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こんなものを買った

 

 ゆっくりと文章を打つ暇が無く、すっかり更新が滞ってしまっていた。

なぜこんなに時間が無いのかというと理由は簡単で、ただテストが近いからだ。ドイツ語のテストに続いて英語のテスト。

進振りを目の前にしたこのテストは自分の一生を決める可能性があるから必死に勉強する。

連日近所のデニーズでコーヒー1杯だけで朝方まで粘る日々だ。とはいってもずっと勉強しているわけではなく、買い物や

ボウリングなどでそれなりに外へ出かけている。というわけで(?)最近買ったものをあげてみよう。

 

・MDノート(雑誌サイズ) 

愛用のノート。横罫と無地と方眼を一冊ずつ買ったので、用途に応じて使い分ける。万年筆から鉛筆まで、ノリが非常に良い紙で

180度開くあたりも書きやすくて良い。雑誌サイズは通常のノートやルーズリーフに比べてかなり大きいが、ここに太いニブの万年筆で

ガシガシ書きつけるのが気持ちいい。

 

・オロビアンコのショルダー

ジャーナルスタンダードの別注モデル。白と光沢のあるネイビーとの配色に一目惚れした。夏らしい配色で良い。

なんとセールにつき40%オフでゲット。バッグはマスターピースのボストンやGripsのショルダーを長く使ってきたが、

この夏はメインバッグの座をこいつに渡しそうだ。

 

・エディフィスのリネンシャツ

生地と色合いに一目惚れ。色が鮮やかなので、着るのにはやや躊躇する。襟がワイドスプレッドになっていて面白い。

 

・コンタクトレンズ

はじめてコンタクトをつけに行ったとき、看護婦に「あなたには無理ですね」と言われて早6年。

最初は本当に入らなかったし、入れるのに30分ぐらいかかったから、高校では体育の授業の前の時間から用意していたが

今となっては入れたあと号泣する事も無く当り前のように入れている。ワンデーなので出費は馬鹿にならない。

(知り合いが以前、ワンデーのレンズを表4日裏3日入れたそうだ。最終的に視界が真っ白になったとか。怖すぎる。)

 

・雑誌Pen 7月号

テーマが「緑のデザイン」だったので、今関わっているプロジェクトに生かせないかと思って購入。

そんなことを抜きにして面白かった。秋葉原の町に芝生を引いた画像(もちろんコラージュ)は、見る者の目を奪うアートだ。

 

・資生堂Menのクレンジング

この泡はヤバい。パーフェクトホイップなんて目じゃないです。少量で物凄く厚みのある泡が立つ。資生堂の本気を見た気がします。

これを購入後、資生堂Menのテスターキットが自宅に届きました。抽選で当たったようです。

 

・樽珈屋の珈琲豆

浪人中からずっとお世話になっている珈琲屋さんの豆。我が家に無くてはならないものなので、毎月購入している。

この店の豆で「珈琲には甘みがある。」ということを知った。珈琲はお酒と同じくらい嗜好品の性格が強いものだと思わせてくれた。

豆をカリタのナイスカットミルで挽いてお湯を落とした瞬間から、室内に幸せな香りが満ちる。俄然勉強する気になる。

 

・むきえび

近くのスーパーで特売になっていたので迷わず購入。これとホイル焼きにしたガーリックとトマトソースで作るパスタは最高だ。

仕上げにいつもシーバスリーガル12年を香りづけにかけるのだが、今回はグレンモーレンジでやってみようと思う。なんという贅沢。

 

・スイカバー

種に模したチョコチップが最高。

棒にくっついた形式のアイスは制限時間がその内に含まれている(スーパーマリオの横スクロール的な)のでどうも慌ただしくなる。

時間が過ぎると重力の影響をモロに受けて服が甚大な被害を受けることになります。学生の夏の風物詩ですね。

 

 

 

 

 

 

Bruckner Sym No.5 とFF V

 

 今日は家に籠っていた。

珍しく何の予定も無かったので、全部聴き通すのに一時間半ぐらいかかる大曲、Bruckner の5番を聴きつつドイツ語を勉強する。

演奏はチェリビダッケとミュンヘンフィル、1986年10月22日のサントリーホールでのライヴ録音だ。

この盤には一際思い入れがある。手に取ったのは一浪目の冬、センターの少し前。このCDによって初めてブルックナーの

素晴らしさを理解することが出来た。聴き終わった瞬間に放心状態になって、一時間ぐらい座ったままぼーっとしていた。

感動を通り越して呆然とした。とんでもなく大きな建築、とてつもない広さ、圧倒的な重量感。

この曲を「大伽藍」と表現する評論家がいるそうだが、なるほどその通りだと思う。これは一つの曲どころか、もはや一つの世界だ。

一楽章の出だしは何回聞いても震えるし、二楽章の平穏さは、「天国があるとしたらこんな風景ではないだろうか」と思わせるほど。

広くて穏やかな世界に神々しい静けさが流れている。時折入ってくるフルートは平原に咲く花のようで、低弦の三連pizzに乗って

流れる旋律は悠久の時間、大河のようだ。だが、そのような楽園は三楽章で破壊される。足場が崩れていき、世界が崩壊する。

そしてまた、世界が再構成されてゆく。(本盤ではこの三楽章で、チェリビダッケの気合の籠った掛声「ティー!」を聴くことが出来る。)

四楽章は圧巻。言葉を失う。響き渡るコラールは、遥か高みから今まさに作り上げた世界を見渡すようだ。

この曲にあるのは一種の天地創造に他ならない。90分があっという間に過ぎ去っていった。

 

