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「OCEAN TRIBE」を観た。

 

 ウィル・ガイガー監督による「OCEAN TRIBE」を観た。

いやー、いいですよこれ。本当にいい。どんなラストシーンが用意されてるか分かってるのに、やっぱりラストで泣ける。

五月祭前日だというのに朝三時まで食い入るようにして観てしまいました。

「ブラームスの弾けるサーファーは彼一人だ」なんて五人を紹介していく冒頭のシーンもいいし、

病院から誘拐してくるシーンもスリリングでたまらない。高校生のころみたいにはちゃめちゃな悪ふざけ。

馬鹿みたいに明るい五人だけれども、それぞれにそれぞれの悩みを抱えているし、死を目の前にした人間とそうでない人間の

間にはどうやっても埋まらない距離があるのを感じさせてくれる。

「病院での六年より、海での一分の方がいい」と叫ぶボブを誰が止めれるだろうか。

 

 サーフィンのシーンも実に効果的に使われている。

 「水に浮かんでいると体が無限に広がっていく気がした。明けの明星を見ていると、空より高いところに登っていくようだった。

まるで空と海に抱かれているようだ。」という言葉は、波乗りをやったことがある人ならきっと理解できる言葉だろう。

サーフボードの上に寝て夕暮れの波間に浮かんでいると、空と海に挟まれて自分がいったいどこにいるのか分からなくなる。

自然や世界と肌で繋がる感覚、海を媒介に遥か彼方まで触れているような感覚、その一方で波に浮かぶ自分の小ささを感じる。

この映画からは、そういった自然への畏怖、海の大きさ、命のちっぽけさ、そんなものが良く伝わってくる。

訳には時々首を傾げる所がある(「ウィリアム・ブレイクの詩だ」と話しているところを「有名な詩だ」と訳していたり)ものの

セリフ回しも楽しいし、所作明け方のサーフ・シーンでイルカと遭遇するところの音楽をはじめ音楽も高水準。

揺れるようなカメラワークも波間に漂うような雰囲気に満ちていて良い。

 

 映画を観ていて、高二の時に友達と一緒に波乗りに行った時のことを思い出した。

青春十八切符で乗り継ぎ、海の最寄駅に着いたのが夜の12時前。駅から海までは山を二つ越えてバスで30分程度。

そんな距離を、真っ暗な中、ボードを背負って10人ぐらいで歩いた。夜中、ライトもあまり無い山道だったから、途中で

何度も車に轢かれそうになって、何とか山道を越えた時には冷たい汗でびっしょりになっていたのを覚えている。

浜辺に着いたのが朝3時。辺りはまだ真っ暗で、波が打ち寄せる音しか聞こえない。10人ぐらいで浜辺にシートをひいて、

他愛無い話をしながら、波の音に耳を澄ませて目を閉じた。波の音が近寄ってくるような気がして、慌てて起き上がって歩数で

波打ち際までの距離をみんなで交代して測り、その結果潮が満ちてきていることが判明して焦ったりしているうちに、

水平線の向こうがゆっくりと黒からブルー・ブラックに染まってくる。黒からブルーブラックへ、そして次第に明るい空色へ。

何重にも層のかかった青色と、どこまでも広がる海の黒。あのグラデーションと空にかかった月の綺麗さは一生忘れないだろう。

(ちなみに、航空幕僚長講演会のパンフレットに使った写真はこのとき撮ったものである。)

 

映画のレビューのつもりが違う話になってしまったが、とにかく、この映画は自然と生死について考えさせてくれる名作である。

自然との共生を説いた100の本を読むより、本映画を見たり波乗りをしたりする方が自然への畏怖を持つことに繋がるに違いない。

 

「ランジェ公爵夫人」を観た。

 

