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きみ、ツィオルコフスキーについて知ってる?

 

猫ビル(立花隆事務所)で作業を少しして、帰ろうと思ったところで、

「きみ、ツィオルコフスキーについて知ってる?」と立花さんに呼び止められた。

 

立花隆の話はいつも唐突だ。さっきまでアウシュヴィッツの話をしていてコルベ神父のエピソードを調べていたのに、

今度は突然ロシアっぽい名前が飛んできた。ツィオルコフスキー。

初めて聞く名前で言葉に詰まる僕に、立花さんはバサバサと本を棚から引き抜きながら雄弁に説明する。

「彼が今の宇宙研究の基礎を作ったんだよ。ロケット開発は彼の研究があってこそ。

日本ではなぜかあまり一般に取り上げられることのない人だけれど、この人は相当変な人だったみたいだよ。というのはね…」

 

言葉と知識が溢れ出す。

本当に楽しそうに話す立花さんのその様子に僕も楽しくなりながら、同時に自らの知識の狭さに悔しくなる。

早く帰ろうと思っていたのも忘れて、こっそりネットでツィオルコフスキーのことを調べてウェブで関連書籍を注文する。

次に立花さんがツィオルコフスキーの話を振ってきたときにはスラスラと答えられるように。そうやってこの一年間勉強して行こうと思う。

 

立花さんの好奇心の炎は途切れる事がない。あの人の頭の中では、取材や本や思考を通じて、世界が一瞬一瞬広がっている。

張り巡らせたアンテナの感度、その反応の早さ!気になったらすぐに足で調べる。手に取って読む。専門家に聞く。

自分の生きている世界は狭いものだけれど、それでも、世界は、いつでも広げる事の出来る可能性をその内に秘めているのだと思い知らされる。

 

 

 

休学という選択、夢中になれるもの。

 

東京大学を休学することにしました。

何を突然、と思われるかもしれませんが、実はずっとずっと考えていたことです。

 

立花隆のもとで、一年間助手をして過ごします。

立花さんと一緒に日本を飛び回りながら、昼間は猫ビルに籠り、あそこにある本を読める限り読みつくそうと思います。

村方千之のもとで、一年間指揮を集中的に学びます。

おそらくもう二度と日本に現れる事のない不世出の大指揮者だと僕は信じて疑うことがありません。

「知性」と「感性」の師、そして「死」を意識するこの二人の巨匠と接して以来、

この機会を逃してはならない、と思い続けてきました。

 

はじめて立花事務所、通称「猫ビル」に入らせて頂いた時の感動は忘れられません。

僕が憧れていた本に囲まれた乱雑な空間がそこにありました。図書館とは違う空間。

陳列や収集の空間ではなく、一人の人間の「頭のなか」そのもの。

何万冊もの本が書き込みと付箋だらけでそこかしこに散らばっている。

一つの本を書いたり話したりするためにこれだけの勉強をされていたんだ、と背筋が伸びる思いをしました。

 

そしてまた、村方千之にレッスンを見て頂いた時、また師のコンサートで「ブラジル風バッハ四番前奏曲」を聞いた時の

感動は生涯忘れる事が無いでしょう。「シャコンヌ」の堂々として祈りに満ちた気品、ベートーヴェンの「運命」や

ブラームスの一番の何か太い芯が通ったような強靭さ。息の止まるような感動をなんど味わったことか。

眼を閉じて聞いているだけで感動が抑えきれなくなるような純然たる「音楽」がそこにありました。

 

本と音楽が好きな僕にとって、これ以上の出会いは無いでしょう。

ですが、お二人に接する事の出来る残り時間は限られている。

巡り会えたという喜びと、もう時間はあまり無いのだという焦りとを同時に味わいました。

この機会を逃すと僕は一生後悔する。そしてこれらは片手間に勉強できるものではないし、片手間に勉強することが許されるものではない。

二浪していて僕はすでに23という歳ですが、もう一年を賭けてもいいと思えるぐらいの衝撃を受けたのでした。

 

休学を考えていた頃に巡り会った、コクトーの文章が背中を押してくれました。

コクトーはこう書きます。

 

「孤独を願うのは、どうやら社会的な罪であるらしい。一つ仕事が済むとぼくは逃げ出す。ぼくは新天地を求める。

習慣からくる弛緩を恐れる。ぼくは、自分が技術や経験から自由でありたい ―つまり不器用でありたいと思う。

それは、奇人、叛逆者、曲芸師、空想家であることなのだ。そして賛辞としてはただ一つ、魔術師。」

 

