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東京帰還&『海に住む少女』(ジュール・シュペルヴィエル)

 

 新幹線に乗ること二時間半。あっという間に東京に着いてしまいました。

小学校へ通うのに自宅から二時間近くかかっていたことを考えると、新幹線の偉大さを思い知ります。

一週間ぶりに戻ってきた東京は相変わらず人が多く大変でしたが、無事に家へとたどり着くことが出来ました。

 

 さて、東京に帰ってきたからには時間を無駄にせぬように全力で動く日々がまた始まります。

沢山やりたいことはありますが、今年は特に、学生でいられる残り時間をそろそろ意識して、一つずつ「形」にしていかねばなりません。

手始めにFresh Start関連のデザインの仕事をいくつか片づけておきました。東大に今年合格される方には、もれなく僕がデザインした

フライヤーが届くことになります。このブログを見て下さっている東大受験生の方は覚えておいてください(笑)

それからずっと前から依頼されながら延々と悩んでいたFresh Startの公式ロゴのデザインが唐突にひらめいた

(今年のNew Year Concertで放送されたバレエのドレスを見ていて思いつきました)ので、勢いでロゴも完成させました。

まだロゴの配色にはいくつか候補があるので、最終的には友達から多数決を募って決定したいと思っています。

 

 Fresh Start関連では、そろそろパンフレットの内容も考えていかねばなりません。このパンフレット、去年は僕一人で全デザインを

担当しましたが、今年は山本くん(立花ゼミに所属している友達です。立花ゼミのホームページのデザインは彼の作品ですよ。)という

強い味方がいるので、具体的なレイアウトなどは彼に任せて、僕は企画をどんどん立案して一年生に振っていこうかなと考えています。

今回の僕の肩書きは「クリエイティブディレクター」なるものですし、デザインに一心不乱になるよりは全体へ目配りをして

企画や作品の統一感を失わないように纏めることが要求されているようです。とにかく、せっかくの機会なので中途半端なものは

作りたくありません。昨年の自分が作ったものを軽く超えるようなクオリティで、長く手元に置く価値のある魅力的な企画が沢山詰まった

一冊を作りたいと企んでいます。

 

 

 今僕の頭の中にある具体的なアイデアについては1月13日の全体ミーティングで説明するつもりですが、基本的なコンセプトとしては、

本学学生・教員の「知」と「経験」を基に、それぞれの「知」と「経験」のぶつかり合いから生まれる「越境」的なエネルギーを伝えるものに

したいと思っています。同時に、高校の勉強と大学の勉強が完全に乖離しているわけではなくてどこかで繋がってくるものであるという

ことや、各学問分野が他の分野に影響を与え・与えられて発展していく様子を、何らかの形でヴィジュアル化したいと考えています。

高校の科目を根っこに置いて、そこから木(大学での学問)が生えて、そして絡み合っていくような「知のマインドマップ」を作るわけです。

これらのどこまでが実現できるかわかりませんが、出来る限りやってみるつもりですのでどうぞお楽しみに。もし良いアイデアを

思いついた方がいらっしゃいましたら、メールかコメント欄に書いて送って頂ければとても嬉しいです。

Fresh Start 当日まであと二カ月。関係者一同、一生懸命に創意工夫して準備しますので、合格された方はFresh Start@駒場 に

是非参加してみてくださいね!

 

 まあこんな感じでパンフレットのアイデアも徐々に出始め、ロゴも上手く出来てちょっと喜んでいたところ、

「あと二時間ぐらいでこの企画のフライヤー作れる?!綺麗な感じにして!」と例によって先生から無茶振りをされました。

やや手間取りましたがなんとか夜九時には完成。今日は良く仕事をしています。駒場を後にしてからは三軒茶屋の喫茶店に寄って

ジュール・シュペルヴィエル『海に住む少女 L’enfant de la haute mer』(訳:永田千奈 光文社古典新訳文庫,2006)を読了し、

続いて上村忠男『ヴィーコ 学問の起源へ』(中公新書,2009)の第五章までを読んだところで閉店時間となったため、席を立ちました。

続きはまた明日読むことにします。

 

 帰宅してからは白州12年をちびちび呑みながら『構造人類学』の訳読を進め、その後、買ったばかりの

『フランス哲学・思想事典』(弘文堂)の最初にある「16・17世紀総論」の項を読みました。事典を読むのは本当に面白いです。

浪人中に読んだ『現代思想芸術事典』『図解音楽辞典』に続いて大学三年生の間にこれを何とか読み切りたいと考えているので、

今日からこの事典を毎日寝る前に読み進めることにします。ちなみに、広辞苑を通読しようと高校生のころに思ったことがあるのですが

これは全く歯が立ちませんでした。「あ」だけでギブアップします。物理的にも重すぎるため、腕が筋肉痛になること請け合いです(笑)

 

 

『医学と芸術展』@森美術館

 

 森ビルで開かれている『医学と芸術展』へ行ってきた。感想は「おすすめ!」の一言に尽きる。

展覧会の正式タイトルは「医学と芸術展 生命と愛の未来をさぐる -ダヴィンチ・応挙、デミアン・ハースト」

(MEDICINE AND ART  Imaging a future for Life and Love  -Leonard da Vinci,Okyo,Damien Hirst) 