 ジャック・リヴェット監督による 「ランジェ公爵夫人」を観た。

手短に感想を言ってしまえば、これはたいして面白くなかった。

バルザックの小説を映画化したものであるから仕方無いと言えば仕方無いのだが、持ってまわったようなシーンが長々と続いて

段々と飽きてくる。一言喋るごとに公爵夫人が立ち位置を変えるのをずっと見ていると「何だかなあ」と思わずにはいられない。

読み飛ばせる小説と異なり、映画はどのシーンも同じスピードで見るものだから、そこに緩急がつけられないのは苦痛であった。

まあそれはともかく、最後まで見終わって、この映画の通奏低音は映画論的な用語で言うところの「不在」ではないかと感じた。

公爵夫人と将軍の関係は将軍が夫人の前から姿を消した時(=第一の不在)に逆転する。そしてまた、後半で将軍の前から

公爵夫人が姿を消した時(=第二の不在)、再び逆転する。求める相手が不在だからこそ一層求め、捜し求める。

このように不在が強く表象されているのは、将軍と夫人の二者関係だけではない。種類の違う不在が表れている。すなわち、

恋愛は恋愛する当事者以外にとっては無関心なものである、という「他者の不在」性が至る所に散りばめられている。

例えば、「毅然として」や「悲劇だ」という単語を乱発すると文学的になる、といって将軍の友達が笑う場面があるが、

その友達は知らずとも、「毅然として」「悲劇」などといった単語がまさに将軍と夫人のやりとりそのものであったことに我々は気づく。

恋愛が二者の中で完結している事をほのめかす、ある意味ではこの映画一番の名場面である。

つまり、恋愛は当人以外にとっては何の価値も持たないのだという事が暗示されているのだ。

ラストのシーン、「もう女ではないから海に捨ててしまえ」という場面も同様に考える事が出来るだろう。

詳しく書いてしまうとネタばれになるからこれぐらいにとどめておく。あまりお勧めしたいと思う作品ではありません。

 

集中力を駆使した一日

 

 火曜日は授業がほとんどないので、基本的に楽器練習dayなのだが、今日は趣味全開で生きた一日になった。

昼ごろから、クラスのK君と二人だけで下北沢の松山にてビリヤード。一人で行ったりするときにはキュー(メウチ)を持っていくけれど、

今日は公平を期すためにハウスキューで勝負した。K君は初心者よりちょっと上手いぐらいのレベルだったのに、この一年のうちに

中級者顔負けの実力に成長したため、気を抜くと簡単に負けてしまう。特にクッションの上手さは僕よりも遥かに上である。

 ビリヤード場は閑散としていて、僕ら二人以外の客はいない。薄暗い店の中に涼しい風が時々吹いて来てカーテンがなびく。

その中で闘うこと三時間。ナインボールのみ、合計21セット。

最初は交互にセットを取りあっていたが、途中僕がブレイクナイン含む6連勝したかと思うと、K君に5連勝を奪われたりする。

ひとつのミスが流れを大きく変えてしまう事をお互い肌で感じていた。言葉も少なくなり、段々本気ムードが高まってくる。

20セット終了後、まさかの10-10。時間との兼ね合いで、次のセットが最終ゲーム、つまり21セットマッチの勝敗になる。

大会でもないのに、21セット目は異常な緊張感で始まった。

連勝して流れに乗るK君のブレイク。彼はブレイクはあまり得意でないので、そこそこ無難に割れる。

僕も1-2-3と続けて落として4でポケットを外したので交代。ここでK君が打ったショットが試合をさらに緊張感あふれるものにした。

なんと、4番にあたって9番がサイドポケットギリギリの位置まで動いてしまった!!

