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必修のテストが終わりました。

 

 やっと必修のテスト二つが終わった。ドイツ語のテスト翌日に英語のテストはキツい。

canと書きたいところをkannと書いてしまったり、動詞が二番目に来ていないと(ドイツ語の大原則)妙な違和感にかられたりする。

とはいえThe British Empireに関する英語のテストは異常に簡単だったのでホッとしている。先生の優しさに感謝。

アトリーはどこの政党に属していましたか、なんて設問はDVDを見てリスニングするまでもなくみんな答えを書いていた。そりゃそうだ。

 

 必修のテストは終わったものの、選択科目のテストやレポートが何個か残っている。具体的にはハンドボールのレポートや、獣医学

・宇宙科学のレポート、そして生権力論・記号論のレポートなど。(こうやって並べてみると無秩序でいい感じですね。教養学部らしい。)

成績がかかっているのでこれらをキッチリと片付けつつ、しばらく休憩していた立花ゼミの活動にもコミットしていきたいと思う。

テスト期間中に読んだ8冊の本のレビューも書かねばならないし、「運命の七冊」企画にも本腰を入れねばならない。

といいつつ、KIRINさんとのワークショップのフライヤーを依頼されているので、週末はこれのデザインを考えるのに時間を注ぐ。

第四回はキリンのビール工場見学。ちょっと大胆なデザインにしてみようかと考えている。

 

 そういえばテストの間だったので返信し損ねていたのだが、ここに時々コメントをくれるH氏から、

「ボウリングのスコアが200の大台に乗りかけた!」というメールとスコアシートの画像を貰った。

最後に2‐10のスプリットになってしまったのが残念でしたね。特に10フレは絶対に三回投げたかった。

10フレを落としたくないときや200に何とか乗せたいときは、ストライクにはならないかもしれないが絶対に割れない

(=スペアが取れる)コースに絞って投げる方法はアリだと思う。アベレージを維持したいときとかに安全策として使うと有効です。

右投げなら意図的にブルックリンのコースに入れてみるとか。ちなみに、僕も先日投げに行ってきたが、10ゲーム投げて

アベレージ193。しかし200アップは一回も無いという奇妙な展開になった(笑) ヘタレである。 

こういうときには大胆にコースを変えてみてストライクの続くコースを探すことが必要になってくる。一週間前に210アベを叩いた時は

レーンの変化に合わせて大胆に動くことが確かに出来ていた。安全策と大胆さ、冷静と情熱の駆け引きもボウリングの難しさの

一つなのだろう。本当に奥深い。とにかく、H氏もメキメキと上達しているようなので、夏に一緒に投げるのが楽しみだ。

 

日韓合同セミナーの宣伝

 

 立花ゼミで動いている民族教育班の参考になれば、と思ったので、ここに宣伝しておきます。

2009年7月14 日から16日にかけて、駒場で日韓合同セミナーが開かれます。

院生のみならず、学部生も歓迎の企画ですので皆さん奮ってご参加ください。

詳しくは以下のフライヤーをご参照ください。

(このお仕事を頂いたので作らせて頂きました。シンプルながら、七月らしい色彩、緑に染まった駒場の銀杏並木をイメージしました。)

日韓合同セミナーのフライヤー。涼しげです。

 

 

 

 

 

人生を変えた一冊:『十六世紀文化革命』と越境者への憧れ

 

 よく晴れた土曜日、久しく吹いていなかったフルートを片手に、散歩へ出かけた。

外はどこまでも明るい。陽射しが肌に触れたかと思うと、涼しげな風がその温度をそっと奪ってゆく。

6月はもうすぐ終わる。そして7月がやってくる。この夏はどんな夏になるのだろう、と考えつつ、公園のベンチに腰を下ろし、

再読している『磁力と重力の発見』(山本義隆,みすず書房 2003)を開ける。

中学生のころ以来、尊敬する作家の真似をして読んだ本にサインと日付を入れることにしている。この本も例外では無い。

裏表紙の見返し部分を開けてみると2007.7.4とあった。

 