 夕方、ドイツ語に疲れてネットサーフィンをしつつ、久し振りにニコ動にアクセスした。

適当に検索をかけていると、偶然「 植松伸夫&すぎやまこういち 」なる動画に出くわす。何でも両者のゲーム音楽(FF VS DQ)の

聴き比べをやる動画だそうで、面白そうだと思ったので再生してみた。

・・・これは懐かしい!!再生時間一時間弱の超ロングムービーだったのに最後まで見て(聞いて)しまった。

FFもドラクエも最初期作から2005年度ぐらいまでのやつは全部やっているだけに(実は結構ゲーマーなのです。たけしの挑戦状も

三回ぐらいクリアしました。)一つ一つの曲に思い入れがある。中でも、FFのスーファミ期(4・5・6)あたりは中学生の頃に何度も

繰り返してプレイしたし、サウンドトラックからピアノコレクション、果ては楽譜に至るまで持っている。何度やっても飽きなかったし、

何度聞いても飽きなかった。それだけに植松さんの音楽は、クラシックと並んで今の僕の音楽観に影響を与えている。

何年か前、高校のイベントのために書いた曲をいま聴き返してみると植松さんのマネが明らかすぎてちょっと恥ずかしくなるぐらいだ。

今回この動画を見るにあたって、植松さんとすぎやまこういち氏の違いを意識しながら聞いてみた。

 

 違いをコピー風に書くならば、「時間の植松、奥行きのすぎやま」ということになるだろうか。両者の違いが最も出るのは戦闘曲だ。

植松さんには、前のめりになるようなリズム感がある。手に汗握るようなテンポ。ベース、ドラムなど、リズム隊の使い方が上手い。

主旋律は短いパッセージを変奏曲っぽく組み合わせ、変奏の変わり目では音数を少なくすることで「聴かせる」=「印象に残す」

技術が際立っている。ループのつなぎ方も上手い。FF6のラストバトル曲、「妖星乱舞」でワンループの最後にケフカの笑い声を

重ね、そこにドラムを出して先頭に繋ぐ技術なんかは神がかっていると思う。

一方、すぎやまこういち氏の音楽には奥行きを感じるが、ハラハラするバトルっぽさは無い。鳥肌は立っても手に汗は握らない。

金管のパッセージが複雑だったり、主題が長すぎたりで、バトル曲のような短ループでは氏の持ち味が出ていないように感じる。

メインテーマの変奏をバトル曲に取り込んでくる技術などは上手いと思うが、氏の音楽ではバトル曲よりもフィールド曲の方が好きだ。

植松さんのように内向きに、一点に集中するようなトランス的快感(これがバトル曲の特徴だと思う)ではなく、パーッと外側に広がって

いくような大きな音楽になると、すぎやま氏の本領発揮だ。DQ8の名曲、「おおぞらをとぶ」などが分かりやすいだろう。

オーケストレーションが生える曲では、すぎやま氏の音楽は本当に素晴らしい。

 

 メインテーマはいずれも国宝。ゲーム音楽が生んだ不滅の名曲だと思う。

DQのテーマにはワーグナーの「マイスタージンガー前奏曲」やエルガーの「威風堂々」のような雰囲気があり、対するFFのテーマに

ブラームスの一番のような雰囲気がある。どちらも甲乙つけがたい。とにかく良い動画なので、是非検索してみてください。

 

FF5のビックブリッジを久しぶりに聞いたら(ギルガメッシュが出てくるシーンがスクリーンショットで合わさっていた)

FF5がやりたくなった。舟の墓場で敵にケアルをかけまくってくることにしよう。ガラフ最高。

 

人生を変えた一冊:『十六世紀文化革命』と越境者への憧れ

 

 よく晴れた土曜日、久しく吹いていなかったフルートを片手に、散歩へ出かけた。

外はどこまでも明るい。陽射しが肌に触れたかと思うと、涼しげな風がその温度をそっと奪ってゆく。

6月はもうすぐ終わる。そして7月がやってくる。この夏はどんな夏になるのだろう、と考えつつ、公園のベンチに腰を下ろし、

再読している『磁力と重力の発見』(山本義隆,みすず書房 2003)を開ける。

中学生のころ以来、尊敬する作家の真似をして読んだ本にサインと日付を入れることにしている。この本も例外では無い。

裏表紙の見返し部分を開けてみると2007.7.4とあった。

 

 そうだ、この本を読んだのはちょうど今みたいな天気の日だった。当時の僕は自習室に籠ってモラトリアムに浸っていた時期で、

「音楽室」と書かれたスリッパ(母校の音楽室のスリッパを記念に貰ってきた)を履いたままダイエーのジュンク堂三宮店に行って、

毎週大量に受験と関係ない本を買い込んではひたすらそれを読んでいく生活をしていた。

一年間で300冊ぐらい買ったと思うが、その中でもこの『磁力と重力の発見』には一際思い入れがある。

恩師の一人、駿台世界史科の川西先生にこの『磁力と重力の発見』と、同じ著者の『十六世紀文化革命』を勧めて頂いたのが

きっかけだった。この二冊は夏の暑さを忘れるほど衝撃的な本で、近くに迫っていた東大実戦などの模試をそっちのけにして

一気に最後まで読み通したのを覚えている。読み終わってから川西先生に再び会いに行ったとき、

「それだけ感動したなら、感想文を書いて著者に送ってみなさい」と勧められ、無謀にもあの山本義隆氏にレポートめいたものを

書いて、本当に送ってしまった。内容のほとんどは感想文のようなものだが、当時愛読していた大澤真幸の著作との関連点を指摘

してみたり、僕が得意とする音楽史の領域から『十六世紀文化革命』説を補強することになるのではと思われる事項を指摘してみた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「プロテスタントは印刷技術を積極的利用した。しかしカトリックは警戒的であった。」という点に乗じて、西洋音楽史からの