ツノにタッチしていたから角度は限定されるとはいえ、僅かな力がかかった瞬間に落ちるのは誰が見ても明らかな状態。

9を直接狙いたいが、残り玉が非常にシビアな配置。スクラッチはお互いにとって即死を意味するから、絶対に避けねばならない。

5を慎重に狙いつつ、隙あらば9に持って行く形でネクストの6への位置取りを考える作戦を取った。

5-6と入れて7でチェンジ。まずい。7は長クッションにほとんどタッチしているが、クッションタッチギリギリの球をカットするのが

K君は異様に上手い。予想した通り、見事なフェザーカットで7をコーナーに沈められてしまった。残るは8-9のみ、そして9は

瀕死の状態である。物凄くマズイ。8を長クッションに入れて戻して9にかすめて9をシュートしようとするK君の渾身のショットは、

9の本当にギリギリ、触れたか触れなかったか分からないほどギリギリのラインで奇跡的に外れた。

チェンジ。僕が入れるならここしかない。外すと間違いなく次で取られる。

穴フリを考えながらドローショットで8をコーナーに落とす。ネクストもいい場所にいった。残るは9のみ。

これを外すと確実に負ける。21セットが水泡に帰す。久し振りに緊張でドキドキした。

撞点センター。力加減は中くらい。全力で集中して、9番をサイドに沈めた。

この瞬間の解放感といったら、並大抵のものではなかった。世界がバーっと明るくなるような、というと

もっとビリヤードが上手い方には大袈裟に思われるかもしれないが、ほんとうにそんな感じだった。

K君と再戦を誓い、下北沢を後にする。ビリヤードは楽しい。K君はじめクラスのみんなと出来るようになって良かった。

 

 夕方はボウリングのインストラクションを頼まれていたので、ちょっとしたコツを教えたり、ついでに僕も投げたりする。

初心者に毎回教えるのは、0:アプローチにあがるタイミングについて&リターンラックからボールを両手で取り上げることのススメ 

からはじまり、1:まずスパットを見ること 2:立ち位置を毎回意識すること 3:手を握手するように振り切ること 4:左手の使い方

を教える。これだけでかなり安定する。そのあと、実戦で個別のスペアの狙い方に入り、癖が分かってきたら助走のタイミング改善と

プッシュアウェイの出し方を教える。ここまでがスムーズに出来れば、あとは投げているうちに自然と出来るようになってくる。

少なくとも、今までガターに投げ込んでばかりでいた人は滅多に溝掃除をやらなくなるだろう。そしてピンの狙い方が分かれば、

ボウリングが持っているスポーツ的な楽しさを理解してもらえるようになる。

今日レッスンした人も、どうやらボウリングの楽しさにハマってくれたようで嬉しかった。

ついでに投げていた僕は、今日はハイシリーズ675(220-220-235)で中々の調子。ビリヤードで集中力を高めた効果か。

220の二回はいずれも5フレでスペアミス(予想以上に中が先客によって伸ばされていた。判断ミス。)しているから、これが無ければ

700シリーズだったのに、と悔やまれてならない。まあ隣に入ったおじさんたちと仲良くなったから今日は良しとしよう。

前にも書いたが、ボウリングの醍醐味は、多様な年齢層、様々な所属の人と接点を持つ機会にこそある。今日も楽しかった。

 

 ちなみに、本日を持って22歳になってしまいました。20歳ぐらいまでの誕生日はメモリアルな感じがしたけれど、それを超えると

記念的な要素が突然減ってしまいますね。「やったーゾロ目だー!」と喜んでみても虚しくなるだけですし(笑)

聞くところによると立花先生は明日が誕生日だとか。明日のゼミは誕生日記念ディナー(仮)に行くため欠席するので、

立花先生お誕生日おめでとうございます、と今日のうちにここで書いておくことにします。ゼミ生の方、よろしくお伝えください。

これまでの経験や出会いを大切にしながら、新しいことにも沢山挑戦しつつ、22歳を振りかえる価値ある時間にしたいと思います。

 

Joint Security Areaのレポートを出してみた。

 

 今日はソフトボールがフットサルに変更だったので、朝は体育館へ。

雨上がりのあとの体育館は蒸し暑くて、かなり不快指数の高そうな気配が漂っていたが、

和気あいあいとフットサルとドッジボールを楽しんだ。そういえば、体育館に移動するまえに、

この授業が一緒の人から「ブログやってますよね。」と言われてビックリした。話を聞いてみると

駿台で塚原先生(リンクを貼って頂きました)の授業を受けたことがある人らしく、塚原先生のホームページから

このブログに飛んできたらしい。世界は狭い。

 三限は政治の授業だが、毎回自主休講にして自分で政治学の本を読んだり関係ない本を読んだりして休憩している。

今日はついついまた生協で本を買ってしまった。

S・ワインバーグ『宇宙創成はじめの三分間』(ちくま学芸文庫,1993)