 そうだ、この本を読んだのはちょうど今みたいな天気の日だった。当時の僕は自習室に籠ってモラトリアムに浸っていた時期で、

「音楽室」と書かれたスリッパ(母校の音楽室のスリッパを記念に貰ってきた)を履いたままダイエーのジュンク堂三宮店に行って、

毎週大量に受験と関係ない本を買い込んではひたすらそれを読んでいく生活をしていた。

一年間で300冊ぐらい買ったと思うが、その中でもこの『磁力と重力の発見』には一際思い入れがある。

恩師の一人、駿台世界史科の川西先生にこの『磁力と重力の発見』と、同じ著者の『十六世紀文化革命』を勧めて頂いたのが

きっかけだった。この二冊は夏の暑さを忘れるほど衝撃的な本で、近くに迫っていた東大実戦などの模試をそっちのけにして

一気に最後まで読み通したのを覚えている。読み終わってから川西先生に再び会いに行ったとき、

「それだけ感動したなら、感想文を書いて著者に送ってみなさい」と勧められ、無謀にもあの山本義隆氏にレポートめいたものを

書いて、本当に送ってしまった。内容のほとんどは感想文のようなものだが、当時愛読していた大澤真幸の著作との関連点を指摘

してみたり、僕が得意とする音楽史の領域から『十六世紀文化革命』説を補強することになるのではと思われる事項を指摘してみた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「プロテスタントは印刷技術を積極的利用した。しかしカトリックは警戒的であった。」という点に乗じて、西洋音楽史からの

以下の指摘は的外れでしょうか。

 

「ルターは宗教における音楽の意義を重視したため、カトリック教会におけるグレゴリオ聖歌にあたるものをプロテスタント教会にも作り出す必要を感じていた。そうして生まれたのがコラールである。どことなく神秘的なグレゴリオ聖歌(歌詞はラテン語)に対して、宗教改革の意図に則り、あらゆる階層の人々に広く口ずさまれることを目的としたコラールは、民謡のように親しみやすく暖かなトーンが特徴である。(歌詞はドイツ語、一部は民謡編曲である)」(岡田暁生「西洋音楽史」による)

 

ここにはプロテスタントの「民謡の活用」と「俗語であるドイツ語の歌詞を採用」という二つの特徴が表れていると思います。

その意味でこれは16世紀文化革命の説を補強するものになると考えます。

さらに、プロテスタントとは離れますが、音楽史という観点で言うと、「マドリガーレ」について述べる事は十六世紀文化革命の説を更に裏付けるものになるのではないでしょうか。すなわち、

 

「マドリガーレは世俗的な歌詞(イタリア語)による合唱曲で、内容は風刺的だったりドラマチックだったり田園的だったり官能的だったりする。このマドリガーレはとりわけ十六世紀末にきわめて前衛的な音楽ジャンルとなり、後述するように音楽のバロックはここから生まれてきたといっても過言ではない。」(同書より)

 

「俗語による表現であり、さらに実験的な要素を持っており、17世紀のバロック音楽を準備した」

ものがマドリガーレであると捉えるならば、これは16世紀の職人の運動と近似しているのではないかなとふと思いました。

「16世紀文化革命の大きな成果は、17世紀科学革命の成果を下から支える事になる」という点でも共通しているのではと考えます。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 一か月もしないうちに、氏から直筆の返事が届いた。手紙には、上で指摘した内容が盲点であったこと、そして早く大学に入って

更なる勉強を続けなさい、という事が書かれていた。東大へ行く意味が分からなくなって些かアイデンティティ・クライシスに

陥りかけていた僕にとって、この手紙は効いた。優しい文章なのに痛烈に響いた。

 

 あれからもう二年近くが経った事に、月日の早さを思い知る。

ウォーターマンのブルーブラックで書きつけたサインと日付はすっかり変色してブルー・グリーンに近い色になっている。

だが、この『磁力と重力の発見』と『十六世紀文化革命』の衝撃は今なお色褪せない。

この二冊からは、アカデミズム内部の思考停止に陥らず、知識を秘匿することなく、自然に対する畏怖の念を持ち続けるといった

姿勢を通して、強靭な思考を築いて行くことを学んだ。その上で、『十六世紀文化革命』で描かれている十六世紀の職人達が

勇気を持って大胆に「越境」したように、常に枠組みを越境する人間になりたいと思った。

 

