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『快楽の動詞』(山田詠美 文春文庫,1993)

 

 山田詠美『快楽の動詞』(文春文庫、1993)を読了。

何とも軽妙なエッセイ集。エッセイと小説の間、ある種の批評といった方が的確かもしれない。

作品の中に入り込む「書き手」としての視点と、作品を読む「読み手」としての視点を

山田詠美が自由自在に行き来する妙技が味わえる。やはりこの人は文章が上手い。

さらっと読める割には、随所に鋭い指摘があって読んでいて頷かされることも多々あった。

「単純な駄洒落は、〈おもしろいでしょ〉というそれを認めた笑いを求める。

しかし、高品位な駄洒落は正反対に、〈おもしろくないでしょう〉という笑いを求めるのである。

前者の笑いは、わはははは、であるが、後者の笑いは、とほほほほ、である。」

 

 うーむ・・・なるほど。

KENZO POWER インプレッション

 

 香水、とくにボトルのデザインを見るのが好きで、香りとボトルの両方を気に入ったものは出来る限り買うようにしている。

香りという「目に見えないもの」を「見る事も手で触ることも出来るもの」としての容器、密封されたボトルに閉じ込める。

香りを組み立て作り出すという芸術、それから香りのイメージをボトルで表現するという芸術、その二つの芸術が合わさることによって

一つの香水が生まれる。まさに、調香師とボトルデザイナーという二人の芸術家による自己表現と他者理解の結晶ではないだろうか。

言葉をデザインにしたり、デザインを音楽にしたり、音楽を絵画にしたり・・・

そんなふうに形態をメタモルフォーゼンさせて生まれる芸術は、僕にとっていつも大変魅力的に映る。

 

  さて、先日注文していた香水が届いたので、それについて書くことにしよう。

ケンゾーのパワーと、シャネルのアリュールオム エディシオンブランシェの二つである。

Powerの調香師はオリヴィエ・ポルジュ、ボトルデザインは原研哉。(原研哉の著書『白』は、今年の東大の現代文で出題された。)

Edition Blancheの調香師はジャック・ポルジュ、ボトルデザインは故ジャック・エリュの作ったものを継承。

二つ見比べて「ポルジュ」が共通していることに気付いた人がいるかもしれない。

実はこの二人は親子である!(親がジャック、子がオリヴィエ。ちなみにジャック・ポルジュはシャネルの専属調香師。)

親子の作品を同時に買って比べてみる事で、何か面白いものが見えてくるかも、と考えてこのような組み合わせで購入した。

 

 まずはPowerから。作り手の側のインタビューやコンセプトは香水名をGoogleに打ち込めばすぐに出るから、

ここに書く事はしない。それよりも自分のインプレッションを書くことにする。

この香水からまず最初に感じるのは、花と木の香りである。柔らかくて密度のある、温かい香り。

何の花なのかは分からない。靄がかかった森の中のような、よく見えないけれど周りに確かな木や花の存在を感じる光景。

徐々にベルガモットらしき香りが前に出てくる。靄の中に朝日が差し込んだような感じだ。

しばらくすると、「何か分からないが、明らかに花」な香りが場を支配するようになる。名前の分からない花、しかしどこかデジャヴ。

夢の中で流れていた香りを、朝目覚めてから思い出そうとした時のようだ。

むせるような花の匂いではなく、何重にも薄いフィルターがかかったような花の香りは、しばらくすると徐々に

フェードアウトしていく。フィルターが外されていくのではなく、透明度を30パーセントぐらいまで下げていくイメージ。

そのうちに、柔らかい木の香りが次第に強く感じられてくる。心地よい温かさと、重すぎない重さと甘さがある。

とても安心感を抱かせてくれるラストノートだ。しかしそれゆえに、ミドルノートの抽象的なイメージが頭に残る。

「あれは何の花だったのだろう?」と気になってしまう。ミドルとラストで繋ぎ目は全く見せないのに、コントラストが効いている。

最後に残るものは安心感なのに、とても独創的。これは本当に凄い香りだ。

 

 その香りを包むボトルも斬新なものである。本来は日本酒のためにデザインされたボトルをここで使っている!

