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コンサート終了!

 

先日お伝えしました、「こまば夏の音楽祭 -口笛・ピアノ・オーケストラ!」が、無事に終了しました。

準備期間はわずか三週間弱という、常識ではありえないほどの短期間で企画・練習・広報を行った今回のコンサート。

練習に先立ち、まず「ドミナント室内管弦楽団」という小編成のオーケストラを立ち上げるところから始めました。

 

東大のテスト期間が7月終わりに設定されていたこともあり、あまり人は集まらないのではないだろうかと思っていましたが、

大学や学年を超えた方々(立花ゼミの後輩である越智くんが声をかけてくれたおかげで、開成中学・高校からも何名か参加してださり、

下は中学二年生・上は大学院生という物凄いオーケストラになりました!)が集まって下さいました。

しかし本番までの練習回数でとれるのはわずか四回。全員が四回の練習に参加出来るわけでもありませんでしたし、四回というのは

アマオケにしてはかなり短い練習回数ですので、とりわけ一回一回のリハーサルの密度が求められます。指揮者としては

毎回のリハーサルに全力を傾けて、出来る限りのところまで組み立てねばなりません。

 

本番の日はあっという間に来てしまい、開場が次々と設営され、「ここは本当に東大のキャンパスの中だろうか」と思ってしまうほど

ムーディーな空間が完成。そして、予想をはるかに超える人数のお客様が来て下さいました。会場の椅子の数がギリギリで、

立ち見が出るほどでしたので、100名あまりの方々が来て下さったのだと思います。ありがとうございました。

 

プログラムは

Mozart: アイネ・クライネ・ナハトムジーク一楽章

Elgar:愛の挨拶

Poldini:踊る人形

Monti:チャルダーシュ

Debussy:風変りなラヴィーヌ将軍

Debussy:花火

Mozart:フルート協奏曲第二番一楽章(口笛ver)

(アンコール)

Villa-lobos:ブラジル風バッハ四番 前奏曲

アイルランド民謡:ロンドン・デリーの歌

 

というものです。この一つ一つの演奏を皆さんがどう思われたか分かりませんが、小品では口笛とピアノによる「踊る人形」が

出色の演奏でした。この曲の持つリリカルな雰囲気が本当によく出ていた。コンサートが終わってからもしばらく頭から離れなくなりました。

それからピアニストによる「花火」の冒頭は「一体何が起きたのか」と思うほど、会場の空気を一変させてしまうような音が

鳴っていたように思います。すごい。そしてフルート協奏曲では口笛の武田くんはしっかりと暗譜して、カデンツァを含め最後まで

見事に演奏してしまい、世界初のこの挑戦に、会場の方からも大きな拍手を頂きました。ブラボー!

 

指揮者としては、最初の静まり返った空間に響かせるアイネ・クライネはドキドキするぐらい楽しいものでしたし、

アンコールに振ったヴィラ・ロボスのブラジル風バッハ四番の前奏曲が様々な方から好評でとても嬉しかったです。

僕はこの曲に強い思い入れがあります。この前奏曲は僕の指揮の師匠である村方千之の十八番とした曲であり、師のコンサートで

はじめて本曲を知ったのです。師がアンコールでこれを演奏された時、僕は感動のあまり人目もはばからず号泣してしまいました。

最初の一音で空気を変えてしまうような音楽。ブラジルの広い大地を思わせる暖かい旋律がどこまでも広く広く膨らんでいき、

風が吹き、夕陽が沈み、世界がくすんだオレンジ色に染まる。そんな曲だと思うのです。

 

「師の十八番を自分のデビューコンサート(しかもアンコールに)持ってくるのは普通出来ないよ。でも良い演奏だった。」とある人が

終演後声をかけて下さいましたが、この曲はそんな思い入れがあるだけに、どうしてもアンコールに持ってきたかった。

そして「鳥肌が立った」とか、「音楽のことは何も分からないけど、泣きそうになった」という感想を何人かの方から頂き、僕が

泣きそうになってしまいました。師の演奏には遠く及びませんが、直伝の曲として、僕はこれからもこの曲を演奏していきたいと思います。

 

足を運んで下さった方々、そして僕の拙い指揮についてきてくれたオーケストラの皆様、撮影や照明、会場予約やステマネなど

様々な仕事を手伝ってくださったスタッフの皆様には心から感謝しています。今後もドミナント・オケはどんどんとメンバーを

集めながら、駒場キャンパスでコンサートを開いて行きたいと思うので、これからもどうぞよろしくお願いします。

 

朝まで続いた打ち上げから帰宅して、書き込みだらけのアイネ・クライネの楽譜とフルート協奏曲の楽譜をめくりながら、

心地よい疲れと寂しさに身を任せ、満ち足りた気持ちでひとり静かに眠りに落ちました。音楽を、指揮をやっていて良かったな、と

声にならない幸せを噛みしめて。

 

 

「こまば夏の音楽祭 -口笛・ピアノ・オーケストラ」

 

2010.8.10(火)、東京大学駒場キャンパスで行われます「夏の音楽祭」で指揮することになりました。

詳細は以下のポスター(僕が主宰している「ドミナント」というデザインチームの後輩、伏見くんが作ってくれました。ありがとう!)

をご参照下さい。口笛の世界大会優勝者と藝大院のピアニストという、とても豪華なゲストを招いての音楽祭、

全身全霊を込めて指揮します。どうぞお楽しみに!

 

「こまば夏の音楽祭2010」

「こまば夏の音楽祭2010」

 

 

3日で10000Hit

 

昨日掲載した、「花火の後に。」という掌編が、ものすごい勢いでページビューされているそうで、びっくりしています。

Twitterの方に書いて纏められたもの http://togetter.com/li/37528 が、3日ちょっとで10000ヒットを突破しました。

筋は単純だし、よくある展開と言えばその通りなのですが、これだけのアクセスがあるというのは何か人の心に触れる部分が

あったのかもしれません。おそらくそれは、この掌編が、Twitterという短い枠内での表現だったことにあるのではないかと思います。

短い文字数で書かれた文章は、人にどのような印象を与えるか。それは第一に読みやすさであり、簡潔さであり、歯切れの良さでしょう。

一方で、短い文字数だと冗長な形容や描写を避けざるを得ないので、自然と表現が切り詰められてきます。

 

