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『サブリミナル・マインド -潜在的人間観のゆくえ』(下條信輔 中公新書,1996)

◆要旨

本書は、著者下條信輔の東京大学における一連の講義のまとめ直しという形式をとっている。

最初に下條は、「人は自分で思っているほど自分の心の動きを分かっていない」というセントラル・ドグマを立て、それに沿って

知覚心理学、社会心理学、認知科学などの分野にわたる種々の理論を紹介してゆく。それとともに、様々な実験を引用して例証

しつつ考察を深めてゆく。まず「認知的不協和」や「自己知覚」の理論をあげて、自分自身の態度を我々が決める時というのは他人に

ついて推論する時と似たやり方をとっている事を述べる。次に「情動二要因理論」を用いて、自分の身体の変化を何らかの原因に

「帰する」認知プロセスが重要だと説く。しかしこのような認知プロセスの結果に至る過程はしばしば我々が自覚できない点を強調して

いる。続いては「分割脳」という症例をあげ、この症例から脳の組織体としての統合の緩やかさや個々の部分のサブシステムとしての

独立性を示すことで脳と認知の研究にも切り込んでゆく。次にカクテル・パーティー効果やサブセプション、知覚的防衛などの閾下知覚

の諸研究をあげて先の章で取り上げた神経心理学の諸症例との近似を見出す一方で、盲視覚や半側無視といった症例と閾下知覚の

諸研究から導き出されるものとはまた違った一面を持つということをも述べる。続く第七講はサブリミナル・コマーシャリズムを扱い、

八講では自発的行為を扱うというように、ここからは潜在的認知プロセスに拘束される人間にとっての「自由な行動」とはどのような

ものかという問に対して多様な角度から光を当てる試みが展開される。七講では、自由な行為は本当に自由か疑わしく、意識されない

部分=サブリミナルな部分で自由は完全な自由ではなくなってしまっているのではないか、メディアに情動を操作されてしまっているの

ではないかと問いかけ、八講では人間以外の動物やコンピューターと人間を分ける最もはっきりした違いが潜在過程と顕在過程との

ダイナミックな相互作用という点にあるのではないかと主張する。以上から導き出される第九講では、行為論と法という視点に

潜在認知研究からのアプローチを行い、「故意」という概念に疑問を投げかけ、また続いて「責任」という概念にも潜在認知研究からの

疑問を提示する。社会潜在的・暗黙的な心的過程の存在が規範体系に対して複雑で重大な問題を提起する事を示すためである。

そして、ラディカルな行動主義を方法論的には支持しつつも反面で自覚的意識の存在をも支持するというスタンスを改めて表明する。

最後に、序で述べた「時代の人間観をつねに更新し、また時としてそれと対立し切り結ぶのが、心理学、人間科学の役割ではないか」

という筆者自身の信念に対応する形で、「時代の人間観が崩壊の瀬戸際にあるのではないか」と提言するとともに、

「このような危機的状況を救う洞察もまた、潜在的精神を探求する人間科学の周辺からやってくるのではないか」という展望によって

全章を結んでいる。

 

◆インプレッションと+α

「自由」や「我思う故に我あり」といった近代社会の個人という概念の根幹を、豊富な事例と研究データーから揺さぶりにかかる

この書はとてもスリリングだった。「人は自分の認知過程について、自分の行動から無自覚的に推測する存在である」という人間像の

提出には、なるほどと頷かずにはいられない。

第九章p.282にある「心理学-刑法学-行為と倫理の哲学、この三者の境界に、前人未到の広大な問題領域が存在している」という

一文から、この領域について考察してみたいと最初は思ったのだが、筆者の主張には全面的に同意するものの、三者全てに知識が

不足する今の僕には重すぎる。ましてやブログにさらっと書けるような内容にはなりそうにもない。というわけで、情動と潜在認知を

テーマに進む本書の中で、僕がとりわけ興味を引かれた(同時に恐れを覚えた)第七章、すなわちメディアによる情動のコントロールと

いう論について取り上げてみることにする。(以前行われた著者の講演会から学んだ内容と本書とを総合した内容になっている。)

 

