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『表象 3』 (表象文化論学会 月曜社,2009)

 

 表象の機関誌は毎回新刊が出るたびに買っている。確か第一号を買ったのは神戸で浪人していた頃だった。

まず表紙がとても目立つ色合いであった。(一号は白と赤。センターを空白にしたことで差し色の赤がとても効いている。)

それ以上に装丁に使っている紙にコダワリが感じられ、「さすが表象・・・やるなあ。」と分かったふうに感心した記憶がある。

将来的に表象文化論を専攻したいとまでは思わないのだが、僕にとって表象文化論という学問はどこか気になる存在である。

 

 さて、表象の第三号。ニ号と同様、生協で平積みしてあったのを見かけて買ってみた。

帰って早速読もうと思い、早々に家に辿り着き、いつものようにポストを開けて郵便物をチェックする。

いつもは不動産や宅配ピザの広告ばかりなのに今日は大きな茶封筒が入っていた。

送り主を見ると「表象文化論学会」 ・・・嫌な予感がする。

封を切ってみると、案の定、先ほど生協で買ったばかりの「表象 3」が現れた。

この瞬間の絶望した僕の様子は、それだけで表象文化論の分析対象となりえる程だっただろう。

学会に所属していると無料で一冊貰えるのを忘れていた。1800円もしたのに・・・(泣)

(どうでもいいが、『さよなら絶望先生』のフランス語版が出ているそうだ。タイトルは“Sayonara Monsieur Désespoir”

このタイトルだけ見ていると、何だか相当シリアスな読み物に見えてくる。カミュの『表と裏』にある

“Il n’y a pas d’amour de vivre sans désespoir de vivre.” 「生きる事への絶望無くして生きる事への愛はない。」

という文章を思い出す。内容的に、この漫画と通底する所があるような無いような。)

 

 

 嘆いていても漱石先生たちが逝ってしまった事実には変わりがない。気を取り直して読んでみた。

今回の特集は「文学」である。読み切って一番面白かったのは「文学と表象のクリティカル・ポイント」というシンポジウムの様子。

東浩紀と古井由吉(この人の本はまだ読んだ事が無い。近日中に読むことにする。)と堀江敏幸(とてもダンディな教授)の三人が

対談しているのだが、中でも「固有名詞の消えた文学」というテーマと、「漢字をパソコンで打ち込むことの特異性」というテーマが

興味深かった。「固有名詞の消えた文学」というのは、そもそも柄谷行人が村上春樹の小説を評した言葉である。

村上春樹の小説には確かに固有名詞があまり見られない。(もちろん、無いわけではない)

デビュー作『風の歌を聴け』にしても「鼠」や「小指のない女の子」という名前であったり、『羊を巡る冒険』でも「誰とでも寝る女の子」

なんて名前で登場人物が語られる。これはそれまでの「文学」という既存のディシプリンから外れるものだと言える。

そしてまた、「最近流行りのケータイ小説の文体は浜崎あゆみの歌詞と極めて似ている。」という速水健朗の指摘が紹介される。

(浜崎の歌詞の特徴は固有名がないことであり、そこにあるのは漠然とした「愛」や「悲しみ」となどの漠然たる一般名詞である。)

なるほど、この議論はとても面白いと思う。何が文学で何が文学でないのか、そもそも文学とは何なのか、という問題そのものだろう。

ここでは言及されていないのだが、ライトノベルはどうなのだろう?固有名詞が消えた「文学」なのか?

ライトノベルは逆に固有名詞を強調する「文学」ではないのか。

ライトノベルにおいては、「キャラが立っている」ことが要求されているのではないか。ライトノベルには一種RPGのゲームのような

性格があるように思う。そのキャラや世界に没入して、冒険や恋愛を繰り広げる楽しみ。例えばFF7のキャラクターの名前が

 

主人公=「僕」

途中で死ぬヒロイン=「ガール・フレンド」

片手が銃になった革命組織のリーダー=「片手が銃のおとこ」

主人公の幼馴染の女=「幼馴染のおんな」

人間の言葉が話せる獣=「ふしぎなどうぶつ」

(以下省略)

などという名前だったら、かなり面白くないだろう。

(いや、ある意味面白いかもしれない。FF9のガーネットに「田吾作」という名をつけて最後までプレイした奴が友達にいる。)