KENZO POWER

鏡面仕上げからは軽さと重量感の双方を感じるし、それだけではなく、

自分の顔や手が円柱状の鏡に映って歪んで抽象的になる様子がとても不思議。

下部に控え目に配されたロゴが素晴らしい。ここに紫色を使ってくるのが天才だ。

ここが黒なら物足りないものになってしまっていただろう。

紫色の字に加えて、原が描いた「架空の花」のイラストが印象的にボトル全体の

見かけを締めている。何度見ても感動してしまう、素晴らしいバランス。

ここに詳しくは書かないが、このボトルを包む箱にも凄まじい拘りがある。

同じく原の作品である「冬季長野オリンピック パンフレット」を思わせるシンプルな

デザインに、たくさんの遊び心が詰まっている。

裏返しのニット帽とTCK

 

 昨夜、北田暁大「広告の誕生」を読んでいたらいつのまにか4時になってしまった。

三時間寝てNHKラジオのオープニングテーマでいつも通り目覚める。

物凄い雨で外に出る気を失いかけたが、基礎演習のTAもどきをやらねばならないので用意して出発。

久し振りに電車で学校に向かう。車内でニット帽を裏返しに被っているお姉さんを発見。

わざとなのだろうか。「ポリエステル80%」「レーヨン20%」、ニット帽の材質が公に曝されているのだが・・・。

 

 とりあえず今日の基礎演習は面白かった。TCK (Third Culture Kids)についてのプレゼンを聞いたが、とても興味深いものだった。

『越境の声』という越境文学の対談集を最近読んだばかりだったこともあり、リービ英雄や水村美苗など、

越境文学の担い手たちが頭に浮かんだ。(リービ英雄の「星条旗の聞こえない部屋」は東大の現代文でも出題されたことがある)

越境文学の担い手たちの一つの核心は、「母国語でない言語で小説を書く」ことにあると思う。つまり「その言語への違和感」が

作品を書く動機の違和感になっていると言える。文学とTCKの関係について発表者の女性はちらっと触れたが、

TCKというよりは「越境」をキーにして調べていけば面白い研究が沢山見つかるのではないだろうか。とはいえ、

質疑応答でも述べられたように、TCKという区分は「誰にとってTCKなのか」という認識の問題を含んでいるため、定義が難しい。

昨年の基礎演習でも経験した「用語を定義することの難しさ」を再び味わっている。

 

 基礎演習後、アフター基礎演習のために初年次教育センター(通称:水族館あるいは動物園)へ。

今日のテーマはPowerPointの使い方の実習である。ちょこちょこ一年生にアドバイスしながら、スクリーンを自由に使っていいとの

ことだったのでMotion Dive Tokyoを使って「Power Pointの使い方」という動画をその場で作って映してみた。

それなりにウケたようなのでちょっと満足。Motion Dive は使い方次第で最強のプレゼンソフトになると思う。

昼、機構へ向かう。かっぱがまたもやお茶を淹れてくれる。昨日より味に厚みが出て、さらに美味しくなった。

口に含むと柔らかい苦さを感じ、喉を通るころにはふんわりとした甘さに変化する。かっぱやるなあ。

 

 四限の歴史はマルク・ブロックについての授業だが、ほとんど誰も聞いていない。

マルク・ブロックを自分で読んだり、仏語の勉強の時間に充てている。しかし、今日は一点とても面白い所があった。

ブロックの著書に「王の奇跡」というのがある。大体の骨子を以下に書いてみると、

「王の奇跡」とは、「王に触れてもらうと病気や怪我が治癒する」という俗信の事を指す。

中世において王の権威は不動のものと言う程ではなかったが、この「奇跡」のように呪術的権威は王のみが保持する権威であった。

王は「奇跡」という呪術的権威に依拠することで、人間的な観点ではなく神的な観点からその権威を強化していったのである。

奇跡を行う事が出来る、というのは、「他の一切の権力に優越するだけでなく、全く別個の次元に属する権力」の表れに他ならない。

  

