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夏日、それからプロとの試合

 

 今日はとても暑かった。

ニ限のソフトボールをやっている間なんて、もう夏が来たんではないかと思ってしまう暑さだった。

怪我防止のため長袖のアンダーアーマーを下に着ていたのだが、怪我云々の問題はさておき着たことを後悔した。

みんなの鉄壁の守備と好打によって圧勝したので良いとしよう。やっぱり試合に勝つと素直に嬉しい。

 

 三限の政治Ⅰの時間は機構で仕事という名のもと、かっぱが買ってきてくれたたこ焼きを食しつつ色々ミーティング。

四限の姜尚中の情報メディア伝達論は講義の内容よりも教官のトーク力に感心してしまう。講義というよりは講演会のように流暢で、

ニ階で授業を聴いている僕から見た限り、机の上にさしたる原稿もなさそうだった。原稿なしにあれだけ話せるというのは凄い。

ボイスレコーダーで録音しながら一生懸命ノートを取っている女の子がいた。きっとファンに違いない。

 

 五限は高等動物の比較生物学。前回の授業はイマイチ面白くなかったが、今日はめちゃくちゃ面白かった。

テーマは「天然毒の研究と創薬」で、獣医学専攻の教官による講義。

「毒」はギリシャ語でToxicon、「矢」がギリシャ語でToxonであることから、毒というのは矢に関係したものであったことが分かる。

(ギリシャ語で矢につける毒をToxicosという) このような語源の話から始まり、PoisonとToxinとVenomの違いなどの説明を

導入として、様々な毒を紹介して頂いた。カイメンから色々な毒がとれ、それは有効利用できる毒になるそうなのだが、

カ採れる毒の一つにホスファターゼ阻害剤として応用されるOkadiac acid、すなわちオカダ酸というものがあるらしい。

この名前がやたらツボに入って(分かる人は分かるだろう)、今度あの人に会ったらOkadiac acid先生と呼んでみようと決心した。

キノコから採れる毒としてのムスカリンの話からアセチルコリンやニコチン受容体の話に広がったり、ビンアルカロイドの話から

抗癌剤、さらにはチューブリンの話に拡がったり、全体として「毒」を切り口にして生物の体に迫ろうという意図が感じられた。

声が聞きとり易かったことも手伝ってとても面白く聴かせて頂いた。

 

 授業終了後、急いで帰宅してボールバッグを取って経堂ボウルへ。今日はプロのレッスン&試合である。

レッスンでは、肘を入れるタイミングを一定にする(トップから一気に入れる)ことと、手の傾けによるアクシスローテーションの調整に

関するアドバイスを頂いた。気合が入ると更なる回転を求めて肘入れのタイミングが不安定になりがちであるのは意識していたので、

プロの指摘はこれを意識する上でとても役に立つものだった。プロの的確なアドバイスと練習の成果あって、追い求めてきた投げ方は

かなり完成形に近づいたように思われる。豪快なキックバックを見せてくれるような満足な球も高い頻度で投げられた。

しかしこのあとのプロとの勝負には1勝2敗、トータルで負けてしまった。アベレージは195.3。プロは210ぐらいだったか。

プロが6つストライクを続けてくるところでこちらはダブル‐スペア‐スペア‐ダブルとストライクを続ける事が出来なかったのが痛かった。

支配人さんがギャラリーにいたので、いいところを見せようとついつい力が入ってしまったのかもしれない。ナチュラルに投げねば。

それにしても一度見つけたラインに確実に同じ球を投げ込んでくるプロの技量はやはり凄い。次回こそリベンジしたいと思う。

 

 暑い日が続くだろうがボウリング場はいつも涼しい。強い日差しは無いし、飲み物も自由に飲めるし、座って休憩する事も出来る。

夏には良い競技かもしれないな、などと思いつつ、長谷部恭男『憲法学のフロンティア』(岩波書店、1999)を再読。

長谷部教授の本は新書でも単行本でも難しい事を分かりやすく説明してくれるので愛読している。

(岩波新書『憲法とは何か』や、ちくま新書『憲法と平和を問いなおす』など。他には杉田敦と共著の朝日新書『これが憲法だ!』)