——————————————————-

~Aという村に着いて ~

ふしぎなどうぶつ 「ここが私の故郷だ。」

ぼく         「やれやれ。」

「まったくもって変わった町だね」、とガール・フレンドは言った。

「でも、あなたが住んでたことは理解できる。」

——————————————————-

ちょっとだけなら面白いが、こんな会話が最後まで続けば苦痛に思えてくるだろう。

 

 話がかなり飛んでしまったが、キャラを曖昧な一般名詞にしたままライトノベルを進めるのは難しいのではないか。

その意味で、ライトノベルは固有名詞を避けた作品群に組み入れづらいものだと考える。

 

 もう一点の「漢字をパソコンで打ち込むことの特異性」について。パソコンで文字を打ち、感じに変換し、文章を作る、という流れは、

「書く」というより「選ぶ」行為である。手書きで漢字を書くとき、我々は「漢字が書けない」「文字を忘れて立ち止まる」という

書くときのひっかりを多かれ少なかれ経験する。だが、パソコンを用いることによって、漢字は「ひらがなと同じ速度で画面上に

表示できる記号」になる。さらに予測変換機能の進化によって、「漢字の変換」は「文節ごとの変換」、さらには「文ごとの変換」となる。

「こまばじだい、たちばなせんせいにさまざまなくんとうをうけた」という文章であれば、「駒場」「時代」と変換していくのではなく、

全部打ち込んだあとで変換キーを押して「駒場時代、立花先生に様々な薫陶を受けた」と記述するようになるということだ。

 長くなってしまった。そろそろ終わりにしよう。

 今期の立花ゼミでは文学に関する企画が立ち上げられているが、このシンポジウムの内容は文学企画に関わる人にとって

有益なものになるはずだ。最初に書いたようにこの本は二冊持っているので、要るようでしたら次のゼミの時に一冊持って行きます。

 

Gardiner&BilsonのMozart Piano Concerto No.6,7&10

 

 GW最終日は残念ながら雨の一日になりそうだ。今日は大人しく家にいることにしよう。

 というわけで、開封したばかりのグァテマラで熱い珈琲を淹れたあと、棚からこのCDとスコアを引っ張り出してきた。

Mozart Piano Concertos No.6,7&10(Gardiner,Bilson,Levin,Tan)

 
 モーツァルトのピアノ協奏曲、6番と7番(三台ピアノ)と10番(二台ピアノ)。
グラモフォンより、1987年の録音。
ガーディナーの指揮で、ピアノはビルソンとレヴィンとタン。
いずれもフォルテピアノを用いた古楽演奏である。
  
 モーツァルトのピアノ協奏曲には数多く名盤があると思うが、
フォルテピアノを用いた演奏の中ではこれが一番好きだ。
軽やかでいて、陰影に富む。
さらっと駆け抜けるように聞こえて千変万化するニュアンス。
三台ピアノの掛け合いは聴いていて最高に気持ちいい。
10番の二・三楽章なんて何度聴いても飽きない。
 
  
 僕はこのコンビ(とりわけビルソン)のフォルテピアノの音を聴くたびに、
いつも「米」を思い浮かべてしまう。丸くてポロポロっとした音、ふわっと膨らんで
きそうな優しい音が白米のように感じるのだ。(七番の一楽章などは特に。)
グランドピアノで演奏した時の光る粒を転がすような音ではなく、
ここにあるのは艶消しされた乳白色の音の粒である。
管弦楽もザクザクっとした魅力に溢れており、決して重苦しくはならない。
 
 6番や7番などは他のピアノ協奏曲に比べてマイナーな部類に入るだろう。
だが、有名な20番や27番に負けない素晴らしい魅力を湛えている。
 
  
  
 是非聴いてみて下さい。雨の日でも思わず笑顔になってしまうこと請け合いです。
 
 
 

『情報都市論』(西垣通ほか NTT出版,2002)

 『情報都市論』を読了。

最近、都市論や都市表象分析に興味があるので読んでみた。かなり装丁に金のかかった本だ。

オムニバス的に構成されているため、一章ずつ概観する方が良いだろう。

 

 一人目の古谷誠章の「ハイパー・スパイラル」考想には、いきなり圧倒された。

建築を鉛直方向に伸ばすのではなく、斜め上方に延伸できるような構造を取る事で拡張しやすくし、

人間の移動にあたっても、鉛直方向ではなく水平方向への移動という性格を強める。地上高くまで展開された

二重らせん構造の建築など、考えてみたこともなかった。だが、これは本当に安全なのだろうか。

技術的な安全性は専門家に任せよう。問題は、精神的な安全性にある。

もし僕がこの建築のユーザーなら、正直恐怖を抱かずにはいられまい。「これで暮らしてみて下さい。」などというテスターのバイトが

あったら、相当条件が美味しくても遠慮したいと思う。これは、いわばジェットコースターの路線の上に暮らしているようなものだ。

下を支えている柱、、下を支える階、下を支える骨組が意識されるからこそ、我々は近代の高層建築に暮らし得たのではないか?

