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三冊をめぐって

 

Freshman Festivalのインタビューでおすすめの本を三冊紹介してほしい、ということだったので、かなり悩んだ末に、

コクトー『僕自身あるいは困難な存在』(La Difficulté d’être)と、リルケ『マルテの手記」(Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge)と

立花隆『青春漂流』の三冊を挙げました。

 

コクトーは僕の人生を大きく動かした一冊。ブログでも何度も取り上げてきましたし、色々なところからインタビューを頂いても必ず挙げるものです。

「射撃姿勢をとらずに凝っと狙いを定め、何としてでも的の中心を射抜く」など、頭の中から離れなくなる言葉と強靭な思考で溢れています。

 

 

リルケは独りの時間に沈むときにしばしば読み返します。

生きることと死ぬこと・見ることと書くことをめぐって、自分の内側に降り立たせてくれるような静けさを備えた一冊です。

大好きな一節を引用しておきましょう。

 

詩はいつでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。

そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。

詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。

詩はほんとうは経験なのだ。一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。

空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞らいを究めねばならぬ。まだ知らぬ国々の道。思いがけぬ邂逅。遠くから近づいて来るのが見える別離。

──まだその意味がつかめずに残されている少年の日の思い出。喜びをわざわざもたらしてくれたのに、それがよくわからぬため、むごく心を悲しませてしまった両親のこと

(ほかの子供だったら、きっと夢中にそれを喜んだに違いないのだ)。さまざまの深い重大な変化をもって不思議な発作を見せる少年時代の病気。静かなしんとした部屋で過した一日。

海べりの朝。海そのものの姿。あすこの海、ここの海。空にきらめく星くずとともにはかなく消え去った旅寝の夜々。それらに詩人は思いをめぐらすことができなければならぬ。

いや、ただすべてを思い出すだけなら、実はまだなんでもないのだ。一夜一夜が、少しも前の夜に似ぬ夜ごとの閨の営み。産婦の叫び。

白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。

死んでいく人々の枕もとに付いていなければならぬし、明け放した窓が風にかたことと鳴る部屋で死人のお通夜もしなければならぬ。

しかも、こうした追憶を持つだけなら、一向なんの足しにもならぬのだ。追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。

そして、再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。思い出だけならなんの足しにもなりはせぬ。追憶が僕らの血となり、目となり、表情となり、名まえのわからぬものとなり、

もはや僕ら自身と区別することができなくなって、初めてふとした偶然に、一編の詩の最初の言葉は、それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生れて来るのだ。

 

 

立花さんの『青春漂流』は二十五年前に出版された本で、立花さんの著書の中では随分前の部類に入るかもしれませんが、今読んでも褪せない刺激に溢れていると思います。

とりわけ新入生には響くところが大きいでしょう。本書の力強い一節を、自戒も込めて引用させて頂きます。

 

自分の人生を自分に賭けられるようになるまでには、それにふさわしい自分を作るためには、自分を鍛えぬくプロセスが必要なのだ。

それは必ずしも将来の「船出」を前提としての、意識行為ではない。自分が求めるものをどこまでも求めようとする強い意志が存在すれば、自然に自分で自分を鍛えていくものなのだ。

そしてまた、その求めんとする意思が充分に強ければ、やがて「船出」を決意する日がやってくる。その時、その「船出」を無謀な冒険とするか、それとも果敢な 冒険とするかは、

「謎の空白時代」の蓄積だけが決めることなのだ。青春とは、やがて来るべき「船出」へ向けての準備がととのえられる「謎の空白時代」なのだ。

そこにおいて最も大切なことは、何ものかを「求めんとする意志」である。それを欠く者は,「謎の空白時代」を無気力と怠惰のうちにすごし,

その当然の帰結として,「船出」の日も訪れてこない.彼を待っているのは,状況に流されていくだけの人生である。

 

 

海をつくる

 

 

帰国して一週間以上経つというのに耳から子供たちの笑い声と歓声が離れない。

フィリピンでの日々がどれほど自分に衝撃を与えたか思い返している。

 

フィリピンについた二日目、僕はマクタン島の海に行った。

遠くへ伸びた突堤の先端まで一人で歩きながら、この十日間で海をつくろう、と決心した。

海は、どんなものだって受け入れる大きさを持ちながら、確かな方向性を持っている。

様々な要素を包み込むことと、大きな流れを見失わないこと。海のイマージュに託して考えたのはそういうことだった。

 