「彼(エリック・サティ)はそこで自分を軽石で磨き、自分に反撃し、自分にやすりをかけ、

自分の繊細な力がもはや本源から流出するしかなくなるような小さな孔をきたえあげたのだった。」

 

浪人中に僕はそんな時間を過ごしました。

いま、そうした時間を自分が再び必要としていることに気付かされます。

ヴァレリーの言葉に「夢を叶えるための一番の方法は、夢から醒めることだ。」というものがありますが、

その通り、夢中になれるものを見つけたなら、自分の身でそこに飛びこまないと夢のままで終わってしまう。

だからこそ、レールから外れて不安定に身を曝しながら、一年間学べる限りのことを学んでいきたいと思います。

 

この選択を快く許してくれた両親には心から感謝していますし、回り道が本当に好きだなと

自分でも改めて呆れてしまいますが、後悔は少しもありません。

どんな一年間になるのか、どんな一年間を作っていけるのか、ワクワクしながら2011年の春を迎えています。

 

 

 

ある後輩の死に捧ぐ

 

夜10時。学校で作業をしている時に、後輩からかかってきた崩れ落ちそうな声の電話で、あなたが亡くなった事を知った。

新入生のあなたと出会ってから一年ばかり。

文学の世界観について情熱を持って語ってくれたあなたとはキャンパスであまり会うことは無かったけれど、

Twitterでいつしかフォローしてくれて、ディスプレイ越しに夜遅くまでその姿を見ることになった。

僕もたいがい遅くまで起きている人間だけれど、同じぐらいの時間まで起きていたあなたは

いつも自身の美的な価値観や恋愛という関係について悩み、苦しんでいるように見えた。

それは僕にはとても好ましく映ったし、共感できる部分も沢山あった。

ときどき言葉をかけるたび、慕ってくれるのが嬉しかった。

 

だが、もう悩みを呟くこともない。返事を返してくれることもない。あなたは黙ったままだ。

アカウントは残酷にも残り続けている。「フォロー中」という緑に光ったパネルが恐ろしい。

存在が消えてもなお、眼差しだけがそこに残っているような錯覚。

最後にあなたが残した呟き「わたしのことばは誰にも届かない。」が、あれ以来頭の中に鳴り続けている。

 

僕にはまだ「死」という事実を受け入れることが出来ないけれども、

憧れていた美の世界からもう二度と戻ってくることはないのだろう。

声も思い出せないぐらい遠い関係だったけれど、いつもあなたの文章を読んでいた。

安らかに。願わくはまたどこかで話せることを。

 

 

 

所属から飛び出すこと -東京大学に合格された皆さんへ-

 

春を手にされた皆様、おめでとうございます。

地震の影響が色濃く残る中、縮小された形式で入学式が行われる事になるなど、例年とは違うことばかりかもしれませんが、

この大学に合格されたという事実は変わりません。胸を張ってここ駒場キャンパスに足を踏み入れて下さい。

一介の学生に過ぎない僕がこうした「合格された皆さんへ」なとどいう文章を書くのもおこがましいのですが、

「このブログを読んで東京大学、しかも文科三類を受験する事を決めました。ついに後輩になれました!」という嬉しいメールを

頂いたこともあり、また学部最後の学年である四年生という時期を迎えた者として、自分の入学時の記憶を振り返りながら

少しだけ書いてみたいと思います。

 

この大学に入ったとき、僕はもうあと数ヶ月で21歳を迎えるところでした。

普通よりも年齢を喰い、浪人という宙ぶらりんの時間を経験した僕がキャンパスに足を踏み入れて感じたのは、

「ああ、どこかに<所属している>というのはこんなに安心感が持てるものなんだな。」ということです。

駒場名物の「諸手続き」。沢山の用紙に記入を求められ、色々なテントで次々とサークルの勧誘を受け、

正午ぐらいから並び始めたのにも関わらず、全てを終えて行列から解放されたのは日が傾き始める頃でした。

今になってみれば「やりすぎだろうあれは。」と思うところが無いわけではありませんが、それらはいずれも

所属を求める儀式なのであって、新入生だったころの自分はやや辟易しながらも、所属できる(あるいは、所属するよう求められる)

ことの幸せを噛み締めていた気がします。

 

