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『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ 江口清 訳 角川文庫,1978)

 

 何を今さら、という感じかもしれないが、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周 Le tour du Monde en Quarte-vingts Jours』を

読んだ。小学校の時に図書館で借りて読んで以来だから、これを読むのは十年ぶりぐらいである。

再読した理由はまあ色々とあるのだが、十年ぶりで読むと昔と楽しみ方が全く変わっていることに気づいた。昔読んだ時は

賭けの結果が気になるのは勿論、この旅に出てくるユニークな登場人物たちの動きや会話を追うことに集中していた事を覚えている。

「パスパルトゥーもフォッグ氏もかっこいいなあ」、とか、「意外にアウダ夫人強いな」、とか、「そんなオチありかよ」とか。

今読んでみると、そうした登場人物たちの動きが極めてオペラ的であることに気付かされる一方、なによりもヴェルヌの描写力に

驚かされる。人物の描写よりも場所の描写が巧みで、時代を反映してステレオタイプなところはあるにせよ、様々な地域を「それらしく」

描いている。この小説から風景描写を全て省いてしまえば、いくら登場人物たちのドタバタが面白くても味気ないものになってしまうに

違いない。この小説が書かれた当時と違い、今や世界を一週間すらかからず廻ることが可能な時代になったが、世界を一日で

回ってしまってはこのように豊かな風景・地域描写は不可能になってしまうだろう。

そういう意味では、80日間で世界を廻る時代というのは非常に豊かな時代だったのかもしれないな、と読後にふと思った。

 

『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(金森修 NHK出版,2003)

 

 NHK出版から出ている哲学のエッセンスシリーズの『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(金森修,2003)を読了。

このシリーズは150ページ足らずの薄い冊子の中に思想が手際よく纏められているので大変重宝している。

今回のベルクソンは僕があまり触れた事の無い哲学者だったが、サブタイトルの「人は過去の奴隷なのだろうか」と著者に惹かれて

購入して読んでみた。いやあ・・・これはこのシリーズの中でも相当いいんじゃないでしょうか。名著だと思います。

ベルクソン特有のタームが平易に噛み砕かれており、『負の生命論』などに見られるような厳しい文章を書く金森先生の文章とは

思えないぐらい、本書はやさしく語りかけてくる。純粋持続に関する章も面白かったが、一番面白かったのは「知覚」に関する章。

(ベルクソンの知覚論は彼の「純粋持続」という概念に立脚しているので、両者はバラバラのものではない。)

 ベルクソンにとっての知覚とは、

 

「物そのものに人間の感覚器官が働きかけ、対象に人間の側から何かを足すことではない。それどころか知覚とは、本来ははるかに

複雑で流動的な物の総体から非常に多くのものを抜き去ること、引き算すること、無視することである。」(本書P.67,68)

 

こうあるように、ベルクソンの哲学における知覚とは引き算なのだ。我々が世界のあらゆる事象、周りを取り囲むもの全てを

認識してしまっては、家から大学へ行くという日常的な行為においてすら、困惑せずにはいられまい。知覚は微細な運動や変化を

無視することによって、だいたいの輪郭やだいたいの様子をまとめあげる。知覚はある種の省略なのである。

そして、省略法としての知覚と同様の働きをする行いが【ことば】に他ならない。「家から大学へ行く」という行為を

「家を出て電車に乗って駒場東大前駅で降りる。」と言語化した時、本来的な流動の世界の混沌(実際に「家から大学へ行く」という

行為において直面する色々なこと。たとえば鍵を閉めたり車をよけたりSuicaにチャージしたり改札機にタッチしたり…etc)を

明瞭化し、単純化している。「ベルクソンにとって、言語とは、持続する世界を放擲して、この複雑な世界のなかをある程度

的確に動き回るのに十分なだけの素描を固定し、決定するための装置である。」(同書P.72)

では、知覚でも言語でもない「記憶」はベルクソン哲学ではどのように捉えられるのか?記憶は劣化した知覚なのだろうか?