というような感じである。重要なのは、この本を書くに至ったブロックの問題意識だ。彼の問題意識とは、

「王に触ってもらえば病気が治る、などという一見取るに足りない慣習が何故民衆に浸透していったか。」というものだ。

レジスタンスとして最後まで抵抗活動を続けた(最後はドイツ軍に捕まり銃殺刑に終わる)彼のアクチュアリティから考えたとき、

その問題意識は、

「どうしてナチスのような全体主義、一種の〈信仰〉に、民衆が惹きつけられていったか。」というところから来たものだと考えられる。

ブロックはその問題意識を、直接にナチスの全体主義を論考するのではなく、「中世に時代をずらす」ことで明らかにしようとした。

その結実がこの「王の奇跡」なのである。

 

 五限は金森先生のゼミ。今日はハンナ・アレントについて。これに関してはまた記事を改めて書くことにしよう。

なかなか密度の濃い一日だった。

  

 

5月8日、終日雨。

 

 たまには日記めいたものも書いておこう。 

今日は二限のソフトボールが雨でフットサルに変更となった。

フットサルとかサッカーは、中学・高校時代と部活ではないもののかなり熱心にやっていた。

そのため、久し振りのフットサルには燃えてしまった。

とはいえ「キーパーは手を使ってはいけない」という特別ルールは流石に酷い。足だけでキーパーチャージするのは至難の業だった。

 

 

 午後、友達の初マイボール選びを手伝う。Stormのセカンド・ディメンションとRotoのローグ・セルの二択で悩んだ末に

ローグ・セルに決定。どちらも良い球だと思うが、このシリーズは僕もセル・パールを使ってその良さを知っているだけに

ローグ・セルの方が印象が良かった。ついでにバッグも購入。やる気もセンスも十分な人なので、すぐ上手くなるだろう。

負けないように練習しなければ、と思いつつ、授業が終わってからは少し機構に顔を出して明日の基礎演習の内容について

先生と打ち合わせ。途中でかっぱがやって来て、お茶を淹れてくれた。静岡のお茶とのことだったが、雑味の無い

ふわっと甘みが広がるような優しい味で、大変美味しかった。かっぱありがとう。

 

 夕方は経堂ボウルで練習。

今日の練習では、回転軸の調整を意識して投げた。相変わらずドライなレーンなので、ソラリスを30キロぐらいで20枚目から出して

戻すラインを選択。体がほぐれてくると回転が乗り過ぎる気配があったので、縦回転の割合を増やした上でスピードを少し上げ、

12枚目ぐらいから8枚に出す。強い球を狭いラインで投げる練習になるのは勿論、これがバッチリはまったため、非常にいい感触で

練習を終える事が出来た。Soralisでこのラインを取ると、かなり安定してポケットに寄っていく。ピン前でのキレも素晴らしい。

 

本日のハイゲーム

 練習を終えてからは今日のメインイベントをこなした。

経堂ボウルに新しい料金システム(特別割引制度)を導入しては

どうか、という議論があって、そのモデルプランを支配人さんに

プレゼンした。(会長さんに「やってみろ」と言われたので)

僕の考えたものは、レジャーボウルとスポーツボウルの壁を薄くし、

スポーツ・ボウリングの裾野を底から広げることを目的としたプランで

「経堂ユース・クラブの創設」というものである。

数日練りに練った内容であるだけに、プレゼンの手応えも相当ある。結果が楽しみだ。

『病魔という悪の物語』(金森修 ちくまプリマー新書,2006)

  
 実在したチフスキャリア(健康な保菌者)であるメアリーを巡る話。
メアリーが隔離されたのは、彼女がチフスキャリアであったからだけではなく、社会的な背景があった事を説く。
ここにフーコーの議論を重ねたとき、すぐさま生権力論が想起される。
「正常」という状態を作り上げ、個人を「正常」な方向へ生かし、時に「正常でない」個人を排除する力学。
bio-politiqueあるいはbio-pouvoirを説明するための導入には最適な一冊であろう。
著者がゼミの教科書に指定したのも頷ける。

  
 僕は今、この本の筆者である金森先生のゼミに参加している。このゼミ(というより授業に近いが)は本当に良い。
今まで受けた授業の中で最も知的興奮を覚える。ニ時間あまりノンストップで手を動かしたくなる
(「動かさねばならない」、ではない。「動かしたくなる」のだ。)授業は、現実問題として大学においては珍しいだろう。
それは扱う内容が個人的に関心のあるフーコーやアガンベンといった思想家の思想にまつわるからだけではなく、
金森先生の語りが絶妙であるからだ。知識がとめどなく溢れ出す。しかもきちんと論理立っている。