 

 間違いなく、僕の人生を変えた本のうちの一つだ。はじめて読んだ二年前と同様、背筋がゾクゾクするような感動を覚えながら、

二年前を思い出して身が引き締まるような思いをしながら、再びページをめくる。至る所につけられた印や書き込みがどこか眩しい。

 

 ページの上に、緑のフィルターを通って光と影が降り注ぐ。また夏がやってくる。

 

雨の月曜と暑さの火曜,ゼミの水曜にクラスの木曜

 

 雨が続いたり30度を超えたり、なかなかややこしい天気が続く。しばらく更新が滞っていたので近況を書いておこう。

 

 月曜日、雨が降る中庭を横目に、生協のテラスでドイツ語をやっていた。なんとなく音楽が聴きたくなって、浪人中に良く聞いた

ブラームスの四番を選んだ。普段はさほど聴かないが珍しくバルビローリの指揮で聴くことに。

三楽章に入って、あまりにも風景と合っているのに愕然としてドイツ語をやる手を止めた。

二階のテラスからだと、図書館前の中庭から和館の向こうの緑まで、様々な緑がグラデーションになって遠くまで見える。

この曲、そしてとりわけバルビローリの旋律の歌わせ方が、その光景と雨に打たれて灰色になった世界に染み渡る。

梅雨がちょっと好きになった。

五限の獣医学が終わったころには雨がすっかりあがっていた。このあとはいつもどおりプロとの試合。

前回は負けてしまったが今回は完勝。プロが追い上げてくるところをノーミス・4連発で引き離せたのが大きい。

最近調子が悪かっただけに嬉しかった。狭いラインを強く投げるのはやはり有効だ。大きく出すのは面白いが、キレすぎて扱いづらい。

 

 火曜日はひたすら宇宙科学のレポートを書く。ここまで来たら最後までA++を続けたいし、意地になって書く。

関連書籍をまた二冊買ってしまった。それだけの内容のあるレポートを書かねば。

「比熱が負の物体があると仮定したら、どんな使い方が出来るか(想像で良い)」という問いがちょっと難しい。

色々思いつくものはあるが、突っ込みどころがあり過ぎて何を書いて良いものやら。とりあえず、「万能カイロ」なるものの構想を

書いてみました。実用化は確実に不可能です(笑)

レポートをずっと書いていると疲れてきたので、気分を改めるべく二日連続で経堂ボウルへ。連続で投げるのは久しぶり。

ちょっとしたインストラクターをやったりしつつ、いつもどおり7G投げ込む。横のボックスに入った団体の学生たちが

四人中三人サウスポーだったのに驚いた。同じ左利きとして妙な連体感が芽生えて気合が入ったのだが、スコアはイマイチ。

全体的にいつもより球が弱かった。おそらくパワーステップが甘かったのと、それに伴ってトップからおろしてくるタイミングが

速すぎた。以上の結果として脇が空いて、肩が回りがちになり、球威が落ちたのだろう。一秒の何分の一のタイミングのズレなのに

手から離れたボールにはそれが如実に反映される。やはりボウリングは奥深い。

帰宅後、先日入った給料で買ったグレンモーレンジのオリジナルをハイボールにして飲みながら宇宙科学の続きをやる。

グレンモーレンジは今一番好きなシングルモルトで、何度飲んでも幸せになる。ハイボールにするとちょっと物足りない感じはあるが、

今日みたいに暑い日には気楽にどんどん飲めるこれが合う。これのおかげでレポートもスラスラと捗った。

深夜に愛飲しているグレンモーレンジ。素晴らしいバランスで飲み飽きない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水曜はあるプロジェクトの打ち合わせに出席したあと、ゼミでGeneration Times編集長の伊藤さんのお話を聴く。

伊藤さんにお話頂いた事の内容はまた書くとして、とにかくプレゼンの上手い「魅せる技術」をお持ちの人だった。有意義な時間。

 

