表象の機関誌は毎回新刊が出るたびに買っている。確か第一号を買ったのは神戸で浪人していた頃だった。
まず表紙がとても目立つ色合いであった。(一号は白と赤。センターを空白にしたことで差し色の赤がとても効いている。)
それ以上に装丁に使っている紙にコダワリが感じられ、「さすが表象・・・やるなあ。」と分かったふうに感心した記憶がある。
将来的に表象文化論を専攻したいとまでは思わないのだが、僕にとって表象文化論という学問はどこか気になる存在である。
さて、表象の第三号。ニ号と同様、生協で平積みしてあったのを見かけて買ってみた。
帰って早速読もうと思い、早々に家に辿り着き、いつものようにポストを開けて郵便物をチェックする。
いつもは不動産や宅配ピザの広告ばかりなのに今日は大きな茶封筒が入っていた。
送り主を見ると「表象文化論学会」 ・・・嫌な予感がする。
封を切ってみると、案の定、先ほど生協で買ったばかりの「表象 3」が現れた。
この瞬間の絶望した僕の様子は、それだけで表象文化論の分析対象となりえる程だっただろう。
学会に所属していると無料で一冊貰えるのを忘れていた。1800円もしたのに・・・(泣)
(どうでもいいが、『さよなら絶望先生』のフランス語版が出ているそうだ。タイトルは“Sayonara Monsieur Désespoir”
このタイトルだけ見ていると、何だか相当シリアスな読み物に見えてくる。カミュの『表と裏』にある
“Il n’y a pas d’amour de vivre sans désespoir de vivre.” 「生きる事への絶望無くして生きる事への愛はない。」
という文章を思い出す。内容的に、この漫画と通底する所があるような無いような。)
嘆いていても漱石先生たちが逝ってしまった事実には変わりがない。気を取り直して読んでみた。
今回の特集は「文学」である。読み切って一番面白かったのは「文学と表象のクリティカル・ポイント」というシンポジウムの様子。
東浩紀と古井由吉(この人の本はまだ読んだ事が無い。近日中に読むことにする。)と堀江敏幸(とてもダンディな教授)の三人が
対談しているのだが、中でも「固有名詞の消えた文学」というテーマと、「漢字をパソコンで打ち込むことの特異性」というテーマが
興味深かった。「固有名詞の消えた文学」というのは、そもそも柄谷行人が村上春樹の小説を評した言葉である。
村上春樹の小説には確かに固有名詞があまり見られない。(もちろん、無いわけではない)
デビュー作『風の歌を聴け』にしても「鼠」や「小指のない女の子」という名前であったり、『羊を巡る冒険』でも「誰とでも寝る女の子」
なんて名前で登場人物が語られる。これはそれまでの「文学」という既存のディシプリンから外れるものだと言える。
そしてまた、「最近流行りのケータイ小説の文体は浜崎あゆみの歌詞と極めて似ている。」という速水健朗の指摘が紹介される。
(浜崎の歌詞の特徴は固有名がないことであり、そこにあるのは漠然とした「愛」や「悲しみ」となどの漠然たる一般名詞である。)
なるほど、この議論はとても面白いと思う。何が文学で何が文学でないのか、そもそも文学とは何なのか、という問題そのものだろう。
ここでは言及されていないのだが、ライトノベルはどうなのだろう?固有名詞が消えた「文学」なのか?
ライトノベルは逆に固有名詞を強調する「文学」ではないのか。
ライトノベルにおいては、「キャラが立っている」ことが要求されているのではないか。ライトノベルには一種RPGのゲームのような
性格があるように思う。そのキャラや世界に没入して、冒険や恋愛を繰り広げる楽しみ。例えばFF7のキャラクターの名前が
主人公=「僕」
途中で死ぬヒロイン=「ガール・フレンド」
片手が銃になった革命組織のリーダー=「片手が銃のおとこ」
主人公の幼馴染の女=「幼馴染のおんな」
人間の言葉が話せる獣=「ふしぎなどうぶつ」
(以下省略)
などという名前だったら、かなり面白くないだろう。
(いや、ある意味面白いかもしれない。FF9のガーネットに「田吾作」という名をつけて最後までプレイした奴が友達にいる。)
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~Aという村に着いて ~
ふしぎなどうぶつ 「ここが私の故郷だ。」
ぼく 「やれやれ。」
「まったくもって変わった町だね」、とガール・フレンドは言った。
「でも、あなたが住んでたことは理解できる。」
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ちょっとだけなら面白いが、こんな会話が最後まで続けば苦痛に思えてくるだろう。
話がかなり飛んでしまったが、キャラを曖昧な一般名詞にしたままライトノベルを進めるのは難しいのではないか。
その意味で、ライトノベルは固有名詞を避けた作品群に組み入れづらいものだと考える。
もう一点の「漢字をパソコンで打ち込むことの特異性」について。パソコンで文字を打ち、感じに変換し、文章を作る、という流れは、
「書く」というより「選ぶ」行為である。手書きで漢字を書くとき、我々は「漢字が書けない」「文字を忘れて立ち止まる」という
書くときのひっかりを多かれ少なかれ経験する。だが、パソコンを用いることによって、漢字は「ひらがなと同じ速度で画面上に
表示できる記号」になる。さらに予測変換機能の進化によって、「漢字の変換」は「文節ごとの変換」、さらには「文ごとの変換」となる。
「こまばじだい、たちばなせんせいにさまざまなくんとうをうけた」という文章であれば、「駒場」「時代」と変換していくのではなく、
全部打ち込んだあとで変換キーを押して「駒場時代、立花先生に様々な薫陶を受けた」と記述するようになるということだ。
長くなってしまった。そろそろ終わりにしよう。
今期の立花ゼミでは文学に関する企画が立ち上げられているが、このシンポジウムの内容は文学企画に関わる人にとって
有益なものになるはずだ。最初に書いたようにこの本は二冊持っているので、要るようでしたら次のゼミの時に一冊持って行きます。