というもの。森美術館のホームページから企画概要を引用しておこう。

・・・・・

人間の身体は我々にとって、もっとも身近でまたもっとも未知の世界です。人間は太古の時代からその身体のメカニズムを探求し、

死を克服するためのさまざまな医療技術を開発してきました。また一方で、みずからの姿を、理想の美を表現する場の一つと位置づけ、

美しい身体を描くことを続けてきました。より正確な人間表現のために自ら解剖を行ったレオナルド・ダ・ヴィンチは科学と芸術の統合を

体現する業績を残した象徴的なクリエーターと言えます。本展は、「科学(医学)と芸術が出会う場所としての身体」をテーマに、

医学・薬学の研究に対し世界最大の助成を行っているウエルカム財団(英国)の協力を得て、そのコレクションから借用する約150点の

貴重な医学資料や美術作品に約30 点の現代美術や日本の古美術作品を加えて、医学と芸術、科学と美を総合的なヴィジョンの中で

捉え、人間の生と死の意味をもう一度問い直そうというユニークな試みです。また、英国ロイヤルコレクション(エリザベス女王陛下所蔵)

のダ・ヴィンチ作解剖図3点も公開します。

第一部 身体の発見

人間がどのように身体のメカニズムとその内部に広がる世界を発見してきたのか、その科学的探究の軌跡と成果を多数の

歴史的遺物によってたどり、紹介します。

第二部 病と死との戦い

人間が老いや病、そして死をどのようなものと捉え、またそれに対して、いかに抗ってきたのかを紹介します。

医学、薬学、生命科学の発展の歴史だけでなく、老いや病、生と死についての様々なイメージが登場します。

第三部 永遠の生と愛に向かって

最先端のバイオテクノロジーやサイバネティクス、そして脳科学などに基づき、人間はなぜ生と死の反復である生殖を続けるのか、

人間の生きる目的や未来を読み解くことは可能なのか、そして生命とは何であるのかを、医学資料やアート作品を通して考察します。

・・・・・

(以上、http://www.mori.art.museum/contents/medicine/exhibition/index.htmlより)

 

医学と芸術を併置させたその構成は『十六世紀文化革命』(山本義隆)で描かれた世界を彷彿とさせる。

それが現代のバイオエシックスの諸問題と接続されたような展覧会なのだから面白くないわけがない。

必死にノートを取りながら見て回った。展示数も相当なものなので最後まで飽きずに楽しむことが出来るだろう。

ただし、デートにはあまり適さない展覧会なので要注意である。(実際、会場でかなり微妙な空気になっているカップルに多々遭遇した)

 

 中でも、円山応挙の「波上白骨座禅図」は衝撃的。

大きく描かれた座禅を組む骸骨に一瞬ギョッとするが、見ているうちに不思議な落ち着きを感じる。

円山応挙「波上白骨座禅図」(1787年) 兵庫県大乗寺 蔵

 

会場でもいくつかの解釈が示されていたが、僕はそれらとちょっと違って、

この絵から「からっぽ」を感じた。

座禅をやったことのある人なら納得してもらえると思うのだが、座禅が上手く組める

ときには頭の中がからっぽになったような感覚を覚える。

座禅はひたすら自分を無に近づけていく試みなのである。

そしてこの絵で描かれているのは骸骨(=肉体のない、からっぽの人間)であって、

彼は座禅を組むことによって、自己の存在を限りなく消去しつつある。

そして同時に、彼は波の上にいる。

これもまた波乗りを経験したことのある人には納得してもらえると思うのだが、

海に浮かんで波に揺られているとどこまでが自分でどこまでが海なのか段々

分からなくなる。不規則なように見えて、「寄せては帰す」という基本的なリズムを

持っている波の性質がそうさせるのだろうか。波のリズムに揺られているうちに

頭の中はからっぽになる。体が無くなったような錯覚を覚える。

波の上にいる骸骨はこの感覚を表現しているのではないだろうか。

そう考えて見てみると、「奥に描かれた波に対して手前に 大きく描かれた骸骨」

というこの構図の意味が見えてくる。

波に揺られて頭がからっぽになると身体が海に溶ける。境界線がはっきりしなくなる。

最初に感じていた、海と自己との大小関係が曖昧になってくる。

無理やり現代風に表現するならば、海というレイヤーを背景に

敷いて、その上に透明度20パーセントぐらいで「じぶん」という

レイヤーを縮尺を無視して海全体に重ねた感じだ。

この絵は、そのような自己の存在を滅却してゆく簡素さ、「からっぽ」を表現しているように思う。

 

 触れたい作品は他にもたくさんあって、Alvin Zafra のArgument from Nowhere には度肝を抜かれたし、

Walter Schels のLife Before Death の持つ、静かで厳かな迫力は忘れられない。とりわけAnnie Catrell の Sense は、

いま集中的に取り組んでいる論考に大きな刺激を与えてくれた。詳しくは足を運んで見てみて頂きたい。行って損はしない。

学生なら1000円で入ることができるので、冬休みにいかがでしょう。

 

 

 

「静」と「動」

 

 ここ数か月、ボウリングの調子が良いです。

先日の試合でもセミパーフェクトの277が出ましたし、「またぎパーフェクト」なるものも達成しました。

またぎパーフェクトとは名前の通りゲームをまたいで12連続ストライクが出ることらしいです。

3ゲーム目に8連続ストライクを持ってきて、4ゲーム目に入って頭から4連続でストライクを続けて

合計12発。一緒のボックスで投げていた人に指摘されるまで気付きませんでした。いつの間に、という感じ。

出来れば一ゲーム内で普通のパーフェクトを達成したかったですね(笑)