所属の重み。足下に確かな地面がある、という感覚。

春から、皆さんはこの大学の学生として、キャンパスを使う自由やキャンパスで授業を受ける権利を保証されることになります。

現役で合格された皆さんには、浪人(特に宅浪)ならではの宙ぶらりんの感覚は無いかもしれませんが、いずれにせよ

大学生という身分を保証され、所属欄に大学の名前を堂々と書く事が出来るというのは、大きな安心感を自他ともにもたらすことになるでしょう。

ですが、その「所属の安心感」は時に停滞をもたらします。

僕自身、入学して一年目は久しぶりに味わう「所属の安心感」にどこか安堵していました。

でも、そうした安定の位置からは穏やかな思考・行動しか生まれ得ない。所属することは重要ですが、所属しているだけでは

平均的なものへと自らが回収されてしまいがちです。

そうではなく、所属から抜け出そうと足掻く事で、切れ味の鋭い生き方をしてみること。

与えられるままにならず、自分から何かを求めようと貪欲になってみること。

昨年のFresh Start(今年は残念ながら中止になってしまいましたが)というイベントで、トム・ガリー先生が

開口一番放った言葉 —みなさん、合格した事を忘れてください。— は、まさにそういう意味を持つものでした。

つまり、東大という組織・所属に安住せず、所属を有効に利用しながら所属を超える道を探るということです。

 

そうした「敢えて自分から足下を崩すような試み」、「これでいいのか?」と自分を疑う勇気を絶やさず持ち続けることが

重要なのではないだろうか、と学部四年を迎える今、心から思います。

東大という所属や肩書きに頼らず、はじめて会った人に対して目をキラキラさせながら語りたくなるもの。

あるいは、話を聞いた相手が「へえー面白いことやってるね!」と身を乗り出して来ずにはいられない「何か」。

学問であれ活動であれ、そうした対象を持っている人は素敵に映ることでしょう。

 

 

改めて、合格おめでとう。

大学生として確かな所属を手に入れた今、自分を疑う勇気を忘れず、所属から飛び出すぐらいのエネルギーで毎日を楽しんでください!

 

 

 

 

フランス科卒業パーティ -Convivialité-

 

今日は東京大学の学位授与式だった。

授与式のあと、僕の所属する学科である教養学部地域文化研究学科フランス分科でも、卒業生の方々を囲んで歓送会が開かれた。

例年ならば渋谷か下北沢で飲みながら華やかにお祝いをするところだが、今年は地震の影響を考慮して中止も囁かれたぐらいの雰囲気。

だが、幹事である我々三年生や先生方と打ち合わせた結果、「せっかくの卒業の日に何もせず先輩方を送り出すのは申し訳ない」ということに

話がまとまり、研究室でささやかに歓送会を行う事になった。アルコールはもちろん無し。料理もスナック程度。

開催することは出来たけれども、これではさすがに寂しくなるなあ、と不安を感じながら当日を迎えた。

 

心配は杞憂に終わった。

外で食べるよりも豪華だったかもしれない。確かにアルコールは一滴も無かった。シャンパンもワインもビールもなし。

だが、なんと先生方や院生の方々が手製のお料理を持ってきて下さった。何を置けばいいんだろう、と思うぐらい広く感じていた

研究室の机は、持ち寄った料理でぎっしりと埋まった。教授がフランスにいたころにレシピを覚えたという帆立のテリーヌ。

わざわざ炊いてくださったお赤飯。見た目もおめでたい海老の揚げ物。洒落たサンドウィッチ。デザートに苺、そしてティラミス。

よく本でお名前を見るぐらい有名な先生方や、研究や学内行政で忙しいはずの先生方が、ご自分の時間を割いてこのお料理を作ってくださったのか、と

考えると、司会をやりながら言葉に詰まるぐらい感動してしまった。

 

突然の日程変更にも関わらず、狭い研究室には20人を超える方々が詰めかけ、

今までのどんな飲み会よりも温かい雰囲気が終始流れていた。先生方の「贈る言葉」は堅苦しくないのに含蓄とユーモアに富むもので、

さすがフランス科と唸らされるようなものばかり。話が突然フランス語になったり身体論の話が出たり、いくら聞いても飽きないほど。

中でも、イヴァン・イリイチのConvivialityという概念を引用して、「宴」の意味を持つこの言葉に「共に生きる」という意味が響いていることを

今回の震災の話に引きつけながら話された分科長のスピーチは、身体の深いところまで沁みるような思いがした。

 