この本では随所に設けられた「プロムナード」のコーナーが楽しい。

もしも法学部に進学することになったら、是非とも長谷部教授の下で勉強してみたい。

というわけで、とりあえずは明日の一限にある法Ⅰの授業に備えて寝ます。

 

益川先生講演会 その2

 

 さて、益川先生の講演会の内容について書くことにしよう。

最初に益川先生の為されたこと、および素粒子論の簡単な説明を東大の教官にしていただいたあと、

益川先生にお話をお願いするという運びであった。壇上にゆっくりと上がられた益川先生を見て、その舞台さばきに感動した。

沈黙、そしてゆっくり話し出す。まず、講演会を開催した関係者各位にお礼を述べられ、そして実際に頭を下げられた。

話の最初に関係者にお礼を言う人はたくさんいても、実際に頭を下げて静かにお礼をされる方を僕は初めて見た。

先生がこの講演で伝えられたことのうち、印象的だったことをいくつか挙げておく。

 

1. 21世紀中、それも前半に、ダイナミックなパラダイムチェンジがもう一度起こるのではないか。

  それは量子重力に関する新しい理論の登場によるものであろう。

 

2. 若い人は間違いを犯す勇気、大胆な説を唱える勇気を持っている。年を取ると安全に走ってしまう。

  新しい理論を大胆に唱えるような研究者は、みな20代から30代の若手の研究者である。

  「秀才の極限としての天才」であるハイゼンベルクも、「誰も認めないような仮説から誰も認めないような理論に達する天才」

  であるランダウも、「包括的に物事を見て定式化する天才」たるディラックも、みな20代から30代までに大きな仕事をしている。

  その意味では、大学生にはあと10年ちょっとしか残されていない。

 

3. 分からないから気になる。これが全てのスタート。研究は一番最初の着想が大事であるが、それを「続けるか/諦めるか」 

  の見極めが難しい。早々と「まずいぞ。」と考えて転身してしまっては、大魚を取り逃すことになる。

  その判断に際しては、共同研究者とのDiscussionが大事である。迷いやズレを正しい道に戻すのは共同研究者だと思う。

 

4. 先生や先輩に教えを乞うのは良いことだが、それでは最小限の知、無難な正解を得るのみだ。

  真に大切なのは、「同じぐらいの知、異なる志向を持つ友人と、一つの問題について夜を徹して話し合うこと」である。

  当初の問題から脱線しても全く構わない。自分とは違う道を歩くはずの友達と、一つの問題を巡って話し合うことで

  より広い視野を持つことが出来る。友達の経験を自身に取り込み、自分の経験を1.5倍ぐらいに拡張し得る。

 

 

 講演会後、レセプションにも参加して、御飯を食べたりお酒を呑んだりしてきた。

赤ワインが結構美味しくてついつい4杯ぐらい飲んだ気がするが、周りも結構呑んでいたのでまあいいだろう。

想像していたより気楽な雰囲気だったので、関西人仲間と一緒になって益川先生に京都トークを振ってみたり、

果ては学部生を代表して益川先生及び居並ぶ駒場の先生方の前でスピーチをしてみたり、貴重な経験をさせていただいた。

ちなみに学部生代表スピーチ(というほどのものではないけれど)は、M君と僕とS君の三人でやったのだが、三人とも全員関西人で

あったことを付け加えておく。こういうときのアドリブ性の高さは関西人の強みかもしれない。単なる「無謀」とも言えるだろうが、

講演会で、「若い人は大胆に走る勇気を持っている」と先生がおっしゃっていたので良いことにしよう。

 