僕は小学校の頃から作文や小説、エッセイなどを書いてきましたし、物書きという職業にも漠然と憧れを抱き続けてきましたが、

140字を積み重ねてこのような掌編を書いたのはこれが初めてでした。140字はとても短いように思えるし、事実短いのですが、

いざ書いて見ると、結構な情報量を詰め込むことが出来ます。書きながらふと、東大の入試問題を解いている時を思い出しました。

140字。東大の解答欄、とくに歴史系では5行足らずの文字数で、ちょうど世界史の中論述や日本史の論述問題に多く見られる

文字数なのです。余計な事を書いているとあっという間に字数がオーバーしてしまいます。つまり、狭い枠の中に必要なことを簡潔に

盛り込んで述べる必要があり、また、表現を変えたり句読点や漢字変換を工夫したり、「削る」技術を活用せねばならないという点では、

Twitterで記述することとと東大現代文や世界史・日本史を解くことの間には、共通した感覚があると言えるかもしれません。

 

今回の一万ヒットオーバーはとても驚きでしたが、「これからも文章を書いて何かを発信して行こう。」と思える、

とても良い刺激になりました。お読み頂いた方々、ありがとうございます。

短い言葉とセンテンスを積み重ねつつ、それでいて息の長いフレーズ。スピード感と浸透力。

読んだ都度、映像に変換されていくような文章。練りに練った言葉のデッサン。

拙いながら、そういう文章をこれからも書いてゆきたいと思います。


花火の夜に。

 

Twitterでまとめて呟いたところ、異常に評判が良かったのでブログにも掲載します。Twitterに載せたままの文体は「とぅぎゃったー」

というものでゼミ生の後輩(伏見くん)が http://togetter.com/li/37528 に纏めてくれたので、ここにはブログ用にやや手を加えて

掲載しておくことにします。ある花火大会の夜、指揮法のレッスンの帰りに起こった出来事でした。

・・・・・・・・・・

 

混雑した車内、僕の前に浴衣の若い女性が立った。なぜか目の周りのメイクが崩れている。

泣いた後なのだろうか、疲れ切っているように見えた。大変だな、と思って席を譲るつもりで立ち上がる。女性は一瞬驚いた表情を向け、

「ありがとうございます。」と小さくお辞儀してくれた。少しは楽になるだろうか、と安堵したその瞬間、横からおっさんが割り込んで

席にどっかりとお座りになる。これには真剣に殺意が湧いた。ちょうどレッスン帰りでタクトを持っていたので、

「このおっさん指揮棒で刺したろか・・・。」と思ったぐらいである。(なんとか辛抱して目線で鋭く刺すに留めておいた。)

 

とはいえ、困るのはこの状況だ。立ちあがった僕には居場所がない。そして、座ろうとした浴衣の女性も所在ない。

困ったなあ、と女性と眼を合わせて苦笑する。真横かつ至近距離で黙っているのもお互い何となく居心地が悪くて、若干慌てつつ

「花火ですか。」と話しかけてみることにした。冷静に考えてみればアホな質問だ。浴衣で花火でなくて何だと言うのか。

これで「ええ、ちょっとルミネへ買い物に。」とか、「試着室で試着したまま帰ってきました。」だったら、びっくりである。

 

もちろんそんな予想外の展開ではなく、やはり花火大会帰りとのことである。

どうやら新宿まで一緒の様子だったので、車内で、それから乗り換えに歩きつつ、その人としばらく話すことになった。

彼女はずいぶん大人っぽく見えたが大学一年生だった。聞けば、好きな人と一緒に花火へ行って告白したけど駄目だったらしい。

 

「好きじゃないなら花火なんて誘わなきゃいいのに。そう思いませんか?」と彼女が僕を見上げて、言う。

その真剣な眼差しと、否定を許さない厳しさを持った口調に対して何も言えなくて、「うん・・・まあ。」と曖昧な言葉を返した。

生返事をしながら、見上げる顔を横目で見て、「結構泣いたんだな・・・。」と思う。多分、ほんとにその男の子のことが好きだったんだろう。

新宿駅の雑踏。華やかな浴衣姿と笑顔ばかり目に入ってくるが、悲しい気持ちで浴衣を着て、こうして帰路に着く人もいるのだ。

 

華やかな浴衣を着て、光の当たらない場所でひとり泣くのはどんな気持ちなのだろう。

もしかしたら花火大会の途中で帰ってきたのかもしれない。闇に描かれるカラフルな明滅に背を向けて、ドン・ドンと低く身体の中にまで

響き渡る音を後ろに聞きながら、花火のことを考えないで済む場所まで走って逃げる。

だが、走ることは、自分が花火大会に来ていたことを逆に思い起こさせてしまう。

履き慣れない下駄、着慣れない浴衣。走ろうとすればするほど、浴衣が、花火が邪魔をする・・・。

そんなことを想像するだけでとても寂しい気持ちになる。だが、こういう時にはどんな言葉をかけてあげたらいいか僕には分からなくて、

初対面なのにとめどなく話す彼女に、ただ相槌を打ち続けた。

 

あっという間に改札が近づいてくる。ここでお別れだ。僕は左に、彼女は右へ。

「気をつけてね。」と声をかけると、一生懸命に作ったような笑顔で、「喋ってばっかりでごめんなさい。でも、ありがとうございました。」と

丁寧にお辞儀をする。お辞儀の拍子に彼女の小さな頭の向こう側がふと見える。ころころと揺れるガラス玉のついた髪止めが

外れそうになっていることに僕は気付く。だが、今の僕にはそれを直してあげることはできないし、する必要もたぶんないだろう。

 

「じゃあ、さようなら。」

そう告げて別れようとした瞬間、彼女はすっと顔を上げ、泣いた跡の残る明るい笑顔でこう言った。

「あの・・・あたし、今日やっぱり五反田の友達んち泊まります!愚痴り足りないから!」

唖然とする僕に踵を返し、そうして彼女は再び山手線のホームへと向かう。

 

夏の雑踏に浴衣姿が溶けて ゆく。

女は、強い。

 

 

 

悲愴・テンペスト・ヴァルトシュタイン その1 -Grave-

 

しばらく、指揮のレッスンではこの三曲を振っていました。

どれもベートーヴェンのよく知られたソナタ。そして、かつて自分でも弾いたことのある曲ばかり。しかし、これを指揮するとなると、

「こんなもんどうやって振るんや!」と突っ込んでしまいたくなるほどの難易度と密度を持った曲たちです。

ただ拍子を刻んでいるだけでは全く音楽にならないし、イメージに頼っているだけでは全く形にならないもので、

(ベートーヴェンの曲はどれもそうであるように)全てが有機的に結びついているため、どの一音も蔑ろにすることが許されない

厳格な曲ばかりです。

 

「じゃあ次までに勉強しておいで」師匠に言われて、帰ってさっそく悲愴の第一楽章を開けてみた時は正直絶望しました。

Grave、すなわち「荘重に、重々しく」という指示とともに書かれた和音。弾くというなら、それなりに音は出せます。(あくまでも「それなり」)