フランス科は温かい。

一学年には四人ぐらいしか学生がおらず、授業は信じられないぐらい厳しいし、卒論をフランス語で書き切らなければならないけれど、

そこにいる人はみんな温かい。僕は第二外国語がドイツ語で、フランス語を授業で取った事は一度も無かったのに進学振り分けの時に

不思議な勢い(今考えてみれば、金森先生と話させて頂いた影響が大きかった)に突き動かされてこの分科に進学した。

語学があまり得意でないこともあり、はじめは「進学先を間違ったかな…。」と思ったこともあるが、先生方や先輩方の温かさに触れ、

そんな心配は綺麗に消え去った。もう一度進学振り分けをやり直せるとしても、今と同じく、フランス科を躊躇無く選択するだろう。

卒業して院に進む先輩方は笑顔で言う。「まだフランス科に顔を出せるのが幸せ。」と。

卒業して社会に出る先輩方は、晴れやかな顔でこう言った。「フランス科ではフランス語を学ぶのではなく、フランス語を使って、文化や思想の奥にある<何か>を

学んだ。これからフランス語を使う機会は少なくなるかもしれないけれど、フランス科で積んだ経験はいつか必ず活きることを確信している。ヒートアップする世の流れに乗らず、

それに対してNonを唱え、あえて違う道を探ること。理性的だが感情を失わないスタンスで社会に臨みたい。」

ああ、いいな。この学科に来て良かったなと思った。

 

 

時間は流れ、人は未来へと送り出されてゆく。先輩方のご卒業を心からお祝い致します。

 

 

東大世界史最終講義 -冬来たりなば 春遠からじ-

 

11月から飛び込みで「一対一で教えてほしい!」と頼まれた東大受験生に、最後の講義をしてきました。

彼はすでに大学一年生で、仮面浪人として東京大学の文科三類を受験したいとのこと。僕は二浪を経験していますから、そうした

浪人してでも受験を志すという姿勢には共感を覚えます。11月から今まで、週一回でわずか13回の講義しか出来ませんでしたが、

世界史について、時間の許す限り・僕の知識の許す限りのことを教えてきました。基本は講義で、論述の添削なども入れていくという形で

すすめてきたのですが、彼の飲みこみの良さには驚くばかりでぐんぐんと文章のクオリティが上がっていくのを目の当たりにしました。

 

最初の講義で、「軸を定めて陣を貼る」という論述の文章の書き方を教え、そのあと、問題文の分解・解読方法を詳説。

東大の世界史はただ知識があるだけでは書けないし、ただ知識を詰め込むだけでは面白くもなんともない。それぞれを

有機的に関係させながら、たまには大学以降で学ぶことも先取りしながら、論理的に「読める」文章を書く必要があります。

そこからはじめて、とりあえずは13回でなんとかほとんどの過去問に目を通すことが出来たかと思います。

 

僕はコレージュ・ド・フランスの講義の形式が大好きで、「教える側がまさにいま学んでいることを門外漢にも分かるように伝える」

という形式でやってきました。高校レベルの世界史の話をしながら、主権国家体制や革命総論、思想史、世界システムの話をし、

時にフランス語やドイツ語も使いつつ、アナール学派の歴史の見方やヴァレリーの「精神の危機」、フーコーの「人口」概念や

公衆衛生という概念の誕生など、いま自分が学んでいることを出来るだけ噛み砕いて、教えてきたつもりです。

こうした話をするたびに、彼が目を輝かせながら一心不乱にノートをとってくれているのが嬉しくて、教えるのが毎回楽しみでした。

 

最後の授業では、1848年の変動について説明しながら、世界の大きな見取り図を描きました。

1848年の変動こそが、それ以前、それ以後の世界を繋げる契機となるように思われたからです。革命というものの性格が変動すると

ともに、国家、国民という概念も揺らぎ始め、世界中に衝撃が走る。20世紀はかなり最初のほうで説明しておきましたし、

前回の講義はフランス革命とドイツ統一について説明したので、このダイナミズムで締めるのが最適だろうと考えてのことです。

 

なぜか最後の最後に英語の前置詞のイメージを説明しはじめて大幅に延長してみたりもしました(もとはacrossという前置詞は「横切る」

だけでなく、「至る所から」というニュアンスも持っていて、それはヨーロッパ的な考え方ですね、という話をしたところからです。

東大英語でも前置詞は頻出するので、気になってつい全部説明してしまいました)が、こうして僕が受け持った授業は終わりました。

 

