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技術を忘れるぐらいになりなさい。

 

毎週恒例のプロとの試合に行ってきた。

四ゲーム終わって10ピン差以内という、何とも緊迫する展開。久しぶりに少し緊張しながらラストゲームをやり、結局プロに6ピン差で

勝つことが出来た。ギリギリの試合ではスペアショットのたびに緊張するし、ストライクが続いたら続いたで段々力が入ってしまいがち。

しかし今回はそんなこともなく、投げたい球が最後まで投げられて満足している。中国から帰ってきて以来、自分の投げる球に

「何か足りない」という状態が続いていたのだが、今回でスランプを完全に脱することが出来たようだ。

 

何が足りなかったのか、と考えてみて気付いた。結局のところ、四歩目が決定的に軽かったのだ。

僕は左利きで五歩助走だから、四歩目は軸足(=左足)にあたる。一歩目(右足)と四歩目は、助走の中でその一瞬の中に

とりわけ多くのものを含んでいる。一歩目の出し方で後が規定されるし、四歩目の踏み込み方でラストステップ(五歩目)の

力強さが決定される。ハイレブ型の投法においては、ボールを手で振るのでなく足で振るイメージを持たなければいけない。

したがって、足の運びが上手くいかない限り、ボールの下に手が入って振りほどくような感覚は味わうことができない。

 

足の運び、といっても、歩き方自体はそう崩れるものではない。前に向かって歩く、というのはもちろんそのままだ。

しかし、一歩一歩のタイミング(これが一歩一歩の重さのかけ方に繋がってくる)が繊細なだけに、ふとした拍子に狂ってしまいがち。

それでも、本来存在しないはずの一瞬の空白(手遅れ)を作りだすためには、この絶妙なタイミングがどうしても必要なのだ。

上手く「間」を作り出せると、足は前に行くのに手は後ろにあるという不思議な状態を味わえる。そして一瞬のはずのリリースが

長く長く体感されるとともに、その時に指を一気に広げることで、ボールが手のひらの下からぐいっと落ちてゆくのを感じる事が出来る。

これが出来た時のボールは明らかに勢いが違う。ツーっと高速で走って行って、加速してポケットに切れ込むように見える。

投げた瞬間、少々コースを外していても「これはいったな。」という感覚が指先に残る。エネルギーが完璧にボールに乗るからか、

投げた後には不思議と静けさすら感じる。全部の力をボールに伝えきって軽く脱力したような感覚だ。そんな時のボールは、ボールに

意思が宿ったかのように動いてくれる。

 

この調子を出来るだけゲームの早いうちから長く維持せねばならない。一度崩れると立て直すのに時間がかかる。そこが問題だ。

さらに上の世界へにいくためには、安定感と勝負どころで持ってこれる迫力が両方とも高いレベルで必要となるのだろう。そのためには

何が問題なのかを、毎回毎回考えてゆくしかない。でも、たぶん音楽もスポーツも同じで、頭で考えながらプレーするのには限度がある。

頭で考えたことを身体に写し取り、考えなくても身体がそれを実行してくれるぐらいに投げ込まないといけない。

ふと、二年前のちょうど今頃、ハイドシェックがそのことについて語っていたのを思い出す。

「技術を忘れるぐらいになりなさい。技術を忘れたとき、音楽と一体になれる。奇跡のような演奏はそんな時に生まれる。」と。

 

 

『カルメン』@新国立劇場

 

今月はカルメンを観てきました。

カルメンを知らない人は多分いないはず。あの「闘牛士の歌」を始め、どこかで一度は聞いたことがある音楽が全編に溢れています。

シナリオ的には典型的なファム・ファタル(運命の女)系のものであり、「愛 L’amour 」と「自由 La liberté」の二点を巡って

二人の男(ホセとエスカミニョーラ)と二人の女(カルメンとミカエラ)の交差する感情を描いた悲劇だといえるでしょう。

 