しかし、この重々しい和音のニュアンスを棒一本で果たして引き出せるのか?基本の動きは「叩き」です。しかし、Graveでしばらく持続

するこの和音を、どうやって出すのか。答えの出ないまま次回のレッスンに赴き、裂帛の気合を込めて振りおろした僕の棒が引き出した

音は、ただ音量が大きなだけで、重みもなく、残響にも乏しいものでした。

 

「違う違う。力任せではGraveの音は出せない。これは難しいから、よく見ておくように。」

笑顔でそう語ったあと、真剣な顔へと一転。そして80歳を優に超える師匠の、ゆっくりと上げられた腕から引き出された音は、

とんでもなく重く、分厚く、そして豊かな響きを持った音。空間にその音が響き渡り、場の温度や色が明らかに変わりました。

その一音だけで、感動から涙が溢れるのを止めることができず、身体の深いところにズザーン!とあの和音が浸透してきてじわじわと

広がってくるのを感じました。家に帰ってからもその音が頭を離れず、僕にしては珍しく、布団に入ってもしばらく眠りにつくことが

できないほどでした。

 

そうして四回のレッスンを終えて三楽章まで無事に進み、悲愴ソナタを何とか振り切ることが出来ましたが、師匠のあの鉛のような

和音には程遠かったと感じています。力も俊敏さも僕のほうが遥かに持っているはずなのに、四倍も歳の離れた師匠の出す

Graveのffには全く及ばない。指揮の不思議さと奥深さを改めて痛感することになったという点で、悲愴、そしてあの和音は

僕にとって忘れられないものになりました。

 

 

技術を忘れるぐらいになりなさい。

 

毎週恒例のプロとの試合に行ってきた。

四ゲーム終わって10ピン差以内という、何とも緊迫する展開。久しぶりに少し緊張しながらラストゲームをやり、結局プロに6ピン差で

勝つことが出来た。ギリギリの試合ではスペアショットのたびに緊張するし、ストライクが続いたら続いたで段々力が入ってしまいがち。

しかし今回はそんなこともなく、投げたい球が最後まで投げられて満足している。中国から帰ってきて以来、自分の投げる球に

「何か足りない」という状態が続いていたのだが、今回でスランプを完全に脱することが出来たようだ。

 

何が足りなかったのか、と考えてみて気付いた。結局のところ、四歩目が決定的に軽かったのだ。

僕は左利きで五歩助走だから、四歩目は軸足(=左足)にあたる。一歩目(右足)と四歩目は、助走の中でその一瞬の中に

とりわけ多くのものを含んでいる。一歩目の出し方で後が規定されるし、四歩目の踏み込み方でラストステップ(五歩目)の

力強さが決定される。ハイレブ型の投法においては、ボールを手で振るのでなく足で振るイメージを持たなければいけない。

したがって、足の運びが上手くいかない限り、ボールの下に手が入って振りほどくような感覚は味わうことができない。

 

足の運び、といっても、歩き方自体はそう崩れるものではない。前に向かって歩く、というのはもちろんそのままだ。

しかし、一歩一歩のタイミング(これが一歩一歩の重さのかけ方に繋がってくる)が繊細なだけに、ふとした拍子に狂ってしまいがち。

それでも、本来存在しないはずの一瞬の空白(手遅れ)を作りだすためには、この絶妙なタイミングがどうしても必要なのだ。

上手く「間」を作り出せると、足は前に行くのに手は後ろにあるという不思議な状態を味わえる。そして一瞬のはずのリリースが

長く長く体感されるとともに、その時に指を一気に広げることで、ボールが手のひらの下からぐいっと落ちてゆくのを感じる事が出来る。

これが出来た時のボールは明らかに勢いが違う。ツーっと高速で走って行って、加速してポケットに切れ込むように見える。

投げた瞬間、少々コースを外していても「これはいったな。」という感覚が指先に残る。エネルギーが完璧にボールに乗るからか、

投げた後には不思議と静けさすら感じる。全部の力をボールに伝えきって軽く脱力したような感覚だ。そんな時のボールは、ボールに

意思が宿ったかのように動いてくれる。

 

この調子を出来るだけゲームの早いうちから長く維持せねばならない。一度崩れると立て直すのに時間がかかる。そこが問題だ。

さらに上の世界へにいくためには、安定感と勝負どころで持ってこれる迫力が両方とも高いレベルで必要となるのだろう。そのためには

何が問題なのかを、毎回毎回考えてゆくしかない。でも、たぶん音楽もスポーツも同じで、頭で考えながらプレーするのには限度がある。

頭で考えたことを身体に写し取り、考えなくても身体がそれを実行してくれるぐらいに投げ込まないといけない。

ふと、二年前のちょうど今頃、ハイドシェックがそのことについて語っていたのを思い出す。

「技術を忘れるぐらいになりなさい。技術を忘れたとき、音楽と一体になれる。奇跡のような演奏はそんな時に生まれる。」と。

 

 

『カルメン』@新国立劇場

 

今月はカルメンを観てきました。

カルメンを知らない人は多分いないはず。あの「闘牛士の歌」を始め、どこかで一度は聞いたことがある音楽が全編に溢れています。

シナリオ的には典型的なファム・ファタル(運命の女)系のものであり、「愛 L’amour 」と「自由 La liberté」の二点を巡って

二人の男(ホセとエスカミニョーラ)と二人の女(カルメンとミカエラ)の交差する感情を描いた悲劇だといえるでしょう。

 

はじめてオペラを観に行く方にもおすすめできる分かりやすいシナリオ。そして、そこにつけられたビゼーの曲が本当に天才的なのです。

指揮者見習いとしては、いつか指揮してみたい!と思うオペラの一つ。明るいメロディにも明るさだけでなくどこか官能的な艶があり、

その一方で金管楽器の ff などは破滅的なものを予感させます。一幕の最初、弦がトレモロで入ってきてバスが「ボン・ボン!」と

低音の楔を打ち込むあたりはいつまでも忘れられない音楽ですし、二幕の最後、La liberté ! と何度も歌われる場面は本当に

何度聞いても素敵だなあと感じます。また、フルート吹きとしては三幕の前奏曲のソロも外せないところ。

挙げるとキリがありませんので全ては書きませんが、フルスコアも取り寄せて、とにかく相当に読みこんでから実演に臨みました。

 