金森修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(NHK出版,2003)

門脇俊介『フッサール 心は世界にどうつながっているのか』(NHK出版,2004)

の三冊である。NHK出版の二冊は、哲学のエッセンスシリーズの本だが、前に読んだ檜垣立哉のドゥルーズが良かったので

もっと読んでみようと思って買ってみた。ベルクソンの方はすでに半分ぐらい読んだが、半分の時点でかなり面白い。おすすめです。

書籍購入後、四限で提出するためのレポートを印刷した。「映画を見て、思ったところを800字で述べよ」という課題だったのだが、

800字でA4に書いてみたところ下半分が余ってしまい、何ともやる気のなさそうな見かけのレポートになった。

フォントを大きくするという手もあったのだが、あんまり大きいフォントは見栄えがよろしくないので、フォントは通常のまま提出。

内容的にはこんな感じ。

 

【Joint Security Areaを見て】

この映画を見て、まず最初に私は「南北が分断されていることの虚しさ」と、「それを統合することの難しさ」を感じた。

頻繁に映る板門店の境界線。こんなに北と南は近いところにあるのに、すぐ向こうも見えるのに、入ることはできない。

入れば戦争が待っている。分断線を越えた瞬間に戦争が始まる緊張感をこの映画から感じた。

(それは分断線が映るシーンだけでなく、地雷を除去するシーンにおいても顕著である。)

  

 近いのに遠くて、見えるのに入れない。

だが、共産主義と資本主義といったように、イデオロギーが全く異なる国家であっても、人間は人間なのだ。

 

映画の中にも描かれていたが、人間は美味しいものには惹かれるし、美しい女性を見てはみな声をあげて羨ましがる。

 

銃を構え、時に人を殺すことを日常とした限界状況にあっても、人間は人間らしさを持っていて、イデオロギーの違いなど

 

関係なしに同じ人間として話しあうことが出来るに違いない。ちょうどラストのモノクロの写真において、奇跡的に一枚の

 

写真に収められたあの四人の視線が同じ方向を向いているように。映画は悲しい結末に終わってしまうが、

 

Qui n'avance pas recule.

 

 朝からずっと、某所より頼まれている原稿を書いている。現在3万文字まで書いたのだが、3万字を超えたあたりで急速に

筆が進まなくなった。ついでに携帯もバグったようで、電源が入ったり切れたりする。非常に不便である。

というわけで気分転換に音楽。テンションの高いものが弾きたくなったので、映画『海の上のピアニスト』で

ジャズ勝負のシーンで主人公の相手が弾いていたThe Craveを弾く。思いっきりjazzyに崩して弾く。

テンポがin tempoだとかrubatoがどうとか、そんな事を全く無視して弾きたいように楽しく弾く。ただただ小気味いい。

テンションが上がってきたので、一か月前ぐらいから書いている曲の続きを作ってみる。今日はなぜかガンガン書ける。

一通り書けるとこまで書いて、弾いたり打ち込んだりしてみると、何かのある曲と似ているような気がしたので、それらしい

曲をCDとスコアの山から探しまくる。見つけた。なんとムソルグスキーのボリス・ゴドゥノフ 第三幕第一場のalla mazurkaだ。

マイナーとは言え、ちょっと悔しいので破棄。新しくまた書いているうちに、明日の情報メディア伝達論で映画Joint Security Area

に関するレポートを提出せねばならないことを思い出し、一息に書く。なかなか良いのが書けたのでここに載せようかと思ったが、

載せたものを誰かがコピペして明日提出するようなことがあったら面白すぎるので自重する。

それにしてもレポ800字は短すぎる。8000字の聞き間違いではないかと不安になるが、あってますよね?