 

包み込むこと。

オーケストラには考え方や性格や技術の異なる色々な人がいる。それはそういうものだし、それこそがオーケストラなのだ。

無理に一つに整えようと躍起になるのではなく、それぞれの個性を最大限に尊重しながら自然と同じ方向へ導いて行く。

一人一人が自由に奏でた結果、同じ流れの中に合流して大河を生む。

それは簡単なことではなく、時間のかかることかもしれないが、技術の巧拙を超えて「志」を持った温かい音はそこから生まれると信じる。

 

 

大きな流れ。

細かな視点から書き上げれば、一つの音符の方向性にはじまり、主題の作り方、楽章ごとの持っていきかた、曲そのものの持っていきかた、

そして曲と曲の非連続/連続性=プログラミングに至る。細かな要素一つ一つに「流れ」があり、同時にそれはマクロな流れの中に位置づけられる。

そういう意味で当然ながらプログラミングの重要性は大きく、相当なこだわりを持って毎回のプログラムを作って行った。

(フィリピンではいわゆるコンサートホールのようなものが十分に存在しないこともあり、

演奏会場についてから音響とお客様の様子を考慮して、その場でプログラムを決定させて頂いた)

 

それ以上に大きな流れ。それは、「十日間続くコンサート」という連続した日々の流れだ。

一回一回のコンサートの流れが小説のチャプター一つずつにあたるとすれば、これは小説全体の流れにあたる。

一回一回のコンサートが支流を作るようなものであったとすれば、この最も大きな流れを捉える思考は鳥の眼差しだ。

それぞれの川がいつしか集まって一つの「海」を作っていたことを見出すような…。

 

 

どこまで果たせたかは分からない。

けれども、最後の演奏会を指揮しながら、僕には確かに海が見えたのだ。

 

海をつくる

海をつくる

 

 

 

 

Freshman Festival

 

東京大学の新入生向けのイベントにゲストとしてお招き頂き、少しお話させて頂くことになりました。

ともすれば「意識が高い」とか、サークルの事前勧誘ではないかとか揶揄される方もいるかもしれませんが、

企画された方々からお話を伺ってみると全くそういうことはなく、「合格発表が中止になったいま、先輩として新しく入ってくる後輩たちを祝福してあげたい」

という温かいお気持ちに共感して、微力ながらお手伝いさせて頂く事となりました。

もちろん参加は強制ではなく自由なもので、学生たちだけでリードしていく手作りの企画になっているようです。

同じキャンパスに時間を過ごす者として、こうした歓待の精神はとても素敵だなあと思います。

 

それにしても自分が新入生だった頃から既に六年が経ったことには驚くばかりです。

六年経ったにも関わらずいまだ駒場の学生の身でいる僕に何が話せるのか分かりませんし、棒振りとしても駆け出し中の駆け出しに過ぎないのですが、

逆に考えてみれば、いまだ学生で将来や興味を模索する身だからこそ話せることがあるのかもしれない、とも思います。

イベントに先立ってインタビューを受けましたので、ご笑覧ください。

 

・Freshman Festival (HP)
日時:2014年3月13日(木)
14:45開場 15:00開会
場所:東京大学駒場キャンパス
コミュニケーションプラザ南館1階(cafeteria若葉)
第二体育館

http://freshmanfestival2014.web.fc2.com/guest_kimoto.html

 

信じること

 

フィリピンでの全てのコンサートを終えた。

もう一日だけフィリピン滞在を延長して、波の無い静かな海、しかしどこまでも広がる海を目の前にこの文章を書いている。

 

終わったという満足感と、終わってしまったという喪失感が同時に押し寄せる。全部で何千人の人たちに演奏を聞いて頂いたのだろう。

荒い部分や未熟な部分は沢山沢山あったと思うけれど、どのコンサートでも盛大な拍手で迎えて頂いた。

「オーケストラに入りたい!」「指揮者になりたい!」

終演後、子供たちは駆け寄って来てくれて、さきほどまで演奏した曲のメロディを口ずさみながら、真っ直ぐな目でそんな言葉をくれる。

最終日のベートーヴェン五番を振り終えたとき、満席の人々が立ち上がり、拍手を下さる光景には

心の底から湧き上がってくる感情と涙を抑えることが出来なかった。

苦悩から勝利へ。なぜならば、ベートーヴェンの「運命」は、僕にとってこの十日間そのものだったのだ。

 

