作曲が視覚的要素と無関係であったとは思えない。

とりわけ劇音楽はそうだろう。シナリオがまずあり、それが作曲者の頭に映像として浮かび、それを音にするのだから。

そうしたとき、沢山の人数が一斉に同じ動きをする弦楽器は、作曲者にとって具体的な映像を与える役割を果たしたはずだ。

 

私見だが、あくまでも私見だが、弦楽器のボウイングはたとえば海を駆ける船の帆、あるいは剣を振るう騎士に見える瞬間があるし、

スコアを読めばベートーヴェンにもそう見えていたのではないかと想像出来る時がある。

楽譜から映像が浮かぶ。逆もまた然り。弦の動きがある視覚的イメージを喚起し、楽譜を呼び起こす。

音楽を奏でる主体の動きから、音楽の場面としての映像が立ち上がる。

 

「劇的」とは、そういうことだと思う。

視覚が聴覚に、聴覚が視覚に。五感に否応無く訴えかけ、人を否応無く巻き込んで行く力のことだ。