 最後に写真を沢山撮って頂いて解散。 写真に映った益川先生は、とても穏やかな笑顔をされていた。

       

   

益川先生講演会について その1

 

 

 数日前に紹介した、益川先生の講演会に行ってきた。

行ってきた、というよりスタッフとして働いていたというほうが正しいかもしれないが、まあいいとしよう。

講演会の内容については次の記事に書くとして、講演会の状況について少し書いておきたい。

 

 土曜日の昼という中途半端な時間に加え、新フェス前日で忙しいはずなのに沢山の一年生が来てくれていた。

講演後のレセプションである先生がおっしゃったように、益川先生の「磁力」のなせる業だろう。

人数が溢れたときに備えてもう一つの教室を一般来場者用に確保してあったのだが、何とか900番に全員入ってもらうことが

出来そうだったので、来場者は学生、一般の方ともに900番へ入ってもらう。その結果、ちょうどいいぐらいに900番が埋まった。

事前に打ち合わせを行った通りの来場者見込みで、一般来場者に900番へ移動して頂くこともあらかじめ計画してあったため、

かなりスムーズに進行したのではないだろうか。

 

 ある人が「駒場のイベントは広報が不足している」と書いていたが、まさに駒場のイベントの広報に関わっている僕に言わせれば、

それは非常に無責任な言葉だと思う。駒場のイベントの広報、少なくとも学部が行うイベントの広報に関してはこれが限界かつ十分だ。

予算、時間との兼ね合いを考えてもこれで限界だし、広告しすぎて予定より多くの来場者が来ては教室の手配などで混乱が生じる。

今回の遠隔聴講の件にしても、そもそも人数が溢れたときのセーフティーネットという意図から計画されていたものだ。

遠隔聴講せずに聞くことが出来るなら、それはそれで良いではないか。

 

 学部が行うイベントは、学生やサークルが行うイベントとは比べ物にならない手間がかかっている。

一つの学部イベントがあるだけで、先生方は自分の研究を留め置いてイベントの準備に奔走される。

研究を除いても、先生方はイベント以外の学内行政も沢山抱えていらっしゃるため、その大変さは想像を超えるものである。

終電を無くし、歩いて帰られることもしょっちゅうだ。連日に渡る夜遅くまでの作業で体調を崩され、それでも医者に行く暇も無く

作業を続けられることもしばしばある。その様子を何度も見ているし、他の学生スタッフが自分の時間を提供して

夜遅くまで一生懸命作業しているのを知っているから、広報が不十分だなどとは決して思わない。改善点は勿論あるにせよ、

毎回毎回、先生方やスタッフは時間や予算の許しうる限界までイベントの準備をされていることは確かだ。

とにかく、まずは先生方、スタッフの方々、本当にお疲れ様でした。

裏返しのニット帽とTCK

 

 昨夜、北田暁大「広告の誕生」を読んでいたらいつのまにか4時になってしまった。

三時間寝てNHKラジオのオープニングテーマでいつも通り目覚める。

物凄い雨で外に出る気を失いかけたが、基礎演習のTAもどきをやらねばならないので用意して出発。

久し振りに電車で学校に向かう。車内でニット帽を裏返しに被っているお姉さんを発見。

わざとなのだろうか。「ポリエステル80%」「レーヨン20%」、ニット帽の材質が公に曝されているのだが・・・。

 

 とりあえず今日の基礎演習は面白かった。TCK (Third Culture Kids)についてのプレゼンを聞いたが、とても興味深いものだった。

『越境の声』という越境文学の対談集を最近読んだばかりだったこともあり、リービ英雄や水村美苗など、

越境文学の担い手たちが頭に浮かんだ。(リービ英雄の「星条旗の聞こえない部屋」は東大の現代文でも出題されたことがある)

