September 2025
M T W T F S S
« May    
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

HOMMAGE à PIAZZOLLA (Gidon Kremer,1996)

 

 ピアソラと言えば、Libertangoの演奏を思い出す人が多いかもしれない。

確かにリベルタンゴには何度でも聞きたくなる高揚感がある。最初の速いパッセージからノリノリで、弾いていても凄く気持ちいい。

文句無しに良い曲だ。だが、ピアソラにはもっと良い曲が沢山ある。これを聴かずして死ぬわけにはいかない、というわけでこのCD。

 

 このCDには、ピアソラが残した素晴らしい曲の数々が、クレーメルのヴァイオリンをメインにしたアレンジによって収録されている。

クレーメルはどちらかというと「ドライ」な音を出すヴァイオリニストとして有名であるが、このCDではドライな中に、時折物凄い色気を

含んだ音を聴かせてくれる。甘ったるい感じではなく、流し目のような色気である。

 

Hommage a Piazzora (Gidon Kremer)

Hommage a Piazzora (Gidon Kremer)

3番のOblivionの憂鬱、4番のEscualoの心地良さは何度聞いても忘れ難い。

6番のConcierto para quintetoの高揚感と哀愁の対比なんか最高だ。

Paul Meyerのクラリネットが良い味を出している。

Concierto para  quintetoは自分でも演奏してみたいと思い、

適当に音を採ってバイオリンで合わせてみた事があるのだが、

リズム、ニュアンスのつけ方ともに全然上手く行かず挫折してしまった。

このCDの最後、7分41秒ぐらいからの部分だけでも上手く演奏することが

出来たらどれだけ幸せだろう。もっと昔から弦楽器を習っておけばよかった。

なんにせよ、このCDはおススメの一枚である。

夜中にひっそりと聞くと良い気分になれると思う。

きっと聴き終わった頃には8番のBuenos Aires hora ceroのテーマと加速感が

耳から離れなくなっているはずだ。

 

『花祭』(平岩弓枝 講談社文庫,1984)

 

 平岩弓枝 『花祭』(講談社文庫、1984)を読了。

前述した山田詠美の小説と一緒に古本屋で50冊ほど纏め買いした中の一冊である。

話の筋は別段上手いわけでもないし、ちょっと最後も予測がつく展開。

「こうなったら最後はこうならざるを得ないだろうなー」と思って読んでいるとその通りの展開。おそらく殆どの読者が予想する通り。

裏表紙には「激しい愛を寄せる青年調香師・彰吾が現われて」とあるが、それはちょっと違う気がする。

激しい愛を寄せたのは別の人間であって、主人公の彰吾自体は密やかな愛を寄せていたのではないか。

本文中に「ゲランの夜間飛行を愛用している」という一節があったが、今となってはこの香水が入手困難であるだけに、

この小説が書かれて20年以上前のものであったことを感じさせる。

内容は取り立てて良いとは思わないものの、『花祭』というタイトルが素敵だと思った。

 

益川先生講演会 その2

 

 さて、益川先生の講演会の内容について書くことにしよう。

最初に益川先生の為されたこと、および素粒子論の簡単な説明を東大の教官にしていただいたあと、

益川先生にお話をお願いするという運びであった。壇上にゆっくりと上がられた益川先生を見て、その舞台さばきに感動した。

沈黙、そしてゆっくり話し出す。まず、講演会を開催した関係者各位にお礼を述べられ、そして実際に頭を下げられた。

話の最初に関係者にお礼を言う人はたくさんいても、実際に頭を下げて静かにお礼をされる方を僕は初めて見た。

先生がこの講演で伝えられたことのうち、印象的だったことをいくつか挙げておく。

 

1. 21世紀中、それも前半に、ダイナミックなパラダイムチェンジがもう一度起こるのではないか。

  それは量子重力に関する新しい理論の登場によるものであろう。

 

2. 若い人は間違いを犯す勇気、大胆な説を唱える勇気を持っている。年を取ると安全に走ってしまう。

  新しい理論を大胆に唱えるような研究者は、みな20代から30代の若手の研究者である。

  「秀才の極限としての天才」であるハイゼンベルクも、「誰も認めないような仮説から誰も認めないような理論に達する天才」

  であるランダウも、「包括的に物事を見て定式化する天才」たるディラックも、みな20代から30代までに大きな仕事をしている。

  その意味では、大学生にはあと10年ちょっとしか残されていない。

 

