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La jeunesse, c'est la passion pour l'inutile.(Jean Giono)

 

 しばらく映画の紹介や本の紹介が続いたので、日記めいた記事も書いておこうと思う。今日は二限がハンドボール。

前日はピストン/デヴォート『和声法』P.453,454の実習課題(半音階的変異和音の導入)を書いているうちに朝三時ぐらいに

なってしまったうえ、ラジオ講座でドイツ語、フランス語の勉強をしようと早起きしたため、時々眠気に襲われつつ試合に臨んだ。

しかし、試合が素晴らしい内容(みんなの動きが本当に良かった。パス回しもサイドの使い方も。)になったため、自然と目が覚めて

ゴールを守ることに集中。サイドからのシュートを防ぐポジショニングを見つけ、シュート一本のみに抑えて勝利したので、

かなり充足感を味わうことが出来た。最初の授業で気分が良くなると一日幸せになれる気がする。

 

 三限は英語二列。前回訳を当てられたのでしばらく回ってくることはないだろう、と踏んで、授業を聴きつつ

購入したばかりの隈研吾『反オブジェクト  建築を溶かし、砕く』(ちくま学芸文庫,2009)を読みまくる。またレビューはあげるが、

目次だけ見ても相当面白い本である。表紙の装丁に使われた写真はどこかマグリットの絵を思い起こさせる。

 

 四限は表象文化論。この学会に所属している身として毎回真剣に聞いている。この講義ではバレエやコンテンポラリーダンスを

切り口にして、精神分析や身体論に射程を広げた内容が話されている。毎回予定とは違う方向に脱線しているようだが、

脱線していく方向が面白くて(今日は「薔薇の精」からセクシュアリティの話に広がった。)そのアドリブを楽しんでいる。

バレエを見ていると、カルロス・クライバーの指揮姿がバレエの動きに極めて近い事に毎回気づく。レポートのテーマにしてみたい。

 

 授業終了後、勁草書房のフェアを自分への言い訳にして、ずっと欲しかった『生命科学の近現代史』を生協で購入。

そののちイタリアン・トマトにて三時間ほどドイツ語をやった。フランス語ばかりやっていると、中性名詞に違和感を感じる。

je(ドイツ語では「イェ」と読む)を文中で見つけても「ジュ」(フランス語の「私=I」に相当する)としか読めない体になってしまった。

早急にドイツ語に頭を戻すべく、6月はドイツ語自主インテンシブ期間に決めた。どこまで続くか分からないが。

 

 ひとしきり勉強すると体を動かしたくなるので、いつものように経堂ボウルへ練習に出かける。今日はフォーム自体に大きな問題は

無かったように思うが、ライン取りに迷ってしまった。ソラリスで狭く攻めようとすると珍しくタップの嵐。ならばとブラックパールで

大きく出して戻すラインを選択すると、鋭くキレて裏側へ。ラインの引き出しは結構ある方だと思うので色々試してみたのだが

どれもしっくり来ない。今はストライクになったけど次は残りそうな不安感が消えないピンアクションが多くて悩まされた。

結局、縦回転メインにしてソラリスを5枚目まっすぐでスピード上げて投げるラインがベストだったようだ。レフティの王道ラインである。

スコアは最後まで200前後をうろうろしてビッグゲームに繋がらなかったが、今日はビッグフォーをカバー出来たのでそれで満足

することにしよう。明日朝一の基礎演習TAもどきに備えてそろそろ寝なければ。今日も実り多い一日だった。

 

『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ 江口清 訳 角川文庫,1978)

 

 何を今さら、という感じかもしれないが、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周 Le tour du Monde en Quarte-vingts Jours』を

読んだ。小学校の時に図書館で借りて読んで以来だから、これを読むのは十年ぶりぐらいである。

再読した理由はまあ色々とあるのだが、十年ぶりで読むと昔と楽しみ方が全く変わっていることに気づいた。昔読んだ時は

賭けの結果が気になるのは勿論、この旅に出てくるユニークな登場人物たちの動きや会話を追うことに集中していた事を覚えている。

「パスパルトゥーもフォッグ氏もかっこいいなあ」、とか、「意外にアウダ夫人強いな」、とか、「そんなオチありかよ」とか。

今読んでみると、そうした登場人物たちの動きが極めてオペラ的であることに気付かされる一方、なによりもヴェルヌの描写力に

驚かされる。人物の描写よりも場所の描写が巧みで、時代を反映してステレオタイプなところはあるにせよ、様々な地域を「それらしく」

描いている。この小説から風景描写を全て省いてしまえば、いくら登場人物たちのドタバタが面白くても味気ないものになってしまうに

違いない。この小説が書かれた当時と違い、今や世界を一週間すらかからず廻ることが可能な時代になったが、世界を一日で

回ってしまってはこのように豊かな風景・地域描写は不可能になってしまうだろう。

そういう意味では、80日間で世界を廻る時代というのは非常に豊かな時代だったのかもしれないな、と読後にふと思った。

 