 木曜は久し振りにクラスの友達と過ごした。二年になってからめっきりクラスの友達に会わなくなっていたが、それでもウチのクラスは

仲がとても良い。変人ぞろいだが、お互いがその変さに尊敬しあっており、それぞれの多様性が輝いている。一緒にいて飽きない。

クラスのM君と話していて、「ブログを見ている」と言われ、ちょっと嬉しかった。「どうやったら文章が書けるか」、という質問と

「本を読んでいて思想家の名前と主張が引用されているけど分からない。どうすればいいか」という質問を受けたが、前者に関しては

「文章を読みまくって自分で書いてみること」しかないんじゃないかなと思う。その際、自分が好きな文章や文体を見つける事が

出来れば、それに近づけるように書く事で自分のスタイルみたいなものが確立されてくるのではないだろうか。

後者に関しては、王道ではあるものの、やはり「そのつど入門書を読む」ことが良いと思う。熊野純彦『西洋哲学史』(岩波文庫)

はそれらの基礎となる本として有効だし、NHK出版から出ている「哲学のエッセンス」シリーズは薄い割に内容が詰まっており

分かりやすくておすすめ。もっとカジュアルに入りたい方には「現代思想の遭難者たち」という講談社から出ている四コマ漫画も

良いだろう。人名ではなく概念に関する知識を増やしたいときにはアンドリュー・エドガーとピーター・セジウィックの手になる

『現代思想芸術辞典』(青土社)などは手がつけやすい割に内容が濃い本だ。

二浪目の夏にこの辞典を最初から最後まで読み切ったことが今も僕のベースになっている。

 

 なお、本日は『イギリスの歴史 帝国=コモンウェルスのあゆみ』(編:川北稔/木畑洋一 有斐閣アルマ,2000)を購入。

これはクラスのS君にすすめてもらった本である。前半、事実の羅列のあたりは詳しめの教科書を読んでいるようで退屈だったが、

中盤からはグッと面白くなった。あと少しで読み終わりそうだ。また終わったらインプレを書くつもりでいる。

 

 

 

 

 

 

 

「言語は25歳まで」、らしい。

 

 日本語と英語を除いて、現在以下の三つの言語を勉強している。

というのは、「25歳までに言語は勉強しておくべきだ」という言葉を何人もの教授から聴き、浪人している僕は

他の人より早い目に始めないとすぐに25歳になってしまうという危機感を持ったからだ。すべての言語で単語を大量に覚える事は

できなくとも、単語を積み重ねることが出来る下地ぐらいは今のうちに作っておきたいと思う。

 

 東大では、入学手続きの前か何かに第二言語を決めるのだが、そこで僕はドイツ語を選択して提出した。

理由はハイデガーが読みたかったから。などという高尚な理由ではない。単なる趣味の問題で、

ドイツ系指揮者のリハーサル映像で字幕の無い物の内容が気になって仕方無かったからである。それだけでなく、もとより

フランス語>イタリア語=ドイツ語 の順にモチベーションがあったから、一番自主的に勉強しなさそうな言語を選択しておこう

と考えたというのもある。(その甲斐あってドイツ語の授業でいま苦しんでいる。)

言語で意外に覚えられないのが数字。単なるリーディングの授業では数字を読む機会が

なかなか無いし、各言語で似ている読みがあって非常に混ざりやすい。というわけで自分のためにここに纏めてみた。

ビリヤードで15番までを各国語で言えたり、ボウリングの残りピンを各国語で言えたりすれば記憶に残るだろう。

もちろん、実際に役に立つかは知らない。

【ドイツ】eins,zwei,drei,vier,funf,sechs,sieben,acht,neun,zehn,elf,zwolf,dreizehn,vierzehn,funfzehn 

アインス、ツヴァイ、ドライ、フィーア、フュンフ、ゼクス、ズィーベン、アハト、ノイン、ツェーン、エルフ

ツヴェルフ、ドライツェーン、フィアツェーン、フュンフツェーン

【フランス】un(une),due(duex),trois,quatre,cinq,six,sept,huit,neuf,dix,onze,douze,treize,quatorze,quinze