はじめてオペラを観に行く方にもおすすめできる分かりやすいシナリオ。そして、そこにつけられたビゼーの曲が本当に天才的なのです。

指揮者見習いとしては、いつか指揮してみたい!と思うオペラの一つ。明るいメロディにも明るさだけでなくどこか官能的な艶があり、

その一方で金管楽器の ff などは破滅的なものを予感させます。一幕の最初、弦がトレモロで入ってきてバスが「ボン・ボン!」と

低音の楔を打ち込むあたりはいつまでも忘れられない音楽ですし、二幕の最後、La liberté ! と何度も歌われる場面は本当に

何度聞いても素敵だなあと感じます。また、フルート吹きとしては三幕の前奏曲のソロも外せないところ。

挙げるとキリがありませんので全ては書きませんが、フルスコアも取り寄せて、とにかく相当に読みこんでから実演に臨みました。

 

今回はゼミ生およびフランス科の友達、私的な友達などに何人も声をかけていたので、十人ぐらいで一緒に会場へ。

アカデミックプランの恩恵を受けて今回もS席で鑑賞させてもらいました。照明が落ちて、あの前奏曲がどんなテンポで流れてくるのか

楽しみにしながら、スコアを頭に思い浮かべます。そしてやや間をとって始まった前奏曲。

・・・うーん、正直言ってイマイチです。早すぎる。カルロス・クライバーの演奏のようにゾクゾクするスリル満点の早さではなく、

ムラヴィンスキーのようにキレ味の良い早さでもなく、テンポがただ前のめりに早いだけで、しかも指揮が直線的すぎ&脱力が不十分

ゆえに、フレーズの語尾が窮屈になっていてなんとも聴きづらい。残響が次のフレーズに被さってしまっているし、休符の間にも

緊張感がない。そんなふうにとても平坦な演奏で、特に管楽器の方々は歌いづらそうにされていたこともあり、「これは大丈夫だろうか」と

かなり不安を覚えてしまいました。

 

残念ながら、一幕の子供たちの合唱(Chorus of Street Boys)では、音楽をやっていない人でも気付くほどオケと合唱がずれてしまい

ヒヤっとしましたし、工女たちの合唱(Chorus of Cigarette Girls)では、オケが歌に合わせるのが精いっぱいという感じで、La fumée

というフランス語ならではの響きを生かした空気感のある掛け合いは、あまり感じ取れませんでした。(合唱自体は結構良かったのに)

Allegro moderatoになってカルメンが入ってくるところの弦のffも平坦なffで、「カルメンがやったんだわ!」という緊迫感や切迫感、もっと

言えば狂気のようなものが一切伝わってこない。指揮者はこの部分に思い入れがないのではないか、どんどん進めて行きたいだけでは

ないのか、と首をかしげたくなります。(もちろんそんなことは無いと思いますが・・・。)カルメンの一幕での聞かせどころであるハバネラも

細かいテンポの揺らしがかえって不自然で、音色もついていっておらず、率直に言ってあまり面白くない演奏でした。面白くない、

というよりはむしろ違和感が残るといった方が正しいかもしれません。カルメンはねっとり歌おうとするのにオケの方はさっさと行こうと

するから、ぎくしゃくした感じが終始抜けていなかったように感じます。

 

一幕はそんなふうに、やや残念な演奏が全体として目立ちました。

指揮を学んでいると、指揮者の動きや振りひとつひとつが演奏者に与える効果がある程度分かります。

今回の指揮者は明らかに振り過ぎていました。緩やかで美しいフレーズを直線的な叩きや跳ね上げで振っていては、美しい音は

出るべくもありません。跳ね上げた時に手首をぐにゃぐにゃさせて調整しようとしていましたが、そんなことをやっても楽器は歌えない。

かえって分かりづらくなるだけです。指揮がいかに大切か、ということを目の当たりにさせて頂き、いい勉強になったと思っています。

 

ともあれ、ニ幕中盤~三幕になるとだいぶん落ち着いてきて、要所要所で迫力が出てきた感じを受けました。

今回いちばん凄かったのはミカエラ役の浜田理恵さん!ミカエラは立場的に微妙なキャラなのですが、ものすごい存在感を

放つ歌唱を聞かせて下さいました。この時ばかりはオケの音が明らかに変わっていましたね。

一人の演奏が全体の音を一気にがらっと変えてしまうというのは何度も見てもすごい。音だけでなく、会場の温度まで変わるのです。

 

演出はニ幕の薄暗い中に光がまたたくセットは良かったですね。あとカルメンの動きがセクシーすぎてビビりました。

あそこまでやるかという感じ。でもカルメンというファム・ファタルにはあれぐらいで丁度いいのかもしれませんね。楽しませてもらいました。

 

