社会学者の大澤真幸教授が京大を辞職されたことを知った。
原因はどうやらセクハラのようだ。それを聞いて本棚に並んだ大澤の『恋愛の不可能性』を眺めると何とも言えない気分になった。
この書で大澤は欲求と恋愛の不可分性を述べていたが、今回の事件、ある意味で恋愛の不可能性に陥ってしまったようにも見える。
高校時代から僕は大澤真幸の著作に大きく影響を受けてきた。
そして大澤真幸の著作はほとんど購入してきた。あの分厚い『ナショナリズムの由来』ですら浪人時代に買った。(初版だった)
内容というよりはむしろ、テーマへの切り込み方や文の運び方を尊敬していた。
大澤の師匠である見田宗介もそうであったが、とにかく「読ませる」文章を書かれる人だ。
書き手の思考の切れ味や知性がバシバシ伝わってくるような文章で、こんな文章が書けたらいいなあと少し憧れていた。
問題への切り込み方も本当に鮮やかだった。『美はなぜ乱調にあるか』で彼は最後に「イチローの三振する技術」という論考を
掲載している。たとえこれが「トンデモ」だと言われようと、この論考がとても魅力的である事は変わらない。
(最後につけられた脚注を読んで欲しい。大澤はここで、野球において打者は中世の「騎士」であり、投手と捕手という「夫婦」の
関係を攪乱する第三者であるという読む者の目を驚きに開かせる注をつけている。)
大澤の文章の巧みさについては、松岡正剛先生が「千夜千冊」というサイト(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/)の
2005年12月14日の記事、『帝国的ナショナリズム』の評で「能」の用語を用いて説明されているので、それを引用させて頂こう。
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能はカマエとハコビでできている。(最近の大澤の文章は)そのハコビに緩急が出てきた。そうすると読者も「移り舞」に酔える。また、能の面の動きはテル・クモル・シオル・キルに絞られているのだが、十分にゆっくりとした照りと曇りが見せられれば、突如の切り(面を左右に動かす)が格段の速度に見える。そうすると観客の心は激しく揺すられる。
学問といえども、その70パーセントくらいは読者や観客に何を感じさせたかなのである。カマエもハコビも大事だし、テル・クモル・シオル・キルも習熟したほうがいい。ついでながら学問の残りの20パーセントは学派をどのようにつくって、それがどのように社会に応用されたかどうかということ、残りの10パーセントが独創性や前人未踏性や孤独感にかかわっている。学問はそんなものなのだから、どこで才能を発揮してもいい。
もともと大澤真幸はかなり早口で喋っていても、その語りをもう一人の自分でトレースできる才能をもっている。いま自分がどんな言葉をどの文脈で使おうとしているか、その言葉によって話がどういう文脈になりつつあるのか。それを聞いている者にはひょっとするとこんな印象をもったかもしれないが、それをいま訂正しながら進めるけれど、それにはいまから導入するこの用語や概念を説明なしに使うが、それはもうすこし話が進んだら説明するから待ってほしい、それで話を戻すけど‥‥というふうに、自分で言説していることをほぼ完璧にカバーできる能力に富んでいた。アタマのなかの”注意のカーソル”の動きが見えている。
ぼくはどうもうっとりできないんですよ、「考える自分」と「感じる自分」とが同時に動いていて、その両方を観察してしまうんですよ、と大澤自身がどこかで言っていた。まさにそうなのだろう。それがいいところなのだ。
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大澤真幸の文章に親しんでいる人なら、「そうそう、まさにそんな感じ!」と頷いてしまう、的確な評だと思う。
アカデミズムの構造を利用したセクハラは許されるべきではないが、一読者として大澤真幸の著作は楽しみにしているので、
これからも魅力的な書を書き続けて頂ければなあ、と思う次第である。
そんなこんなで今日は一日家でゆっくり。
少し前にプールへ行ってバカみたいに2キロ泳いだ(1キロを平・クロール・背泳ぎで。残り1キロをビート板を使ってパドリングだけで。)
ので、身体が筋肉痛でやられていて動く気にならない。いつもなら8ゲームほど投げに行くところだが今日は自粛。
その代わりにネットサーフィンをして良さげな新作ボールの動きを見る。
Stormのレイン、900Globalのブレイクポイント・パールの動きは見ていて欲しくなる。自分の回転数とセンターのオイルの関係上、
どうしてもパール系の球ばかりが欲しくなってしまう。ブラックパールとソラリスの予備も買っておきたいし、Kineticのエピセンターも
投げてみたい。でもそんなに買ったら間違いなく破産するし、まず家に足の踏み場がなくなってしまうだろう。というわけで我慢。
もし走る球を購入しようと考えている方がいらっしゃれば、新作ではこの辺りのボールがお薦めだと思います。
夜、冷蔵庫のあり合わせを使って三つ葉と豆腐のお吸い物と出し巻き卵を作り、白旋風の水割りと合わせて頂く。
卵焼き用ではないフライパンだが、それでも十分に綺麗な卵焼きが作れるようになって嬉しい限り。外はふんわり、中はややトロである。
我ながら美味しい。一杯のお酒とそれなりの御飯があればとても贅沢な気持になれるものです。
なお、『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記(上巻)』と『日本の近世 14.文化の大衆化』を読了したので、
また日を改めてレビューを書きます。