まあそれはともかく、アベレージが220から230で二か月ほど安定してきているのは嬉しい限り。

 

 好調なのには理由があって、一つ悟りを開いた気がします。

かなり抽象的な内容なので上手くは書けませんが、簡単に言えば、「動」ではなく「静」の部分を意識するように

なったこと。ここ数年、いかにして高速・高回転の球を投げるかを追求し、「どうやって肘を入れるか」

「パワーステップのタイミングをどう取るか」「回転軸はどう変えるか」など、ボウリングにおける「動」の部分を

独自にひたすら追い求めてきました。そうして試行錯誤しながら何千ゲームも投げることで、

「動」の部分はかなり体に染みこんだ実感を持っています。

 

 ですが、これに安定感を加えるためには、「動」ではなく「静」の部分に注目することが必要なのだと

唐突に悟ったのです。インスピレーションをくれたのは、僕が今一番熱心に取り組んでいる指揮法でした。

指揮の師がある時、こんなことをおっしゃったことがあります。

 

「指揮台に不用意に上がってはならない。上がる前に空間を作っておく。音楽が大きく広がるように

空間をセットしておく。触れたらその瞬間に音が鳴り出しそうな空間を作ってから指揮台に上がる。

そしてタクトの先に、空間に満ちている音楽を集めて凝縮させ、一挙に空間を鳴動させる。

オーケストラを鳴らすだけじゃない。空間を鳴らしてはじめて音楽は命を持つ。」

 

この言葉を考えてみたとき、「どう動くか」が問題なのではなく、「どうやって静から動へ切り替えるか」、

さらに言えば「どうやって〈静〉の状態を作るか」が一つのカギとなるはずです。

そんな師の言葉を意識しながら、いつも指揮台に上っているのですが、じゃあこの気持ちで

ボウリングのアプローチに上がってみたらどうだろう、とふと思ってやってみました。

空間を意識しながら、背筋を伸ばして、ピンをまるでオーケストラの楽器のように見立てながら

アプローチに立ってみたわけです。

 

 びっくりしました。立った時の安定感が違う。視界が広くて明るい。重いボールを構えているのに体の

どこにもストレスがかからない。投げる前から自信が湧いてくる。〈静〉を意識することで、この後に続く

〈動〉が極めてスムーズにイメージできます。指揮とボウリングという、一見何の共通点もないこの二つが

稲妻のような鋭さで繋がりました。この二つをやっていて良かったなあと心から思った瞬間でした。

と同時に、僕のボウリングの師匠が数年前に何気なくつぶやいた言葉を思い出しました。

「上手いやつは立った瞬間に分かる。本当に上手いやつは〈止まってる〉」

当時高校生だった僕には全く理解できませんでしたが、いま、ようやくその意味を理解した気がしています。

 

 まだ今年はあと少し残っているのでちょっと気の早い話かもしれませんが、2010年は「静」と「脱力」

(脱力とは、〈動〉の中の〈静〉に他なりません)を意識してボウリング(もちろん指揮にも)に取り組みます。

これまでに培った〈動〉の技術をフルに活かしながら、「アプローチにどうやって上がるか」、

「どうやって空間を支配するか」という問題から、「どうやって呼吸するか」まで、〈静〉状態の質を高めるために

色々と工夫してみようと思います。ちなみに明日は能を国立能楽堂へ見に行くので、そこからまた

〈静〉や〈空間〉に関するヒントが掴めるかもしれません。とても楽しみです。

 

 なお、本日は坂野潤司『日本憲政史』(東京大学出版会,2008)を読了。政権交代が叫ばれた昨今や

天皇の政治利用ともとれる民主党の(というか小沢の)政策を冷静に見るために、と思って読んでみましたが

これは非常に良い本です。

 

「日本国民は二つの欽定憲法しか持ったことがないから、改憲して初めて国民の手による憲法が持てる

というような議論は、歴史音痴を告白しているに過ぎない。大日本帝国憲法の「欽定」(1889)以前には

それよりもはるかに民衆的な憲法草案が全国津々浦々で起草されていた。そしてそのような民主的憲法への

強い期待を背景に、欽定された専制色の強い大日本帝国憲法を解釈を通じて民主度を高める努力

(たとえば天皇機関説)がそのあとも続けられていった…」(P.41)

 

などというくだりにはハッとさせられますし、美濃部達吉と吉野作造の憲政論を対比させながら

見ていくあたりもとても刺激的でした。おすすめです。

 

あとはここ数日で多木浩二『眼の隠喩-視線の現象学-』(ちくま学芸文庫,2008)と、

上橋菜穂子『獣の奏者』一巻、ハンス=ヨナス「人体実験についての哲学的考察」という論文を読了。

長くなってしまったのでこれらについてはまた記事を改めて書くことにします。  

 

 

Skypeはじめました。

 

 冷やし中華のごとく、Skypeをはじめてみた。

別に緊急の用事があったわけではない。家の電球が切れたので近くの電機屋に行ったところヘッドセットが

投げ売りされていたのでつい購入してしまい、帰宅してから「待てよ、これ冷静に考えて使いみち無いぞ・・・。」

となって「ならSkypeでもやるか。」という心境になった。後先を考えずに買う癖は相変わらずだ。

 

