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リンクについて

 

 このブログをはじめてからもう二週間以上経つ。知り合いの方をはじめ、かなり色々な方が見て下さっているようだ。

ほとんどは日本からのアクセスだが、フランス・アメリカ・タイからのアクセスも何件かあった。(検索で引っかかっただけかもしれないが)

と同時に、受験生や一般の方からメールでご質問をいくつか頂いたりもしている。

メールでの質問に対しては、これからも出来る限り、答えられる範囲で返信していくつもりなのでお気軽にどうぞ。

頂いたご質問の中に「自分のページにリンクを貼っていいか」という内容のものがあったので、この機会にリンクについて書いておく。

 

このブログはもともと立花ゼミの一環として作られたものであるから、立花ゼミの「見聞伝=見たい、聞きたい、伝えたい」という

趣旨にある程度合致するものでなければならないと思っています。

そして、「伝える」という行為を担うもの、色々な人に向けて発信する場の一つとして僕はこのブログを位置づけています。

というわけで、このブログに関しては公序良俗に反するサイトや年齢認証を必要とするサイトで無い限り基本的にリンクフリーと

しますが、リンクを貼って頂ける際は kimoto_d_oあっとyahoo.co.jp まで御一報下さると大変嬉しく思います。

 

 

宇宙とテキーラ・サンセット

 

 とてもいい天気だ。光と風が気持ちいい。空を見上げると雲が凄いスピードで動いている。駒場は緑が多くて好きだ。

一限の基礎演習の手伝いを終え、アフター基礎演習のため初年次教育センターへ。

質問などを受け付けつつ、合間に昨日の読書録を書いておくことにする。

昨夜はひたすらフレッド・アダムズ+グレッグ・ラフリン『宇宙のエンドゲーム』(ちくま学芸文庫,2008)を読んでいた。

ニ時間ほど読んでいると飽きてきたので、ここぞとばかりにテキーラサンセットを作ってアルコールを摂取する。

思いっきり冷やしたロングカクテルが美味しい季節になってきた。グレナデンシロップの赤色(ちょっと入れすぎた)が、本の

表紙の色と合っていて何だかとても綺麗である。

宇宙のエンドゲームとテキーラサンライズ

宇宙のエンドゲームとテキーラサンライズ

 

 

カラフルな表紙とお酒に合わせるべく、Motion Dive を

起動してカラーエディタが映るよう写真を撮ってみた。

『宇宙のエンドゲーム』はまだ七割ほどしか読んでいないが

文章が非常に分かりやすくて良い。セクションの見出しが

秀逸である。コラムに、高校地学でおなじみのHR図の解説

が載っていて懐かしい思いをした。

 

 

 

 

 なお、これと並行して池上嘉彦『記号論への招待』(岩波新書,1984 )を読了。この本が記号論入門の古典と呼ばれて久しいのは

知っていたが、実際に読んだことは無かった。やっと読んでみて、これはスラスラ読める本ではないなとの感想を抱いた。

書かれている内容は表題通り記号論の概説である。だが、内容が詰まっているだけに、さっと流して読める本ではない。

書かれた年代ゆえに、今の記号論で流行りの「メディアの記号分析」などは書かれていないが、記号論を手際よく、しかし

じっくりと紹介してくれる。内容にまで踏み込んだレビューは見聞伝(立花ゼミのメインサイト)の『僕らはこんな本を読んでいる』

コーナーにいずれ書くことにしよう。このブログ内で書いた本のレビューは順次あちらのコーナーへ移していくつもりだ。

 

 次の授業はマルク・ブロックを自分で読む授業。その次の金森ゼミで、今日は何を(誰を)扱うのかが楽しみである。

「その他」であるということ

 

 周りから見ていると分からないかもしれないが、進振りが迫ってきたいま、僕は真剣に進路を悩んでいる。

やりたいことが多すぎる。ずっと前から分かってはいたことだが、おそらく進振りの直前まで悩み続けることになるのだろう。

 