 前回のゼミでは、フーコーの生権力論が応用された例としてナチスにまつわる問題を扱った。
書き始めると凄い量になってしまうから詳しくは別の機会に譲るとして、一つだけ前回の授業で学んだ事を書くにとどめる。
 

 なぜ、ナチスはあれほどまでのユダヤ人を殺し得たか。それには、虐殺の手法の変化を直視する事が必要である。

 
【当初】
突撃隊EinsatzGlupenにユダヤ人を集めさせ、森の方に連れて行き、先に掘っておいた穴の前に座らせて後頭部を打ちぬく。
そして穴に落とす。この方法で一日300人あまりのユダヤ人を虐殺した。しかし、これはまだ原始的な手法である。

 
【ポーランド侵攻期】
T4(ティーアガルテン四番地)作戦あるいは動物園作戦と呼ばれる手法が取られた。
ポーランドの重度の精神障害者を集めてきて収容する。夜中に患者の就寝している病室に一酸化炭素ガスを充満させて殺す。

ここで「安楽死」という概念が生まれる。つまり、重度の精神障害者は「生きるに値しない命」だと考えられ、生きるに値しない命は
「人道的理由から」奪ってもよいものと考えられた。これがいわゆる「Mercy Killing/Gradentod 慈悲的な殺し」の思想的基盤となる。
 
(1895  Adolf Jost “Das Recht auf den Tod” 「治療し得ない精神障害者は国家によって殺しうる」)
(2001 Adolf Hoche, “Die Freigabe der vernichtung lebensunwerten Lebens”  
直訳では、「生きるに値しない命を殺すということについての解除」。邦訳は「生きるに値しない命とは誰のことか」2001年)

 
ここに至って、ナチスは原始的な手法で殺していた初期と異なり大量殺害のノウハウを獲得するに至る。

 
【ユダヤ人へのT4作戦転用】
T4作戦で用いた手法、すなわち毒ガスを用いた大量殺害の手法をユダヤ人に転用する。
この手法では、「人が人を目の前で撃つ=その手で殺す」という作業が必要ではなくなる。集めて、部屋の外からスイッチを押す。
これは極めて合理的、系統的に殺しを行う手法である。ここに、銃で命を奪っていた頃とは決定的に異なる状況が生まれる。
すなわち、人を「平常心に限りなく近い状態」で殺すことが出来るようになった。極限状態になることなく、平常心に近い状態で殺しを行う。
いわば「事務的」に殺しを行う事が可能になったからこそ、ナチスはあれほどまでのユダヤ人を殺し得たのである。
(これがナチスの行った事で一番許し難い事である、と金森先生はおっしゃった。平常心で殺す状況が生まれたことから、ナチスの中には
「死体から金歯を抜きとる」という行為までが起こる。これが如何に酷い行いであるか。人を人とは見ていない!)
 
 
 他には
「ナチスに医者があれほどまでに協力したのは何故か。」
「ナチスの健康論とは何か。(決してナチスの時期は知的停滞期ではなかった。)
「ナチスの〈血〉と〈水〉に根ざした大地の思想と肉食への敵意の関連はどこにあるか」
「人種衛生学Rassenhygieneとは何なのか」などを学んだ。
近日中に理解したところを纏めてみたい。昨年より精読を続けている佐々木中 『夜戦と永遠』(以文社、2008)と合わせて、
フーコーに関する知識と理解をニ年の間に小論として組み立てる事が出来れば、と考えている。

 

益川敏英教授 講演会@駒場のお知らせ

 

知っている人は知っているかもしれないが、5月の9日の土曜日、午後二時から東大駒場キャンパス900番教室で

ノーベル物理学賞を受賞された益川教授の講演会が行われる。受付は12:30から900番教室前で。

先日の雁屋哲さんの講演会に続く「新入生歓迎講演会」の第二回としての位置づけである。

これらの企画で、僕は看板やら整理券やらを作る仕事を担当させてもらっている。

その関係で内部情報を色々知っているので、バラしても問題無さそうな事をここに書いておく。

①学生は650人ぐらいまで900番講堂に入ることが出来る。650人を超えた場合、別室で中継映像を見ることになる。

②整理券が12:30から配られる。おそらく席順は整理券の番号と対応する。つまり早い者勝ち。

③整理券を貰ってしまえばあとは2:00まで自由にしていられる。

 