 実はずっと前から、「Skypeやろうよ」と色々な友達から誘われていたのだが、なにぶん僕の低速回線では

やったとしてもストレスが溜まるだけで、それでは相手にも申し訳ないと思って避けていた経緯がある。

しかしいざやってみると、さほど回線の遅さを感じさせないレスポンスで使うことが出来た。何やらつい最近

アップデートされてスピーディーになったらしい。音質も想像以上に良いし、これは確かに便利なツールだ。

 

 立花ゼミの活動だけでなく、Fresh Start@駒場というイベントや個人的な仕事の打ち合わせなどで

活用する機会は多々あるだろう。まだ触り始めたばかりなのでイマイチ機能が使いこなせていないが、

徐々に使っていきたいと思う。ちなみにSkype名は Artificer という名前で登録した。この単語をskype名に

している日本国籍は僕だけ(フランスには何人かいる)のようなので、結構検索しやすいかもしれない。

Skypeをされている方はどうぞ検索してみてください。

 

 

※Skype名を間違って打ちこんでいました。Artificerとなっていますが、正しくはArtificierです。
検索でヒットしなかった方、お手数ですがArtificierで改めて検索してやってください。

 

12月の満月

 

 今日は月がびっくりするぐらい大きく、明るかったですね。今まで見た月で一番迫力があったかもしれません。

空気も澄んでいたので表面の模様までよく見えて、しばらく見とれてしまいました。

以前にギリシャ哲学の大教授がおっしゃっていた、「太陽はあんなに明るく大きいのに地上の我々から見れば

空にある太陽は足の幅の大きさのように見える。それは、本来の大きさだと我々はその輝きに目を

見開くことができないからだ。これは〈真理〉と似ている。真理が眼前にあると、真理が放つ光が激烈過ぎて

我々はそれに目を見開くことができない。だから真理はとても遠くにあって、その弱い光を我々は見ているに

過ぎない。だが、哲学するものは、みずからの身を焦がすことを恐れず、眩しすぎる真理へと挑んでいく。」

という言葉をなんとなく思い出しました。

 

まあそんなわけで、先日の記事が固かったので今日は近況を軽く書いておくことにします。

 

・立花ゼミ

先生方と国際関係論と音楽とデザインについての喧々諤々の議論(?)をやっている間に

今日のゼミの時間が終わってしまい、今週はゼミに出ることができませんでした。ちょっと悲しい。

立花ゼミの「二十歳の君へ」書籍化企画が着々と進んでいる中、その企画の一環として

「立花隆対策シケプリ」を作る予定なのだが、それについてゼミ生がどの分野を担当するか決めやすいように

各自の得意分野・専門分野をメーリスに書いて流したらどうか、という提案をしようと思っていましたが

言う機会を失ってしまいました。まあここに書いておけば何人かは読んでくれるでしょう。

あと、僕が細々とやっている芸術企画の一環として「香り」について問うプロジェクトをやろうと思っています。

ただいまインタビュー先のリストアップ中です。

 

・ボウリング

かなり安定してきました。210アベレージをここ数週間コンスタントに維持できており、プロにも二連勝しました。

ホームにしているセンターのレーンはかなり遅く結構荒れていることが多いので、回転数の多い僕にとっては

結構苦しむレーンなのですが、無理せずボールを走らせる技術をようやく完全に会得した気がします。

あとはスコアの振れ幅を出来るだけ小さくしていく(ちょっと前には245の後に128を出しました…。)ことが

必要ですね。あんまり崩れてしまうと、精神的に次のゲームがきつくなるので、ローゲームは180ぐらいまでで

留めておきたいところです。

 

・フルート&指揮

フルートは中音域を響かせるコツというか、息を当てるポイントが掴めてきた気がします。

適当にそのへんの曲を吹きながら、オクターブの練習をひたすらやっています。

指揮は練習曲その1にじっくりと取り組み中。「もっとスマートに振らなきゃ。」と帰り際に師匠に言われて、

「スマートって一体何だ・・・。」と帰りの電車で考え込んでしまいました。「もっと自然に!」というのも

師匠から良く言われることなのですが、こちらも中々難しいことですよね。力が入ってしまっているのは

自分でも分かるときはありますが、かといって力を抜くのはとても難しい。ですが、この「脱力」こそが

指揮の奥義の一つの筈なので、なんとかしてこれをマスターせねばなりません。何年かかることやら・・・。

 