トラブルやアクシデント、言語の壁や文化の壁、想像も出来ない数々にこの期間中は本当に苦しめられた。

時に楽器は壊れ、様々な都合に左右され、効果的なリハーサルが出来る環境や状況にはほど遠く、音響も非常に難しい場所ばかりだった。

奏者のみんなが動揺し、不穏な気配が侵入するのも肌で痛いほど感じていた。

それでもやはり、たとえどんなに苦しくても、僕は最後の乾杯の瞬間までは決して心を揺らさず、笑っていようと誓っていた。

僕が疑いの目で見られても、僕は奏者を信じ続ける。信じ続け、尊敬を忘れなければ、必ず最後には心が通う瞬間が訪れる。

根拠もなくそのことを確信していた。

 

精神の強度。指揮者にとって絶対的に必要なもので、前に立つ資格としておそらく唯一のものだ。鋼のように固く、しかし大きく包み込める懐でいなければならない。

同時に身体の強靭さ。代えは効かない。言い訳は効かない。体調を崩した状況で前に立つことはできない。奏者すべてに迷惑をかけることになる。

不慣れな異国の地で日々を過ごすうちに疲労が重なっても、ひとたび棒を持てば全力を尽くす。

最後のコンサートに至るまで、十日間の日々を楽しく過ごしながらも、厳しく自律して精神と体調を維持しよう。

そのたびごとに今の僕に出来る限りの棒を振ろう。

 

不思議なことだけれど、コンサートを重ねるにつれ、僕の身体は軽くなっていった。

指揮が徐々に伝わるようになった感覚。次第にコミュニケーションが始まった。

自分が送り出した言葉に返事が帰ってこないと疲れは溜まるばかりだけれども、会話できるようになるとこれほど楽しいものはない。

送り出せば送り出しただけ帰ってくる。棒でやろうとしていたニュアンスが音に反映されていく。

巨大な岩を動かしているような以前と違って、その場で一緒に、絵を即興的に描いて行くような楽しみ。

大切なところで奏者と目があってにやりとし、必要なところで奏者たち同士が音楽の中で目を合わせて遊ぶのを見守る。

いつのまにか、気持ちの通じ合った「オーケストラ」が生まれていた。

 

 

心から出で、心へ至らん。

師がいつも贈って下さるベートーヴェンの言葉を少しは受け継ぐことが出来ただろうか。

一緒に音楽してくれてありがとう。そして、一生の思い出をありがとう。

 
 
 

雪から陽射しへ

 

燕尾服を納めて、スーツケースの鍵を閉じた。まさか自分が指揮者として飛行機に乗る事になるなんて思わなかった。

明日からフィリピンのセブ島で、UUUオーケストラとセブ・フィルハーモニックオーケストラと共演させて頂き、10日間のコンサート・ツアーを指揮させて頂く。

日本とフィリピンの国歌から始まり、吹奏楽で「オリエント急行」と「三つのジャポニスム」、そして現地のフォークソングメドレー、

プロコフィエフのピアノ協奏曲第三番、ベートーヴェンの交響曲第五番、そして世界初演の曲まで、盛りだくさんのプログラム。

10日間で8公演もするということなので、体調を崩さないようコンディションを整えて望みたい。

英語でリハーサルをするのははじめてだ。少しだけ勉強したタガログ語とセブアノ語と共に

うまく言葉を使いながら、指揮で、音楽そのもので沢山の会話をしたい。

 

プログラムの一つであるビゼー「アルルの女」のスコアを読み直す。大好きなアダージェットに再び心奪われる。

この組曲を教わったのは2011年の7月。「もっと色彩を、どの拍も一つたりとて同じではない。」

当時、師から教わった言葉がスコアに書き込まれている。あの時はその意味するところが分からなかった。きっと今だって存分に分かっていないと思う。

それでも僕は棒を振りたいと思うし、指揮をすることに、今は単純な楽しさや幸せだけではなく、

ある種の苦しさも含めて「生き甲斐」としか言いようのないものを感じている。

 