今回はゼミ生およびフランス科の友達、私的な友達などに何人も声をかけていたので、十人ぐらいで一緒に会場へ。

アカデミックプランの恩恵を受けて今回もS席で鑑賞させてもらいました。照明が落ちて、あの前奏曲がどんなテンポで流れてくるのか

楽しみにしながら、スコアを頭に思い浮かべます。そしてやや間をとって始まった前奏曲。

・・・うーん、正直言ってイマイチです。早すぎる。カルロス・クライバーの演奏のようにゾクゾクするスリル満点の早さではなく、

ムラヴィンスキーのようにキレ味の良い早さでもなく、テンポがただ前のめりに早いだけで、しかも指揮が直線的すぎ&脱力が不十分

ゆえに、フレーズの語尾が窮屈になっていてなんとも聴きづらい。残響が次のフレーズに被さってしまっているし、休符の間にも

緊張感がない。そんなふうにとても平坦な演奏で、特に管楽器の方々は歌いづらそうにされていたこともあり、「これは大丈夫だろうか」と

かなり不安を覚えてしまいました。

 

残念ながら、一幕の子供たちの合唱(Chorus of Street Boys)では、音楽をやっていない人でも気付くほどオケと合唱がずれてしまい

ヒヤっとしましたし、工女たちの合唱(Chorus of Cigarette Girls)では、オケが歌に合わせるのが精いっぱいという感じで、La fumée

というフランス語ならではの響きを生かした空気感のある掛け合いは、あまり感じ取れませんでした。(合唱自体は結構良かったのに)

Allegro moderatoになってカルメンが入ってくるところの弦のffも平坦なffで、「カルメンがやったんだわ!」という緊迫感や切迫感、もっと

言えば狂気のようなものが一切伝わってこない。指揮者はこの部分に思い入れがないのではないか、どんどん進めて行きたいだけでは

ないのか、と首をかしげたくなります。(もちろんそんなことは無いと思いますが・・・。)カルメンの一幕での聞かせどころであるハバネラも

細かいテンポの揺らしがかえって不自然で、音色もついていっておらず、率直に言ってあまり面白くない演奏でした。面白くない、

というよりはむしろ違和感が残るといった方が正しいかもしれません。カルメンはねっとり歌おうとするのにオケの方はさっさと行こうと

するから、ぎくしゃくした感じが終始抜けていなかったように感じます。

 

一幕はそんなふうに、やや残念な演奏が全体として目立ちました。

指揮を学んでいると、指揮者の動きや振りひとつひとつが演奏者に与える効果がある程度分かります。

今回の指揮者は明らかに振り過ぎていました。緩やかで美しいフレーズを直線的な叩きや跳ね上げで振っていては、美しい音は

出るべくもありません。跳ね上げた時に手首をぐにゃぐにゃさせて調整しようとしていましたが、そんなことをやっても楽器は歌えない。

かえって分かりづらくなるだけです。指揮がいかに大切か、ということを目の当たりにさせて頂き、いい勉強になったと思っています。

 

ともあれ、ニ幕中盤~三幕になるとだいぶん落ち着いてきて、要所要所で迫力が出てきた感じを受けました。

今回いちばん凄かったのはミカエラ役の浜田理恵さん!ミカエラは立場的に微妙なキャラなのですが、ものすごい存在感を

放つ歌唱を聞かせて下さいました。この時ばかりはオケの音が明らかに変わっていましたね。

一人の演奏が全体の音を一気にがらっと変えてしまうというのは何度も見てもすごい。音だけでなく、会場の温度まで変わるのです。

 

演出はニ幕の薄暗い中に光がまたたくセットは良かったですね。あとカルメンの動きがセクシーすぎてビビりました。

あそこまでやるかという感じ。でもカルメンというファム・ファタルにはあれぐらいで丁度いいのかもしれませんね。楽しませてもらいました。

 

一幕の音楽の他にもう一点だけ残念なことがあって、それは観客の方々の拍手です。幕が閉まり始めたらとりあえず拍手する、という

お客さんが何人かいらっしゃって、余韻がかき消されてしまい、大変残念な思いを何度もしました。とくにラスト。カルメンが死んでホセが

Carmen adorée!と叫んだ後、ffでのTuttiから始まる三小節がホセの人生に、カルメンの人生に、そしてエスカミーリョの愛に

別れを告げて劇的に終わるところ。そのtuttiの部分の一小節前で幕が閉まり始めることもあって、なんとそこで拍手が入ってしまいました。

これはもはやテロです。最後が台無しになってしまいます。お願いだからあそこは我慢してほしかった・・・。

 

何だか僕には珍しく、ネガティブなレビューが多くなってしまいましたが、カルメンというオペラの楽しさを再認識することになりました。

とくに以前見た時はフランス語なんて全く分からない状態だったのですが、フランス科に進学してフランス語に日々接している

(といっても僕はドイツ語⇒フランス科なので、フランス語歴はまだ一年もありません)と、かなりの部分の単語が聴きとれて

嬉しい思いをしました。一緒に行ったフランス科の同期の友達も「けっこう余裕で聞ける。楽しすぎる。」と言っていたので、やはり

語学に触れておくと、こういう時に幸せな思いが出来るのです。連れて行ったゼミの後輩たちも語学へのモチベーションが湧いたことと

思います。みなさんがんばってくださいね。

 

なお、この「一緒にオペラを見に行く会」はこれからも大体毎月開催する予定です。

立花ゼミだけに限らず、フランス科の友達やクラスの友達など、僕の知り合いには積極的に声をかけていきます。みなさん一度オペラに

行くと抵抗が無くなる方が多いようなので、まず誰かに誘われて足を運んでみるのが大切だろうと思いますし、違うコミュニティ・学年の人

たちが顔を合わせるこうした機会は、お互いにとっていい刺激になるはずです。休憩時間にワインを呑みながら、今見たばかりの

カルメンの話を、今日会ったばかりの所属も学年も違う人とする。ちょっと文化的な時間を経験している気がしてきます。

学生割引の恩恵に預かれる間に、これからもみんなで沢山の演目を見に行きましょう!

 

 

Ninaと立花オケ(仮)

 

というイタリア古典歌曲をゼミの後輩が練習していたので、彼のコレペティをピアノでやりながら、時々フルートで参戦したりしてみました。

Ninaという曲は声楽をやる方の中ではとても有名なようで、聞くところによると音大の声楽科の課題曲にもなるらしいです。

歌詞はイタリア語で数行程度。

Tre giorni son che Nina , che Nina ,che Nina in letto se ne sta.

Pifferi, timpani, cembali, svegliate mia Ninetta ,svegliate mia Ninetta

acchio non dorma piu.

sveligate mia Ninetta, svegliate mia Ninetta, acchio non dorma piu.