・本

ここ数日かけてブルデューの『ディスタンクシオン』(藤原書店)を上下二巻読み切りました。

ブルデューの議論に通底するものは、一言でいえば「再生産」だと思います。

この本でも、ディスタンクシオン(卓越化)という言葉と、「ハビトゥス」という概念を用いて、個人の「趣味」が

本人の自由意思のみに基づいて形成されるものではなく、個人の職業や社会的階層、あるいは

両親の職や学歴や環境に大きく規定されていることが明らかにされます。有名な例では、一巻の第一章に

ある、「好きなシャンソン歌手・音楽作品」と「所属階級・学歴」の相関表。シャンソンのことはよくわからない

ので、シャンソン歌手との相関については何とも言えないのですが、音楽作品として挙げられている

『美しく青きドナウ』『剣の舞』『平均律クラヴィーア』『左手のための協奏曲』だけを見ても、上流階級・知的職

になるに従って『平均律クラヴィーア曲集』を好む人の割合が増え、一方で庶民階級は『美しき青きドナウ』や

これに続いて『剣の舞』を好む人が多いというデーターがあります。このように諸作品につけられた価値の

「差異」が学歴資本の差に対応している、とブルデューは結論付けます。そしてこうした文化の価値は

「フェティッシュの中のフェティッシュともいうべき文化の価値は、ゲームに参加するという行為が前提として

いる最初の投資のなかで、つまりゲームを作りだすとともに闘争目標をめぐる競争によって絶えず

創りなおされるところの、ゲームの価値に対する集団的信仰の中で生まれてくる。」(P.386)と言います。

 

 なかなか分厚い本ですが、最後まで息切れせずに読ませる面白さをこの本は持っています。

名著と呼ばれて久しいのも納得です。興味がある方や社会学部に進学される方は是非読んでみてください。

立花ゼミの「貧困と東大」企画の参考になるかもしれません。

 

というわけで次は『ルーマン 社会システム理論』(新泉社)へ。第三者の審級概念についての大澤論文を

読んでいて、自分のルーマンのシステム論への知識が圧倒的に不足していることを痛感させられたので

12月はルーマンを集中的に攻めたいと思っています。まずこの概説書を読んでから、次に

長岡克行『ルーマン 社会の理論の革命』へ、そして馬場靖雄『ルーマンの社会理論』を読みつつ

ルーマン自身の著作に取り掛かる予定です。それから冬休みにはカール・ポランニーの『大転換』と

ちくま学芸文庫から出ている『経済の文明史』と『暗黙知の次元』を読む予定。あとずっと読みたかった

東浩紀『存在論的、郵便的 -ジャック・デリダについて-』も読みたいですね。浪人中に立ち読みしてみた

もののさっぱり理解できず、「これはもっと勉強してから読もう・・・。」と諦めた経緯があります。

サントリー学芸賞受賞作は分野問わず全て読もうと企んでいるので、やっぱり本作を外すわけには

いきません。再チャレンジします。

 

学術書ばかりになってしまいましたが、小説では上橋菜穂子『獣の奏者』を読んでいます。

まだ一巻の途中ですが、段々面白くなってきました。このあとの展開が楽しみです。

 

・モノ

PILOTから出ているバンブーという万年筆が今年の夏に廃番になっていたことを知りました。

夏にはまったく欲しいとは思わなかったのですが、廃番と聞くとちょっと欲しくなりますね。

とくにMニブの青軸は有名どころの文具店では軒並み完売だそうです。意外と地方の文具屋さんでは

残っていたりするかもしれませんね。もし発見された方がいらっしゃったらご一報下さい。

 

大澤真幸『意味と他者性』を読む。

 

 発表に備えて、大澤真幸『意味と他者性』のうち「規則随順性の本態」という論文を精読していました。

大澤氏の本はほとんど全て読んできましたが、中でもこの本は僕にとって、一・二を争う分かりづらさに映っています。

ヴィトゲンシュタインやクワイン、クリプキなど、分析哲学系の話題を(社会学として)扱おうとしているからでしょうか。

それ以上に、本書は極めて抽象度の高い議論が延々と展開されていることにあるのかもしれません。

いつもの大澤氏なら具体例や社会事象を引いて分析してくれるのに。

 

とはいってもそれはある意味で当たり前。

この1990年の論文は、のちに大澤氏の理論のキーとなる、「第三者の審級」概念の「形成」を扱ったものだからです。

この概念を応用するのではなく、この概念をどうやって導いてきたかということについて、抽象度を維持したまま、論理的で細かい

議論がひたすら展開されます。このことから、「第三者の審級」概念を考える上では必須の文献といってよいでしょう。

では、本論文で述べられていることは一体何か。そして「第三者の審級」概念とは一体何なのか。

ちょっと要約してみましょう。

 

【 「行為随順性の本態」(『意味と他者性』) の要約 】

われわれはいかにして、何らかの行為が可能であることを示しうるのか?そしてまた、「規則に従う」ことはいかなる意味を持つのか?

ヴィトゲンシュタイン-クリプキによって示された懐疑論的解決では不十分であり、これを超えるためにはコミュニケーションという事態の

不可欠な構成素たる「他者」の本性を問い直す必要がある。他者は、対象を捉える心の働きである「求心化作用」と、この作用と

必然的に連動してしまう「遠心化作用」(対象となるものに、私とは異なる固有の心の帰属場所を発見させる作用)によって不可避に

与えられる。私の存在は、(物理的意味合いではなく)他者の存在に常に伴われており、他者と共存している。

そして、私がまさにこの私であるという自同性のうちにすでに他者の存在ということが含まれるため、私の存在は他者の存在の

裏返しの形態であり、自己と他者は不分離の関係にあることになる。この自己と他者という二つの体験の源泉ゆえに、

体験される事柄は二重の偶有性を帯びざるを得ない。だが一方で、私の存在は他者の存在の必然性でもあることは、心的現象が

私に帰属していることの必然性が他者に帰属していることの必然性へと転換されて現れうる。

 