ベルクソンは、記憶が劣化した知覚だという考えを否定し、両者が全く別物であることを主張する。彼の主張では、

 1.記憶

 2.記憶心像 le souvenir-image (さらにその背景に〈純粋記憶〉le souvenir pur が存在)

3.知覚

の三つが存在しており、この三つが直線で繋がる、すなわち記憶心像を介することで記憶と知覚が繋がっているとする。

この構図で考えたとき、純粋な知覚なんてものは存在し得ない事が分かるだろう。つまり、なにかを知覚するとき、その瞬間に

記憶=過去に知覚が影響されることになる。そう考えると、

 

「君の現在は、君の過去から逃れられない。君の記憶の膨大で奥深い厚みは、君の現在の知覚に押し寄せ、君の知覚をほとんど無に

近いものにしてしまう。君がいまこの瞬間知覚している、と思っているものは、君の純粋記憶から養分を受け取った記憶心臓像が

物質化しつつあるものに他ならない」(同書P.84) のである。

 

勘の良い方ならもう気付かれていることだろうが、これこそが表題の「人は過去の奴隷なのだろうか」という問いかけの内容なのだ。

それに対するベルクソンの答えは、やや曖昧だが、「そうではない。」という答えだと考えてよいのだろう。

その根拠は「自由」と関連しているようだが、それがイマイチ僕にはまだ理解できていない。本書を通じてベルクソン自身の書に

挑戦してみようという思いを抱いたので、『時間と自由』及び『物質と記憶』などを読んで、最後の問題を考えてみたい。

加えて、明日のゼミで著者の金森先生に会うので、その時にこの問題について聞いてみようかと企んでいる。明日のゼミが楽しみだ。

 

 

「Nuovo Cinema Paradiso」を観た。

 

 久し振りに晴れた一日、五月祭の話や本の話やら書きたい事は沢山あるのだが、この映画について書かないわけにはいかない。

名作の誉れ高き、ジュゼッペ・トルナトーレ監督による「Nuovo Cinema Paradiso (New Cinema Paradise)」をついに観た。

なんだこれは。疑いようもなく、今まで見てきた映画で最高の映画だ。最後のシーン(完全版に入っている「あの」シーン)だけでなく

至るところで泣かされた。涙だけでなく、体が何度も震えた。主人公が彼女の家の下で待っている時のシーンなど、一切台詞無しに

そのショットだけで金縛りにあったような感動を与えてくれた。暗い青、壁の苔、落ちる影、そして遠くにあがる花火。

奇跡のように美しいショットだ。あげていけばキリがないぐらい素晴らしいショットやシーンがこの映画にはある。

冒頭の波の音とともに暗闇に風が吹き込んでくるようなショットに始まり、雷の鳴る中で回り続ける映写機をバックにして

彼女と会うショット、錨を前にして海で話すショット、「夏はいつ終わる?映画なら簡単だ。フェイドアウトして嵐が来れば終わる。」

と語ったあと豪雨の中で眼前に彼女が突然入ってくるショット、五時を確認しようとする時の時計の出し方、

映画とリアルの素早い交錯、電車が離れていく時にアルフレードだけ視線を外している様、どれも上手すぎる!

再会するシーンで編みかけのマフラーがほどけていく構図、明滅する光を互いの顔に落としつつ話すショット、最初の葬儀のシーンと

最後の葬儀のシーンとでのトトの成長を映しつつ周囲の人や環境の変化をさり気なく見せる対比の鮮やかさ、そして最後のあの

フィルムを見るときの少年に戻ったような様子などは天才的としか言いようがない!!青ざめた光と暗闇の使い方が神がかっている。

 