アン、ドゥ、トロワ、キャトル、サンク、シス、セット、ユイット、ヌフ、ディス、オンズ、

ドゥーズ、トレーズ、キャトルズ、キャーンズ、

【イタリア】uno,due,tre,quattro,cinque,sei,sette,otto,nove,dieci,undici,dodici,tredici,quattordici,quindici

ウーノ、ドゥーエ、トレ、クアットロ、チンクエ、セイ、セッテ、オット、ノーヴェ、ディエチ、ウンディチ、

ドディチ、トレディチ、クアットルディチ、クインディチ

 

これで何番をポケットしようが何番ピンがタップしようが大丈夫だ。「ディエチがタップした!」とか「ノインボールポケット!」とかね。

 

 そういえば先日、ある人から「高校時代、授業カリキュラムにフランス語orドイツ語が週二コマ入っていた。」という話を聞いたが、

言語記憶の限界が25歳までにあるならば、高校時代から第二外国語に触れておくことは非常に有益だろう。

速すぎると日本語が疎かになってしまうから、高校ぐらいからが一番いいんじゃないだろうか。

というわけで、これを読んでいる人の中に高校生の方がいらっしゃれば、何か英語以外の言語(メジャーなもの)を

自主的にやってみることをおすすめします。せめて浪人中にやっとけば良かったな、と今になって後悔している。

 

 なお、今日のドイツ語の授業で『千と千尋の神隠し』のワンシーンをドイツ語で見た。ドイツ版では『不思議の国の千尋』

というタイトルに翻訳されているらしい。「かおなし」が ”Ohnegesicht” と訳されていたのはちょっと面白かった。

かおなしやゆばーばがドイツ語で喋るのはさほど違和感がなかったが、リンや千尋が流暢なドイツ語で喋るのには

大変違和感を感じた。着物を着た和風で童顔な少女がドイツ語でまくしたてるのはやっぱり変ですね(笑)

 

ワークショップの宣伝

 

 明日6月18日の木曜日18:00より、生協食堂三階で「食」を考えるワークショップの第三回が行われます。

軽食も出ますので、この時間暇な方は是非おいで下さい。今回は『外食産業とインテリジェンス』と題して本校卒業生で

株式会社食業普尽(http://www.shokugyoufujin.co.jp) 代表取締役の山本基世さんにお話を伺います。

ワークショップに関して詳しい説明が見たい方はhttp://www.komed.c.u-tokyo.ac.jp/ のNews&Topicにある

第三回ワークショップのフライヤーをご参照ください。

(なお、このフライヤーは僕がデザインさせて頂きました。モカ・カフェオレ・カフェラテという珈琲の三色を重ねて作成してみました。)

 

生産的(?)ミステイク

 

 今日はゼミで動いている文学企画に乗っかって、大学読書人大賞の授賞パーティーに参加してきた。

・・・はずだったのだが、なんとパーティーの日にちを間違えていた。

聞くところによると、主催サイドの告知ページには11日(水)とあったそうだ。なるほど、これでは11日を信じてよいやら水曜日を信じて

良いやら微妙なところ。間違えるのも無理は無い。神楽坂まで無駄足だったか、というとそうでもなくて、ここに書く話題がこうやって

一つ増えたことは勿論、帰り際に池袋のジュンク堂本店(かなり特徴的な建物だ)に足をのばして、ずっと探していた

『〈病〉のスペクタクル 生権力の政治学』(美馬達哉 人文書院,2007)を購入する事が出来た。この一冊で、先日触れた

基礎演習のプレゼンデモンストレーションの論が組み上がった。参考資料及び先行研究例として使う書籍・論文は以下である。

 

・『〈病〉のスペクタクル 生権力の政治学』(美馬達哉 人文書院,2007)・・・先行研究として。

・『病魔という悪の物語 チフスのメアリー』(金森修 ちくまプリマー文庫,2006)・・・Tonful事件の比較対象として。

・『わたしは花火師です』(ミシェル・フーコー ちくま学芸文庫,2008)・・・公衆衛生・国家医学の誕生を説明する時の参照文献として。

・『フーコー・コレクション 6 生政治・統治』(ミシェル・フーコー 筑摩書房,2006)・・・社会医学の誕生と健康政策に関する説明の際に。

・『知への意志』(ミシェル・フーコー 新潮社,1986)・・・フーコーの権力論を説明する際の典拠として。

・『生と権力の哲学』(檜垣立哉 ちくま新書,2006)・・・「生権力の働きの原理」の前後を引用する。

・『夜戦と永遠』(佐々木中 以文社,2008)・・・権力の生産性と可視性をめぐる議論から、マスクが可視的権力表象であるとの発想に。

・「新型インフルエンザ流行時の日常生活におけるマスク使用の考え方」(2008,新型インフルエンザ専門会議)