 だが、誤解を恐れず言ってしまえば、どこの学部に行くかというのは大した問題ではないと思っている。

「東大なんたら学科卒」という看板を外しても、社会でしっかりと生きれるような人間になりたい。

校内を歩いていると目に入る、ドリームネットというサークルが主催している交流会のポスター、自分-東大=?というキャッチコピー。

もう少し目立つようにデザインすればいいのに、と残念になるぐらい、このコピーは重要な意味を持つものだと思う。

自分から東大という名前を取ったときに何が残るか。今、たとえばここで突然東大が消滅し、自らの所属が無になるような状況が

生まれたとき、自分は何を拠り所にして生きるか。

大学という所属を持っていると、所属しているというだけで安心感が生まれる。

そして、次第にそれに依拠してしまいがちである。(五月病なんてのもその一種だと考えられるかもしれない。)

 

 予備校に所属する事もなく、自習室を借りて二浪していた時、とても貴重な経験をした。

どこにも属していなかったから、何かの証明書に記入する時には、高校生でも大学生でも社会人でも学生でもない

「その他」に丸をつけることになる。この恐怖といったら!!

宙ぶらりんの恐ろしさ、当り前のように踏んでいた足場を外されたときの言葉にしがたい恐怖。

自分は何者でもない。学んでいるわけでも働いているわけでもない単なる「その他」である。

だが、「その他」でしかないのか、と気づいたとき、「最強のその他」になろう、という目標が生まれた。

失うものは何もない。どこかを除籍されることもなければ、呼び出されることもない。誰にも何にも所属しない中でも自信を持って

自己を確立できるように、どこにも属さない貴重な時間を使って出来る限りのことをしなければならない。

ひとまず大学に所属するようになった今でも、その気持ちは変わっていない。

どこに進学するにせよ、究極的には東大が突然あした消滅したとしても、社会で逞しく生きていける人間になりたい。

 

 

数か月後の進振りで些末な事象に拘泥して道を見失ってしまわないよう、数か月後の自分に向けて書いておいた。

マスクと視線の生政治

 

 今日は法Ⅰが休講になったので出席すべき授業がほとんど無くなった。

家で一日ゆっくりしていようかと思ったが、宇宙科学のレポートを返却してもらう必要があるのを思い出して学校へ行く。

帰ってきた宇宙科学のレポートはA++で、妙に満足感を味わった。

 

 休講、と書いて思い出したが、関西では休講及び休校が相次いでいると言う。原因はもちろん豚インフルエンザの流行だ。

(個人的に豚インフルをTONFULと呼んでいる。TOEFULと掛かっている感じが気に入っている。草食系男子、などという無理やりな

ネーミングよりもよっぽどいい名前ではないかと思うのだが、いかがでしょう。)

僕の母校もどうやらしばらく休校になった様子。休校になった高校生たちがカラオケに殺到して大行列、などというニュースを

耳にしたが、自分も休校になったらついつい遊びに出たくなるような気がして、あまり批判できたものではない。

さらに、この未曽有のTONFUL事件に対応して、マスクの売り上げが前代未聞なことになっていると聞く。

ヤフオクで10倍ぐらいの値段で取引されているそうだ。値段の跳ね上がり方にもビックリしてしまうが、そもそもオークションで

マスクを買う、という行いが為されていること自体驚きである。

大学でいくつかの授業を受けている限りで言えば、教授たちは今回のTONFUL騒動に懐疑的というか「メディアが騒ぎすぎ。」

という意見を持っていらっしゃる方が多いように感じている。病理学の知識が無い僕にはTONFULの実際の危険性が分からないので

果たしてメディアが騒ぎすぎなのかどうかは何とも言えないが、この機会にちょっとばかりこの事件について考察を加えてみたい。

 

 それは、今回のTONFUL事件は、まさにフーコー的な視点で分析してみる価値のある事件ではないか、ということだ。

少し前に『チフスのメアリー』という本を紹介したが、TONFUL事件はこの本で描かれていることと極めて近い状況にあるようにも思われる。

TONFULが発病している関西でマスクをしている人たちは

「マスクをしても防げないのは分かっている。でもマスクをしていないと他人から嫌な目で見られるからマスクをしている。」

と話しているらしい。つまり、菌を避けるのではなく、他者からの視線を回避するためにマスクを着用しているのである。

「自分が保菌しているか分からんけど、何にせよとりあえず他人に移さないように努力しています。」

ということを表象しようとしているのだ。(断わっておくが、マスクをつけるべきだという論調を非難している訳ではない。)