 ショットだけでなく、胸に刺さるようなセリフも沢山ある。

「人生はお前が見た映画とは違う。人生はもっと困難なものだ。行け。前途洋洋だ。」

「もう私は年寄りだ。もうお前と話をしない。お前の噂を聞きたい。」

「炎はいつか灰になる。大恋愛もいくつかするかもしれない。だが、彼の将来は一つだ。」というアルフレードの台詞、

「あたしたちに将来は無いわ。あるのは過去だけよ。あれ以上のフィナーレは無い。」というエレナの台詞、どれも忘れる事が出来ない。

それとともに音楽の何と上手いことか。使われている音楽はさほど多くないが、メインテーマを場面に応じて微妙に変奏し、旋律楽器を

変え、リズムを崩し、何度も何度も繰り返す。繰り返しが多いだけに、途中で突然入ってくるピアノのjazzyな和音連打を用いた

音楽が頭に残る。そして、この特徴的な音楽を、最後のシーンでなんとメインテーマに重ねてくる!凄いセンス!!

 

 熱中して観て、呆然とし、そしてこれを書いていたらもう朝の5時だ。そろそろ寝なければならない。本当に時間の経つのは早い。

最後になるが、この映画に流れるテーマも「時間」に他ならないと思う。人の成長、恋愛、生死、周囲や環境の変化、技術の進歩、

そして時間を操る芸術としての映画!どれも時間を背負うことで成り立つものだ。本映画は「時間」を軸にして沢山のものを描いている。

 

 この映画に出会えたことを、心から幸せに思う。

 

 

「ROUNDERS」を観た。

 

 こういうギャンブル映画はやっぱり夜に見るのが王道だろう、と思って深夜二時から「ROUNDERS」という映画を観た。

監督はジョン・ダール。出演はマット・デイモン、 エドワード・ノートン、 ジョン・タトゥーロ、 ジョン・マルコヴィッチなど。

見終わった後に思ったのは、「うーむ・・・。」という言葉にしがたい微妙さだ。

じめじめしているわけでもないし、爽快なわけでもない。メッセージ性があったか、と言われても、

「ギャンブルにおいては、相手をいかにして自分の敷地(精神的にも肉体的にも)に引きずり込むかが勝敗を分ける。」という程度に

留まってしまう気がする。このメッセージは大きい意味を持っているものの、そこに至る流れが先読み出来てしまうストーリなのが残念。

カジノに着くまでの一連のショットはマーティン・スコセッシの「カジノ」に比べると生彩を欠いてどこかB級っぽいし、

ラストシーンのグレッチェン・モル(かなり綺麗です。)が扉のガラス越しに映るシーンなどにおいても、どことなく安易な感が漂う。

 

 主人公に感情移入して観る、というよりは、「やめとけって・・・。」と主人公を冷ややかな目線で見てしまったからか、

最後の山場のシーンでもさほどドキドキさせられなかった。他の登場人物では、相棒(というよりは単なる厄病神)のワームは

見ていて本当に腹が立った。あのニヤニヤした笑い、人に押し付けて平然としている様、どこを取っても超一級品の憎まれ役だ。

エドワード・ノートンの演技力が光っている。演技力とは関係ないが、教授役のマーティン・ランドーが使っているペンがペリカンだった。

一番印象に残った台詞は、「どうしてそんなに未熟な自分が、ゲームに勝てるなどと思うのか。」という主人公の独白。

この台詞が本映画を説明し尽くしている。

 

「OCEAN TRIBE」を観た。

 

 ウィル・ガイガー監督による「OCEAN TRIBE」を観た。

いやー、いいですよこれ。本当にいい。どんなラストシーンが用意されてるか分かってるのに、やっぱりラストで泣ける。

五月祭前日だというのに朝三時まで食い入るようにして観てしまいました。

「ブラームスの弾けるサーファーは彼一人だ」なんて五人を紹介していく冒頭のシーンもいいし、

病院から誘拐してくるシーンもスリリングでたまらない。高校生のころみたいにはちゃめちゃな悪ふざけ。

馬鹿みたいに明るい五人だけれども、それぞれにそれぞれの悩みを抱えているし、死を目の前にした人間とそうでない人間の

間にはどうやっても埋まらない距離があるのを感じさせてくれる。

「病院での六年より、海での一分の方がいい」と叫ぶボブを誰が止めれるだろうか。

 