 

 そんなこんなで『日本の時代史17 近代の胎動』(吉川弘文館, 2003)を読了。

今からビリヤードかボウリングに行きたい気分だが、日曜日+雨のコンボでどちらも混雑しているに違いない。

明日のプロとの再戦に備え、今日はゆっくり家でドイツ語でもやろう。

Warte nie bis du Zeit hast!

  

谷川俊太郎+吉村和敏『あさ』(アリス館,2004)

 

 谷川俊太郎による詩と吉村和敏による写真とのコラボレーション、『あさ』を読んだ。

「ひかりにくすぐられて」なんてフレーズには流石の一言。「朝のリレー」という詩の中盤、

 

この地球では

いつもどこかで朝がはじまっている

ぼくらは朝をリレーするのだ。

経度から経度へと

そうしていわば交替で地球を守る

 

には「いいなあー」と呟かずにはいられない。

写真も朝の光やグラデーションを見事にとらえた透明感に溢れるもので、詩との相性が素晴らしい。

最後に置かれた「美しい夏の朝に」を読んでいるうちに、ランボーのAube「黎明」を思い出した。

 

J’ai embrassé l’aube d’été.

Rien ne bougeait encore au front des palais. L’eau était morte. Les camps d’ombre ne quittaient pas la route du bois. J’ai marché, réveillant les haleines vives et tièdes, et les pierreries se regardèrent, et les ailes se levèrent sans bruit…

 

(僕は夏の黎明を抱きしめた。

宮閣の奥ではまだ何物も動かなかった。水は死んでいた。陰の畑は森の道を離れなかった。

僕は歩いた、鮮やかな暖かい呼吸を呼びさましながら。

すると宝石たちが目をみはった。そして翼が音なく起きいでた。…)

 

ランボーの詩とともに、「よがあけて あさがくるっていうのは あたりまえのようでいて じつは すごく すてきなこと」

という谷川俊太郎のあとがきが深く染みてくる。

 

リンクについて

 

 このブログをはじめてからもう二週間以上経つ。知り合いの方をはじめ、かなり色々な方が見て下さっているようだ。

ほとんどは日本からのアクセスだが、フランス・アメリカ・タイからのアクセスも何件かあった。(検索で引っかかっただけかもしれないが)

と同時に、受験生や一般の方からメールでご質問をいくつか頂いたりもしている。

メールでの質問に対しては、これからも出来る限り、答えられる範囲で返信していくつもりなのでお気軽にどうぞ。

頂いたご質問の中に「自分のページにリンクを貼っていいか」という内容のものがあったので、この機会にリンクについて書いておく。

 

このブログはもともと立花ゼミの一環として作られたものであるから、立花ゼミの「見聞伝=見たい、聞きたい、伝えたい」という

趣旨にある程度合致するものでなければならないと思っています。

そして、「伝える」という行為を担うもの、色々な人に向けて発信する場の一つとして僕はこのブログを位置づけています。

というわけで、このブログに関しては公序良俗に反するサイトや年齢認証を必要とするサイトで無い限り基本的にリンクフリーと

しますが、リンクを貼って頂ける際は kimoto_d_oあっとyahoo.co.jp まで御一報下さると大変嬉しく思います。

 

 

宇宙とテキーラ・サンセット

 

 とてもいい天気だ。光と風が気持ちいい。空を見上げると雲が凄いスピードで動いている。駒場は緑が多くて好きだ。

一限の基礎演習の手伝いを終え、アフター基礎演習のため初年次教育センターへ。

質問などを受け付けつつ、合間に昨日の読書録を書いておくことにする。

昨夜はひたすらフレッド・アダムズ+グレッグ・ラフリン『宇宙のエンドゲーム』(ちくま学芸文庫,2008)を読んでいた。

ニ時間ほど読んでいると飽きてきたので、ここぞとばかりにテキーラサンセットを作ってアルコールを摂取する。

思いっきり冷やしたロングカクテルが美味しい季節になってきた。グレナデンシロップの赤色(ちょっと入れすぎた)が、本の

表紙の色と合っていて何だかとても綺麗である。

宇宙のエンドゲームとテキーラサンライズ

 

 