以下の指摘は的外れでしょうか。

 

「ルターは宗教における音楽の意義を重視したため、カトリック教会におけるグレゴリオ聖歌にあたるものをプロテスタント教会にも作り出す必要を感じていた。そうして生まれたのがコラールである。どことなく神秘的なグレゴリオ聖歌(歌詞はラテン語)に対して、宗教改革の意図に則り、あらゆる階層の人々に広く口ずさまれることを目的としたコラールは、民謡のように親しみやすく暖かなトーンが特徴である。(歌詞はドイツ語、一部は民謡編曲である)」(岡田暁生「西洋音楽史」による)

 

ここにはプロテスタントの「民謡の活用」と「俗語であるドイツ語の歌詞を採用」という二つの特徴が表れていると思います。

その意味でこれは16世紀文化革命の説を補強するものになると考えます。

さらに、プロテスタントとは離れますが、音楽史という観点で言うと、「マドリガーレ」について述べる事は十六世紀文化革命の説を更に裏付けるものになるのではないでしょうか。すなわち、

 

「マドリガーレは世俗的な歌詞(イタリア語)による合唱曲で、内容は風刺的だったりドラマチックだったり田園的だったり官能的だったりする。このマドリガーレはとりわけ十六世紀末にきわめて前衛的な音楽ジャンルとなり、後述するように音楽のバロックはここから生まれてきたといっても過言ではない。」(同書より)

 

「俗語による表現であり、さらに実験的な要素を持っており、17世紀のバロック音楽を準備した」

ものがマドリガーレであると捉えるならば、これは16世紀の職人の運動と近似しているのではないかなとふと思いました。

「16世紀文化革命の大きな成果は、17世紀科学革命の成果を下から支える事になる」という点でも共通しているのではと考えます。

 

 

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 一か月もしないうちに、氏から直筆の返事が届いた。手紙には、上で指摘した内容が盲点であったこと、そして早く大学に入って

更なる勉強を続けなさい、という事が書かれていた。東大へ行く意味が分からなくなって些かアイデンティティ・クライシスに

陥りかけていた僕にとって、この手紙は効いた。優しい文章なのに痛烈に響いた。

 

 あれからもう二年近くが経った事に、月日の早さを思い知る。

ウォーターマンのブルーブラックで書きつけたサインと日付はすっかり変色してブルー・グリーンに近い色になっている。

だが、この『磁力と重力の発見』と『十六世紀文化革命』の衝撃は今なお色褪せない。

この二冊からは、アカデミズム内部の思考停止に陥らず、知識を秘匿することなく、自然に対する畏怖の念を持ち続けるといった

姿勢を通して、強靭な思考を築いて行くことを学んだ。その上で、『十六世紀文化革命』で描かれている十六世紀の職人達が

勇気を持って大胆に「越境」したように、常に枠組みを越境する人間になりたいと思った。

 

 

 間違いなく、僕の人生を変えた本のうちの一つだ。はじめて読んだ二年前と同様、背筋がゾクゾクするような感動を覚えながら、

二年前を思い出して身が引き締まるような思いをしながら、再びページをめくる。至る所につけられた印や書き込みがどこか眩しい。

 

 ページの上に、緑のフィルターを通って光と影が降り注ぐ。また夏がやってくる。

 

雨の月曜と暑さの火曜,ゼミの水曜にクラスの木曜

 

 雨が続いたり30度を超えたり、なかなかややこしい天気が続く。しばらく更新が滞っていたので近況を書いておこう。

 

 月曜日、雨が降る中庭を横目に、生協のテラスでドイツ語をやっていた。なんとなく音楽が聴きたくなって、浪人中に良く聞いた

ブラームスの四番を選んだ。普段はさほど聴かないが珍しくバルビローリの指揮で聴くことに。

三楽章に入って、あまりにも風景と合っているのに愕然としてドイツ語をやる手を止めた。

二階のテラスからだと、図書館前の中庭から和館の向こうの緑まで、様々な緑がグラデーションになって遠くまで見える。

この曲、そしてとりわけバルビローリの旋律の歌わせ方が、その光景と雨に打たれて灰色になった世界に染み渡る。

梅雨がちょっと好きになった。

五限の獣医学が終わったころには雨がすっかりあがっていた。このあとはいつもどおりプロとの試合。

前回は負けてしまったが今回は完勝。プロが追い上げてくるところをノーミス・4連発で引き離せたのが大きい。

最近調子が悪かっただけに嬉しかった。狭いラインを強く投げるのはやはり有効だ。大きく出すのは面白いが、キレすぎて扱いづらい。

 

 火曜日はひたすら宇宙科学のレポートを書く。ここまで来たら最後までA++を続けたいし、意地になって書く。

関連書籍をまた二冊買ってしまった。それだけの内容のあるレポートを書かねば。

「比熱が負の物体があると仮定したら、どんな使い方が出来るか(想像で良い)」という問いがちょっと難しい。

色々思いつくものはあるが、突っ込みどころがあり過ぎて何を書いて良いものやら。とりあえず、「万能カイロ」なるものの構想を

書いてみました。実用化は確実に不可能です(笑)