きっと面白い話を聴かせて頂ける事だと思う。立花隆『小林‐益川理論の証明』には、益川先生が何を為されたかが

実に手際よく解説されているので、これを読んでおくと話が理解しやすくなるのではないだろうか。

『表象 3』 (表象文化論学会 月曜社,2009)

 

 表象の機関誌は毎回新刊が出るたびに買っている。確か第一号を買ったのは神戸で浪人していた頃だった。

まず表紙がとても目立つ色合いであった。(一号は白と赤。センターを空白にしたことで差し色の赤がとても効いている。)

それ以上に装丁に使っている紙にコダワリが感じられ、「さすが表象・・・やるなあ。」と分かったふうに感心した記憶がある。

将来的に表象文化論を専攻したいとまでは思わないのだが、僕にとって表象文化論という学問はどこか気になる存在である。

 

 さて、表象の第三号。ニ号と同様、生協で平積みしてあったのを見かけて買ってみた。

帰って早速読もうと思い、早々に家に辿り着き、いつものようにポストを開けて郵便物をチェックする。

いつもは不動産や宅配ピザの広告ばかりなのに今日は大きな茶封筒が入っていた。

送り主を見ると「表象文化論学会」 ・・・嫌な予感がする。

封を切ってみると、案の定、先ほど生協で買ったばかりの「表象 3」が現れた。

この瞬間の絶望した僕の様子は、それだけで表象文化論の分析対象となりえる程だっただろう。

学会に所属していると無料で一冊貰えるのを忘れていた。1800円もしたのに・・・(泣)

(どうでもいいが、『さよなら絶望先生』のフランス語版が出ているそうだ。タイトルは“Sayonara Monsieur Désespoir”

このタイトルだけ見ていると、何だか相当シリアスな読み物に見えてくる。カミュの『表と裏』にある

“Il n’y a pas d’amour de vivre sans désespoir de vivre.” 「生きる事への絶望無くして生きる事への愛はない。」

という文章を思い出す。内容的に、この漫画と通底する所があるような無いような。)

 

 

 嘆いていても漱石先生たちが逝ってしまった事実には変わりがない。気を取り直して読んでみた。

今回の特集は「文学」である。読み切って一番面白かったのは「文学と表象のクリティカル・ポイント」というシンポジウムの様子。

東浩紀と古井由吉(この人の本はまだ読んだ事が無い。近日中に読むことにする。)と堀江敏幸(とてもダンディな教授)の三人が

対談しているのだが、中でも「固有名詞の消えた文学」というテーマと、「漢字をパソコンで打ち込むことの特異性」というテーマが

興味深かった。「固有名詞の消えた文学」というのは、そもそも柄谷行人が村上春樹の小説を評した言葉である。

村上春樹の小説には確かに固有名詞があまり見られない。(もちろん、無いわけではない)

デビュー作『風の歌を聴け』にしても「鼠」や「小指のない女の子」という名前であったり、『羊を巡る冒険』でも「誰とでも寝る女の子」

なんて名前で登場人物が語られる。これはそれまでの「文学」という既存のディシプリンから外れるものだと言える。

そしてまた、「最近流行りのケータイ小説の文体は浜崎あゆみの歌詞と極めて似ている。」という速水健朗の指摘が紹介される。

(浜崎の歌詞の特徴は固有名がないことであり、そこにあるのは漠然とした「愛」や「悲しみ」となどの漠然たる一般名詞である。)

なるほど、この議論はとても面白いと思う。何が文学で何が文学でないのか、そもそも文学とは何なのか、という問題そのものだろう。

ここでは言及されていないのだが、ライトノベルはどうなのだろう?固有名詞が消えた「文学」なのか?