3. 分からないから気になる。これが全てのスタート。研究は一番最初の着想が大事であるが、それを「続けるか/諦めるか」 

  の見極めが難しい。早々と「まずいぞ。」と考えて転身してしまっては、大魚を取り逃すことになる。

  その判断に際しては、共同研究者とのDiscussionが大事である。迷いやズレを正しい道に戻すのは共同研究者だと思う。

 

4. 先生や先輩に教えを乞うのは良いことだが、それでは最小限の知、無難な正解を得るのみだ。

  真に大切なのは、「同じぐらいの知、異なる志向を持つ友人と、一つの問題について夜を徹して話し合うこと」である。

  当初の問題から脱線しても全く構わない。自分とは違う道を歩くはずの友達と、一つの問題を巡って話し合うことで

  より広い視野を持つことが出来る。友達の経験を自身に取り込み、自分の経験を1.5倍ぐらいに拡張し得る。

 

 

 講演会後、レセプションにも参加して、御飯を食べたりお酒を呑んだりしてきた。

赤ワインが結構美味しくてついつい4杯ぐらい飲んだ気がするが、周りも結構呑んでいたのでまあいいだろう。

想像していたより気楽な雰囲気だったので、関西人仲間と一緒になって益川先生に京都トークを振ってみたり、

果ては学部生を代表して益川先生及び居並ぶ駒場の先生方の前でスピーチをしてみたり、貴重な経験をさせていただいた。

ちなみに学部生代表スピーチ(というほどのものではないけれど)は、M君と僕とS君の三人でやったのだが、三人とも全員関西人で

あったことを付け加えておく。こういうときのアドリブ性の高さは関西人の強みかもしれない。単なる「無謀」とも言えるだろうが、

講演会で、「若い人は大胆に走る勇気を持っている」と先生がおっしゃっていたので良いことにしよう。

 

 最後に写真を沢山撮って頂いて解散。 写真に映った益川先生は、とても穏やかな笑顔をされていた。

       

   

益川先生講演会について その1

 

 

 数日前に紹介した、益川先生の講演会に行ってきた。

行ってきた、というよりスタッフとして働いていたというほうが正しいかもしれないが、まあいいとしよう。

講演会の内容については次の記事に書くとして、講演会の状況について少し書いておきたい。

 

 土曜日の昼という中途半端な時間に加え、新フェス前日で忙しいはずなのに沢山の一年生が来てくれていた。

講演後のレセプションである先生がおっしゃったように、益川先生の「磁力」のなせる業だろう。

人数が溢れたときに備えてもう一つの教室を一般来場者用に確保してあったのだが、何とか900番に全員入ってもらうことが

出来そうだったので、来場者は学生、一般の方ともに900番へ入ってもらう。その結果、ちょうどいいぐらいに900番が埋まった。

事前に打ち合わせを行った通りの来場者見込みで、一般来場者に900番へ移動して頂くこともあらかじめ計画してあったため、

かなりスムーズに進行したのではないだろうか。

 

 ある人が「駒場のイベントは広報が不足している」と書いていたが、まさに駒場のイベントの広報に関わっている僕に言わせれば、

それは非常に無責任な言葉だと思う。駒場のイベントの広報、少なくとも学部が行うイベントの広報に関してはこれが限界かつ十分だ。

予算、時間との兼ね合いを考えてもこれで限界だし、広告しすぎて予定より多くの来場者が来ては教室の手配などで混乱が生じる。

今回の遠隔聴講の件にしても、そもそも人数が溢れたときのセーフティーネットという意図から計画されていたものだ。

遠隔聴講せずに聞くことが出来るなら、それはそれで良いではないか。

 

 学部が行うイベントは、学生やサークルが行うイベントとは比べ物にならない手間がかかっている。

一つの学部イベントがあるだけで、先生方は自分の研究を留め置いてイベントの準備に奔走される。

研究を除いても、先生方はイベント以外の学内行政も沢山抱えていらっしゃるため、その大変さは想像を超えるものである。

終電を無くし、歩いて帰られることもしょっちゅうだ。連日に渡る夜遅くまでの作業で体調を崩され、それでも医者に行く暇も無く

作業を続けられることもしばしばある。その様子を何度も見ているし、他の学生スタッフが自分の時間を提供して

夜遅くまで一生懸命作業しているのを知っているから、広報が不十分だなどとは決して思わない。改善点は勿論あるにせよ、

毎回毎回、先生方やスタッフは時間や予算の許しうる限界までイベントの準備をされていることは確かだ。

とにかく、まずは先生方、スタッフの方々、本当にお疲れ様でした。

『快楽の動詞』(山田詠美 文春文庫,1993)