レポートをずっと書いていると疲れてきたので、気分を改めるべく二日連続で経堂ボウルへ。連続で投げるのは久しぶり。

ちょっとしたインストラクターをやったりしつつ、いつもどおり7G投げ込む。横のボックスに入った団体の学生たちが

四人中三人サウスポーだったのに驚いた。同じ左利きとして妙な連体感が芽生えて気合が入ったのだが、スコアはイマイチ。

全体的にいつもより球が弱かった。おそらくパワーステップが甘かったのと、それに伴ってトップからおろしてくるタイミングが

速すぎた。以上の結果として脇が空いて、肩が回りがちになり、球威が落ちたのだろう。一秒の何分の一のタイミングのズレなのに

手から離れたボールにはそれが如実に反映される。やはりボウリングは奥深い。

帰宅後、先日入った給料で買ったグレンモーレンジのオリジナルをハイボールにして飲みながら宇宙科学の続きをやる。

グレンモーレンジは今一番好きなシングルモルトで、何度飲んでも幸せになる。ハイボールにするとちょっと物足りない感じはあるが、

今日みたいに暑い日には気楽にどんどん飲めるこれが合う。これのおかげでレポートもスラスラと捗った。

深夜に愛飲しているグレンモーレンジ。素晴らしいバランスで飲み飽きない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水曜はあるプロジェクトの打ち合わせに出席したあと、ゼミでGeneration Times編集長の伊藤さんのお話を聴く。

伊藤さんにお話頂いた事の内容はまた書くとして、とにかくプレゼンの上手い「魅せる技術」をお持ちの人だった。有意義な時間。

 

 木曜は久し振りにクラスの友達と過ごした。二年になってからめっきりクラスの友達に会わなくなっていたが、それでもウチのクラスは

仲がとても良い。変人ぞろいだが、お互いがその変さに尊敬しあっており、それぞれの多様性が輝いている。一緒にいて飽きない。

クラスのM君と話していて、「ブログを見ている」と言われ、ちょっと嬉しかった。「どうやったら文章が書けるか」、という質問と

「本を読んでいて思想家の名前と主張が引用されているけど分からない。どうすればいいか」という質問を受けたが、前者に関しては

「文章を読みまくって自分で書いてみること」しかないんじゃないかなと思う。その際、自分が好きな文章や文体を見つける事が

出来れば、それに近づけるように書く事で自分のスタイルみたいなものが確立されてくるのではないだろうか。

後者に関しては、王道ではあるものの、やはり「そのつど入門書を読む」ことが良いと思う。熊野純彦『西洋哲学史』(岩波文庫)

はそれらの基礎となる本として有効だし、NHK出版から出ている「哲学のエッセンス」シリーズは薄い割に内容が詰まっており

分かりやすくておすすめ。もっとカジュアルに入りたい方には「現代思想の遭難者たち」という講談社から出ている四コマ漫画も

良いだろう。人名ではなく概念に関する知識を増やしたいときにはアンドリュー・エドガーとピーター・セジウィックの手になる

『現代思想芸術辞典』(青土社)などは手がつけやすい割に内容が濃い本だ。

二浪目の夏にこの辞典を最初から最後まで読み切ったことが今も僕のベースになっている。

 

 なお、本日は『イギリスの歴史 帝国=コモンウェルスのあゆみ』(編:川北稔/木畑洋一 有斐閣アルマ,2000)を購入。

これはクラスのS君にすすめてもらった本である。前半、事実の羅列のあたりは詳しめの教科書を読んでいるようで退屈だったが、

中盤からはグッと面白くなった。あと少しで読み終わりそうだ。また終わったらインプレを書くつもりでいる。

 

 

 

 

 

 

 

DIALOG IN THE DARK に行ってきた。

 

 今日はとても充実した一日になった。

一限、基礎演習のTAもどき。ランダムに発表をしてもらっているのだが、ランダムなはずなのに三週連続で同じ人が当たったり。

その子にとっては大変だろうが、見ている僕らには大変興味深くうつる。週を追うごとに徐々に内容や視点が深まっていくのが

良く分かるからだ。そして同時に、前に立ってプレゼンをすることにも慣れていっているのが分かる。どうせこれから前でプレゼンを

する機会は多々あるのだし、基礎演習という機会で何回も発表してプレゼンの練習にも出来るのは「おいしい」と思う。

彼女が取り組んでいる、映画の予告編についての研究がこれからどのように進んでいくのか楽しみに見ていきたい。

 

 

 昼、アフター基礎演習を途中で抜け出してテリー・イーグルトンの『反逆の群像』を購入したあと、渋谷から銀座線で外苑前へ。

DIALOG IN THE DARKというイベントに行ってきた。

このイベントの詳細については、ここに書くより http://www.dialoginthedark.com/ を参照してもらえれば早いと思う。

簡単に纏めておくと、視覚障害者の方をアテンドに真っ暗闇の中に6人ぐらいのグループで入り、視覚を遮断した状態で

その暗闇の中にあるものに触れたり、感じたりしつつ、グループで協力して90分間暗闇を散策する、という感じのイベントである。

僕はA氏(僕が最も尊敬する人の一人である)にこのイベントに誘ってもらった。面白そうだとは思うものの、自分ではわざわざ

足を運ばないような、どこか胡散臭い感じがしていたのというのが事実である。値段も平日学生2800円とそう安くはない。

 

 終わってみると、ただひたすらに「行ってよかった!!」という感じ。このイベントの良さをすぐにでも誰かに伝えたいと思った。

これは本当に貴重な体験が出来るイベントだ。期間限定ではなく常設にしてほしいと心から思うほど。

というわけで以下に詳しいルポ・感想を書くので、ネタばれが嫌な人は注意してください。

 