一幕の音楽の他にもう一点だけ残念なことがあって、それは観客の方々の拍手です。幕が閉まり始めたらとりあえず拍手する、という

お客さんが何人かいらっしゃって、余韻がかき消されてしまい、大変残念な思いを何度もしました。とくにラスト。カルメンが死んでホセが

Carmen adorée!と叫んだ後、ffでのTuttiから始まる三小節がホセの人生に、カルメンの人生に、そしてエスカミーリョの愛に

別れを告げて劇的に終わるところ。そのtuttiの部分の一小節前で幕が閉まり始めることもあって、なんとそこで拍手が入ってしまいました。

これはもはやテロです。最後が台無しになってしまいます。お願いだからあそこは我慢してほしかった・・・。

 

何だか僕には珍しく、ネガティブなレビューが多くなってしまいましたが、カルメンというオペラの楽しさを再認識することになりました。

とくに以前見た時はフランス語なんて全く分からない状態だったのですが、フランス科に進学してフランス語に日々接している

(といっても僕はドイツ語⇒フランス科なので、フランス語歴はまだ一年もありません)と、かなりの部分の単語が聴きとれて

嬉しい思いをしました。一緒に行ったフランス科の同期の友達も「けっこう余裕で聞ける。楽しすぎる。」と言っていたので、やはり

語学に触れておくと、こういう時に幸せな思いが出来るのです。連れて行ったゼミの後輩たちも語学へのモチベーションが湧いたことと

思います。みなさんがんばってくださいね。

 

なお、この「一緒にオペラを見に行く会」はこれからも大体毎月開催する予定です。

立花ゼミだけに限らず、フランス科の友達やクラスの友達など、僕の知り合いには積極的に声をかけていきます。みなさん一度オペラに

行くと抵抗が無くなる方が多いようなので、まず誰かに誘われて足を運んでみるのが大切だろうと思いますし、違うコミュニティ・学年の人

たちが顔を合わせるこうした機会は、お互いにとっていい刺激になるはずです。休憩時間にワインを呑みながら、今見たばかりの

カルメンの話を、今日会ったばかりの所属も学年も違う人とする。ちょっと文化的な時間を経験している気がしてきます。

学生割引の恩恵に預かれる間に、これからもみんなで沢山の演目を見に行きましょう!

 

 

Ninaと立花オケ(仮)

 

というイタリア古典歌曲をゼミの後輩が練習していたので、彼のコレペティをピアノでやりながら、時々フルートで参戦したりしてみました。

Ninaという曲は声楽をやる方の中ではとても有名なようで、聞くところによると音大の声楽科の課題曲にもなるらしいです。

歌詞はイタリア語で数行程度。

Tre giorni son che Nina , che Nina ,che Nina in letto se ne sta.

Pifferi, timpani, cembali, svegliate mia Ninetta ,svegliate mia Ninetta

acchio non dorma piu.

sveligate mia Ninetta, svegliate mia Ninetta, acchio non dorma piu.

というものです。「ニーナが布団からもう三日間起きてきません。どうしましょう助けて下さい!」という感じの内容なので、

実は結構深刻な歌詞だったりします。

 

楽譜は簡単ですが、この曲も結構深い!youtubeにあがっているパヴァロッティの演奏を聞いてみると、クレッシェンドのかかる部分

ではややテンポを上げて歌うことで前のめりになる気持ちを表現していますし、Pifferi,~と入るところでは休符を短く取って

畳みかけてきます。パヴァロッティの演奏を参考にして、色々とニュアンスをつけながら練習しているうちに、あっという間に三時間が

経過していました。工夫なしにやってしまうと退屈になるのはどんな曲でも同じで、色々考えて演奏することで見違えるように

曲が生き生きとしてきますね。ちなみに後日、指揮の師匠に少し見てもらったのですが、歌詞の内容を知らないにもかかわらず

師匠が振ったNinaは悲しげで、切々としていて訴えかけてくるような音であり、「どうしてニュアンスが分かるのですか?」と

聞いてみたところ「僕は歌詞を知らないけど、楽譜を見ればそう言ってるよ。」という答えが帰ってきて絶句してしまいました。

プロはやっぱりすごい。

 

それからこれを後輩と二人でやっているうちに、立花ゼミで楽器の出来る人を何人か集めて色々曲をやったら面白いのでは、

という話になったので、超小編成ではありますが、「立花オケ(仮)」を立ち上げる事にしました。ゼミ生で楽器が弾ける方、あるいは

弾きたい方はぜひ一緒にやりましょう。ゼミ生じゃないけど一緒に練習してくれるという心優しい知り合いも歓迎します。

当面の目標は、立花先生の前でお披露目することです!