とはいえ指揮者は、やっぱり一人では何にも出来ないのだ。

僕の未熟な棒で時間を一緒に過ごしてくれる人たちがいなければ十分な勉強すら出来なかった。

日々命を燃やして教えて下さる師匠、そしてピアニストの方々に、今まで一緒に演奏してくださったオーケストラの皆さんに心から感謝している。

楽しいことばかりでは勿論無かったけれども、一つ一つの経験が掛け替えない血肉となり、レッスンで、あるいは奏者から貰った言葉が確実に響いて今に繋がっている。

指揮を学び始めた、と言ったときに怪訝な顔をしつつ、それでも応援してくれた両親と友人たちは、少しは納得してくれるだろうか。

 

雪の降り積もった道に足跡をつけながら空港へ向かう。休学を決めたあの日も確か雪だった。

それがいつだったか調べてみて驚く。2011年の2月13日と14日、ちょうど3年前のこの日に、僕はこう書いていた。

 

「一つの考えが形になりつつある。いまこの機会を逃すと僕は永遠に後悔するだろう。

二度と起こらないことが分かっている出会いに自分の全てを賭けてみるのも悪くない。

力不足なのは分かっている。けれども、息の止まるような感動に人生を捧げたい。学べる限りを学んで再びこの場所へ。

コクトーが、ヴァレリーが遥か遠くから背中を押す。そして、たぶん僕の師も。」

 

想像の世界がいつの間にか現実になっていた。

一本の棒に限りない可能性を信じて、今日、海を渡ろう。

 

 

雪の駒場

 

この一週間はタガログ語を勉強していました。

フィリピンで指揮する曲に現地のフォークソング・メドレーが含まれているので、作りを考えるにあたって、

原曲を辿ってタガログ語の歌詞と曲想を把握しておく必要があったからです。

ただでさえ不得意な語学、しかも全くの付け焼き刃に過ぎませんが、ang/ng/saフォームとリンカー概念を知ると

ほんの少しだけ読めるようになってき た感触があり、とりあえずそれぞれのフォークソングの歌詞と国歌を解読できるようになりました。

フィリピン国歌が結構激しい歌詞で驚いたと共に、最後にDahil Sa yoが出てきて、なるほどという感じ。

勉強にはこのサイト(https://learningtagalog.com/grammar/)を用いました。インターネットですぐに勉強できるのは本当にありがたいことです。

中学生や高校生のときにこれぐらいネットを使えてい たら少しは英語も出来るようになっていたのかなあ、と自分の不勉強を棚に上げて妄想するばかり。

ちなみに行き先のセブ島で一般的なのは、タガログ語ではな くビサヤ語だそうで、スペイン語とポルトガル語ぐらいの違いかなと思っていたら

かなり異なるものがあって困惑しました(笑)とりあえずは国内でのリハーサルもすべて終了したので、あとは現地に行ってから頑張りたいと思います。

 

写真は先日の大雪の日に駒場にて。演奏会用のプロフィール写真を友人のカメラマンに撮影して頂いた際の一枚です。

こんな大雪は10年ぶりとのことで、この先10年後に僕が駒場キャンパスにいるかどうかは分からない事を考えると、

二度と訪れない雪景色になったのかもしれません。栄田さん、本当にありがとう。

 

大雪の駒場にて。Photo by Yasutaka Eida

大雪の駒場にて。Photo by Yasutaka Eida

フォースの技法

 

自分の中に入り込んで朝七時までかかって文章を綴るうちに、一つのブレイクスルーを経験した。

それが実際の棒に反映されるようになるのにどれぐらいかかるか分からないが、立ちはだかる壁を越えるものを見つけたような気がしている。

19世紀の写真技術が(いわば逆説的に)古くからあった版画の技術を参照して発展したように、ヒントは自らの過去の動きにあった。

指揮-音楽の言葉で決して言いあらわすことのできない領域とは、実のところ、弱拍の中にこそ宿っているのではないだろうか。

奇跡に対して自らを磨く。

 

線路を横目に歩いて行くと、いつしか線路は見えなくなり、一面に砂漠が広がるだろう。

遠くから鳴り響く汽笛を頼りに元来た方角を伺うことはできる。歩みを戻すことも今なら不可能ではない。

 

そのまま前進した先に何があるのか?