このように他者からの視線によって埋まれる「権力」、それはまさにフーコー的な「権力」の図式の最たる例ではないか。

フーコーが述べた権力の図式とは、La Volonté de Savoir 知への意思 によれば、

 

1.権力は無数の点から出発し、不規則で一定しない諸関係によって成立するゲームの中で機能する。

  揺れ動く諸関係の中でそのつど創り出されるものである。

 

2.権力の諸関係は、経済、学問、性といった現象が生み出している諸関係の外にあるものではなく、

    そうした諸関係の中に創り出されている。あらゆる社会現象の中に権力関係が存在するのである。

 

3.権力は下部からくる。支配するもの、されるものという古典的二項図式は否定される。社会の基盤にある家族や社会、

    サークルなどの小集団のなかで生み出される力の関係が、全体を統括する権力関係の基礎となる。

4.権力をふるうのは特定の個人でも組織でもない。あくまでも諸関係の中で、その作用によって権力が行使される。

 

といったものである。

マスクをつけていない人に対して冷ややかな目を注ぎ、マスクをつけろよ、という視線の暴力で

個人の自由( 「マスクなんかつけなくてもいいのでは」 )を侵犯する。

それはまさに、上からの権力ではなく、集団の中で生み出された権力、生政治bio-politiqueではないだろうか。

 

 などと考えつつ、五月祭の模擬店の前売り券を作成した。前売り券はその場で使い捨てるようなものなので

デザインに凝る必要はないのだが、ついつい凝ってしまった。安田講堂前の大通りでやってるので皆さん是非来て下さい。

もしかしたら五月祭自体がTONFUL事件で中止になってしまうかもしれませんが。

なお、本日は山川出版社の『新体系日本史2  法社会史』と福島章『子どもの脳が危ない』(PHP新書,2000年)を読了。

詳しいレビューは、ゼミのページにある、『僕らはこんな本を読んでいる』企画の中に書こうと思っている。

スポーツで人と出会う一日。

 

 昨日は看板のデザインに没頭していてブログを書く余裕が無かった。でもとりあえず完成したので良しとしよう。

画像を載せようと色々やってみたのだがなぜかエラーが出て画像が表示されない。仕方ないので文字で宣伝する。以下、宣伝。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

五月祭で焼鳥を食べたくなったあなたは、【焼鳥屋とぅるてるたうべ】 にどうぞ!

一本100円でネタはネギマ・かわ・砂肝から自由に選択できます!また、味は塩とタレの二種類を用意してあります!

「ブログを読んで買いに来ました。」なんて言えば、もしかすると秘密のサービスがあるかもしれません。お楽しみに!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

宣伝終わり。

というわけで是非来て下さいね。

 

 さて、今日は二限がソフトボール。暑いぐらいの日差しに涼しい風が時折吹いてきて、最高に気持ちいい天気。

こんな天気の下で運動をしてテンションが上がらないわけがない。楽しく試合をやって、連勝した。今のチームは守備も攻撃も

素晴らしく上手い。キャプテンということで、前回の試合ではあんまり打たないようにしていたのだが、みんながガンガン打っていく

中で凡退するとちょっと悲しくなるので、今日は遠慮せずに打って打点4。真芯にあててセンターに返すととても爽快な気分になる。

 

 続く三限の政治Ⅰを自主休講にしてテラスで山川出版の『新体系日本史2 法社会史』を読んだりフラ語の単語を覚えたり、

エーリヒ・クライバーとACOの『田園』(確か1953年ぐらいの録音)を聞いたりしていると、向こうから見覚えのある人がやってきた。

先ほどソフトボールで一緒だった人である。四限の授業で同じものを(かんさんじゅん)を選択していたので、一緒にかんさんじゅんを

受ける。朝鮮戦争にまつわる映画(Joint Security Area)を見た。自分では絶対レンタルしない内容の映画だ。

でもレポートを書かねばならないので、一応真剣に最後まで見る。内容はここに書き切れるものではないから書かないが、

ショットの切り替えが安易すぎて映画の価値を落としているように思えてならなかった。

 