最後に、仮面浪人という辛くも勇気ある一年を選択した彼になら響くだろうと思い、僕が浪人中ずっと机の前に飾っていた言葉、

イギリスの詩人シェリーのOde to the west wind(『西風に寄せる歌』)という詩の末句、

If winter comes, can spring be far behind? (「冬来たりなば 春遠からじ」)

を送りました。仮面浪人は大変だったと思うけど、よくここまで頑張ったね、と。

 

 

「身体に気をつけて。駒場で待ってる。」と握手した時、彼の眼が潤んでいるのに気付いてしまい、僕も少し泣きそうになってしまいました。

慌ただしい日常の合間を縫ってでも彼を教えて良かった。春が来ますように。

 

 

断章:鳥のように軽くあること、羽根のようにではなく。

 

一つの考えが形になりつつある。

いまこの機会を逃すと僕は永遠に後悔するだろう。

不安は山のようにある。だが、不安を抑えてあまりある魅力が目の前に湧き出している。結局のところ、僕は崖っぷちに置かれた

ロードランナーの上で走り続けることで自身を磨かざるを得ない。安定した地面の上では無難な思考しか生み得ない。

 

僕には時間が必要だ。そして時間と同時に闇が必要だ。ヴァレリーが書いていた。

「意識というものは闇から生まれ、闇を生き、闇を養分にし、はては闇をより濃く生まれ変わらせる。―自らに問いかけることにより、

また自らの明晰さの力により、その力に比例して。」

闇に住むことなく、光の中で笑っているだけでは、いつしかコントラストも失われてしまう。影、陰り、波打ち際の黒く濡れた砂。

慣れ親しんだあの場所にそろそろまた戻っていかなければならない。孤独は僕に生気を蘇らせてくれる。

 

二度と起こらないことが分かっている出会いに自分の全てを賭けてみるのも悪くない。

力不足なのは分かっている。けれども、息の止まるような感動に人生を捧げたい。どんな形でもいい。音楽でも、文章でも、デザインでも。

学べる限りを学んで再びこの場所へ。コクトーが、ヴァレリーが遥か遠くから背中を押す。そして、たぶん僕の師も。

 

 

ジャン・コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』 ― 賛辞としてはただ一つ、魔術師。

 

久しぶりに、背筋が震えるような本に出会った。

ジャン・コクトーの『ぼく自身あるいは困難な存在』(ちくま学芸文庫)という一冊だ。ジャン・コクトーについては『恐るべき子供たち』を

読んだだけで彼の他の本は知らなかった。この本はいきなりこう始まる。

 

「語るべきことを語りすぎ、語るべきでないことを充分には語らなかったためぼくは今自分を責めている。しかし、よみがえる様々の

ことどもは、周囲の虚無の中にあまりにみごとに吸収されているから、例えば実際それが列車であったのか、またどれが、

沢山の自転車を積んだ貨車を牽いていた列車であったのか、もはやわかりはしない。…….涙はこぼれんばかり。それは家のことでも、

長く待っていたからでもない。語るべきことを語り過ぎたため、語るべきではないことについては充分に語らなかったからだ。

だが結局すべては解決がつく。ひとつ、存在してゆくことの難しさを除いては。これは決して解決がつくものではない。」

 

そして、次にこう始まる。

「ぼくは五十歳を過ぎた。つまり、死がぼくに追い付くのにそれほど長い道のりを必要としなくなったということだ。」

 

「射撃姿勢をとらずに凝っと狙いを定め、何としてでも的の中心を射抜く」という有名な一文もそうだが、挙げればキリが無いぐらい

コクトーの言葉は凝縮されていて、無駄がないのに詩的なものを失わない。ちょうどいま思っていたこと・思いたかったことが

イメージの豊かさを漂わせつつ明晰に言語化されている。それらはどれも、四月からいくつか身の振り方を考えて悩んでいた

僕にとって一つの選択肢を強烈に推してくれるものだった。今までなぜ出会わなかったのかと不思議になる。

その一方で、今このタイミングで出会えたことに運命を感じている。最後にもう二つだけ引用しておこう。

 

エリック・サティについて述べた部分。

「彼はそこで自分を軽石で磨き、自分に反撃し、自分にやすりをかけ、自分の繊細な力がもはや本源から流出するしかなくなるような

小さな孔をきたえあげたのだった。」

 