ライトノベルは逆に固有名詞を強調する「文学」ではないのか。

ライトノベルにおいては、「キャラが立っている」ことが要求されているのではないか。ライトノベルには一種RPGのゲームのような

性格があるように思う。そのキャラや世界に没入して、冒険や恋愛を繰り広げる楽しみ。例えばFF7のキャラクターの名前が

 

主人公=「僕」

途中で死ぬヒロイン=「ガール・フレンド」

片手が銃になった革命組織のリーダー=「片手が銃のおとこ」

主人公の幼馴染の女=「幼馴染のおんな」

人間の言葉が話せる獣=「ふしぎなどうぶつ」

(以下省略)

などという名前だったら、かなり面白くないだろう。

(いや、ある意味面白いかもしれない。FF9のガーネットに「田吾作」という名をつけて最後までプレイした奴が友達にいる。)

——————————————————-

~Aという村に着いて ~

ふしぎなどうぶつ 「ここが私の故郷だ。」

ぼく         「やれやれ。」

「まったくもって変わった町だね」、とガール・フレンドは言った。

「でも、あなたが住んでたことは理解できる。」

——————————————————-

ちょっとだけなら面白いが、こんな会話が最後まで続けば苦痛に思えてくるだろう。

 

 話がかなり飛んでしまったが、キャラを曖昧な一般名詞にしたままライトノベルを進めるのは難しいのではないか。

その意味で、ライトノベルは固有名詞を避けた作品群に組み入れづらいものだと考える。

 

 もう一点の「漢字をパソコンで打ち込むことの特異性」について。パソコンで文字を打ち、感じに変換し、文章を作る、という流れは、

「書く」というより「選ぶ」行為である。手書きで漢字を書くとき、我々は「漢字が書けない」「文字を忘れて立ち止まる」という

書くときのひっかりを多かれ少なかれ経験する。だが、パソコンを用いることによって、漢字は「ひらがなと同じ速度で画面上に

表示できる記号」になる。さらに予測変換機能の進化によって、「漢字の変換」は「文節ごとの変換」、さらには「文ごとの変換」となる。

「こまばじだい、たちばなせんせいにさまざまなくんとうをうけた」という文章であれば、「駒場」「時代」と変換していくのではなく、

全部打ち込んだあとで変換キーを押して「駒場時代、立花先生に様々な薫陶を受けた」と記述するようになるということだ。

 長くなってしまった。そろそろ終わりにしよう。

 今期の立花ゼミでは文学に関する企画が立ち上げられているが、このシンポジウムの内容は文学企画に関わる人にとって

有益なものになるはずだ。最初に書いたようにこの本は二冊持っているので、要るようでしたら次のゼミの時に一冊持って行きます。

 

Gardiner&BilsonのMozart Piano Concerto No.6,7&10

 

 GW最終日は残念ながら雨の一日になりそうだ。今日は大人しく家にいることにしよう。

 というわけで、開封したばかりのグァテマラで熱い珈琲を淹れたあと、棚からこのCDとスコアを引っ張り出してきた。

Mozart Piano Concertos No.6,7&10(Gardiner,Bilson,Levin,Tan)

 
 モーツァルトのピアノ協奏曲、6番と7番(三台ピアノ)と10番(二台ピアノ)。
グラモフォンより、1987年の録音。
ガーディナーの指揮で、ピアノはビルソンとレヴィンとタン。
いずれもフォルテピアノを用いた古楽演奏である。
  
 モーツァルトのピアノ協奏曲には数多く名盤があると思うが、
フォルテピアノを用いた演奏の中ではこれが一番好きだ。
軽やかでいて、陰影に富む。
さらっと駆け抜けるように聞こえて千変万化するニュアンス。
三台ピアノの掛け合いは聴いていて最高に気持ちいい。
10番の二・三楽章なんて何度聴いても飽きない。
 
  
 僕はこのコンビ(とりわけビルソン)のフォルテピアノの音を聴くたびに、
いつも「米」を思い浮かべてしまう。丸くてポロポロっとした音、ふわっと膨らんで
きそうな優しい音が白米のように感じるのだ。(七番の一楽章などは特に。)
グランドピアノで演奏した時の光る粒を転がすような音ではなく、
ここにあるのは艶消しされた乳白色の音の粒である。
管弦楽もザクザクっとした魅力に溢れており、決して重苦しくはならない。
 
 6番や7番などは他のピアノ協奏曲に比べてマイナーな部類に入るだろう。
だが、有名な20番や27番に負けない素晴らしい魅力を湛えている。
 
  
  
 是非聴いてみて下さい。雨の日でも思わず笑顔になってしまうこと請け合いです。
 
 
 