 五限は高等動物の比較生物学。今日のテーマは、動物も痴呆症にかかるか、というもの。

前回の「毒」にまつわる話に比べてあまり面白くなかった。

ピアノで久石譲 Asian Dream Song を何回かさらったのち、ボウリングに行く。

やたら盛り上がっている団体が二組いてお互いとても楽しそう。きっと大学生だろう。

投げているうちに、横のボックスで投げていらっしゃった妙齢の女性とちょっと親しくなる。色々話をしながら9G投げ切った。

はじめて話した人なのに「また一緒に投げましょうね。」と言って頂き、社交辞令だったとしても大変嬉しい気持ちになる。

 

ついでにここに書いておこう。

僕がボウリングを続けている一番の理由は、色々な人と交流を持つことが出来て楽しいから、という理由である。

スポーツとしてボウリングをやっていると、年齢層も職業もばらばらの人と仲良くなれる。

自分と全く違う世界を生きてきた人たちの話を聞かせてもらうことが出来る。思い返せば、ボウリングをやっていたことで様々な人に

出会ってきた。大阪フィルの元奏者の方、主婦の方、左官屋さん、企業の社長さん・・・年上の人に限らず、先日にはコンパ前に

ボウリングに来ていた日本大学の一年生の集団ともl仲良くなった。このように多様な方々から教えて頂いたことや、

見せてもらったことは、到底ここに書き切れるものではない、いろんな世界があるんだなあと毎回毎回思う。

 

 ボウリングを通じて、本当に貴重な出会いをしてきたと思う。その意味では、学生連合に入って投げていた昨年は本当に不毛だった。

学生連合に入って投げる、ということは、組織に所属しているという安心感を得られるかもしれないが、色々な人と出会うという

可能性を自ら拒否することになってしまう。開かれた環境でボウリングを通じて自由に人との交流を行うことが可能な今のほうが、

よっぽど楽しい。昔、僕の師匠が

「マイボウラーとかハウスボウラーとか、そんなものはボウリングにとって関係ない。学生たちが大声で騒ぎながらやろうが、

腕に何かメカメカした装置を付けたおじさんが一生懸命投げていようが、それはどちらもボウリングだ。

ボウリングはマイボウラーのためのものではない。レジャーの楽しみ方だってあっていい。だから、レジャーボウラーにいやな顔をする

なんて論外で、レジャーボウラーたちと一緒に楽しく横のボックスで投げれるようにならなければいけない。楽しく、良い投げ方で

そして良いスコアを出していれば、注意なんかしなくてもレジャーボウラーは右側優先を守ってくれるようになる。

周囲の人との関わりを楽しみながら、とにかくボウリングを楽しめ!」

と言っていたが、まさにそういうことなんだと今になってこの言葉の意味を噛み締めている。

 

 そんなこんなで、今日はスポーツを通じて色々な人と出会う一日だった。

アイデアが湧くのをひたすら待ちつつ、色々読む。

 

 昨夜からずっと、五月祭でクラスが出す模擬店の看板デザインを考えている。

以前Fresh Start用の立看板を作ったときにも感じたことだが、ディスプレイよりも遥かに形状が大きく、そして横長のものを作ろうと

するとイメージがなかなか湧かない。バランスなどを想像しづらいのである。

それだけではなく、今回は店名が非常に難しい。「焼き鳥屋 とぅるてるたうべ」と言うのだが、この「とぅるてるたうべ」という文字が

曲線だらけで、なかなかスタイリッシュにならない。カッコよく背景を作ったとしてもその上に「とぅるてる・・・」と載せると、どうしても

脱力感に襲われてしまう。かといって、曲線を生かした可愛らしいデザインにして、ついでに端に鳥のイラストでも載せようもんなら

「焼き鳥」の字と相まって、「・・・この鳥が今から焼かれるのか。」 と妙に生々しくなってしまう。どことなく吉田戦車っぽいシュールさ。

これは困った。いっそレトロな感じにしてみようかなあ・・・。

 

 看板の締切が迫っているので詳しく内容を書く余裕が無いが、とりあえず 『古代天皇制を考える』(講談社,2001)と、

唯川恵『ベター・ハーフ』(集英社文庫,2005) 、それから『国家史』(山川出版社,2006)を読了。この三冊を並べて書くと変な感じだ。

『国家史』の第二章で「陣定」について、「注意すべきなのは下位の人から順に全員が意見を述べる慣行である。上位の高次の権力を

もつ人から発言したとすれば、下位の者は当然それに影響されるだろう。下位の参議から順に全員が判断を述べ最後に大臣が発言

する形式は、民主的な会議の運営方式であり、公卿各人の自主判断を重んじる方式である。」との一文がとても印象深かった。

 