というものです。「ニーナが布団からもう三日間起きてきません。どうしましょう助けて下さい!」という感じの内容なので、

実は結構深刻な歌詞だったりします。

 

楽譜は簡単ですが、この曲も結構深い!youtubeにあがっているパヴァロッティの演奏を聞いてみると、クレッシェンドのかかる部分

ではややテンポを上げて歌うことで前のめりになる気持ちを表現していますし、Pifferi,~と入るところでは休符を短く取って

畳みかけてきます。パヴァロッティの演奏を参考にして、色々とニュアンスをつけながら練習しているうちに、あっという間に三時間が

経過していました。工夫なしにやってしまうと退屈になるのはどんな曲でも同じで、色々考えて演奏することで見違えるように

曲が生き生きとしてきますね。ちなみに後日、指揮の師匠に少し見てもらったのですが、歌詞の内容を知らないにもかかわらず

師匠が振ったNinaは悲しげで、切々としていて訴えかけてくるような音であり、「どうしてニュアンスが分かるのですか?」と

聞いてみたところ「僕は歌詞を知らないけど、楽譜を見ればそう言ってるよ。」という答えが帰ってきて絶句してしまいました。

プロはやっぱりすごい。

 

それからこれを後輩と二人でやっているうちに、立花ゼミで楽器の出来る人を何人か集めて色々曲をやったら面白いのでは、

という話になったので、超小編成ではありますが、「立花オケ(仮)」を立ち上げる事にしました。ゼミ生で楽器が弾ける方、あるいは

弾きたい方はぜひ一緒にやりましょう。ゼミ生じゃないけど一緒に練習してくれるという心優しい知り合いも歓迎します。

当面の目標は、立花先生の前でお披露目することです!

DIALOG IN THE DARK に引率してきた。

 

このブログの記事の中でも、2009年6月19日に書いたものはアクセス数が常に結構ある。

「DIALOG IN THE DARKに行ってきた。」という記事がそれだ。DIALOG IN THE DARK、つまり見知らぬ人たちとグループを組んで、

視覚障害者の方にアテンドして頂いて完全な暗闇の中で一時間半過ごすイベントであり、それに行ってきた感想を書いたのが

この2009年6月19日の記事である。この記事にアクセスが多いのも当然といえば当然、なんとDialog in the darkとGoogleで検索する

と、驚いたことにオフィシャルホームページに続く順位でヒットする。僕の適当な文章がそんなに沢山の人に読まれているのかと考えると

「文章下手ですみません。」と平身低頭謝りたいぐらいだが、もしもあの記事がDialog in the darkに実際に足を運ぶきっかけに僅かでも

寄与できたならば、それはとても嬉しい事だ。それぐらい僕は、この暗闇のイベントが刺激と意義に満ちたものだと思っている。

 

立花ゼミの後輩たちにもこの衝撃を経験してほしかった。というわけで希望者を募り、集まった一年生・二年生を10人ほど連れて

再びこのイベントに行ってきた。昨年は確かカンカン照りの昼間、授業をいくつか休んで行った覚えがあるが、今年は五限の授業が

終わってから、日が沈みつつある中で外苑前に降り立った。そして熊野通り・キラー通りを抜けると、どこか神戸のような雰囲気のある

坂道に到着する。DIALOG IN THE DARKの会場はもうすぐそこだ。

 

坂道を下り、間接照明が上手く使われた地下への階段を降りながら、「ああ、もう一年経ったのか」とつい感慨に耽ってしまった。

一年なんて本当にあっという間に過ぎてしまうものなのだ。ヒトが一年間で出来る事はたかが知れているかもしれないけれど、

光のような速さで過ぎてゆく一年間の「密度」を高める事は出来るのであって、自身のことを振り返ってみても、人生を変えたと思えるような

出会いや出来事がこの一年で沢山あったし、考えてみればこのイベントもそうした衝撃的な経験の一つであったと言ってよいだろう。

入学したばかりの一年生や進学に悩む二年生にとっても、今から経験する暗闇の時間が忘れ難いものになればいいな。

 

そんなことをぼんやりと考えながら、先に部屋に入っていった彼らの背中を見届けて、僕も一年ぶりのドアをくぐる。

そこには昨年と同様、明るすぎず落ち着いた優しい空間が広がっていた。笑顔で迎えてくださる受付の方々に挨拶をして、

相変わらずふかふかのソファーに腰を下ろす。そして三グループに分かれて暗闇のツアーに向かうゼミ生たちを送り出す。

少し緊張した面持ちで、しかしどこかワクワクした表情で、彼・彼女たちは暗闇に吸い込まれていった。

 

中での出来事は、後輩たちが一人ひとり書いてくれる予定の記事に委ねよう。

僕がここに書くことは、終わってから全員でブレイン・ストーミングとディスカッションをしたことを付け加えておくぐらいだ。

(以下は我々オリジナルの楽しみ方なので、このイベントに組み込まれているプログラムではない。けれども、中々面白いものだと思う。)

 

実はツアーを体験する前の待ち時間で「《暗闇》にどのようなイメージを持っているか」というテーマで予め各自ブレイン・ストーミングを

してもらっておいた。《暗闇》から思いつく言葉やニュアンス・感情を自由に書き留めておいてもらったのである。

そしてツアーが終了してから再び、《暗闇》のイメージや暗闇で体験した中で印象的だったことをそれぞれ書き出しておいてもらった。

それをもとにして、近くのイタリアンでご飯を食べながら、各自が感じたことや他者との相違、気付きなどを巡ってディスカッションを

行った。一人ひとりの感じ方は当然異なっており、しかし共通するところも沢山あって、刺激的な議論が展開されていたように思う。

最後に、「暗闇の地図」を全員で描いた。90分過ごした暗闇がどのような構造になっていたのか、思いだせる範囲でそれぞれマップを

描いてもらったのだ。これがめちゃくちゃ面白くて、大きさ・方向・場所ともに他人の地図と情報があまり重ならない!

五感のうちのたった一つを遮断しただけでこれほどまでに人間の「共通」理解は崩れ去る。

なにが普通でなにが共通なのかなんてそこに絶対的な区切りは存在しないし、「世界」も決してたった一つではない。

人間は絶対的な存在ではなくて、偶然的なものや脆い基盤に立脚して《共通》や《ノーマル》といった概念を成立させているに過ぎない。

 

視覚以外の四感が研ぎ澄まされ、他者との精神的距離と時間が驚くほどに縮小される90分。

暗闇での時間は、人間という存在に様々な問いかけを投げる。そしてその問いが導き出す答えはつまるところ、「人間は面白い」という

シンプルでありながらも、無限の奥行きを持つ事実なのである。

 

 

『子供の情景』を振る。

 

シューマンの曲集に『子供の情景』というものがあります。

ピアノをある程度習っていた方なら一度は弾いたことがあるはず。子供の情景、と言われてピンとこない方でもこの曲集の中に

収められている「トロイメライ」を聞けば「ああ、聞いたことある!」と思われることでしょう。どれも夢見るような、風景や情景が浮かぶような

曲ばかりで、シューマンいわく「子供心を描いた、大人のための作品」とのこと。技巧的にはさほど難しくはありませんし音もそんなに

多くはないのですが、これを「音楽」として表現しようとするとかなり深い読みが必要とされてきます。

このように「子供の情景」には演奏者が表現する余地がたっぷりと残されているので、コルトーやアルゲリッチ、エッシェンバッハと

新旧を問わず様々な大ピアニストたちが独自の表現を展開して録音を残してきました。

 