カラフルな表紙とお酒に合わせるべく、Motion Dive を

起動してカラーエディタが映るよう写真を撮ってみた。

『宇宙のエンドゲーム』はまだ七割ほどしか読んでいないが

文章が非常に分かりやすくて良い。セクションの見出しが

秀逸である。コラムに、高校地学でおなじみのHR図の解説

が載っていて懐かしい思いをした。

 

 

 

 

 なお、これと並行して池上嘉彦『記号論への招待』(岩波新書,1984 )を読了。この本が記号論入門の古典と呼ばれて久しいのは

知っていたが、実際に読んだことは無かった。やっと読んでみて、これはスラスラ読める本ではないなとの感想を抱いた。

書かれている内容は表題通り記号論の概説である。だが、内容が詰まっているだけに、さっと流して読める本ではない。

書かれた年代ゆえに、今の記号論で流行りの「メディアの記号分析」などは書かれていないが、記号論を手際よく、しかし

じっくりと紹介してくれる。内容にまで踏み込んだレビューは見聞伝(立花ゼミのメインサイト)の『僕らはこんな本を読んでいる』

コーナーにいずれ書くことにしよう。このブログ内で書いた本のレビューは順次あちらのコーナーへ移していくつもりだ。

 

 次の授業はマルク・ブロックを自分で読む授業。その次の金森ゼミで、今日は何を(誰を)扱うのかが楽しみである。

「その他」であるということ

 

 周りから見ていると分からないかもしれないが、進振りが迫ってきたいま、僕は真剣に進路を悩んでいる。

やりたいことが多すぎる。ずっと前から分かってはいたことだが、おそらく進振りの直前まで悩み続けることになるのだろう。

 

 だが、誤解を恐れず言ってしまえば、どこの学部に行くかというのは大した問題ではないと思っている。

「東大なんたら学科卒」という看板を外しても、社会でしっかりと生きれるような人間になりたい。

校内を歩いていると目に入る、ドリームネットというサークルが主催している交流会のポスター、自分-東大=?というキャッチコピー。

もう少し目立つようにデザインすればいいのに、と残念になるぐらい、このコピーは重要な意味を持つものだと思う。

自分から東大という名前を取ったときに何が残るか。今、たとえばここで突然東大が消滅し、自らの所属が無になるような状況が

生まれたとき、自分は何を拠り所にして生きるか。

大学という所属を持っていると、所属しているというだけで安心感が生まれる。

そして、次第にそれに依拠してしまいがちである。(五月病なんてのもその一種だと考えられるかもしれない。)

 

 予備校に所属する事もなく、自習室を借りて二浪していた時、とても貴重な経験をした。

どこにも属していなかったから、何かの証明書に記入する時には、高校生でも大学生でも社会人でも学生でもない

「その他」に丸をつけることになる。この恐怖といったら!!

宙ぶらりんの恐ろしさ、当り前のように踏んでいた足場を外されたときの言葉にしがたい恐怖。

自分は何者でもない。学んでいるわけでも働いているわけでもない単なる「その他」である。

だが、「その他」でしかないのか、と気づいたとき、「最強のその他」になろう、という目標が生まれた。

失うものは何もない。どこかを除籍されることもなければ、呼び出されることもない。誰にも何にも所属しない中でも自信を持って

自己を確立できるように、どこにも属さない貴重な時間を使って出来る限りのことをしなければならない。

ひとまず大学に所属するようになった今でも、その気持ちは変わっていない。

どこに進学するにせよ、究極的には東大が突然あした消滅したとしても、社会で逞しく生きていける人間になりたい。

 

 

数か月後の進振りで些末な事象に拘泥して道を見失ってしまわないよう、数か月後の自分に向けて書いておいた。

マスクと視線の生政治

 

 今日は法Ⅰが休講になったので出席すべき授業がほとんど無くなった。

家で一日ゆっくりしていようかと思ったが、宇宙科学のレポートを返却してもらう必要があるのを思い出して学校へ行く。

帰ってきた宇宙科学のレポートはA++で、妙に満足感を味わった。

 