なお、昨日の金森ゼミでネグリの生政治論について学んだことから、三年前に読んでイマイチ理解できなかった

『帝国 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(以文社,2003)を再読しはじめた。

一年の間にフーコーとドゥルーズを集中的に読んだことで、浪人中よりはこの本を理解できるようになった気がしている。

 

 

風と陽射しの一日。 『王権を考える』(編:大津透 山川出版社 2006年)

 

今日は風がとても気持ちいい陽気だった。ただ、夕方ぐらいからちょっと風が強すぎるて自転車を漕ぐのに一苦労。

「坂道+向かい風+空気抜けたタイヤ」という奇跡のコラボレーションが出来上がってしまい、電車で行けば良かったとちょっと後悔。

 

 まず二限がハンドボール。ハンドボールは今学期から始めたのだが、なかなか面白い。

キーパーの動き方にもかなり慣れてきた。最初はサッカーでGKをやっていた時と同じ動きで動いていたのだが、

それでは不十分な対応しかできない。下からボールが浮いてくることの多いサッカーでは、ボールが上に浮いてくる力を流すように

して手のひらや指先に乗せればゴールの外に持って行ける。しかし、ハンドボールではそうにはいかない。

身長と手の長さに加えてジャンプが加わるから、自分の頭の上からボールが叩きつけられるようにしてシュートが来る。

サイドに流すことは可能なのだが、それは角度のついたシュートを処理するときにしか通用しない。上から来るシュートに対しては

自分の体に当ててはじく方法しか無いんじゃないだろうか。だからこそポジショニングが重要になってくる。幸いにしてサッカーよりも

ゴールが圧倒的に狭いから、シュートコースを切るポジショニングが比較的やりやすい。どこに立つか、をもっと意識して掴もうと思う。

 

 三限は英語二列。大して面白くはない。必修の授業とはそういうものだ。

四限は比較芸術の授業で、駒場美術館へ。矢内原忠雄の特設展を見たり、秘蔵の展覧会カタログ所蔵室に入らせてもらったり。

カタログ所蔵室はなかなか面白かったが、以前に国立新美術館のカタログ所蔵室に入らせてもらった経験があるため、

量・内容ともにやや物足りなかった。もちろん、大学の中に4000冊ものカタログが所蔵された場所があるのは凄い事だと思うのだが。

 

 授業終了後、テラスのベンチで五月祭で出す模擬店の看板デザインをラフスケッチする。

何個か案が浮かんだがどれも実現にとても手間のかかるものばかりだ。普通でいいのに、よく分からないコダワリが邪魔をする。

 

なお、本日は『王権を考える 前近代日本の天皇と権力』(編集:大津透 山川出版社 2006年) を読了。

2005年11月に開かれた史学会シンポジウムの内容を纏めたもの。様々な時代を対象に「王権」「権力」などをテーマに分析が

為されている。少し前に退官された五味文彦先生の東西王権論(今回は殆ど東の王権に関する議論だが)も読めて面白い。

なぜこのような本を読んだかと言うと、日本史の本を定期的に読むようにしていることに加え、先日紹介したマルク・ブロックの

『王の奇跡』を読んでいて、日本の王権はどうだったのか知りたくなったというのが主な理由である。

日本史を紐解いて王権を考えることは、必然的に天皇制について考えることに繋がるはずだ。

というわけで講談社の『古代天皇制を考える 日本の歴史8』も併せて手元に置くことにした。

これを読むために、長い夜を覚悟してミントジュレップを作る。

ミントジュレップは五月初旬に開かれるケンタッキー・ダービーの名物カクテルで、ミントの葉をソーダーとシュガーシロップを混ぜた中で

潰しておき、それをクラッシュドアイスを一杯に詰めたグラスにバーボンウイスキーと一緒に注いで作るカクテルである。

単純だが、とても美味しい。夏を感じる日差しになると飲みたくなる。とはいってもいちいちミントの葉を調達してなんかいられないので、

今回は既成のミントジュレップを使用した。ベースはアーリータイムズである。これを氷を入れたグラスに注いでステアするだけ。

ミントジュレップ、即席バージョン。

ミントジュレップ、即席バージョン。とても美味しい。度数もそれなりに高いので、夜中の目覚ましにもなる。

 先述の本は中々読むのに難儀しそうだが、このお酒と一緒なら良い気分で読めるだろう。

 