僕もかつてこれを一通り弾いた(というか今振り返ってみると、「音を鳴らした」だけでした。)経験があるのですが、今度は

弾くのではなく、振っています。というのは、僕が所属している門下では、斉藤秀雄の指揮法教程の練習題が終了するとこの

「子供の情景」を振る練習をするのです。弾くのも難しいのですから、振る(=自分で音を鳴らさず、引き出す。)のはその何倍も

難しい。そして音が少ないからごまかしは効きません。テンポの微妙な揺れ、音楽の膨らみ、そして情景。そういったものを細かく細かく

棒の動きの中に込めて演奏者に伝達していかねば、「子供の情景」は真の意味で《音楽》にならないのです。

 

師匠に「ほら振ってごらん。」と言われるままに、一曲目のVon fremden Ländern und Menschen「見知らぬ国々と人々」を

振ってみて愕然としました。流れてくる音楽の何と平坦で面白くないこと!聞くに堪えないただの音の羅列!

それに対して、師匠が笑いながら「それじゃ駄目だね。こうだよ。」といって振ってくださったときに流れてくる音楽のとんでもない美しさ!

指揮台の上で文字通り言葉を失いました。夢見るようで、どこか違う世界に入ってしまったようで、繊細で詩的。振り方を見なければ

いけないはずなのに、思わず目を閉じて音楽を聞いていたくなる。こんなに素敵な曲だったのだ、と我を忘れてしまう。

振りを見ていても、ただの一瞬も同じ振り方をする小節はありません。たっぷりと余裕を持ちながら曲の中に入り込み、

しっかりと間を取りながら細かく自然にテンポや音量を動かしていくその様子は、指揮棒と生まれてくる音が見えない糸で

繋げられているように感じられるほどです。そしてこうした境地には、頭や手先の技術を用いて調整したとしても達しえないでしょう。

こうした表現の核には「自然さ」が必然的に要求されるからであり、師匠が述べるとおり、「究極的には、音楽をどう感じるかだ。」という

《感じ方》の問題なのです。

 

目を閉じれば情景が浮かぶ。そんな生ぬるいものではありません。そこで展開される音楽は、強制的に人をその情景の世界に

連れてゆく。二曲目のKuriose Geschichte「珍しい話」の冒頭のリズムが聞こえ、Träumerei「トロイメライ」の和音が空間を満たし、

Fürchtenmachen「こわがらせ」の四小節が耳に届いた瞬間、聞くものは別の世界に投げ込まれる。それほどまでに吸引力のある

音楽が、たった棒一本から生まれ出るのです。その様子は衝撃的なものであり、師匠のお手本を目の当たりにするたびに

感動のあまり何故か笑いが込み上げてきます。誇張抜きに、フレーズが変わるたびに教室の空気の温度が変わるように感じられます。

 

そんなレベルに僕はまだ達することが出来ませんが、とにかくも『子供の情景』がこれほどまでに深い曲であることを、振っているうちに

痛感しました。とはいえ、悪戦苦闘しながら朝から夜までこの曲のことで頭が一杯になる三週間を過ごしたおかげで、いくらか表現力が

身に着いたのは確かでしょう。「表現力」―そう、指揮者は表現力と伝達力をフルに発揮することが重要なのであり、そのためには型から

脱しなければなりません。つまり、型はとても重要だけれども、型にはまっている限りは音楽は音楽にならないということです。

「《型に則りながら型を脱する》なんてまるで禅問答みたい。」と思われるかもしれませんが、指揮というのはそうした抽象的な技術と

思考の積み重ね、そしてその不断の実践によって成り立つ芸術なのだと思います。こうした「分からなさ」が、ある意味では指揮の

魅力の一つであり、この「分からなさ」が生みだす面白さに、僕はどうやらすっかり取り憑かれてしまっているようです。

 

 

リンク追加と文章を「書く」こと

 

右の「ブログロール」にリンクを二件追加しました。

立花ゼミ新入生の細川さんのブログ(Die Sonette an・・・?)と、 同じくゼミ新入生の青木さんのブログ(イディオット)です。

二人とも個性的でとても好奇心の強い方々ですので、東大での生活やゼミでの活動、趣味から論考まで、これから色々と

書いていってくれることと思います。楽しみにしています。(なお、リンクは常時募集していますので、興味がある方はぜひご連絡下さい。)

 

しばらく忙しくてこのブログの更新をサボっていましたが、新入生の方を見習って僕もまたどんどんと更新していくつもりです。

「日常的なことはTwitter、考察的なものはブログに書く」という形にしようかなと考えた時期もありましたが、人文系の学問分野に足を

突っ込んでいると、テーマによらず纏まった文章を書くことの重要性を痛感することが多いので、Twitterではなくやはりブログを自分の

発信ツールの基礎に置きたいと思います。Twitterはメモには最適だし人から刺激を受けるツールとしても素晴らしいのですが、

いかんせん文体を変えてしまう。それは140文字というTwitterならではの制限が、句読点の打ち方や語尾の表現などにある程度

鈍感であることを許してくれるからです。でも論文にしろ企画書にしろ、本当に人に何かを伝えようとすると纏まった文章を書く必要が

どうしても生じてくる(コピーだってそうです。コピー自体は短くても、その背景にある思考や狙いは決して短いものではないはず。)

のであって、そうした纏まった文章を一つ書こうとしてみると、表現から改行まで色々と敏感にならざるを得ません。

 

「この表現はさっき使ったから避けよう。」「ここは改行したほうが読みやすいかな。」「この言葉ってこんな使い方で合ってたかな?」

そんなふうに次々と疑問が湧いてきます。こうした所作には、Twitterの「つぶやく」ではなく、手紙や文章を「綴る」という言葉が

良く似合います。「つづる」、この言葉を聞いて、机に向かってスラスラと筆を動かし、時に頭を抱えて悩む人間の様子が

浮かぶのは僕だけではないはずです。それは言いかえれば、思考や感情を形ある「文字」「文章」に変換しながら変換した文字に悩み、

また文字に変換しきれなかった思考や感情との差異に苦しみ、文と文の繋がりが生みだす摩擦に心を砕く様子だと思うのです。

そういったことに敏感になり、生じた摩擦や疑問を一つ一つ消化していくことによって、なんとか文章が書けるようになっていくのでしょう。

 