 外苑前から熊野通り、キラー通りと15分弱ぐらい歩いたところにあるコンクリート打ちっぱなしのビル、その地下一階のドアを

開けると、狭すぎず広すぎもしない落ち着いた空間が広がっている。座り心地の良さそうなソファーに様々な年齢層の人が腰を下ろし

みな思い思いの時間を過ごしている。ここがDIALOG IN THE DARKの待合室だ。

DIALOGU IM DUNKELN とドイツ語で書かれたポスターを目の端で捉えつつ受付へ。受付で簡単な説明を受ける。

荷物はかばん・携帯から腕時計まで全部ロッカーに入れるそうだ。大人しくロッカーに収納して身軽になり、ふかふかのソファーで

待つこと10分、いよいよ集合の声がかかった。集まったのは6人。視覚障害者の方が使うものと同じ白い杖を各々持ち、

杖の使い方の説明を受けた後に、六人で軽く挨拶をしあって中に入る。といってもいきなり真っ暗闇に入るのではなく、

徐々に暗い空間へと移動していく。真っ暗になったところでアテンドの方が登場。もうここでは何も見えない。

声を頼りに存在を確認するしかない。視覚を完全に遮断した状態で再度自己紹介をする。

大学生の男が二人、主婦の方が一人、気さくな外人の男性一人、大学生A氏、そして僕という内訳だった。

暗闇なので互いの顔は全く見えないが、お互いの声や雰囲気はなんとなくつかめる。

「暗闇の中では音が頼りになるから、お互いに名前を読んで声をかけあってください」という説明を受けていよいよ中へ。

みんな緊張しているのが分かる。

 

 中は完全に闇。見る事を完全に諦め、他の感覚を全力で使って世界を把握するしかない。一歩をそっと踏み出してみる。

足の裏に意識を向ける。葉っぱを踏む感触。ついで前の人の靴らしきものに当たる感触。

耳を研ぎ澄ませる。水が流れている音がどこからか聞こえる。A氏のおどろいたような声。

肌の感覚に集中する。近くに誰かがいる確かな温度を感じる。そっと当たる誰かの手。

香りに注意を向ける。木の香り、乾いているようでどこか湿っぽい。

たった一歩に過ぎないのに、この世界はこれだけの情報量を持っている!!そのことだけで十分驚きだった。

そのあと暗闇を歩き回り、水に触れてその冷たさに驚いたり、野菜の香りに感動したり、様々な経験をした。

ここを詳しく書いてしまうと楽しみが半減してしまうだろうからこれぐらいで割愛する。印象的だった事を一つだけ書くと、

ゆらゆら揺れる吊り橋があるのだが、これを暗闇で渡るのは非常に怖い。だが、「ゆれている」ということが

「確かにそこに何かがある」というリアリティを感じさせてくれる。不安定な感じから、逆説的に安心感を得ることになった。

視覚に頼っていては味わえない経験だ。

 

 最後にBARに入った。もちろん真っ暗闇の中の、である。テーブルの形も分からないままにそれぞれ座席に着き、おしぼりを開けて

その温かさに驚く。メニューを口頭で説明して頂き、ジュースやワイン、ビールが選べたので迷わずワインを選ぶ。

というのは、視覚を諦めた状態で何かを飲むとき、ワインが一番刺激的だろうと考えたからだ。まず色すら分からないのだから。

暗闇の中で、横に座っている人を声で判断し、そこからテーブルの形を想像しながらグラスを近づけて乾杯する。

声と温度を頼りにグラスを近づけると思ったより簡単に乾杯が出来るのだ。そして暗闇の中でワインを口に持って行くと

こんなに香りがするものだったか?というほど濃密な香りを感じる。普段いかに視覚優位で生きているかが分かる瞬間だった。

そして飲んでみると液体が体の中を通り抜けている様子が感じられる。というよりむしろ、体が無くなってしまったみたいだ。

ちょっとしたお菓子を手渡され、暗闇の中でその触感を味わって食べる。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い出した。

ここまで来ると暗闇の中で動き回る事が苦しくなくなっていた。すぐに慣れて、思ったより普通に動ける。今自分がどこにいて、

周囲がどのようになっているかの俯瞰的な見取り図が想像出来てくる。この見取り図は、記憶の中にある視覚情報を

暗闇の中で掴んだ視覚以外の情報と連結させて作っているのだろう。(まさにベルクソンの知覚論だ。)

 

 美味しく頂いてBARを後にする。椅子から立ち上がり、アテンドさんのところに集合する時、人が一か所に集まってきている音と

温度をありありと感じた。気配というのは音と温度から成り立っているのではないだろうか、なんてことを考える。

そして次第に明るいところへ。そう、もう一時間以上が経ってしまったのだ。きっと歩数にすれば家から駅まで行くよりも

遥かに少ないのに、本当にあっという間。だが、その中で沢山の情報に触れ、そしていつの間にかグループの人たちの声や

名前を自然と覚えていた。薄闇(最初は暗いと思ったのに、今となっては明るすぎる!)の中に移動して互いの顔が見える状況で

少しディスカッションをする。暗闇の中にいたときは年齢や立場や性別関係なしに触れあっていたが、顔が見える明るさでは

暗闇にいた時よりも互いに話すのが気恥ずかしくなる。視覚を得ることで、我々が「他人」であったことを思い出した。

暗闇は人を孤立させるのではなく、人と人との間に横たわる距離を縮めてくれるものにもなりえる、ということを僕は初めて知った。

 