 コマーシャリズムに乗せられたくない、コマーシャリズムに自らの思考を規定されたくないという意思は誰しもが少なからず持っている

だろう。しかし、実際に抵抗できているのか?という疑問を昔から抱いていた。反発は容易に出来る。繰り返されるコマーシャル

(場合によっては、同じCMを連続でリピートする!)には嫌気が差すだろうし、選挙カーの名前連呼は耳について不快に感じる人も

多いはずだ。だが下條は研究データーから、「好感度は単純に繰り返されればされるだけ、一律に増大する」

「繰り返し見せられるほど機械的に好感度も増大してしまう」という結果を見せる。そしてこのことよりもさらに衝撃的な一文が後に

続いている。「はっきりした再認記憶がある場合よりも無い場合のほうが効果が大きいという可能性が指摘されている」と。

これは一般に理解されているものと正反対だろう。僕自身、CMは記憶にヴィヴィッドに焼き付いてこそCMたり得ると感じていた。

しかし下條の述べるように帰属説を援用(「いや、自分の場合はコマーシャルの影響などではない、自分本来の好みなのだ」)すれば、

潜在記憶に刷り込むCMが強力であることが理解される。頭にリフレインされるCMには抵抗を覚えるが、このように潜在記憶に

刷り込まれたCMは意識しないだけに全く抵抗できないからだ。その意味ではこのように潜在記憶に語りかけ、情動に転化させる

コントロールに対して我々に何が出来るだろうか。

そう、何も出来はしない。例えばマクドナルドの椅子は硬い。長居しづらくすることで回転率を上げることを狙ってそうなっているのだ。

というような話を知っていたとしても実際に抵抗することは難しいだろう。座り心地が悪ければそう長くないうちに自然と立って

店を出るはずだ。そしてその時に、「椅子が硬かったからではない、外の空気を吸いたかったからだ」などと、別原因に帰属させてしまう

ことになる。だがしかし当の本人は自由な行動をとったつもりでいる!

こう考えていくと現代では消費者として完全に「自由」でいることは不可能なのかもしれない。

今や、意識される拘束と意識し得ない拘束が我々を取り巻いている。

B.Schwerzが“The Paradox of Choice”で述べているように、現代は「過剰な選択」にあふれている。そしてそれは表面的には安定

を与えるが、潜在的な不安を人間に与える。その潜在的な不安をコマーシャリズムは狙っている。現代コマーシャリズムの本質は、

論理的な説得を目指すものではなく、ブランドイメージの定着や意味の連想を期待するものでもない。

古典的-道具的という二種類の条件付けか、あるいはサブリミナルに訴える単純呈示効果にこそ本質がある。

いまやコマーシャリズムは、人間の非常に抵抗しづらい部位の狙撃者となった。

 

 では、高い情動価を持って潜在認知に訴えてくるこのようなコマーシャリズムに、我々は具体的にどう対応しえるのか?

答えは出ない。だが、少なくとも、情動と潜在認知に訴えかけることがコマーシャリズムの本質であると理解することから抵抗の第一歩

が始まるはずだ。自由と制御が並存する(ここには何の矛盾もない。現代人の意思決定はますます状況依存的になっている。

そのことは自由と制御の接近、重複を意味してしまうという事が本書で十分に述べられていた。)近未来社会を出来る限り

「自分として」生きていくためには、まず情動と潜在認知という概念に対する深い理解を持つ以外に方法は考えられない。

情動と潜在認知―それは自分という「個」の証の一つである「創造性」の源泉を担う可能性を持ちつつも、

他者によって容易に動かされてしまう可能性を持つ要素なのだろう。

 

(「影響力の武器」と「サブリミナル・マインド」の書評は、以前書いた原稿を編集しました。いつもと雰囲気が違うのはそのせいです。

この二冊、どちらも非常にお勧めです。合わせて読むと理解が深まるんじゃないかと思います。)

 

『影響力の武器 ―なぜ人は動かされるのか 第二版』(ロバート・B・チャルディーニ 誠信書房,2007)

◆要旨

「だまされやすい人間」であった筆者が三年間にわたる参与観察を行うことで、承諾誘導は六つの基本的カテゴリーに分類できることを

発見した。すなわち、返報性・一貫性・社会的証明・好意・権威・希少性の六つである。この六つに豊富な例をもとに解説を加えてゆく

という形式をとっている。人間の社会的行動の不可思議な側面は社会的影響の原理によって理解できることを示そうとしたものであり、

実験室で行う実験のみにデーターをとどめず、実際の社会に例をもとめている点が本書の白眉であろう。

 

 【返報性】という概念は「お返し」をせねばならないという意識から承諾してしまう性質を指し、拒否したあとには譲歩するという

ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックにも代表される。【一貫性】(と、コミットメント)という概念は自分の言葉、信念、態度、行為を一貫した

ものにしようとする性質で、承諾の決定に対して一貫性への圧力が過度に影響することを明らかにする。

 

 【社会的証明】という概念は不確かさと類似性の二つの状況において最も強く働くもので、状況があいまいな時人は他の人々の行動に

注意を向けそれを正しいものとして受け入れようとする性質と、人は自分と似た他者のリードに従う性質を持つということである。

ここから、誤った社会的証明に影響されないために、類似した他者が行っている明らかに偽りの証拠に対して敏感であること、

類似した他者の行動だけを自身の行動決定の基礎にしてはならぬことなどが述べられている。

 