 サーフィンのシーンも実に効果的に使われている。

 「水に浮かんでいると体が無限に広がっていく気がした。明けの明星を見ていると、空より高いところに登っていくようだった。

まるで空と海に抱かれているようだ。」という言葉は、波乗りをやったことがある人ならきっと理解できる言葉だろう。

サーフボードの上に寝て夕暮れの波間に浮かんでいると、空と海に挟まれて自分がいったいどこにいるのか分からなくなる。

自然や世界と肌で繋がる感覚、海を媒介に遥か彼方まで触れているような感覚、その一方で波に浮かぶ自分の小ささを感じる。

この映画からは、そういった自然への畏怖、海の大きさ、命のちっぽけさ、そんなものが良く伝わってくる。

訳には時々首を傾げる所がある(「ウィリアム・ブレイクの詩だ」と話しているところを「有名な詩だ」と訳していたり)ものの

セリフ回しも楽しいし、所作明け方のサーフ・シーンでイルカと遭遇するところの音楽をはじめ音楽も高水準。

揺れるようなカメラワークも波間に漂うような雰囲気に満ちていて良い。

 

 映画を観ていて、高二の時に友達と一緒に波乗りに行った時のことを思い出した。

青春十八切符で乗り継ぎ、海の最寄駅に着いたのが夜の12時前。駅から海までは山を二つ越えてバスで30分程度。

そんな距離を、真っ暗な中、ボードを背負って10人ぐらいで歩いた。夜中、ライトもあまり無い山道だったから、途中で

何度も車に轢かれそうになって、何とか山道を越えた時には冷たい汗でびっしょりになっていたのを覚えている。

浜辺に着いたのが朝3時。辺りはまだ真っ暗で、波が打ち寄せる音しか聞こえない。10人ぐらいで浜辺にシートをひいて、

他愛無い話をしながら、波の音に耳を澄ませて目を閉じた。波の音が近寄ってくるような気がして、慌てて起き上がって歩数で

波打ち際までの距離をみんなで交代して測り、その結果潮が満ちてきていることが判明して焦ったりしているうちに、

水平線の向こうがゆっくりと黒からブルー・ブラックに染まってくる。黒からブルーブラックへ、そして次第に明るい空色へ。

何重にも層のかかった青色と、どこまでも広がる海の黒。あのグラデーションと空にかかった月の綺麗さは一生忘れないだろう。

(ちなみに、航空幕僚長講演会のパンフレットに使った写真はこのとき撮ったものである。)

 

映画のレビューのつもりが違う話になってしまったが、とにかく、この映画は自然と生死について考えさせてくれる名作である。

自然との共生を説いた100の本を読むより、本映画を見たり波乗りをしたりする方が自然への畏怖を持つことに繋がるに違いない。

 

「ランジェ公爵夫人」を観た。

 