 休講、と書いて思い出したが、関西では休講及び休校が相次いでいると言う。原因はもちろん豚インフルエンザの流行だ。

(個人的に豚インフルをTONFULと呼んでいる。TOEFULと掛かっている感じが気に入っている。草食系男子、などという無理やりな

ネーミングよりもよっぽどいい名前ではないかと思うのだが、いかがでしょう。)

僕の母校もどうやらしばらく休校になった様子。休校になった高校生たちがカラオケに殺到して大行列、などというニュースを

耳にしたが、自分も休校になったらついつい遊びに出たくなるような気がして、あまり批判できたものではない。

さらに、この未曽有のTONFUL事件に対応して、マスクの売り上げが前代未聞なことになっていると聞く。

ヤフオクで10倍ぐらいの値段で取引されているそうだ。値段の跳ね上がり方にもビックリしてしまうが、そもそもオークションで

マスクを買う、という行いが為されていること自体驚きである。

大学でいくつかの授業を受けている限りで言えば、教授たちは今回のTONFUL騒動に懐疑的というか「メディアが騒ぎすぎ。」

という意見を持っていらっしゃる方が多いように感じている。病理学の知識が無い僕にはTONFULの実際の危険性が分からないので

果たしてメディアが騒ぎすぎなのかどうかは何とも言えないが、この機会にちょっとばかりこの事件について考察を加えてみたい。

 

 それは、今回のTONFUL事件は、まさにフーコー的な視点で分析してみる価値のある事件ではないか、ということだ。

少し前に『チフスのメアリー』という本を紹介したが、TONFUL事件はこの本で描かれていることと極めて近い状況にあるようにも思われる。

TONFULが発病している関西でマスクをしている人たちは

「マスクをしても防げないのは分かっている。でもマスクをしていないと他人から嫌な目で見られるからマスクをしている。」

と話しているらしい。つまり、菌を避けるのではなく、他者からの視線を回避するためにマスクを着用しているのである。

「自分が保菌しているか分からんけど、何にせよとりあえず他人に移さないように努力しています。」

ということを表象しようとしているのだ。(断わっておくが、マスクをつけるべきだという論調を非難している訳ではない。)

このように他者からの視線によって埋まれる「権力」、それはまさにフーコー的な「権力」の図式の最たる例ではないか。

フーコーが述べた権力の図式とは、La Volonté de Savoir 知への意思 によれば、

 

1.権力は無数の点から出発し、不規則で一定しない諸関係によって成立するゲームの中で機能する。

  揺れ動く諸関係の中でそのつど創り出されるものである。

 

2.権力の諸関係は、経済、学問、性といった現象が生み出している諸関係の外にあるものではなく、

    そうした諸関係の中に創り出されている。あらゆる社会現象の中に権力関係が存在するのである。

 

3.権力は下部からくる。支配するもの、されるものという古典的二項図式は否定される。社会の基盤にある家族や社会、

    サークルなどの小集団のなかで生み出される力の関係が、全体を統括する権力関係の基礎となる。

4.権力をふるうのは特定の個人でも組織でもない。あくまでも諸関係の中で、その作用によって権力が行使される。

 

といったものである。

マスクをつけていない人に対して冷ややかな目を注ぎ、マスクをつけろよ、という視線の暴力で

個人の自由( 「マスクなんかつけなくてもいいのでは」 )を侵犯する。

それはまさに、上からの権力ではなく、集団の中で生み出された権力、生政治bio-politiqueではないだろうか。

 

 などと考えつつ、五月祭の模擬店の前売り券を作成した。前売り券はその場で使い捨てるようなものなので

デザインに凝る必要はないのだが、ついつい凝ってしまった。安田講堂前の大通りでやってるので皆さん是非来て下さい。

もしかしたら五月祭自体がTONFUL事件で中止になってしまうかもしれませんが。

なお、本日は山川出版社の『新体系日本史2  法社会史』と福島章『子どもの脳が危ない』(PHP新書,2000年)を読了。

詳しいレビューは、ゼミのページにある、『僕らはこんな本を読んでいる』企画の中に書こうと思っている。