従って、他者とは、「他でありうること」=「偶有性」を確保する場所であるが、他方では「他ではありえないこと」=「必然性」を構成する

場所としても機能するのであって、この他者の両義性こそが、「規則」という現象を可能にする。

規則にしたがっているとみなされる行為においては、まさしくこの偶有性と必然性の交錯が起こる。

行為が妥当であるためには、妥当ではないという可能性が留保されていなくてはならないから、偶有的でなくてはならない。

一方で、心的現象が他者へ帰属することで対象の「なにものか」としての在り方とそれに相関する行為は必然性の様相を帯びる。

しかし、ここでの「他者」は否定的に表れる。すなわち、直接に現前しないということにおいて現前するのである。

このとき、他者は、第三者的な超越性を帯びたものとして転化されうる。この第三者的な超越性を帯びた他者を、「第三者の審級」と

呼ぶ。この第三者の審級は、私の経験に対して常に先行している「先行的投射」という性格を持つものであり、私からも、

私が直面していた他者からも分離された存在である。それゆえに、規則の妥当性を基礎づけることになる。行為の妥当性を承認する

他者は、単なる「他者」ではなく、特別な他者、「第三者の審級」であり、この第三者の審級に承認されていることの認知が

規則という実態についての錯覚を生みだす。

 

この第三者の審級は直接の現前から逃れているが、具体的な他者との間に代理関係を持つことによって間接的に現前しうる。

すなわち直面する他者が第三者の審級を代理するものとして認知されているときには、直面する他者が第三者の審級に相当する

権威を帯びるのである。ある者が権威を帯びた他者として表れる事がありうる、ということがわかれば、教育という現象

(行為の妥当性/非妥当性を決定し、行為を訂正しうるもの)が成立することも理解されよう。教育者が、教育を受ける者たちにとって

第三者の審級を代理するものとして定位されていることによって教育という行為は成立するのである。

 

だが、第三者の審級が具体的な他者に代理されて現実化するならば、同様の理由から、私自身が私に対して君臨する第三者の

審級を代理することも可能だろう。なぜなら、そもそも私と私が直面する他者とは同格的な存在であり、

私とは一種の他者であるからだ。だ。このとき、私自身が、私の行為を承認したり否認したりすることの権威をもつものとして表れうる。

従って、私が自身の行為について「私は規則に従っている。」と認定することが可能となるのである。

(ただしそれが有意味になるのは、私の行為が他者とのコミュニケーションの関係におかれているかぎりである。)

このような第三者の審級が成立すると、他者に伴う偶有性(他でありうる可能性)が潜在化してしまう。

特定の可能性のみが生じ得るものとして信頼され、他の可能性がありうることについての予期が端的に脱落してしまうことになる。

そして、この作用こそが、規則随順の本態である。

 

【ちょっと気になったこと】

P.77「心的な対象の特定の現れがこの私に帰属している、ということは、この同じ現れが私に直面している他者つまり「あなた」に

(共)帰属していることをも含意してしまうに相違ない。」

 ⇒なぜ「含意してしまうに相違ない」のか?私と他者が不可分の関係である以上、心的な対象の私への現れが他者に帰属する

可能性は確かにあるだろう。しかし、それはあくまでも帰属する可能性、「含意する可能性を持つ」にすぎないのではないか?

この部分だけでなく、偶侑性と必然性を述べている部分において、必然性がなぜ必然なのかについての論理展開が甘いように

感じる。この部分が「規則」という概念と「第三者の審級」をつないでいるので、ここが曖昧では説得力を失うのではないか。 

 

駒場祭、終了!

 

 駒場祭が終わった。立花ゼミ「二十歳の君へ」企画もその一楽章を終えたことになる。

「二十歳の君へ」は、そのテーマのもとに何種類もの企画を並行的に走らせたものだった。それぞれ、ここに感想を書いておこうと思う。

 

・壁

最終的には書く場所がないほどに壁は落書きで埋まった。書かれる内容も面白かったし、増えてゆく様子も面白かった。

落書きから「生」を切り取る、というのは、今考えても秀逸なアイデアだったと思う。

 

・プリクラ

一年生の廣安さんのおかげで次々と改良がなされてゆき、三日目にはかなり話題になっていたようだ。

栄田さんの美しい写真をフル活用して、その写真をプリクラ機に取り込んでそれを背景にすることができるようにしていたのだが

これはナイスな企画だった。宣伝についても、初日のデーターに基づいてしっかりとアナリーゼをしたおかげで、

無駄なく、最大限有効な宣伝が出来たのではないだろうか。

 

・学生証の写真を使った、「わりとイケメンコンテスト」

プリクラ機での待ち時間の手持無沙汰感を解消するために、二日目の夜に発案された企画。かなり体(顔?)を張った企画だったが、

暇つぶしには最適だったようだ。ちなみに優勝者は飲み会代が割引されることになっており、ちょうど金欠だったのでこの賞品は

素晴らしくありがたかった。ごちそうさまです。一番面白かったのは小学生の女の子に「この中から選んでね。」と言ったら、

「えー、この中から?・・・かっこいい人いない。全部ない!」と切り捨てられたこと。ちょっと心が傷つきました(笑)

 