 ジャック・リヴェット監督による 「ランジェ公爵夫人」を観た。

手短に感想を言ってしまえば、これはたいして面白くなかった。

バルザックの小説を映画化したものであるから仕方無いと言えば仕方無いのだが、持ってまわったようなシーンが長々と続いて

段々と飽きてくる。一言喋るごとに公爵夫人が立ち位置を変えるのをずっと見ていると「何だかなあ」と思わずにはいられない。

読み飛ばせる小説と異なり、映画はどのシーンも同じスピードで見るものだから、そこに緩急がつけられないのは苦痛であった。

まあそれはともかく、最後まで見終わって、この映画の通奏低音は映画論的な用語で言うところの「不在」ではないかと感じた。

公爵夫人と将軍の関係は将軍が夫人の前から姿を消した時(=第一の不在)に逆転する。そしてまた、後半で将軍の前から

公爵夫人が姿を消した時(=第二の不在)、再び逆転する。求める相手が不在だからこそ一層求め、捜し求める。

このように不在が強く表象されているのは、将軍と夫人の二者関係だけではない。種類の違う不在が表れている。すなわち、

恋愛は恋愛する当事者以外にとっては無関心なものである、という「他者の不在」性が至る所に散りばめられている。

例えば、「毅然として」や「悲劇だ」という単語を乱発すると文学的になる、といって将軍の友達が笑う場面があるが、

その友達は知らずとも、「毅然として」「悲劇」などといった単語がまさに将軍と夫人のやりとりそのものであったことに我々は気づく。

恋愛が二者の中で完結している事をほのめかす、ある意味ではこの映画一番の名場面である。

つまり、恋愛は当人以外にとっては何の価値も持たないのだという事が暗示されているのだ。

ラストのシーン、「もう女ではないから海に捨ててしまえ」という場面も同様に考える事が出来るだろう。

詳しく書いてしまうとネタばれになるからこれぐらいにとどめておく。あまりお勧めしたいと思う作品ではありません。

 

集中力を駆使した一日

 

 火曜日は授業がほとんどないので、基本的に楽器練習dayなのだが、今日は趣味全開で生きた一日になった。

昼ごろから、クラスのK君と二人だけで下北沢の松山にてビリヤード。一人で行ったりするときにはキュー(メウチ)を持っていくけれど、

今日は公平を期すためにハウスキューで勝負した。K君は初心者よりちょっと上手いぐらいのレベルだったのに、この一年のうちに

中級者顔負けの実力に成長したため、気を抜くと簡単に負けてしまう。特にクッションの上手さは僕よりも遥かに上である。

 ビリヤード場は閑散としていて、僕ら二人以外の客はいない。薄暗い店の中に涼しい風が時々吹いて来てカーテンがなびく。

その中で闘うこと三時間。ナインボールのみ、合計21セット。

最初は交互にセットを取りあっていたが、途中僕がブレイクナイン含む6連勝したかと思うと、K君に5連勝を奪われたりする。

ひとつのミスが流れを大きく変えてしまう事をお互い肌で感じていた。言葉も少なくなり、段々本気ムードが高まってくる。

20セット終了後、まさかの10-10。時間との兼ね合いで、次のセットが最終ゲーム、つまり21セットマッチの勝敗になる。

大会でもないのに、21セット目は異常な緊張感で始まった。

連勝して流れに乗るK君のブレイク。彼はブレイクはあまり得意でないので、そこそこ無難に割れる。

僕も1-2-3と続けて落として4でポケットを外したので交代。ここでK君が打ったショットが試合をさらに緊張感あふれるものにした。

なんと、4番にあたって9番がサイドポケットギリギリの位置まで動いてしまった!!