越境文学の担い手たちの一つの核心は、「母国語でない言語で小説を書く」ことにあると思う。つまり「その言語への違和感」が

作品を書く動機の違和感になっていると言える。文学とTCKの関係について発表者の女性はちらっと触れたが、

TCKというよりは「越境」をキーにして調べていけば面白い研究が沢山見つかるのではないだろうか。とはいえ、

質疑応答でも述べられたように、TCKという区分は「誰にとってTCKなのか」という認識の問題を含んでいるため、定義が難しい。

昨年の基礎演習でも経験した「用語を定義することの難しさ」を再び味わっている。

 

 基礎演習後、アフター基礎演習のために初年次教育センター(通称:水族館あるいは動物園)へ。

今日のテーマはPowerPointの使い方の実習である。ちょこちょこ一年生にアドバイスしながら、スクリーンを自由に使っていいとの

ことだったのでMotion Dive Tokyoを使って「Power Pointの使い方」という動画をその場で作って映してみた。

それなりにウケたようなのでちょっと満足。Motion Dive は使い方次第で最強のプレゼンソフトになると思う。

昼、機構へ向かう。かっぱがまたもやお茶を淹れてくれる。昨日より味に厚みが出て、さらに美味しくなった。

口に含むと柔らかい苦さを感じ、喉を通るころにはふんわりとした甘さに変化する。かっぱやるなあ。

 

 四限の歴史はマルク・ブロックについての授業だが、ほとんど誰も聞いていない。

マルク・ブロックを自分で読んだり、仏語の勉強の時間に充てている。しかし、今日は一点とても面白い所があった。

ブロックの著書に「王の奇跡」というのがある。大体の骨子を以下に書いてみると、

「王の奇跡」とは、「王に触れてもらうと病気や怪我が治癒する」という俗信の事を指す。

中世において王の権威は不動のものと言う程ではなかったが、この「奇跡」のように呪術的権威は王のみが保持する権威であった。

王は「奇跡」という呪術的権威に依拠することで、人間的な観点ではなく神的な観点からその権威を強化していったのである。

奇跡を行う事が出来る、というのは、「他の一切の権力に優越するだけでなく、全く別個の次元に属する権力」の表れに他ならない。

  

というような感じである。重要なのは、この本を書くに至ったブロックの問題意識だ。彼の問題意識とは、

「王に触ってもらえば病気が治る、などという一見取るに足りない慣習が何故民衆に浸透していったか。」というものだ。

レジスタンスとして最後まで抵抗活動を続けた(最後はドイツ軍に捕まり銃殺刑に終わる)彼のアクチュアリティから考えたとき、

その問題意識は、

「どうしてナチスのような全体主義、一種の〈信仰〉に、民衆が惹きつけられていったか。」というところから来たものだと考えられる。

ブロックはその問題意識を、直接にナチスの全体主義を論考するのではなく、「中世に時代をずらす」ことで明らかにしようとした。

その結実がこの「王の奇跡」なのである。

 

 五限は金森先生のゼミ。今日はハンナ・アレントについて。これに関してはまた記事を改めて書くことにしよう。

なかなか密度の濃い一日だった。

  

 

5月8日、終日雨。

 

 たまには日記めいたものも書いておこう。 

今日は二限のソフトボールが雨でフットサルに変更となった。

フットサルとかサッカーは、中学・高校時代と部活ではないもののかなり熱心にやっていた。

そのため、久し振りのフットサルには燃えてしまった。

とはいえ「キーパーは手を使ってはいけない」という特別ルールは流石に酷い。足だけでキーパーチャージするのは至難の業だった。

 

 

 午後、友達の初マイボール選びを手伝う。Stormのセカンド・ディメンションとRotoのローグ・セルの二択で悩んだ末に

ローグ・セルに決定。どちらも良い球だと思うが、このシリーズは僕もセル・パールを使ってその良さを知っているだけに

ローグ・セルの方が印象が良かった。ついでにバッグも購入。やる気もセンスも十分な人なので、すぐ上手くなるだろう。

負けないように練習しなければ、と思いつつ、授業が終わってからは少し機構に顔を出して明日の基礎演習の内容について

先生と打ち合わせ。途中でかっぱがやって来て、お茶を淹れてくれた。静岡のお茶とのことだったが、雑味の無い

ふわっと甘みが広がるような優しい味で、大変美味しかった。かっぱありがとう。

 