・「二十歳の君へ」パンフレット

相当に満足な仕上がり。とはいってもいくつかミスは見つかったし、中でも、朝倉くんのコラムの最後の文章が欠落していたのは

本当に申し訳なかった。このパンフレット、様々なブログで好評のようなので、時間を注いで作って良かったなと思っている。

昨日プロのグラフィック・デザイナーの方からこのパンフレットのデザインに関する講評を頂いてとても嬉しかった。

 

・講演会

雨&気温低という、駒場祭で最も悪い天気・時間帯だったにも関わらず、350人の教室に人が入りきらず立ち見が出るほどの

盛況ぶり。会場のドアの外から信じられないほどの列が伸びていてちょっと感動した。いろいろなポスターやビラを作った甲斐があった。

講演会自体は、大きく二部に分けられる。最初に「世界や時代を認識するために、いまホットな、様々な知を紹介します。」という形で、

ガン・脳・冷戦・宇宙などの分野について話された。ただその分野を紹介するだけではなく、立花ゼミの過去の活動とリンクさせつつ、

また、パンフレットに掲載した「二十歳の君への宿題」ともリンクさせながら話されたのが印象的。

次にそれをベースにして、「人がいま、ここに生きて・空間を共有していることがどれほど奇跡的なことか」

「二十歳の脳がいかに特殊な状況にあるか」、そして「二十歳に何をせねばならないのか」ということを話された。

具体的だった前半とは一変して、後半は極めて抽象的。これをしておけ、あれはしておけ、とは言わない。

「情報をぼーんと与えるから、ここから君たちがエッセンスを掴みだし、あとは好きなように料理して生きて行け。目の前にあることに

必死になって生きることだけは忘れるなよ。挑戦しろ!」というようなメッセージが言外に感じられた。

この展開、実は事前に準備していたものとはかなり違ったので、司会を務めていた僕としては相当に困った。

最後にマイクを受けたとき、どうやって纏めようか・・・と悩んだが、まあなんとかまとまったのではないだろうか。

終演後にパンフレットに先生のサインを求める長蛇の列が出来るのを目の当たりにして驚くとともに、先生と時間を日常的に過ごすこと

ができる今に感謝した。先生からもっと多くを学んでおきたいと思う。

 

講演会および今回の企画について沢山の方からメールやお話を頂き、とても嬉しかった。

(中には「司会が関西弁で、関西から聞きに来た私としては幸せな思いになりました。」というのメールもあった。それはそれで嬉しい。)

体力・精神力ともにすり減ったが、それだけの価値あるものだったという自信がある。

またNHKで放送される運びになったらここに書くので、その時は是非見て頂ければと思う。

それから「二十歳の君へ」パンフレットは、ある出版社から書籍化されることがほぼ決定的になった。

ここからどうやってコンテンツの質・量を上げていくか、それが12月の僕の立花ゼミ活動テーマになるだろう。

 

「二十歳の君へ」 ついに前日!

 

ついにここまで来た。

明日から駒場祭が始まる。そして立花ゼミのグランド・プログラム、「二十歳の君へ」が始まる。

準備は途方もなく大変だった。パンフレット80ページ余りを一人でレイアウトし、時に文章を書いた。

一週間ほとんど授業も休んでパソコンと戦い続けた。二時間ほど寝ようと思って目を閉じても、瞼の裏に原稿用紙のマス目が浮かんだ。

徹夜が続いて限界まで疲れているはずなのに寝れない。瞼の裏に浮かぶマス目、それを眺めているうちにレイアウトの

インスピレーションが突如閃き、布団から飛び起きてパソコンを再びつける。切ったばかりのパソコンはまだ熱かった。

 

クオリティを落とそうと思えば簡単だ。考えなしに次々と機械的にレイアウトを流して行けばよい。けれども、それは許されない。

技術班の人たちはメールフォームの設置から調整、データーベースの構築まで、最高の環境を睡眠時間を削って整えてくれたし、

ゼミ生はそれぞれの知り合いを辿って沢山の「二十歳の君への宿題」を集めてきてくれた。ましてや立花隆は、何万冊もの本や雑誌を

見て来ているこの世界のボスだ。その先生の名前を冠するものに中途半端なものは作れないだろう。

それどころか、立花隆に「これは凄い!」と言わしめるぐらいのものを作ってやりたい。ゼミ生が書いてくれた文章と、全国から集まった

「宿題」で、中身は十分に魅力的だ。だから、あとは見栄えにかかっていた。シンプルだけれども1ページ1ページに思想とストーリーが

詰まっていて、そして同時に全体が一つのテーマで力強く貫かれたものを作りたかった。

その夢は多分、十分すぎるほどに叶った。

 

完成品は駒場祭に来て見て欲しい。11.22(日)の15:30-17:30、駒場キャンパス13号館1階の1313教室で完成品を無料配布する。

写真をふんだんに使ったこのパンフレットは、駒場キャンパスの写真集としても通用する美しさになったと自負している。

感性の合う写真家とのコラボレーションは本当に楽しくて刺激的だ。僕にとってとても大切な一冊が出来上がった。

協力して下さった方に心から感謝したい。

 

最後に、駒場祭立花ゼミの企画について宣伝して、前日の記事を終わりにしよう。

今日から三日間、沢山の人が来てくれますように。僕を発見したら気軽に声をかけてくださいね。

 

【東京大学 立花隆ゼミナール 2009年度駒場祭特別企画 「二十歳の君へ」 】

 

◆立花隆 最終講義 「二十歳の君へ」  11.22(日) 15:30-17-30  於.1313教室

(講演者:立花隆  総合司会:木許裕介  ディレクター:西田祐木  コーディネーター:内藤拓真)

20歳のころの経験で、人生は大きく動き出す。20歳前後に何を見て、何を読み、何をするのか。

文学・哲学・科学・医学…様々な分野の知を自由に越境し、縦横無尽に織り交ぜながら、「知の巨人」立花隆が贈る最終講義。

受験生や二十歳前後の大学生にはもちろん、小学生から大人まで楽しめるスリリングで知的な時間。NHKのカメラも入ります!