『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(金森修 NHK出版,2003)

 

 NHK出版から出ている哲学のエッセンスシリーズの『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(金森修,2003)を読了。

このシリーズは150ページ足らずの薄い冊子の中に思想が手際よく纏められているので大変重宝している。

今回のベルクソンは僕があまり触れた事の無い哲学者だったが、サブタイトルの「人は過去の奴隷なのだろうか」と著者に惹かれて

購入して読んでみた。いやあ・・・これはこのシリーズの中でも相当いいんじゃないでしょうか。名著だと思います。

ベルクソン特有のタームが平易に噛み砕かれており、『負の生命論』などに見られるような厳しい文章を書く金森先生の文章とは

思えないぐらい、本書はやさしく語りかけてくる。純粋持続に関する章も面白かったが、一番面白かったのは「知覚」に関する章。

(ベルクソンの知覚論は彼の「純粋持続」という概念に立脚しているので、両者はバラバラのものではない。)

 ベルクソンにとっての知覚とは、

 

「物そのものに人間の感覚器官が働きかけ、対象に人間の側から何かを足すことではない。それどころか知覚とは、本来ははるかに

複雑で流動的な物の総体から非常に多くのものを抜き去ること、引き算すること、無視することである。」(本書P.67,68)

 

こうあるように、ベルクソンの哲学における知覚とは引き算なのだ。我々が世界のあらゆる事象、周りを取り囲むもの全てを

認識してしまっては、家から大学へ行くという日常的な行為においてすら、困惑せずにはいられまい。知覚は微細な運動や変化を

無視することによって、だいたいの輪郭やだいたいの様子をまとめあげる。知覚はある種の省略なのである。

そして、省略法としての知覚と同様の働きをする行いが【ことば】に他ならない。「家から大学へ行く」という行為を

「家を出て電車に乗って駒場東大前駅で降りる。」と言語化した時、本来的な流動の世界の混沌(実際に「家から大学へ行く」という

行為において直面する色々なこと。たとえば鍵を閉めたり車をよけたりSuicaにチャージしたり改札機にタッチしたり…etc)を

明瞭化し、単純化している。「ベルクソンにとって、言語とは、持続する世界を放擲して、この複雑な世界のなかをある程度

的確に動き回るのに十分なだけの素描を固定し、決定するための装置である。」(同書P.72)

では、知覚でも言語でもない「記憶」はベルクソン哲学ではどのように捉えられるのか?記憶は劣化した知覚なのだろうか?

ベルクソンは、記憶が劣化した知覚だという考えを否定し、両者が全く別物であることを主張する。彼の主張では、

 1.記憶

 2.記憶心像 le souvenir-image (さらにその背景に〈純粋記憶〉le souvenir pur が存在)

3.知覚

の三つが存在しており、この三つが直線で繋がる、すなわち記憶心像を介することで記憶と知覚が繋がっているとする。

この構図で考えたとき、純粋な知覚なんてものは存在し得ない事が分かるだろう。つまり、なにかを知覚するとき、その瞬間に

記憶=過去に知覚が影響されることになる。そう考えると、

 

「君の現在は、君の過去から逃れられない。君の記憶の膨大で奥深い厚みは、君の現在の知覚に押し寄せ、君の知覚をほとんど無に

近いものにしてしまう。君がいまこの瞬間知覚している、と思っているものは、君の純粋記憶から養分を受け取った記憶心臓像が

物質化しつつあるものに他ならない」(同書P.84) のである。

 

勘の良い方ならもう気付かれていることだろうが、これこそが表題の「人は過去の奴隷なのだろうか」という問いかけの内容なのだ。

それに対するベルクソンの答えは、やや曖昧だが、「そうではない。」という答えだと考えてよいのだろう。

その根拠は「自由」と関連しているようだが、それがイマイチ僕にはまだ理解できていない。本書を通じてベルクソン自身の書に

挑戦してみようという思いを抱いたので、『時間と自由』及び『物質と記憶』などを読んで、最後の問題を考えてみたい。

加えて、明日のゼミで著者の金森先生に会うので、その時にこの問題について聞いてみようかと企んでいる。明日のゼミが楽しみだ。