DIALOG IN THE DARK に引率してきた。

 

このブログの記事の中でも、2009年6月19日に書いたものはアクセス数が常に結構ある。

「DIALOG IN THE DARKに行ってきた。」という記事がそれだ。DIALOG IN THE DARK、つまり見知らぬ人たちとグループを組んで、

視覚障害者の方にアテンドして頂いて完全な暗闇の中で一時間半過ごすイベントであり、それに行ってきた感想を書いたのが

この2009年6月19日の記事である。この記事にアクセスが多いのも当然といえば当然、なんとDialog in the darkとGoogleで検索する

と、驚いたことにオフィシャルホームページに続く順位でヒットする。僕の適当な文章がそんなに沢山の人に読まれているのかと考えると

「文章下手ですみません。」と平身低頭謝りたいぐらいだが、もしもあの記事がDialog in the darkに実際に足を運ぶきっかけに僅かでも

寄与できたならば、それはとても嬉しい事だ。それぐらい僕は、この暗闇のイベントが刺激と意義に満ちたものだと思っている。

 

立花ゼミの後輩たちにもこの衝撃を経験してほしかった。というわけで希望者を募り、集まった一年生・二年生を10人ほど連れて

再びこのイベントに行ってきた。昨年は確かカンカン照りの昼間、授業をいくつか休んで行った覚えがあるが、今年は五限の授業が

終わってから、日が沈みつつある中で外苑前に降り立った。そして熊野通り・キラー通りを抜けると、どこか神戸のような雰囲気のある

坂道に到着する。DIALOG IN THE DARKの会場はもうすぐそこだ。

 

坂道を下り、間接照明が上手く使われた地下への階段を降りながら、「ああ、もう一年経ったのか」とつい感慨に耽ってしまった。

一年なんて本当にあっという間に過ぎてしまうものなのだ。ヒトが一年間で出来る事はたかが知れているかもしれないけれど、

光のような速さで過ぎてゆく一年間の「密度」を高める事は出来るのであって、自身のことを振り返ってみても、人生を変えたと思えるような

出会いや出来事がこの一年で沢山あったし、考えてみればこのイベントもそうした衝撃的な経験の一つであったと言ってよいだろう。

入学したばかりの一年生や進学に悩む二年生にとっても、今から経験する暗闇の時間が忘れ難いものになればいいな。

 

そんなことをぼんやりと考えながら、先に部屋に入っていった彼らの背中を見届けて、僕も一年ぶりのドアをくぐる。

そこには昨年と同様、明るすぎず落ち着いた優しい空間が広がっていた。笑顔で迎えてくださる受付の方々に挨拶をして、

相変わらずふかふかのソファーに腰を下ろす。そして三グループに分かれて暗闇のツアーに向かうゼミ生たちを送り出す。

少し緊張した面持ちで、しかしどこかワクワクした表情で、彼・彼女たちは暗闇に吸い込まれていった。

 

中での出来事は、後輩たちが一人ひとり書いてくれる予定の記事に委ねよう。

僕がここに書くことは、終わってから全員でブレイン・ストーミングとディスカッションをしたことを付け加えておくぐらいだ。

(以下は我々オリジナルの楽しみ方なので、このイベントに組み込まれているプログラムではない。けれども、中々面白いものだと思う。)

 

実はツアーを体験する前の待ち時間で「《暗闇》にどのようなイメージを持っているか」というテーマで予め各自ブレイン・ストーミングを

してもらっておいた。《暗闇》から思いつく言葉やニュアンス・感情を自由に書き留めておいてもらったのである。

そしてツアーが終了してから再び、《暗闇》のイメージや暗闇で体験した中で印象的だったことをそれぞれ書き出しておいてもらった。

それをもとにして、近くのイタリアンでご飯を食べながら、各自が感じたことや他者との相違、気付きなどを巡ってディスカッションを

行った。一人ひとりの感じ方は当然異なっており、しかし共通するところも沢山あって、刺激的な議論が展開されていたように思う。

最後に、「暗闇の地図」を全員で描いた。90分過ごした暗闇がどのような構造になっていたのか、思いだせる範囲でそれぞれマップを

描いてもらったのだ。これがめちゃくちゃ面白くて、大きさ・方向・場所ともに他人の地図と情報があまり重ならない!