・The Institute of Medicine(米国医学研究所委員会) 2006年4月の結論部

 

 一週間の期限内なので参考数が圧倒的に不足しているが、量より質で勝負である。いずれもかなり読みこんだ文献ばかりだ。

一見して分かるよう、かなり新しい文献を集中的に選んだ。文献の年代についても意識を向けて貰えれば、という狙いからである。

猶予はあと一日。すでに五分で喋り切れる内容ではないような気がするが、とにかく一年生にとって刺激的なプレゼンにしたい。

 

 

動いて考え、そして書く。

なぜか今日はスポーツトライアスロンの一日だった。
二限ソフトボール⇒四限サッカー(クラスの友達と勝手に)⇒夜にボウリングの試合×2というトライアスロンである。
久し振りにこんな事をしたから、ちょっと体が筋肉痛になっている。

一番気合を入れて臨んだのは夜のボウリング。その甲斐あってか、ついにプロに完勝することができた。
これで通算イーブン。次の試合で勝ち越したい。
もう一試合は、知り合い(どちらもある大学のボウリング部に所属している)S君とTさんとの試合。
僕が部活を辞めて以来一緒に投げるのは久しぶりだったこともあり、思わずテンションが上がる。
他の二人もかなりハイテンションで楽しそうに投げており、なかなか白熱した試合が展開された。
一ゲーム目、200を超えないと最下位になってしまうというかなりハイレベルなスタートを切り、
終盤少しペースが落ちてきたものの依然としてミスが許されない展開が続いた。
5ゲーム終わってAve190ちょっとをキープできていたため、試合には勝つことが出来たが、
ジュースを賭けた最後の5ゲーム目はTさんに負けてしまい、トータルは勝ったのにジュース代を払わねばならない
という謎の事態が発生した(泣) とても楽しかったので良しとしよう。

帰宅してからは金曜日の基礎演習の模範(?)プレゼン用原稿を考える。
テーマは昨年と同じものでは面白くないので、別のものにする。今回のプレゼンでどのようなものをやれば
一年生の参考になるかと考えた末、一年生の研究内容や進行状況、それから現時点で「ぶつかっている壁」を考慮して

1.具体例からアカデミックなテーマに昇華させる。
2.抽象論の変形に留まらず、具体例との関連を持たせる。

というニ点の手法を兼ね備えた内容が必要だと言う結論に至った。
具体例で留まっている人にも抽象論で留まっている人にも参考になればと思う。
なおかつ、話の中にみんなのテーマにとってヒントになるような言葉を散りばめていきたい。
答えではなくヒント。個々の研究にとっての起爆剤になるようなもの。今のところテーマは
フーコーの思想を時事的な話題に適用し、一方で時事的な話題の中からフーコーの権力論に繋がる要素を見出すことのできる
テーマとして、少し前にブログに書いた『マスクと視線の生政治学』で行こうと考えている。
フーコーの思想をただ紹介するのではなく、彼の思想をヴァリエーションさせて現代と絡めること。
フーコーは”Entretien sur la prison: Le livre et sa methode,” P.753(「監獄についての対談 本とその方法」P.372)
でこう述べている。
 
「私なら自分で気に入った人間だったら、それを利用しますね。
ニーチェの打ち出したような思想に敬意を表する唯一のやりかたは、それを利用し、それをねじまげてキーキーいわせることですよ。」

Jeder für sich und Gott gegen alle  「カスパー・ハウザーの謎」 試論

 