下の画像はちょっと前に頂いた百合。つぼみだったものが綺麗に咲いた。

部屋の中が百合の良い香りで満たされていて幸せである。

頂き物の百合。とても綺麗に咲いた。

頂き物の百合。とても綺麗に咲いた。

『経験を盗め』 (糸井重里 中公文庫,2007)

 

 糸井重里『経験を盗め 文化を楽しむ編』(中公文庫、2007)を読了。

随分前に買って最後のほうだけ読み忘れていたので、ドイツ語の時間に暇を見つけて読んでしまった。

日本を代表するコピーライターの糸井重里が、各分野の達人たちとその分野を巡って繰り広げた議論の様子が収録されている。

さすが「欲しいものが欲しいわ」のコピーを生み出した糸井だけあって、「経験を盗め」というタイトルも刺激的。思わず買ってしまう。

 

 この本の中で触れられているテーマは、グルメ・墓・外国・骨董・祭・作曲と詞・日記・花火・ラジオ・トイレ・豆腐・落語・水族館・喋り

などである。一見して分かるようにかなり広範囲にわたるテーマを扱っており、糸井との対談に登場する方々も多様である。

同じくコピーライターの仲畑貴志が骨董を語るかと思うと、東大先端研の教授である御厨貴が話術について語ったりする。

(まったくどうでもいいのだが、この両者を取り上げたのは「たかし」が共通しているからである。そういえば立花さんも・・・。)

全体を通じて軽妙な書き起こしで、大変読み易い。

印象に残った部分は「グルメ」についてを扱う章で里見真三が述べた言葉。

「これは私の持論ですが、上半身であれ下半身であれ、粘膜の快楽を過度に追求する者はヘンタイと呼んで然るべきです。」

次に、「花火」についてを扱う章で冴木一馬が述べる

「日本の花火は三河地帯が発祥とされています。中国人が作った花火を最初に見たのが徳川家康で、一緒にいた砲術隊が家康の

生誕地である三河に技術を持ち帰って伝えた、と。当時、火薬は砲術隊、鉄砲屋しか扱えなかった。ところが徳川政権が安定してくると

戦争がないから鉄砲が売れない。それで鉄砲屋が花火屋に移行していったようです。」

という言葉。

そして「豆腐」についてを扱う章で吉田よし子が述べる

「ちなみに穀類プラスその二割の量の豆を食べるだけで、全必須アミノ酸をバランスよく摂ることができるんですよ。

人類は、穀類と豆の組み合わせで生き延びてきたと言ってもいい。」

などだろう。「落語」を扱う章には先日行ってきた新宿の末広亭の名前が挙がっており、何となく嬉しくなった。

あと、御厨さんが登場する章では、御厨さんの様子を御厨ゼミに所属しているS君から時々聞いているので、

それと重ね合わせて読むと妙に面白く思えてしまった。 (読後すぐにS君に本書を紹介した。)

さらっと読める割に、内容がしっかりある良い本だと思います。

 

楽器トライアスロン、『戦争を読む』(加藤陽子 勁草書房,2007)

 

 火曜日は基本的に、楽器の練習に一日を捧げることにしている。

今日もその例に漏れず、いくつか授業を受けてからは音楽に没頭する一日だった。

まず、ピアノでパガニーニ変奏曲を弾く。

といっても難しすぎて中々指が回らないので、第一変奏、第二変奏、第三変奏・・・と区切って片手ずつ弾く。

最初はゆっくりと、それから段々早く。うーむ、難しい。作曲者ファジル・サイの演奏をYoutubeで見る事が出来るのだが、

とんでもないスピードで弾いている。確かに、この曲をフルに活かすにはサイぐらいのスピードで弾かねばならないだろう。

第一変奏が速いからこそ、第二変奏以降との対比が際立つのだ。とはいえ、そんなテクニックは僕に無い。

ひとまず七割ぐらいのスピードで確実に弾けるように練習していく。

今日はサイの半分ぐらいのスピードで最後まで弾き、ラストの和音8連打だけは本来の速さで叩いて満足した(笑)