『情報都市論』(西垣通ほか NTT出版,2002)

 『情報都市論』を読了。

最近、都市論や都市表象分析に興味があるので読んでみた。かなり装丁に金のかかった本だ。

オムニバス的に構成されているため、一章ずつ概観する方が良いだろう。

 

 一人目の古谷誠章の「ハイパー・スパイラル」考想には、いきなり圧倒された。

建築を鉛直方向に伸ばすのではなく、斜め上方に延伸できるような構造を取る事で拡張しやすくし、

人間の移動にあたっても、鉛直方向ではなく水平方向への移動という性格を強める。地上高くまで展開された

二重らせん構造の建築など、考えてみたこともなかった。だが、これは本当に安全なのだろうか。

技術的な安全性は専門家に任せよう。問題は、精神的な安全性にある。

もし僕がこの建築のユーザーなら、正直恐怖を抱かずにはいられまい。「これで暮らしてみて下さい。」などというテスターのバイトが

あったら、相当条件が美味しくても遠慮したいと思う。これは、いわばジェットコースターの路線の上に暮らしているようなものだ。

下を支えている柱、、下を支える階、下を支える骨組が意識されるからこそ、我々は近代の高層建築に暮らし得たのではないか?

とはいえ我々は最初から高層建築に親しんでいたわけではない。ならば同様に、この新しい形に慣れる日がいつか来るのだろうか。

 

 ニ章の松葉一清「ウェブシティーを目指して」ではパサージュからストリップへの流れが示され、「ウェブシティー」という

新たな都市にまつわる試論が展開されている。一つだけ言いたいのは、飯田橋のウェブフレーム(大江戸線の緑の配管です)

について「自立的に伸長したと一目で分かる」とあるが、少なくとも僕は「自立的に伸長した」ものだとは分からなかった。

 

 三章の山田雅夫は「都市は拡張するのか、それともコンパクト化に向かうのか」で、情報化が都市という空間にどのような影響を

及ぼすかを考察しつつ、電子地図やCADの普及によって、「都市を俯瞰する視点」が市民レベルで共有できるようになったことを説く。

面白かったのは、東京から見て300キロの円の上(東京から片道ニ時間程度の行動範囲)にこそ立地の優位性が生まれてきており、

そこに位置する都市が広域鉄道網の結節点、結節点都市と考えられるということ。

このような都市は見方によっては東京の一部と呼んで差支えないと筆者は言う。

ちなみに以上に該当するような都市は、具体的には仙台、名古屋、新潟である。

 

 四章の石川英輔は、「江戸の生活と流通・通信事情」で江戸の都市事情を描く。中でも、情報伝達の中心は飛脚であったが

情報量が増えると手紙を送るようになった、という指摘は、当たり前ながら見逃せないものである。

 

 五章の北川高嗣は「新世代情報都市のヴィジョン」と題して、今後メディアがもたらす街づくりへの寄与の可能性を考察している。

個人的には、その可能性の考察より「コルビュジェの近代建築の五原則」や、ニュートン的世界観に対立する世界観としての

マンデルブローのフラクタル理論、ムーアの法則やメトカーフの法則といった知識事項を吸収するのに良いセクションだったと感じる。

(著者自身もあとがきで書いているが)文章と文章の繋がりや連関が薄く、幾分箇条書き的である点で、この章はやや読みづらい。

 

 六章の隈研吾は「リアルスペースとサイバースペースの接合に向けて」の中で「建築物を消去した建築」について語っている。

ゾーニングでもシルエットでもなく床への書き込みによって、外部を内部へ取り込み内部を外部へ流出させるという試みは、隈研吾の

仕事に通底するものだと思う(岩波新書「自然な建築」を読んでもそれが見て取れる)が、これにはいつも興味を惹かれる。

何より、隈は文章が上手い。一つ気になったのは「20世紀とは室内の時代でありハコモノの時代であった」のくだり。

モード、とりわけ女のモードの歴史について集中的に調べていた時に、「女にとって19世紀は室内の時代であった」という

フレーズを見つけたことがあるだけに一瞬違和感を感じた。(確かベンヤミンのテクストか何かだったと思うが)

ここで隈が言う「室内の時代」は19世紀、女が社会的に押し込められていたものとはまた異なり、建築されたオブジェクトによる

人間の「構造的押し込め」であったと理解するべきであろう。

 