ツノにタッチしていたから角度は限定されるとはいえ、僅かな力がかかった瞬間に落ちるのは誰が見ても明らかな状態。

9を直接狙いたいが、残り玉が非常にシビアな配置。スクラッチはお互いにとって即死を意味するから、絶対に避けねばならない。

5を慎重に狙いつつ、隙あらば9に持って行く形でネクストの6への位置取りを考える作戦を取った。

5-6と入れて7でチェンジ。まずい。7は長クッションにほとんどタッチしているが、クッションタッチギリギリの球をカットするのが

K君は異様に上手い。予想した通り、見事なフェザーカットで7をコーナーに沈められてしまった。残るは8-9のみ、そして9は

瀕死の状態である。物凄くマズイ。8を長クッションに入れて戻して9にかすめて9をシュートしようとするK君の渾身のショットは、

9の本当にギリギリ、触れたか触れなかったか分からないほどギリギリのラインで奇跡的に外れた。

チェンジ。僕が入れるならここしかない。外すと間違いなく次で取られる。

穴フリを考えながらドローショットで8をコーナーに落とす。ネクストもいい場所にいった。残るは9のみ。

これを外すと確実に負ける。21セットが水泡に帰す。久し振りに緊張でドキドキした。

撞点センター。力加減は中くらい。全力で集中して、9番をサイドに沈めた。

この瞬間の解放感といったら、並大抵のものではなかった。世界がバーっと明るくなるような、というと

もっとビリヤードが上手い方には大袈裟に思われるかもしれないが、ほんとうにそんな感じだった。

K君と再戦を誓い、下北沢を後にする。ビリヤードは楽しい。K君はじめクラスのみんなと出来るようになって良かった。

 

 夕方はボウリングのインストラクションを頼まれていたので、ちょっとしたコツを教えたり、ついでに僕も投げたりする。

初心者に毎回教えるのは、0:アプローチにあがるタイミングについて&リターンラックからボールを両手で取り上げることのススメ 

からはじまり、1:まずスパットを見ること 2:立ち位置を毎回意識すること 3:手を握手するように振り切ること 4:左手の使い方

を教える。これだけでかなり安定する。そのあと、実戦で個別のスペアの狙い方に入り、癖が分かってきたら助走のタイミング改善と

プッシュアウェイの出し方を教える。ここまでがスムーズに出来れば、あとは投げているうちに自然と出来るようになってくる。

少なくとも、今までガターに投げ込んでばかりでいた人は滅多に溝掃除をやらなくなるだろう。そしてピンの狙い方が分かれば、

ボウリングが持っているスポーツ的な楽しさを理解してもらえるようになる。

今日レッスンした人も、どうやらボウリングの楽しさにハマってくれたようで嬉しかった。

ついでに投げていた僕は、今日はハイシリーズ675(220-220-235)で中々の調子。ビリヤードで集中力を高めた効果か。

220の二回はいずれも5フレでスペアミス(予想以上に中が先客によって伸ばされていた。判断ミス。)しているから、これが無ければ

700シリーズだったのに、と悔やまれてならない。まあ隣に入ったおじさんたちと仲良くなったから今日は良しとしよう。

前にも書いたが、ボウリングの醍醐味は、多様な年齢層、様々な所属の人と接点を持つ機会にこそある。今日も楽しかった。

 

 ちなみに、本日を持って22歳になってしまいました。20歳ぐらいまでの誕生日はメモリアルな感じがしたけれど、それを超えると

記念的な要素が突然減ってしまいますね。「やったーゾロ目だー!」と喜んでみても虚しくなるだけですし(笑)

聞くところによると立花先生は明日が誕生日だとか。明日のゼミは誕生日記念ディナー(仮)に行くため欠席するので、

立花先生お誕生日おめでとうございます、と今日のうちにここで書いておくことにします。ゼミ生の方、よろしくお伝えください。

これまでの経験や出会いを大切にしながら、新しいことにも沢山挑戦しつつ、22歳を振りかえる価値ある時間にしたいと思います。

 

Joint Security Areaのレポートを出してみた。

 

 今日はソフトボールがフットサルに変更だったので、朝は体育館へ。

雨上がりのあとの体育館は蒸し暑くて、かなり不快指数の高そうな気配が漂っていたが、

和気あいあいとフットサルとドッジボールを楽しんだ。そういえば、体育館に移動するまえに、

この授業が一緒の人から「ブログやってますよね。」と言われてビックリした。話を聞いてみると

駿台で塚原先生(リンクを貼って頂きました)の授業を受けたことがある人らしく、塚原先生のホームページから

このブログに飛んできたらしい。世界は狭い。

 三限は政治の授業だが、毎回自主休講にして自分で政治学の本を読んだり関係ない本を読んだりして休憩している。

今日はついついまた生協で本を買ってしまった。

S・ワインバーグ『宇宙創成はじめの三分間』(ちくま学芸文庫,1993)