少し休憩して、Hさんに貰ったモーツァルトのロンド(フルートとピアノのためにランパルがアレンジしたもの)の楽譜を広げる。

まずはピアノで、それからフルートに持ち替えて最後まで通して吹く。フルートを吹くのは久しぶりだったので、高音が時折ぶれる。

何度かやっているとかなり落ち着いてきた。ここでまたピアノに変えて伴奏部分を弾く。さきほどよりテンポ感がかなりマシになった。

 

次にバイオリンでCoriolan序曲の1st部分を適当に弾く。

Coriolanの総譜。浪人中から愛読?しているため、もはやボロボロである。珈琲までこぼしてしまった。ベートーヴェン様ごめんなさい。

Coriolanの総譜。浪人中から愛読?しているため、もはやボロボロである。珈琲までこぼしてしまった。ベートーヴェン様ごめんなさい。

Coriolan 23小節目から。

Coriolan 23小節目から。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この曲には静と動の激烈な対比が描かれている。が、技術的には難しくないので、僕のような初心者が練習するにはもってこいだ。

50小節目までと52小節目以降の劇的な変化はいつ聴いてもゾクっとする。

102小節目以降や134小節目以降のテンポは指揮者によって解釈が大きく異なるが、僕は速いテンポの演奏が好きだ。

焦燥や不安に煽られているような感じがこの曲には相応しいと思う。ドキドキして進むからこそスフォルツァンドが効果的に聞こえる。

前のめりになるように走り抜け、時に心臓を掴まれるようなスフォルツァンド、そしてまた音量を落として駆けだす。

声を失ったかのような一瞬のゲネラルパウゼの後、叫ぶようなフォルティッシモ。最後は静かに、息を引き取るように終わる。

自分で弾いていると下手さ加減に呆れてくるが、楽器を離してスコアを見ていると本当に手に汗が滲んでくる。

どうやったらこんな曲が書けるのか。天才としか言いようがない。

 

 

 片付けなど溜まっていた雑事をこなし、読書タイム。

加藤陽子『戦争を読む』(勁草書房、2007)を読了。立花隆の『僕はこんな本を読んできた』のジャンルを特化したような本だ。

細谷雄一の『大英帝国の外交官』を紹介するくだりで、 

 

「・・・どれも珠玉。バカラのグラスを用意する。大きな氷塊を一つ入れ、とっておきのウィスキーを注ぎ、一二回半撹拌し、

ベッドへゴー。読書灯をつけ、一日一章ずつ読む。ああ至福、極楽。」

 

と書かれていたので、僕も同じ事をやろうと思ってCHIVAS REGAL12年を引っ張ってきた。

バカラのグラスなんて持っているはずもないので適当なタンブラーで代用。大きな氷塊も無いので普通の氷。

よく考えたらベッドも読書灯も我が家には無いので、布団を敷いて蛍光灯を一段暗くして本を広げる。

いささか怪しい状況である。文章化するなら、

 

「適当なタンブラーを用意する。100均で買った製氷器で作ったごくごく普通の氷を入れ、日常的に飲むウィスキーを注ぎ、

なぜか家にあるバースプーンで撹拌し、布団を敷く。蛍光灯の灯りを一段階落とし、わざわざ読みづらい中でガシガシ読む。

正直、布団で読む必要が感じられない。」

 

・・・あまりリッチな光景ではない。

 

 まあそんなことはいい。読んでいて興味を惹かれたのは、「川奈提案」というものについて。川奈提案とは、

98年4月、橋本首相がエリツィン大統領に対して行った北方領土問題解決と平和条約締結に向けた秘密提案のことである。

 

この内容はいまだ機密扱いだそうで、大変気になった。プーチンが来日ついでにバラしてくれないかなあ。

 

面白かったのは「本はともだち」と題された第三章である。

それぞれの本屋の様子が目に浮かんでくるようで、本の紹介と一緒にスイスイ読ませて貰った。

この本に挙がっている坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』は、本屋に並んでいるのを見るばかりで読んだ事は無かったので、

この機会にAmazonで注文した。合わせて金森先生に勧められたArendt ”The Human Conditon” も注文。

洋書なので相当の値段を覚悟していたが、意外に手に入れやすい価格で安心した。

  

 

 

夏日、それからプロとの試合

 