 あっという間の90分を終えて受付に戻ってくる。

入ってきたときは落ち着いた照明だと思ったのに、今となっては明るすぎるぐらい。

一緒のグループだった人たちに「またどこかで」と挨拶をして、建物の外に出る。

陽射しが鋭く、世界の白が白すぎる。走り去る車の音、行きかう人の声、溢れる色彩、複雑な香り、湿気た空気。

この世界には情報が溢れている。

だが、そう思うのも一瞬。今までの人生で視覚に慣れ親しんだ我々は、すぐに視覚に頼って歩き出す。

何のためらいもなく階段を昇り、時計に目をやって時間を確認する。まぶしいと感じた光、うるさいと感じた車の音は

いつのまにか意識されなくなる。いつも通り、別に変った事は無い、ただの街中。

色や音、視覚の刺激に溢れたこの街で、僕は何も感じていない。

 

 そのことに気づいて、今までいた場所を振り返る。

夢みたいな時間。暗闇の中にいたはずなのに暗闇には様々な感覚が溢れていた。

そしてその暗闇の中で僕は確かに、人と、場所と、音や香りや触覚と対話=Dialog した。

視覚を捨て、暗闇の中で世界を認識しようとして様々な感覚を鋭くすること、それは僕にとって忘れる事の出来ない体験になった。

 

 これを読んで興味を持たれた方は是非一度足を運んでほしいと思う。絶対に後悔はしない。

長くなってしまったが、誘ってくれたA氏に感謝を記し、終わりにすることにしよう。

今年一番の充実した一日になりました、本当にありがとう。

 

DIALOG IN THE DARK のロゴ。このロゴデザインの秀逸さは、薄闇の中に身を置いてはじめて分かった。

「言語は25歳まで」、らしい。

 

 日本語と英語を除いて、現在以下の三つの言語を勉強している。

というのは、「25歳までに言語は勉強しておくべきだ」という言葉を何人もの教授から聴き、浪人している僕は

他の人より早い目に始めないとすぐに25歳になってしまうという危機感を持ったからだ。すべての言語で単語を大量に覚える事は

できなくとも、単語を積み重ねることが出来る下地ぐらいは今のうちに作っておきたいと思う。

 

 東大では、入学手続きの前か何かに第二言語を決めるのだが、そこで僕はドイツ語を選択して提出した。

理由はハイデガーが読みたかったから。などという高尚な理由ではない。単なる趣味の問題で、

ドイツ系指揮者のリハーサル映像で字幕の無い物の内容が気になって仕方無かったからである。それだけでなく、もとより

フランス語>イタリア語=ドイツ語 の順にモチベーションがあったから、一番自主的に勉強しなさそうな言語を選択しておこう

と考えたというのもある。(その甲斐あってドイツ語の授業でいま苦しんでいる。)

言語で意外に覚えられないのが数字。単なるリーディングの授業では数字を読む機会が

なかなか無いし、各言語で似ている読みがあって非常に混ざりやすい。というわけで自分のためにここに纏めてみた。

ビリヤードで15番までを各国語で言えたり、ボウリングの残りピンを各国語で言えたりすれば記憶に残るだろう。

もちろん、実際に役に立つかは知らない。

【ドイツ】eins,zwei,drei,vier,funf,sechs,sieben,acht,neun,zehn,elf,zwolf,dreizehn,vierzehn,funfzehn 

アインス、ツヴァイ、ドライ、フィーア、フュンフ、ゼクス、ズィーベン、アハト、ノイン、ツェーン、エルフ

ツヴェルフ、ドライツェーン、フィアツェーン、フュンフツェーン

【フランス】un(une),due(duex),trois,quatre,cinq,six,sept,huit,neuf,dix,onze,douze,treize,quatorze,quinze

アン、ドゥ、トロワ、キャトル、サンク、シス、セット、ユイット、ヌフ、ディス、オンズ、

ドゥーズ、トレーズ、キャトルズ、キャーンズ、

【イタリア】uno,due,tre,quattro,cinque,sei,sette,otto,nove,dieci,undici,dodici,tredici,quattordici,quindici

ウーノ、ドゥーエ、トレ、クアットロ、チンクエ、セイ、セッテ、オット、ノーヴェ、ディエチ、ウンディチ、

ドディチ、トレディチ、クアットルディチ、クインディチ

 

これで何番をポケットしようが何番ピンがタップしようが大丈夫だ。「ディエチがタップした!」とか「ノインボールポケット!」とかね。

 

 そういえば先日、ある人から「高校時代、授業カリキュラムにフランス語orドイツ語が週二コマ入っていた。」という話を聞いたが、

言語記憶の限界が25歳までにあるならば、高校時代から第二外国語に触れておくことは非常に有益だろう。

速すぎると日本語が疎かになってしまうから、高校ぐらいからが一番いいんじゃないだろうか。

というわけで、これを読んでいる人の中に高校生の方がいらっしゃれば、何か英語以外の言語(メジャーなもの)を

自主的にやってみることをおすすめします。せめて浪人中にやっとけば良かったな、と今になって後悔している。

 

 なお、今日のドイツ語の授業で『千と千尋の神隠し』のワンシーンをドイツ語で見た。ドイツ版では『不思議の国の千尋』

というタイトルに翻訳されているらしい。「かおなし」が ”Ohnegesicht” と訳されていたのはちょっと面白かった。

かおなしやゆばーばがドイツ語で喋るのはさほど違和感がなかったが、リンや千尋が流暢なドイツ語で喋るのには

大変違和感を感じた。着物を着た和風で童顔な少女がドイツ語でまくしたてるのはやっぱり変ですね(笑)