金森修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(NHK出版,2003)

門脇俊介『フッサール 心は世界にどうつながっているのか』(NHK出版,2004)

の三冊である。NHK出版の二冊は、哲学のエッセンスシリーズの本だが、前に読んだ檜垣立哉のドゥルーズが良かったので

もっと読んでみようと思って買ってみた。ベルクソンの方はすでに半分ぐらい読んだが、半分の時点でかなり面白い。おすすめです。

書籍購入後、四限で提出するためのレポートを印刷した。「映画を見て、思ったところを800字で述べよ」という課題だったのだが、

800字でA4に書いてみたところ下半分が余ってしまい、何ともやる気のなさそうな見かけのレポートになった。

フォントを大きくするという手もあったのだが、あんまり大きいフォントは見栄えがよろしくないので、フォントは通常のまま提出。

内容的にはこんな感じ。

 

【Joint Security Areaを見て】

この映画を見て、まず最初に私は「南北が分断されていることの虚しさ」と、「それを統合することの難しさ」を感じた。

頻繁に映る板門店の境界線。こんなに北と南は近いところにあるのに、すぐ向こうも見えるのに、入ることはできない。

入れば戦争が待っている。分断線を越えた瞬間に戦争が始まる緊張感をこの映画から感じた。

(それは分断線が映るシーンだけでなく、地雷を除去するシーンにおいても顕著である。)

  

 近いのに遠くて、見えるのに入れない。

だが、共産主義と資本主義といったように、イデオロギーが全く異なる国家であっても、人間は人間なのだ。

 

映画の中にも描かれていたが、人間は美味しいものには惹かれるし、美しい女性を見てはみな声をあげて羨ましがる。

 

銃を構え、時に人を殺すことを日常とした限界状況にあっても、人間は人間らしさを持っていて、イデオロギーの違いなど

 

関係なしに同じ人間として話しあうことが出来るに違いない。ちょうどラストのモノクロの写真において、奇跡的に一枚の

 

写真に収められたあの四人の視線が同じ方向を向いているように。映画は悲しい結末に終わってしまうが、

 

その悲しさ以上に、私は人間が人間として話し合うことの可能性を感じた。

 

そしてまた、この映画からは南北問題そのものだけでなく、映画の中で「中立国の人道主義とは何なのか」と問う部分

 

があったように、世界の南北問題への関わり方に対する問題意識を喚起された。

 

 

 

  何よりも、この映画を見た後には、私(そして日本人)が、徴兵制を経験していないのだという事を切に感じずにはいられない。

 

徴兵制なき日本人にとっては、戦争というものを他人事のように感じるかもしれないが、南北の人々にとっては戦争が

 

一部の人々の仕事ではない。まさに自分の命をかけたものである。その違いは言葉にならないほど大きい。

 

南北の戦争を問題にする時には、決して、南北において徴兵制が採用されている事を忘れて話してはならないと固く思った。

                                                                    (809字)

 

 本当はもっと書きたい事があったのだが、映画の分析になってもいけないので字数と相談してこれぐらいに留めておいた。

主演女優のイ・ヨンエがかなり美人だとか、〇〇が☆△▽するところ(ネタばれのため伏せ字)のショットが陳腐すぎる、とかね。

第一章:Area→第二章:Security→第三章:Joint というふうに、Joint Security Area の名前を逆にして

チャプターを構成したのは上手いなあと思った。チャプターの名前とチャプターの内容がいい感じでハマっている。

 

 五限は高等動物の比較生物学。今日のテーマは「競走馬の運動科学」である。

「この授業を聞いても馬券が当たるようになったりはしません、僕も全然当たらないんだから・・・」と話された教授の後ろ姿が

ちょっと悲しそうだった。競走馬の運動科学以上に、教授の馬に対する秘められた愛をひしひしと感じた一時間半。

 

 さて、今からプロとの再戦に行ってくる。

今日はいつもとボールのラインナップを変えて、ドライ-ミディアム用にThe Break Pearl、ミディアム用にSoralis、

ミディアム‐ヘビーにBlack Pearl Reactiveで行く。スペアボールはいつものNo Mercy Violent(寿命)である。

経堂がヘビーになることは考えられないので、曲がる球はお留守番。200Ave超えるべく頑張ってきます。

 

 

       

Qui n'avance pas recule.