コクトーが自身の仕事について書いた部分。

「孤独を願うのは、どうやら社会的な罪であるらしい。一つ仕事が済むとぼくは逃げ出す。ぼくは新天地を求める。

習慣からくる弛緩を恐れる。ぼくは、自分が技術や経験から自由でありたい ―つまり不器用でありたいと思う。

それは、奇人、叛逆者、曲芸師、空想家であることなのだ。そして賛辞としてはただ一つ、魔術師。」

 

 

團伊玖磨/木下順二 『夕鶴』 @新国立劇場

 

新国立劇場でオペラ『夕鶴』を鑑賞してきました。

『夕鶴』は日本の誇るオペラの一つで、全編日本語で上演されます。シナリオは日本人なら誰もが一度は聞いたことのある、

「つるの恩返し」が下敷き。つまり、結末(「つう」が機を織っているところを覗いてしまい、「つう」が鶴になって男の元から飛び去ってしまう)

が最初っから分かっているのです。ですが、これは途轍もなく感動的です。ある意味ではオペラ向きの作品と言ってもよいぐらい、

悲劇の結末へ向けてじりじりと観客を焦らしながら進んでゆく。しかも、そこにあるテーマは現代にも通じるものです。

 

「つう」の夫である「与ひょう」は悪い男二人に騙され、お金と都会へ出る欲望に目をくらませて、「つう」に機を織るよう無理やり

頼みこんでしまいます。「つう」が「あたしだけじゃ駄目なの。お金ってそんなに必要なものなの。都会の華やかさなんていらない。

日々の暮らしに必要なものはあたしが全て備えてあげられるのに、それだけで足りないの。」と悲愴に歌い上げる「つうのアリア」

は、まさにそういう貨幣経済に巻き込まれて日々を過ごす我々に、「本当に大切なものは一体なんなのだろうか。」と考えさせます。

つうに去られたあと、呆然とする与ひょうを囲んで「つうおばさんは今日いないの!遊びたい!」と無邪気に叫ぶ子供たちのシーンは

(一切与ひょうに弁解のチャンスを与えない点も含めて)非常に皮肉かつ残酷なシーンです。作者が単純な貨幣経済への信仰や

都会の生活を頭ごなしに良きものとする風潮に対して強烈なアンチテーゼを突き付けていることが読み取れるでしょう。

喪失の悲しみが舞台を覆う中で与ひょうはただ茫然自失するのみ。貨幣に目がくらんで失敗した男を、誰も助けようとはしないのです。

 

お金があって都会で立身出世する煌びやかな生き方と、慎ましいが十分な幸せに包まれて大切な人と静かに暮らす生き方。

本当に大切なものは一体何なのだろうか。過去を振り返りながら色々考えているうちに、涙が溢れて来て止まらなくなりました。

 

楽曲としてもこれは非常に優れているように感じます。とくに今回はフルートの方がむちゃくちゃ上手な方で、

フルートの音をあえて太い音に取ることで和風の響きを現出したかと思うと、「つう」がよたよたと崩れ落ちる場面では

よれよれと細く今にも壊れそうな音に切り替えて吹いていらっしゃいました。タイミングも相当にシビアな曲ばかりでしたし、凄いなあと

感動の連続。それから機を織る場面でのハープの使い方は作曲の妙技ですね。

 

意外に感じたのは、日本語ならではの魅力があるということ。

というのは、時制の変化が日本語だと効果的に響くのです。ドイツ語などでは通常は動詞が二番目に来てしまいますが、

日本語では動詞、それも「あなたが好きだ。」「あなたが好き〈だった〉」のように、時制変化が語尾に現れます。

つまり、歌のフレーズの最後にこの過去形への変化が歌われることになります。そうすると、悲痛な声で

「あなたが好き」と歌いあげて、最後に「だったの…。」と崩れ落ちる、そのコントラストが絶妙に決まる。これは素敵だなあと思いました。

 

照明や演出もシンプルながら品の良いものでしたし、最初から最後まで楽しむことが出来ました。

一幕が二時間、ニ幕が三十分という珍しい構成でしたが、シナリオの切れ目を考えるとこれで良いのかもしれません。

この「夕鶴」は、日本でもっともっと演奏されても良いのではないかと感じます。僕の指揮の師匠は海外公演の際にこの「夕鶴」から

「つうのアリア」をプログラムに持っていったことがあるそうですが(書き込みだらけのスコアも実際に見せて頂きました)