 

 山田詠美『快楽の動詞』(文春文庫、1993)を読了。

何とも軽妙なエッセイ集。エッセイと小説の間、ある種の批評といった方が的確かもしれない。

作品の中に入り込む「書き手」としての視点と、作品を読む「読み手」としての視点を

山田詠美が自由自在に行き来する妙技が味わえる。やはりこの人は文章が上手い。

さらっと読める割には、随所に鋭い指摘があって読んでいて頷かされることも多々あった。

「単純な駄洒落は、〈おもしろいでしょ〉というそれを認めた笑いを求める。

しかし、高品位な駄洒落は正反対に、〈おもしろくないでしょう〉という笑いを求めるのである。

前者の笑いは、わはははは、であるが、後者の笑いは、とほほほほ、である。」

 

 うーむ・・・なるほど。

KENZO POWER インプレッション

 

 香水、とくにボトルのデザインを見るのが好きで、香りとボトルの両方を気に入ったものは出来る限り買うようにしている。

香りという「目に見えないもの」を「見る事も手で触ることも出来るもの」としての容器、密封されたボトルに閉じ込める。

香りを組み立て作り出すという芸術、それから香りのイメージをボトルで表現するという芸術、その二つの芸術が合わさることによって

一つの香水が生まれる。まさに、調香師とボトルデザイナーという二人の芸術家による自己表現と他者理解の結晶ではないだろうか。

言葉をデザインにしたり、デザインを音楽にしたり、音楽を絵画にしたり・・・

そんなふうに形態をメタモルフォーゼンさせて生まれる芸術は、僕にとっていつも大変魅力的に映る。

 

  さて、先日注文していた香水が届いたので、それについて書くことにしよう。

ケンゾーのパワーと、シャネルのアリュールオム エディシオンブランシェの二つである。

Powerの調香師はオリヴィエ・ポルジュ、ボトルデザインは原研哉。(原研哉の著書『白』は、今年の東大の現代文で出題された。)

Edition Blancheの調香師はジャック・ポルジュ、ボトルデザインは故ジャック・エリュの作ったものを継承。

二つ見比べて「ポルジュ」が共通していることに気付いた人がいるかもしれない。

実はこの二人は親子である!(親がジャック、子がオリヴィエ。ちなみにジャック・ポルジュはシャネルの専属調香師。)

親子の作品を同時に買って比べてみる事で、何か面白いものが見えてくるかも、と考えてこのような組み合わせで購入した。

 

 まずはPowerから。作り手の側のインタビューやコンセプトは香水名をGoogleに打ち込めばすぐに出るから、

ここに書く事はしない。それよりも自分のインプレッションを書くことにする。

この香水からまず最初に感じるのは、花と木の香りである。柔らかくて密度のある、温かい香り。

何の花なのかは分からない。靄がかかった森の中のような、よく見えないけれど周りに確かな木や花の存在を感じる光景。

徐々にベルガモットらしき香りが前に出てくる。靄の中に朝日が差し込んだような感じだ。

しばらくすると、「何か分からないが、明らかに花」な香りが場を支配するようになる。名前の分からない花、しかしどこかデジャヴ。

夢の中で流れていた香りを、朝目覚めてから思い出そうとした時のようだ。

むせるような花の匂いではなく、何重にも薄いフィルターがかかったような花の香りは、しばらくすると徐々に

フェードアウトしていく。フィルターが外されていくのではなく、透明度を30パーセントぐらいまで下げていくイメージ。

そのうちに、柔らかい木の香りが次第に強く感じられてくる。心地よい温かさと、重すぎない重さと甘さがある。

とても安心感を抱かせてくれるラストノートだ。しかしそれゆえに、ミドルノートの抽象的なイメージが頭に残る。

「あれは何の花だったのだろう?」と気になってしまう。ミドルとラストで繋ぎ目は全く見せないのに、コントラストが効いている。

最後に残るものは安心感なのに、とても独創的。これは本当に凄い香りだ。

 

 その香りを包むボトルも斬新なものである。本来は日本酒のためにデザインされたボトルをここで使っている!