昔から言い古された「文章は《書くこと》と《読むこと》によってしか磨かれない。」というフレーズは、今もって至言だと感じています。

五月も今日で終わり。拙い文章ではありますが、これからも日々書きまくり、そして沢山の本を読んでゆきたいと思う次第です。

 

 

五月祭をゆっくりと。

 

五月祭に行ってきました。

三年生、しかも所属学部が駒場キャンパスにある身なので、今年は何もやる仕事がありません。

何も仕事がない五月祭というのははじめて。二年前と昨年は必死でデザインの仕事をやり、合間には鬼のようにたこ焼きや焼鳥を

焼きました。そして安田講堂の講演会では、席を埋め尽くした聴衆の方々がみな自分のデザインしたパンフレットを机の上に

置いているのを二階席から見て感動したり、渾身の出来と(当時は)自負していたポスターの前で沢山の方が記念撮影をされている

様子を見てじーんとしたりと、慌ただしく過ごしていました。ですが今回は完全フリー。よくよく考えてみれば、今までの二年間は時間に

余裕が全く無くて模擬店すら満足に回ることができていなかったので、今回は沢山のお店を回って、ゆっくりと食べ歩くことにしました。

 

たません、タピオカジュース、チュロス、似顔絵…と手を出しつつ本郷キャンパスを歩いていると、様々な人に出会います。

やたらツインテール+メイド服が似合う一年生の知り合い。ショッキングピンクのジャンパーをまとって四つ打ちのビートに体を揺らす

ゼミの後輩。女性と比べても引けを取らないほど美脚の、セーラー服で女装した高校の後輩。イケメンなのをいいことに相変わらずナンパ

にいそしむ浪人時代の同期。みな思い思いに五月祭を過ごしていて、「ああ、平和だなあ。」と思わずにはいられません。

そんなふうに、今回は一人の来場者として、このお祭りを堪能させて頂きました。関係者の方々、本当にお疲れさま!

 

23歳になりました。

 

23歳になりました。

にじゅうさん!信じられない響きです。自分がこんな年齢になるなんて思ってもみなかった。

20歳を過ぎてしまえば誕生日の感慨なんか無くなって、あとはもう「おっと、また誕生日か。」という感じで大したことないだろう、と

考えていました。まだ20と21ならいざしらず、22歳と23歳では何も変わらないだろうと思っていました。

ですが、23になってみると全然違う。たった一つ数字の下一ケタが増えただけなのに、襲いかかってくる重圧が凄い。

 

それもそのはず、22はまだ20に近かったけれど、23はもう25に近い数字なのです。想像もできない遠さにあった25という数字が

急に現実味を持って迫ってきます。様々な大人の方々から「言語は25歳まで。」「楽器は25歳まで。」「人生の選択も25歳までで決まる。」

と言われているので、僕にとって25歳というのはとても怖い年齢に映ります。先達の方々がおっしゃるように、25にもなると体力的にも

衰えてくるだろうし、記憶力や習得力も落ちてくるはず。そして人生の進路(就職か、大学院か、それとも「それ以外」か)も

ある程度決まってくるでしょう。そういった逃れようのない未来に、僕は確かに近づいてしまった。

 

などと書くと、「若者がそんなに悲観的でどうする!」と一喝されてしまいそうですが、悲観的になっているというわけではありません。

ただ、そろそろ着地点を決めなければならない。好奇心の赴くままに飛び回るのではなく、どこに降り立つか、狙いを

定めていかねばなりません。その作業はとても辛いものだと思うのです。

ですがそれが辛いものであれ、23にもなってまだ学部生をやらせてもらっていることに感謝していますし、これらからも僕には

毎日を精一杯過ごすことしか出来ません。違う世界にどんどん飛びこんでゆく度胸と、飲み会や遊びに誘われたら軽やかについていく

若いノリを忘れず、それでいて少しは大人の魅力(?)を醸し出しつつ、23歳の一年間を思いっきり過ごしたいと思います。

 

「夜景」とは何か -体験不可能な景色-

 

Twitter上で「夜景がデートにもたらす効用」についてゼミ生が議論していたので、それをきっかけに「夜景」とは何か考えてみた。

夜景のキーポイントは、ただ光が暗闇に飛び散っているだけでなく、それが「人の暮らし」を意味するものであるという点だ。

車のライト、高速道路のネオン、マンションの明かり…どれも人が生活しているという実感を伴う。つまり夜景を見ているとき我々は、

「人の暮らし」を外部 から見る立場に自己を置くことになる。闇を彩る色とりどりの光を通じて、この世界に沢山の他者が暮らしている事や

世界が人間の営みで加工されている事を目撃する。静止した夜景は存在しない。車が動いていたり家の電気が消えたりするように、

夜景はいつも動いている。それを見るたび、人間の暮らしの匂いを夜景に感じるはずだ。たとえば超超高層ビルから夜景を見て、

動いている光を見つけた時、「あれは何だろう?車かな?だとするとあのあたり高速道路かな?」と思考するだろう。

つまり、人が見えなくても結果的に人や人の生活を想像してしまう効果を持つ光景が、夜景なのである。

 

問題は、夜景が「人の暮らし」で成立しているものでありながら、夜景の担い手である「暮らしている人」と絶対的な距離を持っている

ことだと思う。眼前に広がる光に満ちた世界は、「人の暮らし」という身近なものの反映でありながら、圧倒的に「遠い」のだ。

あくまでも景色。交わることの ない他者の生活。しかしそんなふうにどこまでも遠い夜景を見るとき、自分のすぐそばに、同じ光景に目を

やる「誰か」がいたらどうだろう。必 然的に、側にいる人との「距離の近さ」を感じることになる。夜景はどこまでも遠い、しかし側にいる人

とはコミュニケーション可能な距離にいる。それを実感するはずだ。つまり夜景は、「交わることのない他者/側にいてコミュニケーションの

とれる距離にいる選ばれた他者」という対比を成立させる。かくして、夜景を媒介にすることで、側にいる他者との近さが、その距離以上に

接近する。こうした意味で夜景はデートに一定の効用を持つのではないか。


「そんな難しい事は考えていないし意識していない。夜景はただ綺麗なだけだ。」と言う反論が予想されるが、確かにその通りで、

夜景は最終的には「あー綺麗」という一言に帰着可能な光景だという特質を持っている。

「綺麗な夜景だね」→「車が走ってるよ」→「あのへん新宿かな、まだ沢山電気ついてる。」→「まあとにかく、綺麗だね。うふふ。」と

最終的には「夜景」という抽象的総体に帰着される、つまり鈍感を許す光景でもあり、まさにそれこそが、デートスポットとして不動の

地位を占める理由であるだろう。

 