 【好意】という項では、人は自身が好意を感じている知人に対してイエスという傾向があることを示し、身体的魅力がハロー効果を

生じさせるため魅力的な人の方が影響力が強いことを述べる。そして、承諾の決定に対して好意が不必要な影響を及ぼすことを

防ぐのに有効な戦略は要請者に対する自分の過度の好意に特に敏感になることだと説く。

 

 続く【権威】の項ではミルグラムの実験を下に、権威からの要求に服従させるような強い圧力が社会に存在することを示すとともに、

権威の三シンボルである肩書き、服装、装飾品が承諾を引き出す際に及ぼす影響に考察を進める。最後に【希少性】という概念に触れ、

人は機会を失いかけるとその機会をより価値あるものとみなすことを示し、希尐性の原理が商品の価値の問題だけではなく、

情報の評価のされ方にも適用できることを挙げる。そして希尐性の圧力に対して理性で対抗するのは困難であるという結論に至る。

 

 終章では「自動的で何気ない承諾」に関しても考察を加える。

現代の生活は情報が溢れ選択の幅が爆発的に拡大しただけに、認知の過剰負担の傾向が強まっていて、それに比例して我々が

簡便な意思決定を行いがちだと説き、承諾誘導を狙う者に対する知識を身につけよと主張して全編を閉じている。

 

◆インプレッション

本書を読んだのは少し前になるが、忘れられない一冊だ。眼を惹く色遣いとダイナミックに白抜きで配したタイトルに惹かれ、

生協でこの本を買ってきて、一気に食堂で読みきった。全編にわたって膝を打たずにはいられない例、そして納得してしまう解説。

チャルディーニによる六つの分類に、自らが経験してきた事例がピッタリと当てはまりすぎて、もはや騙されないための分類に

騙されているような気分に陥るほどだ。スーツと小物類を買う時の例であげられているコントラストの原理は至るところで経験するし、

返報性のルールのために知らず知らずのうちに恩義を感じてしまう事は日常的だ。チケットの値段が書いていないからといって

電話をする(=コンサートに対する最初のコミットメントを行ってしまう)なんて、つい先日したばかりだ。

残る項目も、みな身に覚えのある例で埋め尽くされていて、人事のように読めない。ここに挙げられた例以外でも、読み進めるうちに

沢山の例が思いついた。例えば、第四章まとめにある「不確かさ」の説明。

「自分が確信を持てない時、あるいは状況が曖昧な時、他の人々の行動に注意を向け、それを正しいものとして受け入れようとする。」

これこそが、カンニングの本質ではないだろうか。正しい根拠などどこにもないのに、自分に自信が持てないからという理由で

他の人の答案が正しいものとして受け入れる所作こそがカンニングであろう。

気になったのは第三章「コミットメントと一貫性」のP.149で述べられている、「他集団と差別化して自らの集団の連帯意識を持続させる

ことに腐心する集団においては、苦難を要求するような加入儀礼は簡単になくならない」という一文。これは大学の入試にも

言えることではないか。もちろん、大学の入試の目的が「他集団と差別化しての自らの集団の連帯意識の持続」にあるわけでは

ないだろう。だが、結果として、入試は「連帯意識の持続に繋がる苦難に満ちた加入儀礼」になっているように僕には思える。

一定のレベルを確保するため、あるいはその大学の求める教養を身につけて入学してもらうためなどといった言説を入試に被せても、

結果として加入儀礼の意味を失うことはこれからもないのではないか。

 

第七章の希少性については身につまされる思いで読んだ。

個別性の感覚が現れて来る年代にあるから仕方ないと慰められようが、自らの過去の行動を振り返ってみると、いかに自分が

今まで「数量限定」や「最終期限」などの承諾誘導の戦術に乗せられていたことか!「希少性の圧力に理性で対抗するのは困難」と

あるが、その事実を知っただけでも対抗の一手段にはなりえるはずであるから、このことを常に意識せねばならぬと思った。

人を動かす手段は善悪双方でこれからも応用され、そして情報が溢れる現代に蔓延していくだろう。

その中で本書の主張する六つの分類の視点を持つことは、影響力の武器に対する武器になるに違いない。

 

Jeder für sich und Gott gegen alle  「カスパー・ハウザーの謎」 試論

 

  「カスパー・ハウザーの謎」という映画がある。昨年、僕はこの映画を表象文化論のある教授に見せて頂き、レポートを書いた。

枚数制限もあったし書くのに使える時間もそう長くはなかったのでたいしたものではないが、せっかくなのでここにあげてみようと思う。

レポートのタイトルは、「カスパー・ハウザー、絶対の孤独」という。

 