 第七章の若林幹夫「情報都市は存在するか?」は大変参考になるセクションだった。マクルーハンとヴィリリオのテクストを手がかりに

情報都市のヴィジョンを双方の視点から議論にかける。議論の過程で取り上げられる首都と都市の違い、電話というメディアの

両義的性格(遠さと近さ)などにはハッとさせられた。

 

 西垣通による第八章「ブロードバンド時代の都市空間」は、アクロバティックな芸当が見られる章である。

今まで挙げた論者たちの論考・主張を満遍なく用いて本書のまとめを構成している。軸になっているのは

「ツリーからリゾームへ/定住からノマドへ」(これはドゥルーズを彷彿とさせる)、「ユビキタスとコンパクト化」の二つである。

この本の書き手はみな立場を微妙に(あるいは大きく)異にしているにも関わらず、それら多様な意見を上手く集約させて

「まとめ」を書いてしまう筆力は凄い。得る物の多い本であった。

珈琲礼賛

 

 

「コーヒー。ブラックで。」

 

 

 この台詞を違和感なく言えるようになったのはいつだっただろうか。

 

 中学の頃には、ブラックコーヒーなんて苦いタールみたいだと思っていた。

中学の頃の僕は紅茶派でしかも甘党だったから、多い目のミルクと砂糖、それに濃い目に淹れた紅茶の組み合わせで紅茶を飲むのが好きだった。

時々コーヒーを飲むことがあっても、ミルクと砂糖の大量投入は欠かせなかった。

とはいえ「ブラックで飲む」という行為は僕にとって大人な行為に映っていたし、正直言えばブラックで飲むことに多少の憧れを抱いていた。

女の子と喫茶店に行った時にはやはりシブい顔をして「コーヒー。ブラックで。」と頼むのがクールに違いない、とか真剣に考えていた。

残念ながら男子校の僕にそんな機会は訪れなかったが、たまに気取ってブラックを頼んでみるうちに、いつしか苦さへの抵抗は薄れていった。

 

 高二になって生徒会誌作成の激務に追われるようになってからはただ目覚ましの為だけにブラックコーヒーが必須になった。

カフェイン含有量はミルクを入れようが変わらない。しかし、ブラック特有のあの香りと、口に残る鋭さが頭を覚醒させてくれるように感じた。

 

 本当にブラックコーヒーを美味いと思えた瞬間と場所を、僕ははっきりと覚えている。

 

 それは、通い詰めていた出版社の近くにあった一軒の喫茶店だ。

薄暗くとても古風な佇まいで、表の看板には「コーヒー、褐色の魔女。」と書いてあった。一人だけで店を切り盛りするマスターが、

今ではあまり目にしないサイフォン式のドリップでコーヒーを出してくれる。(ケーキセットにすれば絶品の自家製フルーツタルトもついてきた。)

初めてこの店を訪れたとき、僕は史上最強に悩んでいた。いくら考えても表紙のデザインが思いつかない。

ぼんやりとは浮かぶのだけど、あっという間に拡散してしまう。そんなことを愚痴って時間を潰していた。

迷惑な客だったに違いないが、マスターは話を親身に聞いてくれたし、何時間でも居座らせてくれた。

途切れた会話の合間に飲む珈琲は美味しかった。

 

 そんな日が何日か続いた。

 

 転機は、ある平日の午後にやってきた。

その日は台風が過ぎた翌日で空が本当に綺麗だった。あんまり綺麗だから、いつものカウンターとは違う小窓の近くに席を取って、

いつも通りのコーヒーを頼んで表紙のデザインを考えていた。返却されたばかりの物理のテストにラフスケッチを書きまくる。

相変わらず僕は晩年のピカソが左足で書いたような絵しか書けない。絵心の無さに泣けてくる。

アイデアにも煮詰まってコーヒーに手をやったその時、褐色の珈琲の表面に青い空が映っているのが見えた。幻影だったかもしれない。

ともかく僕は慌ててコーヒーを流し込んだ。

この空を飲み干せば何かが閃きそうな気がしたからだ。

 

 

 青い空を浮かべたコーヒーは最高に美味しかった。

                                

                                        (つづく・・・?)