 

休日の過ごし方

あさ、ふとつけたラジオ。
流れてきた曲がウェーバーの魔弾の射手序曲であることに気づき、嬉しくなる。
聞くうちに、「ああ、これはきっとカルロス・クライバーの演奏だな」と何となく感じる。
煽るようなリズム、主旋律と低弦のドラマティックな扱い方。
聴き進めるうちに何となくが確信に変わり、果たしてラジオは彼の名前をアナウンスする。
嬉しくて朝からテンションが上がった。続いて流れたのはシノーポリのシューマン二番。
それにしても、いったい誰のセレクトなんだ?と思いつつラジオに耳を傾けるうちに、
この番組が黒田恭一の追悼記念だったことを知った。御冥福をお祈り致します。

 ひる、駒場の某所にてゼミの企画会議。
立花ゼミの企画会議は、どこまでが会議でどこからが雑談なのかが分からない。
雑談の中から突然企画やアイデアが生まれる。頭の片隅にテーマを置きながら、みんなと雑談しつつ
雑談が化学反応を起こす瞬間を待つ。このブレインストーミング的な感じ、僕は好きだ。

 
よる、下クラと下北沢にてビリヤード。
前回教えたメンバーはもう何もアドバイスせずともガンガンゲームを楽しんでいるので、
今日がはじめてという数人に集中的に基本を教える。みな呑み込みが早いので教えていて楽しい。
ビリヤードは最初が肝心な競技だ。最初に変な癖がついてしまうと上達が遅れる。だが、最初にしっかりと
ブリッジの作り方やスウィングの基本を教えてもらいさえすれば、それなりの所まですぐに上手くなると思う。
そして実戦の中でイマジナリーボールやクッションシステム、ひねりなどを身に付けていくと、
もうビリヤードの楽しみから抜け出せなくなる。
ビリヤードは年齢や性別を超えて同等に楽しめるゲームなので、今後、ビリヤードが下クラ(と上クラ)の良い
コミュニケーションの機会になればいいなと思っている。下クラのビリ研と上クラのビリ研で勝負をする日が楽しみだ。

La jeunesse, c'est la passion pour l'inutile.(Jean Giono)

 

 しばらく映画の紹介や本の紹介が続いたので、日記めいた記事も書いておこうと思う。今日は二限がハンドボール。

前日はピストン/デヴォート『和声法』P.453,454の実習課題(半音階的変異和音の導入)を書いているうちに朝三時ぐらいに

なってしまったうえ、ラジオ講座でドイツ語、フランス語の勉強をしようと早起きしたため、時々眠気に襲われつつ試合に臨んだ。

しかし、試合が素晴らしい内容(みんなの動きが本当に良かった。パス回しもサイドの使い方も。)になったため、自然と目が覚めて

ゴールを守ることに集中。サイドからのシュートを防ぐポジショニングを見つけ、シュート一本のみに抑えて勝利したので、

かなり充足感を味わうことが出来た。最初の授業で気分が良くなると一日幸せになれる気がする。

 

 三限は英語二列。前回訳を当てられたのでしばらく回ってくることはないだろう、と踏んで、授業を聴きつつ

購入したばかりの隈研吾『反オブジェクト  建築を溶かし、砕く』(ちくま学芸文庫,2009)を読みまくる。またレビューはあげるが、

目次だけ見ても相当面白い本である。表紙の装丁に使われた写真はどこかマグリットの絵を思い起こさせる。

 

 四限は表象文化論。この学会に所属している身として毎回真剣に聞いている。この講義ではバレエやコンテンポラリーダンスを

切り口にして、精神分析や身体論に射程を広げた内容が話されている。毎回予定とは違う方向に脱線しているようだが、

脱線していく方向が面白くて(今日は「薔薇の精」からセクシュアリティの話に広がった。)そのアドリブを楽しんでいる。

バレエを見ていると、カルロス・クライバーの指揮姿がバレエの動きに極めて近い事に毎回気づく。レポートのテーマにしてみたい。

 

 授業終了後、勁草書房のフェアを自分への言い訳にして、ずっと欲しかった『生命科学の近現代史』を生協で購入。

そののちイタリアン・トマトにて三時間ほどドイツ語をやった。フランス語ばかりやっていると、中性名詞に違和感を感じる。

je(ドイツ語では「イェ」と読む)を文中で見つけても「ジュ」(フランス語の「私=I」に相当する)としか読めない体になってしまった。

早急にドイツ語に頭を戻すべく、6月はドイツ語自主インテンシブ期間に決めた。どこまで続くか分からないが。

 

 ひとしきり勉強すると体を動かしたくなるので、いつものように経堂ボウルへ練習に出かける。今日はフォーム自体に大きな問題は

無かったように思うが、ライン取りに迷ってしまった。ソラリスで狭く攻めようとすると珍しくタップの嵐。ならばとブラックパールで

大きく出して戻すラインを選択すると、鋭くキレて裏側へ。ラインの引き出しは結構ある方だと思うので色々試してみたのだが

どれもしっくり来ない。今はストライクになったけど次は残りそうな不安感が消えないピンアクションが多くて悩まされた。

結局、縦回転メインにしてソラリスを5枚目まっすぐでスピード上げて投げるラインがベストだったようだ。レフティの王道ラインである。

スコアは最後まで200前後をうろうろしてビッグゲームに繋がらなかったが、今日はビッグフォーをカバー出来たのでそれで満足

することにしよう。明日朝一の基礎演習TAもどきに備えてそろそろ寝なければ。今日も実り多い一日だった。

 