想像もしなかったような壮大な景色に至るのか、蜃気楼すら掴めずに果ててゆくのか。

おそらく足場は泥濘んでゆく。陽射しに焼かれることもあるだろう。

それでも振り返らない理由があるとすれば、それは好奇心という言葉でしか説明できない。

 

冬がほどける

 

シベリウスのヴァイオリン協奏曲のリハーサルを終えた翌日の早朝、

いまだ鳴り響く三楽章をリフレインしながら、日が昇る前に出発して友人たちと三人で千葉までドライブ&プール&温泉に行ってきた。

早朝の「海ほたる」で珈琲を飲みながら作品とタイトルをめぐる議論。

水の中で散々笑ったのちに真面目な話を少し。駆け出しながらも表現に携わる人間として、どうやって生きて行くのか。

それぞれジャンルは違えども、表現することに限りなく魅かれて止まない。

美学と志を分かち合える良い友に恵まれた、としみじみ思う。

 

日が沈むころ、千葉の温泉から新木場まで送って頂いてリハーサルに直行。

僕がいない間の分奏では気心知れた奏者のお二人が素晴らしいリードを取って下さっていて本当に助かった。

指揮したのは芥川也寸志のトリプティークと真島俊夫の三つのジャポニスム。

温泉宿で芥川也寸志を指揮する、という体験を昨年にしたのだが、温泉に行ったその足で芥川也寸志を振るという体験を今年早々にするとは思わなかった。

ジャポニスムのリハーサルでは、鳥肌が立つ瞬間を味わう。

一つのイマージュを共有することで音の質が(身体の使い方も含めて)がらりと変わるのだ。

音符が詩情を得て活き活きと響き始める。 その瞬間の感動に震えるばかり…。

 

翌日、月曜日。

もう長い付き合いになるヴィオラの友人と二人で、ピアニストのグルダの命日にしてモーツァルトの誕生日を祝って飲む。

リハーサルでもっとコミュニケーションできるはずだ、という彼の言葉に深く頷く。

いちばん良い棒を振ることは当然ながら、棒以外の手法を加えて、たとえば三時間のリハーサルをもっと充実した三時間にすることができる。

飛び交うコミュニケーションを逃さないようにしよう。指摘する事を躊躇していては前に進めない。

良い意味で遠慮を捨てることも時に必要なのだ。

 

 

一緒に過ごしてくれる人、力になってくれる人、指摘してくれる人…たくさんの人に支えられて今があることを思う。

一人でいる時間無くして僕は生きて行けないが、一人で生きて行けるわけではない。

孤独の中で強靭に練り上げつつ、場を共にしてくれる人たちとその場で即興的に柔軟に作り上げる。

音楽(に限らず多くの表現行為)の難しさと楽しさはたぶん、火と水を同居させるような、こうした試みの中に宿っているのだろう。

 

 

空気から鋭さが消えた。

一月がもうすぐ終わる。春だ。

 

 

再帰動詞

 

具体例や経験を重ねて行き、それらを思考で掘り下げて行くと、ある概念に達することが稀にある。

あるいは、時間の中で一滴ずつ蓄積されたものが言葉として結晶する。それは世界の誰もが使った事のない言葉である必要は無い。

形なきものに自分の語彙である種の輪郭を与えること。透明で不可視なものを、言葉という魔法によって半透明な存在へと肉づけること。

それこそが哲学-思想と呼ばれて然るべきものではないだろうか、と不遜にも思う。

 

昨夜は2014年度初回のレッスンだった。

シュトラウスのレッスンを終え、また初級の方々にレッスンをさせて頂き、師と対話するうちに、唐突に一つの言葉が結晶した。

それはεὕρηκαと叫んで走り回りたくなるほどの感動を伴う経験であり、身体の中に流れる血の温度が上がるのが分かるほどに興奮を覚える一瞬でもあった。

これまでにも幾つかの言葉に至った事がある。けれどもそれは名詞でしかなく、名詞では説明しきれないはずだという根拠なき不足感を抱えていた。

2014年になってはじめて僕は動詞に至った。それが正しいものであるかどうか、意味を持つものであるかどうか、そんなことには興味がない。

僕は未熟者に過ぎないし、この言葉であらゆる現象を説明しうるとも到底思えない。しかし今の僕にとっては決定的な概念-言葉に掘り当たったのだ。

 

 

嵐のような年末から、家族の温かさに包まれて平穏な年始を過ごした。

今年は「最後」の年になるだろう。もう僕の残り時間に猶予はない。書いて、読んで、振って、動く。

昨夜たどり着いた動詞に様々な目的語や主語を戯れさせながら、弓が切れる限界まで引き絞ったものを放つ一年にしたい。