 夕方は経堂ボウルで練習。

今日の練習では、回転軸の調整を意識して投げた。相変わらずドライなレーンなので、ソラリスを30キロぐらいで20枚目から出して

戻すラインを選択。体がほぐれてくると回転が乗り過ぎる気配があったので、縦回転の割合を増やした上でスピードを少し上げ、

12枚目ぐらいから8枚に出す。強い球を狭いラインで投げる練習になるのは勿論、これがバッチリはまったため、非常にいい感触で

練習を終える事が出来た。Soralisでこのラインを取ると、かなり安定してポケットに寄っていく。ピン前でのキレも素晴らしい。

 

本日のハイゲーム

 練習を終えてからは今日のメインイベントをこなした。

経堂ボウルに新しい料金システム(特別割引制度)を導入しては

どうか、という議論があって、そのモデルプランを支配人さんに

プレゼンした。(会長さんに「やってみろ」と言われたので)

僕の考えたものは、レジャーボウルとスポーツボウルの壁を薄くし、

スポーツ・ボウリングの裾野を底から広げることを目的としたプランで

「経堂ユース・クラブの創設」というものである。

数日練りに練った内容であるだけに、プレゼンの手応えも相当ある。結果が楽しみだ。

益川敏英教授 講演会@駒場のお知らせ

 

知っている人は知っているかもしれないが、5月の9日の土曜日、午後二時から東大駒場キャンパス900番教室で

ノーベル物理学賞を受賞された益川教授の講演会が行われる。受付は12:30から900番教室前で。

先日の雁屋哲さんの講演会に続く「新入生歓迎講演会」の第二回としての位置づけである。

これらの企画で、僕は看板やら整理券やらを作る仕事を担当させてもらっている。

その関係で内部情報を色々知っているので、バラしても問題無さそうな事をここに書いておく。

①学生は650人ぐらいまで900番講堂に入ることが出来る。650人を超えた場合、別室で中継映像を見ることになる。

②整理券が12:30から配られる。おそらく席順は整理券の番号と対応する。つまり早い者勝ち。

③整理券を貰ってしまえばあとは2:00まで自由にしていられる。

 

きっと面白い話を聴かせて頂ける事だと思う。立花隆『小林‐益川理論の証明』には、益川先生が何を為されたかが

実に手際よく解説されているので、これを読んでおくと話が理解しやすくなるのではないだろうか。

Gardiner&BilsonのMozart Piano Concerto No.6,7&10

 

 GW最終日は残念ながら雨の一日になりそうだ。今日は大人しく家にいることにしよう。

 というわけで、開封したばかりのグァテマラで熱い珈琲を淹れたあと、棚からこのCDとスコアを引っ張り出してきた。

Mozart Piano Concertos No.6,7&10(Gardiner,Bilson,Levin,Tan)

 
 モーツァルトのピアノ協奏曲、6番と7番(三台ピアノ)と10番(二台ピアノ)。
グラモフォンより、1987年の録音。
ガーディナーの指揮で、ピアノはビルソンとレヴィンとタン。
いずれもフォルテピアノを用いた古楽演奏である。
  
 モーツァルトのピアノ協奏曲には数多く名盤があると思うが、
フォルテピアノを用いた演奏の中ではこれが一番好きだ。
軽やかでいて、陰影に富む。
さらっと駆け抜けるように聞こえて千変万化するニュアンス。
三台ピアノの掛け合いは聴いていて最高に気持ちいい。
10番の二・三楽章なんて何度聴いても飽きない。
 