【1】異質なものへの距離

 言葉にしがたい後味を残すこの映画は、カスパー・ハウザーという一人の「純粋な」人間を通して、階級やジェンダー、論理や

宗教といった既存の常識や社会への批判を投げかけるものである。その中でも宗教に投げかける懐疑や皮肉の強さは特筆される

だろう。カスパーが体を洗ってもらって「見なさるのは神様だけ」と言われる時、外の動物がしっかりとカスパーを見ているし、話が少し

進むと「とにかく信じるんだ!疑うことよりまず信じる事が大切だ!」とカスパーに信仰を押し付けようとする牧師が登場したりする。

その直後のシーン「賢いリンゴ」はエデンの園の話を踏まえた皮肉のように思われるし、「聖歌が恐ろしい叫びに聞こえた」とカスパーが

言うシーンも存在する。何よりもJeder für sich und Gott gegen alleという原題がそもそも宗教批判ではないか。

とはいえ批判を投げかけるだけではない。人間という存在とは一体何か、自分自身の問題として考えてみよというのが監督である

ヘルツォークの問題提起であろう。ラスト近く、カスパーが水面に自らを映し、水面を波立たせることで水面に映った自身の姿を揺らす

シーンはそのことを表しているのではないだろうか。それにしても、異質なものに対する人間の醜さは凄まじいものがある。

見世物小屋のシーンで世界四大神秘なるものを見に来る観客は、次第に身を乗り出して好奇と侮蔑の眼差しを注ぐ。

(注:見世物にされる4人には共通点がある。それは言葉から疎外されているということだ。 一人目のプント王国の王様なる人物は、

そもそも話す機会を与えられない。 二人目の穴(ドン・ジョヴァンニが最後に落ちる地獄の事か)に思いを馳せるモ少年は読み書きを

覚えられなかった。 三人目の笛を吹く男は先住民の言葉以外話せないうえ、先住民の言語を観客の目の前で話すよう強制され実際

に発話する事で、言葉からの疎外を一層明らかにする。 四人目のカスパーは言うまでもなく言語を自由に操ることができない。)

調書を取る人物は、終始一貫してカスパーを記述できる形に収めようとし、解剖を経ては

「ハウザーに異常が発見された、ついにあの奇妙な人間に証明がついた、これ以上見事な解明はない」

と言って喜んで帰路に着く。彼らだけでは無く、カスパーを取り巻く人物は、どんなにカスパーを大切に思っているように見えても、

ふとした拍子にカスパーとの距離を見せてしまうことになる。例えば、

 

 1.言葉を教える子供ユリウス・・・救貧事業に取り組んだカエサル(=ユリウス)と同名なのがまず面白い。女の子が歌を教えるとき、

彼は窓際の高い所からカスパーと少女(とカメラ)を見下ろして、「単語しか知らないから歌はまだ無理だよ。」と切り捨てる。

 

 2.ダウマー・・・いつもカスパーを大切にしているように見えるが、全面的にカスパーを大切にしているのではない。

早世した若者たちの名前を読み上げるシーンで彼が単なる慈善家であることがわかる。決定的なのはラスト近く、カスパーが

刺されて血みどろでやってくるシーンでの彼の行動だ。彼は手に持っていた本を開けたまま閉じようとも置こうともしない。

では、本を置くのはいつか?それはカスパーを、襲われた現場のベンチにもたせかけた時だ。ダウマーはここで、カスパーを

支えるためではなく、ただポーチを拾い上げるためにようやく本を置くのだ。そして、カスパーが血まみれでいるにもかかわらず、

ダウマーはこう言う。 「まず包みをみてみなきゃな。」

 

【2】音楽

さて、次に本映画における音楽に少しばかり考察を加えてみたい。この映画では、音楽がとても印象的に使われるだけではなく、

ストーリー的にも重要な意味を持つ。たとえば、カスパーは貴族に紹介されるシーンで「音楽は我々を道徳的に高めるとともに人格形成

に役立つ」と言われたことを受けて、モーツァルトのへ長調ワルツを弾く。音をはずし、リズムもアクセントもめちゃくちゃに。

このめちゃくちゃなモーツァルトの演奏は、カスパーの人格形成が周囲の期待したようなものでは無い事を表象する。

最も印象的なのはやはり、映画のはじまりと終わりで流れるモーツァルト「魔笛」中の「なんと美しい絵姿」のアリアだろう。

なぜ、この変ホ長調のアリアがここで使われているのか。このアリアの歌詞を見る事でその理由が明らかになる。

オープニングで流れる歌詞は、このアリアの最初、すなわち Dies Bildnis ist bezaubernd schonから始まり、

Wie noch kein Auge je geseh’n! Ich fuhl’ es, wie dies Gotterbild. Mein Herz mit neuer Regung fullt.までである。

映画の終わりではこの次の歌詞からアリアが歌いだされる。つまり、 Diess Etwas kann ich zwar nicht nennen! から始まり、

Doch fuhl’ ichs hier wie Feuer brennen. Soll die Empfindung Liebe seyn? Ja, ja! [...]