 今日はとても暑かった。

ニ限のソフトボールをやっている間なんて、もう夏が来たんではないかと思ってしまう暑さだった。

怪我防止のため長袖のアンダーアーマーを下に着ていたのだが、怪我云々の問題はさておき着たことを後悔した。

みんなの鉄壁の守備と好打によって圧勝したので良いとしよう。やっぱり試合に勝つと素直に嬉しい。

 

 三限の政治Ⅰの時間は機構で仕事という名のもと、かっぱが買ってきてくれたたこ焼きを食しつつ色々ミーティング。

四限の姜尚中の情報メディア伝達論は講義の内容よりも教官のトーク力に感心してしまう。講義というよりは講演会のように流暢で、

ニ階で授業を聴いている僕から見た限り、机の上にさしたる原稿もなさそうだった。原稿なしにあれだけ話せるというのは凄い。

ボイスレコーダーで録音しながら一生懸命ノートを取っている女の子がいた。きっとファンに違いない。

 

 五限は高等動物の比較生物学。前回の授業はイマイチ面白くなかったが、今日はめちゃくちゃ面白かった。

テーマは「天然毒の研究と創薬」で、獣医学専攻の教官による講義。

「毒」はギリシャ語でToxicon、「矢」がギリシャ語でToxonであることから、毒というのは矢に関係したものであったことが分かる。

(ギリシャ語で矢につける毒をToxicosという) このような語源の話から始まり、PoisonとToxinとVenomの違いなどの説明を

導入として、様々な毒を紹介して頂いた。カイメンから色々な毒がとれ、それは有効利用できる毒になるそうなのだが、

カ採れる毒の一つにホスファターゼ阻害剤として応用されるOkadiac acid、すなわちオカダ酸というものがあるらしい。

この名前がやたらツボに入って(分かる人は分かるだろう)、今度あの人に会ったらOkadiac acid先生と呼んでみようと決心した。

キノコから採れる毒としてのムスカリンの話からアセチルコリンやニコチン受容体の話に広がったり、ビンアルカロイドの話から

抗癌剤、さらにはチューブリンの話に拡がったり、全体として「毒」を切り口にして生物の体に迫ろうという意図が感じられた。

声が聞きとり易かったことも手伝ってとても面白く聴かせて頂いた。

 

 授業終了後、急いで帰宅してボールバッグを取って経堂ボウルへ。今日はプロのレッスン&試合である。

レッスンでは、肘を入れるタイミングを一定にする(トップから一気に入れる)ことと、手の傾けによるアクシスローテーションの調整に

関するアドバイスを頂いた。気合が入ると更なる回転を求めて肘入れのタイミングが不安定になりがちであるのは意識していたので、

プロの指摘はこれを意識する上でとても役に立つものだった。プロの的確なアドバイスと練習の成果あって、追い求めてきた投げ方は

かなり完成形に近づいたように思われる。豪快なキックバックを見せてくれるような満足な球も高い頻度で投げられた。

しかしこのあとのプロとの勝負には1勝2敗、トータルで負けてしまった。アベレージは195.3。プロは210ぐらいだったか。

プロが6つストライクを続けてくるところでこちらはダブル‐スペア‐スペア‐ダブルとストライクを続ける事が出来なかったのが痛かった。

支配人さんがギャラリーにいたので、いいところを見せようとついつい力が入ってしまったのかもしれない。ナチュラルに投げねば。

それにしても一度見つけたラインに確実に同じ球を投げ込んでくるプロの技量はやはり凄い。次回こそリベンジしたいと思う。

 

 暑い日が続くだろうがボウリング場はいつも涼しい。強い日差しは無いし、飲み物も自由に飲めるし、座って休憩する事も出来る。

夏には良い競技かもしれないな、などと思いつつ、長谷部恭男『憲法学のフロンティア』(岩波書店、1999)を再読。

長谷部教授の本は新書でも単行本でも難しい事を分かりやすく説明してくれるので愛読している。

(岩波新書『憲法とは何か』や、ちくま新書『憲法と平和を問いなおす』など。他には杉田敦と共著の朝日新書『これが憲法だ!』)

この本では随所に設けられた「プロムナード」のコーナーが楽しい。

もしも法学部に進学することになったら、是非とも長谷部教授の下で勉強してみたい。

というわけで、とりあえずは明日の一限にある法Ⅰの授業に備えて寝ます。