KENZO POWER

KENZO POWER

鏡面仕上げからは軽さと重量感の双方を感じるし、それだけではなく、

自分の顔や手が円柱状の鏡に映って歪んで抽象的になる様子がとても不思議。

下部に控え目に配されたロゴが素晴らしい。ここに紫色を使ってくるのが天才だ。

ここが黒なら物足りないものになってしまっていただろう。

紫色の字に加えて、原が描いた「架空の花」のイラストが印象的にボトル全体の

見かけを締めている。何度見ても感動してしまう、素晴らしいバランス。

ここに詳しくは書かないが、このボトルを包む箱にも凄まじい拘りがある。

同じく原の作品である「冬季長野オリンピック パンフレット」を思わせるシンプルな

デザインに、たくさんの遊び心が詰まっている。

裏返しのニット帽とTCK

 

 昨夜、北田暁大「広告の誕生」を読んでいたらいつのまにか4時になってしまった。

三時間寝てNHKラジオのオープニングテーマでいつも通り目覚める。

物凄い雨で外に出る気を失いかけたが、基礎演習のTAもどきをやらねばならないので用意して出発。

久し振りに電車で学校に向かう。車内でニット帽を裏返しに被っているお姉さんを発見。

わざとなのだろうか。「ポリエステル80%」「レーヨン20%」、ニット帽の材質が公に曝されているのだが・・・。

 

 とりあえず今日の基礎演習は面白かった。TCK (Third Culture Kids)についてのプレゼンを聞いたが、とても興味深いものだった。

『越境の声』という越境文学の対談集を最近読んだばかりだったこともあり、リービ英雄や水村美苗など、

越境文学の担い手たちが頭に浮かんだ。(リービ英雄の「星条旗の聞こえない部屋」は東大の現代文でも出題されたことがある)

越境文学の担い手たちの一つの核心は、「母国語でない言語で小説を書く」ことにあると思う。つまり「その言語への違和感」が

作品を書く動機の違和感になっていると言える。文学とTCKの関係について発表者の女性はちらっと触れたが、

TCKというよりは「越境」をキーにして調べていけば面白い研究が沢山見つかるのではないだろうか。とはいえ、

質疑応答でも述べられたように、TCKという区分は「誰にとってTCKなのか」という認識の問題を含んでいるため、定義が難しい。

昨年の基礎演習でも経験した「用語を定義することの難しさ」を再び味わっている。

 

 基礎演習後、アフター基礎演習のために初年次教育センター(通称:水族館あるいは動物園)へ。

今日のテーマはPowerPointの使い方の実習である。ちょこちょこ一年生にアドバイスしながら、スクリーンを自由に使っていいとの

ことだったのでMotion Dive Tokyoを使って「Power Pointの使い方」という動画をその場で作って映してみた。

それなりにウケたようなのでちょっと満足。Motion Dive は使い方次第で最強のプレゼンソフトになると思う。

昼、機構へ向かう。かっぱがまたもやお茶を淹れてくれる。昨日より味に厚みが出て、さらに美味しくなった。

口に含むと柔らかい苦さを感じ、喉を通るころにはふんわりとした甘さに変化する。かっぱやるなあ。

 

 四限の歴史はマルク・ブロックについての授業だが、ほとんど誰も聞いていない。

マルク・ブロックを自分で読んだり、仏語の勉強の時間に充てている。しかし、今日は一点とても面白い所があった。

ブロックの著書に「王の奇跡」というのがある。大体の骨子を以下に書いてみると、

「王の奇跡」とは、「王に触れてもらうと病気や怪我が治癒する」という俗信の事を指す。

中世において王の権威は不動のものと言う程ではなかったが、この「奇跡」のように呪術的権威は王のみが保持する権威であった。

王は「奇跡」という呪術的権威に依拠することで、人間的な観点ではなく神的な観点からその権威を強化していったのである。

奇跡を行う事が出来る、というのは、「他の一切の権力に優越するだけでなく、全く別個の次元に属する権力」の表れに他ならない。

  