 

◆「二十歳の君への宿題」パンフレット

日本全国の大人から、二十歳の君へ200のメッセージ。一人ひとりの経験に基づいた、温かくも厳しい「宿題」が満載。

立花隆の「二十歳の君に贈りたい言葉」やゼミ生の「二十歳のころ」など、ここでしか読めない記事も多数収録。

ゼミ生:栄田康孝による駒場の四季をとらえた美しい写真と木許裕介のコラボレーションによる

フルカラー80ページのこの冊子、講演会に来場された方にはなんと無料で配布致します!

 

◆プリクラ&「壁」(21日から23日まで終日設置)

ついに東京大学にプリクラ機あらわる!ユータス君やゼミ生手作り東大グッズなど、東大ならではの小道具も準備万端。

サークルのライブや演劇のあと衣装のままで、模擬店のあとクラスTシャツのままで…みんなで写真を撮ろう。壁に落書きしよう。

自分の「今」をここに残そう。

生存報告

 

 しばらく更新が途絶えておりましたが、ちゃんと生きています。

駒場祭の準備のため、ゼミの仕事に追われて毎日原稿用紙のマス目と戦っていました。徹夜なんて当たり前で、今のところ

二日と半日まで徹夜したのが記録となっています。デザインの仕事はどこか自分を削ることが必要とされるので、

80ページのパンフレットを作り上げてもうボロボロな感じです。

ちなみに、今は立花事務所で徹夜の作業を行っています。今日は流星群が見れるそうなので、朝方に猫ビルの屋上から

流星群を見に行きたいと思います。更新すべきネタはたくさんあるので、また一息ついたら更新しますね。

 

Casanier

 

 虫垂炎が悪化し、しばらく自分の力で起き上がる事が出来ない状態が続いていた。もちろん大学もすべて休んだ。

小学校以来、滅多に学校を休むことが無かった(中学・高校と六年間皆勤した。果たしてそれが良いことかは分からないが。)ので、

なんとなく罪悪感が残る。しかし薬が効いてきたのか、ゆっくりと歩く限りでは何とか歩けるようになった。とはいっても、歩くたびに

震動が腹部に響いて痛いし、背筋を伸ばそうものなら激痛が走る。無理は禁物ということで、極力動かないようにしている。

溜まっていたメールの返信をこなしたり積んでいた本を消化したり『シェルブールの雨傘』を観たりする間に時間が過ぎ去ってゆく。

一度も外に出ない間に朝日が夕日に変わり、闇が辺りを包む。

ちょっと空しい。出たいときに外へ出ることが出来る、というのがどれほど幸せなことか実感した。

 

 暇が出来た時にパソコンを開くと、ついやってしまうことがある。

amazonや楽天にアクセスし、買う金もないのに買い物カートに欲しいものを手当たり次第に突っ込む。一万円、二万円・・・十万円。

あとは「完了」ボタンを押せば注文が確定する、その状況まで手順を進めて、ウィンドウの右上の×印を溜息とともにクリックして閉じる。

傍から見るとかなり可哀そうな光景かもしれない。でも、やっている本人はちょっと楽しかったりする(笑)

 

 買い物カートを閉じたあと、いつものように立花ゼミのページにアクセスする。

こうやって布団に臥している間にも、駒場キャンパスの壁 http://kenbunden.net/kabe/ はどんどん落書きで埋まっていくようだ。

URLをクリックして見てもらえれば分かるが、数日前までは落書きがほとんど無い状態だった。

そこでいくつかの落書きを実験的に書いておいた。すると、後は加速度的に落書きが増えていく。

落書きの方向性は様々だ。下ネタ、サークルの宣伝、アート・・・だが、落書きの醍醐味は「コラボレーション」にあると僕は思う。

誰かが書いたメッセージに見ず知らずの誰かがレスをつける。誰かが書いた不気味な顔に、同じく見ず知らずの誰かが体を書き加える。

一方で、アーティスティックな模様の落書きが発生すると「その上には落書きしない」なんて暗黙のルールがいつしか発生するように、

全体としてはカオスなのだが部分的に秩序が自然発生する。あの匿名掲示板の雰囲気に良く似ていて面白い。

 

 「壁」と並行して進められている『二十歳の君への宿題』 http://kenbunden.net/20/todo.html も熱が入ってきた。

このブログで書いたのを見て下さったようで、「つかはらの日本史工房」でも宣伝して下さっていた。塚原先生ありがとうございます。

だが、まだまだ数が足りない。もっともっと「宿題」が欲しい。多様な年代から、多様なメッセージを集めなければならない。

というわけで、マスコミや出版社に乗り込んで宣伝させて貰うことを本気で考えている。上手くいったらまた報告します。