五感のうちのたった一つを遮断しただけでこれほどまでに人間の「共通」理解は崩れ去る。

なにが普通でなにが共通なのかなんてそこに絶対的な区切りは存在しないし、「世界」も決してたった一つではない。

人間は絶対的な存在ではなくて、偶然的なものや脆い基盤に立脚して《共通》や《ノーマル》といった概念を成立させているに過ぎない。

 

視覚以外の四感が研ぎ澄まされ、他者との精神的距離と時間が驚くほどに縮小される90分。

暗闇での時間は、人間という存在に様々な問いかけを投げる。そしてその問いが導き出す答えはつまるところ、「人間は面白い」という

シンプルでありながらも、無限の奥行きを持つ事実なのである。

 

 

『子供の情景』を振る。

 

シューマンの曲集に『子供の情景』というものがあります。

ピアノをある程度習っていた方なら一度は弾いたことがあるはず。子供の情景、と言われてピンとこない方でもこの曲集の中に

収められている「トロイメライ」を聞けば「ああ、聞いたことある!」と思われることでしょう。どれも夢見るような、風景や情景が浮かぶような

曲ばかりで、シューマンいわく「子供心を描いた、大人のための作品」とのこと。技巧的にはさほど難しくはありませんし音もそんなに

多くはないのですが、これを「音楽」として表現しようとするとかなり深い読みが必要とされてきます。

このように「子供の情景」には演奏者が表現する余地がたっぷりと残されているので、コルトーやアルゲリッチ、エッシェンバッハと

新旧を問わず様々な大ピアニストたちが独自の表現を展開して録音を残してきました。

 

僕もかつてこれを一通り弾いた(というか今振り返ってみると、「音を鳴らした」だけでした。)経験があるのですが、今度は

弾くのではなく、振っています。というのは、僕が所属している門下では、斉藤秀雄の指揮法教程の練習題が終了するとこの

「子供の情景」を振る練習をするのです。弾くのも難しいのですから、振る(=自分で音を鳴らさず、引き出す。)のはその何倍も

難しい。そして音が少ないからごまかしは効きません。テンポの微妙な揺れ、音楽の膨らみ、そして情景。そういったものを細かく細かく

棒の動きの中に込めて演奏者に伝達していかねば、「子供の情景」は真の意味で《音楽》にならないのです。

 

師匠に「ほら振ってごらん。」と言われるままに、一曲目のVon fremden Ländern und Menschen「見知らぬ国々と人々」を

振ってみて愕然としました。流れてくる音楽の何と平坦で面白くないこと!聞くに堪えないただの音の羅列!

それに対して、師匠が笑いながら「それじゃ駄目だね。こうだよ。」といって振ってくださったときに流れてくる音楽のとんでもない美しさ!

指揮台の上で文字通り言葉を失いました。夢見るようで、どこか違う世界に入ってしまったようで、繊細で詩的。振り方を見なければ

いけないはずなのに、思わず目を閉じて音楽を聞いていたくなる。こんなに素敵な曲だったのだ、と我を忘れてしまう。

振りを見ていても、ただの一瞬も同じ振り方をする小節はありません。たっぷりと余裕を持ちながら曲の中に入り込み、

しっかりと間を取りながら細かく自然にテンポや音量を動かしていくその様子は、指揮棒と生まれてくる音が見えない糸で

繋げられているように感じられるほどです。そしてこうした境地には、頭や手先の技術を用いて調整したとしても達しえないでしょう。

こうした表現の核には「自然さ」が必然的に要求されるからであり、師匠が述べるとおり、「究極的には、音楽をどう感じるかだ。」という

《感じ方》の問題なのです。

 