というような感じである。重要なのは、この本を書くに至ったブロックの問題意識だ。彼の問題意識とは、

「王に触ってもらえば病気が治る、などという一見取るに足りない慣習が何故民衆に浸透していったか。」というものだ。

レジスタンスとして最後まで抵抗活動を続けた(最後はドイツ軍に捕まり銃殺刑に終わる)彼のアクチュアリティから考えたとき、

その問題意識は、

「どうしてナチスのような全体主義、一種の〈信仰〉に、民衆が惹きつけられていったか。」というところから来たものだと考えられる。

ブロックはその問題意識を、直接にナチスの全体主義を論考するのではなく、「中世に時代をずらす」ことで明らかにしようとした。

その結実がこの「王の奇跡」なのである。

 

 五限は金森先生のゼミ。今日はハンナ・アレントについて。これに関してはまた記事を改めて書くことにしよう。

なかなか密度の濃い一日だった。

  

 

5月8日、終日雨。

 

 たまには日記めいたものも書いておこう。 

今日は二限のソフトボールが雨でフットサルに変更となった。

フットサルとかサッカーは、中学・高校時代と部活ではないもののかなり熱心にやっていた。

そのため、久し振りのフットサルには燃えてしまった。

とはいえ「キーパーは手を使ってはいけない」という特別ルールは流石に酷い。足だけでキーパーチャージするのは至難の業だった。

 

 

 午後、友達の初マイボール選びを手伝う。Stormのセカンド・ディメンションとRotoのローグ・セルの二択で悩んだ末に

ローグ・セルに決定。どちらも良い球だと思うが、このシリーズは僕もセル・パールを使ってその良さを知っているだけに

ローグ・セルの方が印象が良かった。ついでにバッグも購入。やる気もセンスも十分な人なので、すぐ上手くなるだろう。

負けないように練習しなければ、と思いつつ、授業が終わってからは少し機構に顔を出して明日の基礎演習の内容について

先生と打ち合わせ。途中でかっぱがやって来て、お茶を淹れてくれた。静岡のお茶とのことだったが、雑味の無い

ふわっと甘みが広がるような優しい味で、大変美味しかった。かっぱありがとう。

 

 夕方は経堂ボウルで練習。

今日の練習では、回転軸の調整を意識して投げた。相変わらずドライなレーンなので、ソラリスを30キロぐらいで20枚目から出して

戻すラインを選択。体がほぐれてくると回転が乗り過ぎる気配があったので、縦回転の割合を増やした上でスピードを少し上げ、

12枚目ぐらいから8枚に出す。強い球を狭いラインで投げる練習になるのは勿論、これがバッチリはまったため、非常にいい感触で

練習を終える事が出来た。Soralisでこのラインを取ると、かなり安定してポケットに寄っていく。ピン前でのキレも素晴らしい。

 

本日のハイゲーム

本日のハイゲーム

 練習を終えてからは今日のメインイベントをこなした。

経堂ボウルに新しい料金システム(特別割引制度)を導入しては

どうか、という議論があって、そのモデルプランを支配人さんに

プレゼンした。(会長さんに「やってみろ」と言われたので)

僕の考えたものは、レジャーボウルとスポーツボウルの壁を薄くし、

スポーツ・ボウリングの裾野を底から広げることを目的としたプランで

「経堂ユース・クラブの創設」というものである。

数日練りに練った内容であるだけに、プレゼンの手応えも相当ある。結果が楽しみだ。

『病魔という悪の物語』(金森修 ちくまプリマー新書,2006)

益川敏英教授 講演会@駒場のお知らせ

 

知っている人は知っているかもしれないが、5月の9日の土曜日、午後二時から東大駒場キャンパス900番教室で

ノーベル物理学賞を受賞された益川教授の講演会が行われる。受付は12:30から900番教室前で。

先日の雁屋哲さんの講演会に続く「新入生歓迎講演会」の第二回としての位置づけである。

これらの企画で、僕は看板やら整理券やらを作る仕事を担当させてもらっている。

その関係で内部情報を色々知っているので、バラしても問題無さそうな事をここに書いておく。

①学生は650人ぐらいまで900番講堂に入ることが出来る。650人を超えた場合、別室で中継映像を見ることになる。

②整理券が12:30から配られる。おそらく席順は整理券の番号と対応する。つまり早い者勝ち。

③整理券を貰ってしまえばあとは2:00まで自由にしていられる。

 

きっと面白い話を聴かせて頂ける事だと思う。立花隆『小林‐益川理論の証明』には、益川先生が何を為されたかが

実に手際よく解説されているので、これを読んでおくと話が理解しやすくなるのではないだろうか。