僕もこうやって日本の曲を自分のプログラムに取り入れていきたいものです。

 

というわけで、「夕鶴」はオペラにあまり馴染みの無い方にもお薦めできる演目ですし、ぜひ一度ご覧になってはいかがでしょうか。

小さい頃に親に語り聞かされたあの「つるの恩返し」が、新しい姿と深みを纏って、感動的に蘇ることと思います。

 

 

 

ヨーロッパ滞在記 その8 -マドレーヌ教会のレクイエム-

 

ホテルに帰ったころにはすっかり陽が落ちており、昼までの暖かさが嘘みたいに空気が冷えていました。

ベトナムで買った紫のストールを、ポンピドゥーセンター前で買ったボルドーのストール(パシュミナみたいな長さでしたが)に

替えていざ外へ。フランス滞在最後の夜は、たまたま告知を見つけたモーツァルトのレクイエムをマドレーヌ教会で聞いてくることに

しました。マドレーヌ教会は教会の前に広々とした花壇があって、そこには赤の花が綺麗に植わっていたのを昼間に見ていたので、

それに合わせてボルドーのストールに変えてみた、というなんちゃってフランス人な発想があったりします。

 

ボルドーのストールなので、というわけではないのですが、お酒を飲みたくなったので、教会の近くのカフェに入って

ボルドーを二杯頂きました。幸せな気持ちになったところで、いざマドレーヌ教会へ。

僕はかなり最初の方に入ったので、前から二列目に座っていましたが、開演直前になると教会内に並べられた椅子がほとんど

全て埋まっていました。さすが文化の国、フランスですね。

そして始まったレクイエム。うーん。微妙です。教会の壮麗な空間でモーツァルトのレクイエムを聴いているのですから素直に喜んで

おけばいいのですが、指揮を習っている身としてはそういうわけにはいきません。フレーズ感が無いし、強拍・弱拍の差も感じられない。

技術の問題ではなく、音符を音に変換しているだけだなあと思ってしまいました。アンコールのヴェルディも勢いだけで

雑な印象。決して斜めに構えているわけではないのですが、何だかちょっと肩すかしを喰った気分で終演後に席を立つと、

左前に座っていた方がフルスコアに色々と書き込みをしているのが見えました。

珍しいな、と思ってフランス語で「音楽をされているのですか。」と話しかけてみたところ、なんと今回のオーケストラの練習指揮者の方

でした!同じく指揮をやっていることもあり、伝わったのか伝わっていないのか分からない会話でもすぐに意気投合してしまい、なぜか

二人で呑みに行くことに。近くのカフェで呑んでいたのですが、相当さきほどの演奏に不満だったようで、

「俺はあんな風に練習指揮をつけてないのに、今日の指揮者がむちゃくちゃにしたんだ!あれじゃ駄目なんだ!」と

熱弁をふるっていました。僕はそんなに話せないので一生懸命リスニングするのに必死だったのですが、感想は彼と

近いものだったので、何だか気持ちが分かる気がしました。音楽の世界は難しいですね。

 

結局、二軒目にはしごして、朝まで二人で音楽談義をしながら飲み明かしてしまいました。

まさかフランスでオールするとは思いませんでしたが、フランス滞在の最終日を締めるには相応しい時間だったかもしれません。

始発に乗りながら「いつかパリで指揮できるように頑張ります。」と彼とがっちり握手をして、自分のホテルへ戻り、慌てて荷造りを

し始めました。数時間後にはGare du NordからTGVでドイツへ移動せねばなりません。中途半端に寝てしまうとホテルで寝過ごして

しまいそうだったので、スーツケースに荷物をバサバサッと詰めた後、睡眠時間ほとんどゼロで早朝のピガールの街にお別れを告げます。

予約していたTGVまではまだ相当時間があったので、節約の意味も兼ねて(ほとんどお金を持っていかなかったので)、ピガールから

パリ北駅まで、ごろごろとスーツケースを引きずりながら歩いて向かうことにしました。今回のヨーロッパ滞在はデザインの勉強も

兼ねていたので、歩きながら店や至る所にある広告、カフェの内装、置いてあるパンフレットやチケットのつくりなどをじっくりと見たりして、

時に色彩の合わせ方に「なるほどこうやるのか…!」としばらく固まってしまったりしてゆっくり歩いているうち、パリ北駅に無事到着。

名残惜しくも、フランスをあとにします。