  「カスパー・ハウザーの謎」という映画がある。昨年、僕はこの映画を表象文化論のある教授に見せて頂き、レポートを書いた。

枚数制限もあったし書くのに使える時間もそう長くはなかったのでたいしたものではないが、せっかくなのでここにあげてみようと思う。

レポートのタイトルは、「カスパー・ハウザー、絶対の孤独」という。

 

【1】異質なものへの距離

 言葉にしがたい後味を残すこの映画は、カスパー・ハウザーという一人の「純粋な」人間を通して、階級やジェンダー、論理や

宗教といった既存の常識や社会への批判を投げかけるものである。その中でも宗教に投げかける懐疑や皮肉の強さは特筆される

だろう。カスパーが体を洗ってもらって「見なさるのは神様だけ」と言われる時、外の動物がしっかりとカスパーを見ているし、話が少し

進むと「とにかく信じるんだ!疑うことよりまず信じる事が大切だ!」とカスパーに信仰を押し付けようとする牧師が登場したりする。

その直後のシーン「賢いリンゴ」はエデンの園の話を踏まえた皮肉のように思われるし、「聖歌が恐ろしい叫びに聞こえた」とカスパーが

言うシーンも存在する。何よりもJeder für sich und Gott gegen alleという原題がそもそも宗教批判ではないか。

とはいえ批判を投げかけるだけではない。人間という存在とは一体何か、自分自身の問題として考えてみよというのが監督である

ヘルツォークの問題提起であろう。ラスト近く、カスパーが水面に自らを映し、水面を波立たせることで水面に映った自身の姿を揺らす

シーンはそのことを表しているのではないだろうか。それにしても、異質なものに対する人間の醜さは凄まじいものがある。

見世物小屋のシーンで世界四大神秘なるものを見に来る観客は、次第に身を乗り出して好奇と侮蔑の眼差しを注ぐ。

(注:見世物にされる4人には共通点がある。それは言葉から疎外されているということだ。 一人目のプント王国の王様なる人物は、

そもそも話す機会を与えられない。 二人目の穴(ドン・ジョヴァンニが最後に落ちる地獄の事か)に思いを馳せるモ少年は読み書きを

覚えられなかった。 三人目の笛を吹く男は先住民の言葉以外話せないうえ、先住民の言語を観客の目の前で話すよう強制され実際

に発話する事で、言葉からの疎外を一層明らかにする。 四人目のカスパーは言うまでもなく言語を自由に操ることができない。)

調書を取る人物は、終始一貫してカスパーを記述できる形に収めようとし、解剖を経ては

「ハウザーに異常が発見された、ついにあの奇妙な人間に証明がついた、これ以上見事な解明はない」

と言って喜んで帰路に着く。彼らだけでは無く、カスパーを取り巻く人物は、どんなにカスパーを大切に思っているように見えても、

ふとした拍子にカスパーとの距離を見せてしまうことになる。例えば、

 

 1.言葉を教える子供ユリウス・・・救貧事業に取り組んだカエサル(=ユリウス)と同名なのがまず面白い。女の子が歌を教えるとき、

彼は窓際の高い所からカスパーと少女(とカメラ)を見下ろして、「単語しか知らないから歌はまだ無理だよ。」と切り捨てる。

 

 2.ダウマー・・・いつもカスパーを大切にしているように見えるが、全面的にカスパーを大切にしているのではない。

早世した若者たちの名前を読み上げるシーンで彼が単なる慈善家であることがわかる。決定的なのはラスト近く、カスパーが

刺されて血みどろでやってくるシーンでの彼の行動だ。彼は手に持っていた本を開けたまま閉じようとも置こうともしない。

では、本を置くのはいつか?それはカスパーを、襲われた現場のベンチにもたせかけた時だ。ダウマーはここで、カスパーを

支えるためではなく、ただポーチを拾い上げるためにようやく本を置くのだ。そして、カスパーが血まみれでいるにもかかわらず、

ダウマーはこう言う。 「まず包みをみてみなきゃな。」

 