とはいえ我々は最初から高層建築に親しんでいたわけではない。ならば同様に、この新しい形に慣れる日がいつか来るのだろうか。

 

 ニ章の松葉一清「ウェブシティーを目指して」ではパサージュからストリップへの流れが示され、「ウェブシティー」という

新たな都市にまつわる試論が展開されている。一つだけ言いたいのは、飯田橋のウェブフレーム(大江戸線の緑の配管です)

について「自立的に伸長したと一目で分かる」とあるが、少なくとも僕は「自立的に伸長した」ものだとは分からなかった。

 

 三章の山田雅夫は「都市は拡張するのか、それともコンパクト化に向かうのか」で、情報化が都市という空間にどのような影響を

及ぼすかを考察しつつ、電子地図やCADの普及によって、「都市を俯瞰する視点」が市民レベルで共有できるようになったことを説く。

面白かったのは、東京から見て300キロの円の上(東京から片道ニ時間程度の行動範囲)にこそ立地の優位性が生まれてきており、

そこに位置する都市が広域鉄道網の結節点、結節点都市と考えられるということ。

このような都市は見方によっては東京の一部と呼んで差支えないと筆者は言う。

ちなみに以上に該当するような都市は、具体的には仙台、名古屋、新潟である。

 

 四章の石川英輔は、「江戸の生活と流通・通信事情」で江戸の都市事情を描く。中でも、情報伝達の中心は飛脚であったが

情報量が増えると手紙を送るようになった、という指摘は、当たり前ながら見逃せないものである。

 

 五章の北川高嗣は「新世代情報都市のヴィジョン」と題して、今後メディアがもたらす街づくりへの寄与の可能性を考察している。

個人的には、その可能性の考察より「コルビュジェの近代建築の五原則」や、ニュートン的世界観に対立する世界観としての

マンデルブローのフラクタル理論、ムーアの法則やメトカーフの法則といった知識事項を吸収するのに良いセクションだったと感じる。

(著者自身もあとがきで書いているが)文章と文章の繋がりや連関が薄く、幾分箇条書き的である点で、この章はやや読みづらい。

 

 六章の隈研吾は「リアルスペースとサイバースペースの接合に向けて」の中で「建築物を消去した建築」について語っている。

ゾーニングでもシルエットでもなく床への書き込みによって、外部を内部へ取り込み内部を外部へ流出させるという試みは、隈研吾の

仕事に通底するものだと思う(岩波新書「自然な建築」を読んでもそれが見て取れる)が、これにはいつも興味を惹かれる。

何より、隈は文章が上手い。一つ気になったのは「20世紀とは室内の時代でありハコモノの時代であった」のくだり。

モード、とりわけ女のモードの歴史について集中的に調べていた時に、「女にとって19世紀は室内の時代であった」という

フレーズを見つけたことがあるだけに一瞬違和感を感じた。(確かベンヤミンのテクストか何かだったと思うが)

ここで隈が言う「室内の時代」は19世紀、女が社会的に押し込められていたものとはまた異なり、建築されたオブジェクトによる

人間の「構造的押し込め」であったと理解するべきであろう。

 

 第七章の若林幹夫「情報都市は存在するか?」は大変参考になるセクションだった。マクルーハンとヴィリリオのテクストを手がかりに

情報都市のヴィジョンを双方の視点から議論にかける。議論の過程で取り上げられる首都と都市の違い、電話というメディアの

両義的性格(遠さと近さ)などにはハッとさせられた。

 

 西垣通による第八章「ブロードバンド時代の都市空間」は、アクロバティックな芸当が見られる章である。

今まで挙げた論者たちの論考・主張を満遍なく用いて本書のまとめを構成している。軸になっているのは

「ツリーからリゾームへ/定住からノマドへ」(これはドゥルーズを彷彿とさせる)、「ユビキタスとコンパクト化」の二つである。

この本の書き手はみな立場を微妙に(あるいは大きく)異にしているにも関わらず、それら多様な意見を上手く集約させて

「まとめ」を書いてしまう筆力は凄い。得る物の多い本であった。