  
 僕はこのコンビ(とりわけビルソン)のフォルテピアノの音を聴くたびに、
いつも「米」を思い浮かべてしまう。丸くてポロポロっとした音、ふわっと膨らんで
きそうな優しい音が白米のように感じるのだ。(七番の一楽章などは特に。)
グランドピアノで演奏した時の光る粒を転がすような音ではなく、
ここにあるのは艶消しされた乳白色の音の粒である。
管弦楽もザクザクっとした魅力に溢れており、決して重苦しくはならない。
 
 6番や7番などは他のピアノ協奏曲に比べてマイナーな部類に入るだろう。
だが、有名な20番や27番に負けない素晴らしい魅力を湛えている。
 
  
  
 是非聴いてみて下さい。雨の日でも思わず笑顔になってしまうこと請け合いです。
 
 
 

立花ゼミと僕の関わり

立花ゼミとの関わりについて書いてみる。

 

立花隆の名前は中学高校の頃からしばしば目にしていた。何と言っても「僕はこんな本を読んできた」「20歳の頃」「脳を鍛える」から

脳死に関する論考まで、本屋に行けば彼の名前で凄い量の著作が並んでいる。驚いたのはそのジャンルが多様であること。

文系理系などという壁やジャンルを越境して発言することを恐れない知識人、それが僕にとっての立花先生のイメージだった。

浪人中、勉強に飽きては三宮の古本屋で立花隆の著作を買い込んで自習室に並べて読んでいた。

そんな経験を抱えて大学に入ったため、入学後すぐに立花隆のゼミへ入ることを決意したのはとても自然なことだろう。

 

しかし、昨年の立花ゼミでの活動はあまり上手く行かなかった。何と言っても割ける時間が少なすぎた。

夏以降は部活とバイトに追われる毎日になってしまい、ゼミに打ち込む時間がほとんど無くなってしまった。

今年は先年の反省を踏まえて部活をすっぱり辞めた。部活に費やした時間の分、このゼミに集中したい。

いまゼミで関わっているのは昨年に自分が立ち上げて放置してしまっている「芸術の最前線」企画と、

今年新たに立ち上げた「僕らはこんな本を読んでいる」企画。二つとも、何とか形になる結果を残せればと思っている。

Le soleil ne se couche pas.

立花ゼミでの活動記録、及び個人的な日記としてこのブログを始める。

ブログ名である Nuit Blanche は白夜という意味。

深夜でも街を散策することが可能な白夜のように、昼夜を問わず様々な記録を綴っていきたいと思う。

 

 

「ノヴァーリスはこう言っている。

哲学的思索とは、惰性をのがれ生に目覚めることである。(Philosophiren ist dephlegmatisiren vivificiren.)

すなわち、人間の精神に対して、哲学、あるいは思弁的な教養の果たす役割は、この精神を覚醒し、刺戟して、

それに絶えず熱心に観察させるような生活を営ませることにつきる。

刻刻過ぎる瞬間に、何らかの形態が例えば手とか顔とかにおいて完璧なものになることがある。

山や海の呈するある色合いが他の部分よりも際立って美しく見えることがある。

情熱とか、洞察とか、知的な興奮とかから生じるある気分が、抗しがたい魅力とリアリティを感じさせることがある。

しかし、これらはその瞬間のあいだのみ起こるのである。・・・(中略)・・・

この多彩な、劇的な生活に関して、ある一定の脈博数を数えられるだけの時間しか私たちには与えられていない。

ではこのほんのわずかな時間内に、最も微妙な感覚によって認めうるものすべてを見逃さないためには、どうすればよいだろうか?

きわめて迅速に時点から時点へと移動し、最も多くの活力がその最も純粋なエネルギーと化してひとつとなっている焦点に

どうしたら私たちはつねに存在することが出来るだろうか?」

(『ルネサンス』 〈結論〉より 著:ウォルター・ペイター 訳:富士川義之)