【2】音楽

さて、次に本映画における音楽に少しばかり考察を加えてみたい。この映画では、音楽がとても印象的に使われるだけではなく、

ストーリー的にも重要な意味を持つ。たとえば、カスパーは貴族に紹介されるシーンで「音楽は我々を道徳的に高めるとともに人格形成

に役立つ」と言われたことを受けて、モーツァルトのへ長調ワルツを弾く。音をはずし、リズムもアクセントもめちゃくちゃに。

このめちゃくちゃなモーツァルトの演奏は、カスパーの人格形成が周囲の期待したようなものでは無い事を表象する。

最も印象的なのはやはり、映画のはじまりと終わりで流れるモーツァルト「魔笛」中の「なんと美しい絵姿」のアリアだろう。

なぜ、この変ホ長調のアリアがここで使われているのか。このアリアの歌詞を見る事でその理由が明らかになる。

オープニングで流れる歌詞は、このアリアの最初、すなわち Dies Bildnis ist bezaubernd schonから始まり、

Wie noch kein Auge je geseh’n! Ich fuhl’ es, wie dies Gotterbild. Mein Herz mit neuer Regung fullt.までである。

映画の終わりではこの次の歌詞からアリアが歌いだされる。つまり、 Diess Etwas kann ich zwar nicht nennen! から始まり、

Doch fuhl’ ichs hier wie Feuer brennen. Soll die Empfindung Liebe seyn? Ja, ja! [...]

Joint Security Areaのレポートを出してみた。

 

 今日はソフトボールがフットサルに変更だったので、朝は体育館へ。

雨上がりのあとの体育館は蒸し暑くて、かなり不快指数の高そうな気配が漂っていたが、

和気あいあいとフットサルとドッジボールを楽しんだ。そういえば、体育館に移動するまえに、

この授業が一緒の人から「ブログやってますよね。」と言われてビックリした。話を聞いてみると

駿台で塚原先生(リンクを貼って頂きました)の授業を受けたことがある人らしく、塚原先生のホームページから

このブログに飛んできたらしい。世界は狭い。

 三限は政治の授業だが、毎回自主休講にして自分で政治学の本を読んだり関係ない本を読んだりして休憩している。

今日はついついまた生協で本を買ってしまった。

S・ワインバーグ『宇宙創成はじめの三分間』(ちくま学芸文庫,1993)

金森修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(NHK出版,2003)

門脇俊介『フッサール 心は世界にどうつながっているのか』(NHK出版,2004)

の三冊である。NHK出版の二冊は、哲学のエッセンスシリーズの本だが、前に読んだ檜垣立哉のドゥルーズが良かったので

もっと読んでみようと思って買ってみた。ベルクソンの方はすでに半分ぐらい読んだが、半分の時点でかなり面白い。おすすめです。

書籍購入後、四限で提出するためのレポートを印刷した。「映画を見て、思ったところを800字で述べよ」という課題だったのだが、

800字でA4に書いてみたところ下半分が余ってしまい、何ともやる気のなさそうな見かけのレポートになった。

フォントを大きくするという手もあったのだが、あんまり大きいフォントは見栄えがよろしくないので、フォントは通常のまま提出。

内容的にはこんな感じ。

 

【Joint Security Areaを見て】

この映画を見て、まず最初に私は「南北が分断されていることの虚しさ」と、「それを統合することの難しさ」を感じた。

頻繁に映る板門店の境界線。こんなに北と南は近いところにあるのに、すぐ向こうも見えるのに、入ることはできない。

入れば戦争が待っている。分断線を越えた瞬間に戦争が始まる緊張感をこの映画から感じた。

(それは分断線が映るシーンだけでなく、地雷を除去するシーンにおいても顕著である。)

  

 近いのに遠くて、見えるのに入れない。

だが、共産主義と資本主義といったように、イデオロギーが全く異なる国家であっても、人間は人間なのだ。

 

映画の中にも描かれていたが、人間は美味しいものには惹かれるし、美しい女性を見てはみな声をあげて羨ましがる。

 

銃を構え、時に人を殺すことを日常とした限界状況にあっても、人間は人間らしさを持っていて、イデオロギーの違いなど

 

関係なしに同じ人間として話しあうことが出来るに違いない。ちょうどラストのモノクロの写真において、奇跡的に一枚の

 

写真に収められたあの四人の視線が同じ方向を向いているように。映画は悲しい結末に終わってしまうが、