 

 朝からずっと、某所より頼まれている原稿を書いている。現在3万文字まで書いたのだが、3万字を超えたあたりで急速に

筆が進まなくなった。ついでに携帯もバグったようで、電源が入ったり切れたりする。非常に不便である。

というわけで気分転換に音楽。テンションの高いものが弾きたくなったので、映画『海の上のピアニスト』で

ジャズ勝負のシーンで主人公の相手が弾いていたThe Craveを弾く。思いっきりjazzyに崩して弾く。

テンポがin tempoだとかrubatoがどうとか、そんな事を全く無視して弾きたいように楽しく弾く。ただただ小気味いい。

テンションが上がってきたので、一か月前ぐらいから書いている曲の続きを作ってみる。今日はなぜかガンガン書ける。

一通り書けるとこまで書いて、弾いたり打ち込んだりしてみると、何かのある曲と似ているような気がしたので、それらしい

曲をCDとスコアの山から探しまくる。見つけた。なんとムソルグスキーのボリス・ゴドゥノフ 第三幕第一場のalla mazurkaだ。

マイナーとは言え、ちょっと悔しいので破棄。新しくまた書いているうちに、明日の情報メディア伝達論で映画Joint Security Area

に関するレポートを提出せねばならないことを思い出し、一息に書く。なかなか良いのが書けたのでここに載せようかと思ったが、

載せたものを誰かがコピペして明日提出するようなことがあったら面白すぎるので自重する。

それにしてもレポ800字は短すぎる。8000字の聞き間違いではないかと不安になるが、あってますよね?

 

 そんなこんなで『日本の時代史17 近代の胎動』(吉川弘文館, 2003)を読了。

今からビリヤードかボウリングに行きたい気分だが、日曜日+雨のコンボでどちらも混雑しているに違いない。

明日のプロとの再戦に備え、今日はゆっくり家でドイツ語でもやろう。

Warte nie bis du Zeit hast!

  

谷川俊太郎+吉村和敏『あさ』(アリス館,2004)

 

 谷川俊太郎による詩と吉村和敏による写真とのコラボレーション、『あさ』を読んだ。

「ひかりにくすぐられて」なんてフレーズには流石の一言。「朝のリレー」という詩の中盤、

 

この地球では

いつもどこかで朝がはじまっている

ぼくらは朝をリレーするのだ。

経度から経度へと

そうしていわば交替で地球を守る

 

には「いいなあー」と呟かずにはいられない。

写真も朝の光やグラデーションを見事にとらえた透明感に溢れるもので、詩との相性が素晴らしい。

最後に置かれた「美しい夏の朝に」を読んでいるうちに、ランボーのAube「黎明」を思い出した。

 

J’ai embrassé l’aube d’été.

Rien ne bougeait encore au front des palais. L’eau était morte. Les camps d’ombre ne quittaient pas la route du bois. J’ai marché, réveillant les haleines vives et tièdes, et les pierreries se regardèrent, et les ailes se levèrent sans bruit…

 

(僕は夏の黎明を抱きしめた。

宮閣の奥ではまだ何物も動かなかった。水は死んでいた。陰の畑は森の道を離れなかった。

僕は歩いた、鮮やかな暖かい呼吸を呼びさましながら。

すると宝石たちが目をみはった。そして翼が音なく起きいでた。…)

 

ランボーの詩とともに、「よがあけて あさがくるっていうのは あたりまえのようでいて じつは すごく すてきなこと」

という谷川俊太郎のあとがきが深く染みてくる。