そしてまた、夜景の特異は、自然との対比によって明らかになる。夕日や星といった「自然の光」と、夜景、すなわち「人工の光」とは

何が違うのか。それはこうだ。没入できる自然と異なり、夜景は窓枠やガラスなどを通して「外部」から見る事を必要とする。満点の星空

の下に身を置くのと、光に満ちた東京の夜景を六本木ヒルズの上から見るのとでは、根本的に主体の占める位置が異なる。

つまり言うなれば、夜景は鑑賞するものであるけれども、「体験できないもの」なのである。

(おわり)


『影のない女 Die Frau ohne Schatten』@新国立劇場

 

予定が合う限り、月に一度はオペラを観に行くようにしています。今月はリヒャルト・シュトラウスの大作であるオペラ

『影のない女』の初日公演を鑑賞してきました。このプログラムが日本で演奏されるのは何と18年ぶり!それもそのはず、

オーケストラの編成だけを見てもチューバ四本+バスチューバという指定が書かれているなど、オペラとは思えない

(ある意味ではR・シュトラウスらしい)巨大さを誇っており、技術的にも規模的にも演奏の難しい演目だからです。

実演に接するのはもちろん初めてでしたから、いつも以上にワクワクしながら、立花ゼミの後輩二人と一緒に席に着きました。

 

出だしから「いかにもR・シュトラウス!」と言いたくなるような管楽器の使い方がなされていて、音楽だけを聞いていても飽きません。

このオペラにはライト・モティーフが散りばめられており、しかもかなり分かりやすいものが多いのでライト・モティーフを追っかけながら

シュトラウスの豊麗な音響を楽しみました。二幕終わりのぐんぐん盛り上がるTuttiではホール全体が一つの楽器のように大音響で

震え、圧倒されました。しかし最も驚かされるのは、大編成のこの曲において、各楽器のソロがたくさん用意されていること!

チェロの不安を煽る旋律、ハープの神聖な響き、そして三幕の皇后が一人で歌う部分のヴァイオリンのソロなど、ただ音響で唖然と

させるだけではなく、繊細に繊細に作られているのが分かります。

 

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/classic_concierge/top.html というページにおいて、

「音楽面ではシュトラウスの作品群の中で最大編成のオーケストラを使用していることが第一の特徴。

大編成ながら大きく鳴らすトゥッティ(全奏)はほんの数回 あるのみで、数多くの楽器が組み合わせを変えながら室内楽的ともいえる

精妙な響きを多彩に変容させていくところにシュトラウスの円熟ぶりが見て取れる。

第2の特徴としては調性の巧みな使い分けだ。「エレクトラ」で調性の壁を破る寸前の当時としては、最先端をいく和声法を駆使して

音楽を書き上げたシュトラ ウス。「影のない女」では古典派以来のオーソドックスな和声と最先端の調性コントロール術を混在させ、

登場人物のキャラクターや場面の雰囲気を見事に描き 分けている。例をひとつ挙げるなら染物師夫妻だ。

心根の優しいバラクに付けられた音楽は調性がハッキリした口ずさむことが可能なメロディーが多い。

これに 対して苛立つバラクの妻は臨時記号を多用し調性があいまいで複雑難解な旋律に乗せて歌われる場面がほとんどだ。」

 

と書かれていましたが、まさにその通りで、音楽による場や人物の描き分けが、「オーケストラ全体」と「楽器一つ一つ」を見事に

使い分けてなされていると感じました。歌手ではやはり、バラクの妻を演じたステファニー・フリーデがいいですね。

Schwängest du auch dein Schwert über mir, in seinem Blitzen sterbend noch sähe ich dich!

「剣を私に振り下ろすとしても、 その刃のきらめきの中で、 死にながらももう一度だけあなたに会いたい!」という絶唱には

感動しましたし、このオペラで最も有名な部分、Ich will …nicht!の震える声にもゾクッとさせられました。

 

演出はどちらかというとシンプルなもの。ただ、「影」の扱いについては相当に注意が払われており、三幕終わりの部分の影をうまく使った

演出には「やるなあ!」と唸ってしまいました。人そのものが抱きしめ合うのを見るよりも影が一つになってゆくのを見る方が感動する、

というのは不思議な現象でした。それだけこのオペラにおいて「影」が重要な役割を果たしているのでしょう。

 

ですが、「影」とは一体何なのでしょうか。この「影」の捉え方、「影」が意味するものをどう考えるかでこのオペラはその奥行きを

ぐっと変えるのではないかと思います。本作のストーリーはモーツァルト『魔笛』を踏まえたものであることはよく知られており、確かに

ファンタジックな世界の中に「人間礼賛」に通じる水脈が流れています。たとえば神々の世界の側のヒトであった皇后の

「人間の求めるものを あなたは余りに知らなさすぎた。 ・・・(人間は)いかなる代償を 払っても 重き罪から 蘇り、 不死鳥のように

永久の死から、永久の生へとどんどん高みを指して登って行く。」という歌詞にそれが顕著に現れており、人間の人間性・生と死の問題が

歌われています。そして終幕では舞台裏から「まだ生まれていないものたち」の歌や「子供」の合唱が挿入されます。

そういえばそもそも、このオペラのスタートは「『影』がないと子供を生むことができない」というものでした。

 

以上を考えると、このオペラにおいて「影」というものは、子供を生める能力であり、言ってしまえば「次代の生命」=「子供」なのでは

ないかという考えに至ります。そのように考えてストーリーを振り返ってみると、かなり現代的な問題を孕んでいることが分かります。

「影がない」=「子供が産めない、子供がいない」ことで罰を受けるという展開は女性の権利などの問題を想起させますし、

「影を渡すか渡さないか」という逡巡はストレートに中絶問題に繋がるでしょう。「生まれざる子供たち」が歌う

「ぼくらの生が楽しいものになるように! 試練をけなげに耐えたから」という歌、そして「生まれざる子供たち」という存在自体を考えてみても

このオペラは多分に生命倫理的な問題を含んでいるのではないかという思いに至りました。うーむ、『影のない女』おそるべし!

 

ぼんやりとそんなことを考えつつ、音楽の余韻に浸りながら帰路へ。

最後になりますが、オペラを観に行くと語学の意義を実感することが出来るので、学生の方(特に一年生)には本当におすすめしたいと

思います。初等レベルで十分、単語と文法が少しわかるだけで楽しみ方が全く変わってきます。今回のオペラでもIch will nicht!が

分かるだけで感動の幅は大きく違うはず。純粋な芸術的感動を得る事が出来るだけでなく、語学のモチベーションを高めるのにも絶好の

機会となるでしょう。僕もフランス語をしっかり勉強して、次回六月のカルメンでは出来るだけ字幕に頼らず鑑賞したいと思う次第です。