目を閉じれば情景が浮かぶ。そんな生ぬるいものではありません。そこで展開される音楽は、強制的に人をその情景の世界に

連れてゆく。二曲目のKuriose Geschichte「珍しい話」の冒頭のリズムが聞こえ、Träumerei「トロイメライ」の和音が空間を満たし、

Fürchtenmachen「こわがらせ」の四小節が耳に届いた瞬間、聞くものは別の世界に投げ込まれる。それほどまでに吸引力のある

音楽が、たった棒一本から生まれ出るのです。その様子は衝撃的なものであり、師匠のお手本を目の当たりにするたびに

感動のあまり何故か笑いが込み上げてきます。誇張抜きに、フレーズが変わるたびに教室の空気の温度が変わるように感じられます。

 

そんなレベルに僕はまだ達することが出来ませんが、とにかくも『子供の情景』がこれほどまでに深い曲であることを、振っているうちに

痛感しました。とはいえ、悪戦苦闘しながら朝から夜までこの曲のことで頭が一杯になる三週間を過ごしたおかげで、いくらか表現力が

身に着いたのは確かでしょう。「表現力」―そう、指揮者は表現力と伝達力をフルに発揮することが重要なのであり、そのためには型から

脱しなければなりません。つまり、型はとても重要だけれども、型にはまっている限りは音楽は音楽にならないということです。

「《型に則りながら型を脱する》なんてまるで禅問答みたい。」と思われるかもしれませんが、指揮というのはそうした抽象的な技術と

思考の積み重ね、そしてその不断の実践によって成り立つ芸術なのだと思います。こうした「分からなさ」が、ある意味では指揮の

魅力の一つであり、この「分からなさ」が生みだす面白さに、僕はどうやらすっかり取り憑かれてしまっているようです。

 

 

リンク追加と文章を「書く」こと

 

右の「ブログロール」にリンクを二件追加しました。

立花ゼミ新入生の細川さんのブログ(Die Sonette an・・・?)と、 同じくゼミ新入生の青木さんのブログ(イディオット)です。

二人とも個性的でとても好奇心の強い方々ですので、東大での生活やゼミでの活動、趣味から論考まで、これから色々と

書いていってくれることと思います。楽しみにしています。(なお、リンクは常時募集していますので、興味がある方はぜひご連絡下さい。)

 

しばらく忙しくてこのブログの更新をサボっていましたが、新入生の方を見習って僕もまたどんどんと更新していくつもりです。

「日常的なことはTwitter、考察的なものはブログに書く」という形にしようかなと考えた時期もありましたが、人文系の学問分野に足を

突っ込んでいると、テーマによらず纏まった文章を書くことの重要性を痛感することが多いので、Twitterではなくやはりブログを自分の

発信ツールの基礎に置きたいと思います。Twitterはメモには最適だし人から刺激を受けるツールとしても素晴らしいのですが、

いかんせん文体を変えてしまう。それは140文字というTwitterならではの制限が、句読点の打ち方や語尾の表現などにある程度

鈍感であることを許してくれるからです。でも論文にしろ企画書にしろ、本当に人に何かを伝えようとすると纏まった文章を書く必要が

どうしても生じてくる(コピーだってそうです。コピー自体は短くても、その背景にある思考や狙いは決して短いものではないはず。)

のであって、そうした纏まった文章を一つ書こうとしてみると、表現から改行まで色々と敏感にならざるを得ません。

 

「この表現はさっき使ったから避けよう。」「ここは改行したほうが読みやすいかな。」「この言葉ってこんな使い方で合ってたかな?」

そんなふうに次々と疑問が湧いてきます。こうした所作には、Twitterの「つぶやく」ではなく、手紙や文章を「綴る」という言葉が

良く似合います。「つづる」、この言葉を聞いて、机に向かってスラスラと筆を動かし、時に頭を抱えて悩む人間の様子が

浮かぶのは僕だけではないはずです。それは言いかえれば、思考や感情を形ある「文字」「文章」に変換しながら変換した文字に悩み、

また文字に変換しきれなかった思考や感情との差異に苦しみ、文と文の繋がりが生みだす摩擦に心を砕く様子だと思うのです。

そういったことに敏感になり、生じた摩擦や疑問を一つ一つ消化していくことによって、なんとか文章が書けるようになっていくのでしょう。

 

昔から言い古された「文章は《書くこと》と《読むこと》によってしか磨かれない。」というフレーズは、今もって至言だと感じています。

五月も今日で終わり。拙い文章ではありますが、これからも日々書きまくり、そして沢山の本を読んでゆきたいと思う次第です。