「Nuovo Cinema Paradiso」を観た。

 

 久し振りに晴れた一日、五月祭の話や本の話やら書きたい事は沢山あるのだが、この映画について書かないわけにはいかない。

名作の誉れ高き、ジュゼッペ・トルナトーレ監督による「Nuovo Cinema Paradiso (New Cinema Paradise)」をついに観た。

なんだこれは。疑いようもなく、今まで見てきた映画で最高の映画だ。最後のシーン(完全版に入っている「あの」シーン)だけでなく

至るところで泣かされた。涙だけでなく、体が何度も震えた。主人公が彼女の家の下で待っている時のシーンなど、一切台詞無しに

そのショットだけで金縛りにあったような感動を与えてくれた。暗い青、壁の苔、落ちる影、そして遠くにあがる花火。

奇跡のように美しいショットだ。あげていけばキリがないぐらい素晴らしいショットやシーンがこの映画にはある。

冒頭の波の音とともに暗闇に風が吹き込んでくるようなショットに始まり、雷の鳴る中で回り続ける映写機をバックにして

彼女と会うショット、錨を前にして海で話すショット、「夏はいつ終わる?映画なら簡単だ。フェイドアウトして嵐が来れば終わる。」

と語ったあと豪雨の中で眼前に彼女が突然入ってくるショット、五時を確認しようとする時の時計の出し方、

映画とリアルの素早い交錯、電車が離れていく時にアルフレードだけ視線を外している様、どれも上手すぎる!

再会するシーンで編みかけのマフラーがほどけていく構図、明滅する光を互いの顔に落としつつ話すショット、最初の葬儀のシーンと

最後の葬儀のシーンとでのトトの成長を映しつつ周囲の人や環境の変化をさり気なく見せる対比の鮮やかさ、そして最後のあの

フィルムを見るときの少年に戻ったような様子などは天才的としか言いようがない!!青ざめた光と暗闇の使い方が神がかっている。

 

 ショットだけでなく、胸に刺さるようなセリフも沢山ある。

「人生はお前が見た映画とは違う。人生はもっと困難なものだ。行け。前途洋洋だ。」

「もう私は年寄りだ。もうお前と話をしない。お前の噂を聞きたい。」

「炎はいつか灰になる。大恋愛もいくつかするかもしれない。だが、彼の将来は一つだ。」というアルフレードの台詞、

「あたしたちに将来は無いわ。あるのは過去だけよ。あれ以上のフィナーレは無い。」というエレナの台詞、どれも忘れる事が出来ない。

それとともに音楽の何と上手いことか。使われている音楽はさほど多くないが、メインテーマを場面に応じて微妙に変奏し、旋律楽器を

変え、リズムを崩し、何度も何度も繰り返す。繰り返しが多いだけに、途中で突然入ってくるピアノのjazzyな和音連打を用いた

音楽が頭に残る。そして、この特徴的な音楽を、最後のシーンでなんとメインテーマに重ねてくる!凄いセンス!!

 

 熱中して観て、呆然とし、そしてこれを書いていたらもう朝の5時だ。そろそろ寝なければならない。本当に時間の経つのは早い。

最後になるが、この映画に流れるテーマも「時間」に他ならないと思う。人の成長、恋愛、生死、周囲や環境の変化、技術の進歩、

そして時間を操る芸術としての映画!どれも時間を背負うことで成り立つものだ。本映画は「時間」を軸にして沢山のものを描いている。

 

 この映画に出会えたことを、心から幸せに思う。

 

 

「OCEAN TRIBE」を観た。

 

 ウィル・ガイガー監督による「OCEAN TRIBE」を観た。

いやー、いいですよこれ。本当にいい。どんなラストシーンが用意されてるか分かってるのに、やっぱりラストで泣ける。

五月祭前日だというのに朝三時まで食い入るようにして観てしまいました。

「ブラームスの弾けるサーファーは彼一人だ」なんて五人を紹介していく冒頭のシーンもいいし、

病院から誘拐してくるシーンもスリリングでたまらない。高校生のころみたいにはちゃめちゃな悪ふざけ。

馬鹿みたいに明るい五人だけれども、それぞれにそれぞれの悩みを抱えているし、死を目の前にした人間とそうでない人間の

間にはどうやっても埋まらない距離があるのを感じさせてくれる。

「病院での六年より、海での一分の方がいい」と叫ぶボブを誰が止めれるだろうか。

 

 サーフィンのシーンも実に効果的に使われている。

 「水に浮かんでいると体が無限に広がっていく気がした。明けの明星を見ていると、空より高いところに登っていくようだった。

まるで空と海に抱かれているようだ。」という言葉は、波乗りをやったことがある人ならきっと理解できる言葉だろう。

サーフボードの上に寝て夕暮れの波間に浮かんでいると、空と海に挟まれて自分がいったいどこにいるのか分からなくなる。

自然や世界と肌で繋がる感覚、海を媒介に遥か彼方まで触れているような感覚、その一方で波に浮かぶ自分の小ささを感じる。

この映画からは、そういった自然への畏怖、海の大きさ、命のちっぽけさ、そんなものが良く伝わってくる。

訳には時々首を傾げる所がある(「ウィリアム・ブレイクの詩だ」と話しているところを「有名な詩だ」と訳していたり)ものの

セリフ回しも楽しいし、所作明け方のサーフ・シーンでイルカと遭遇するところの音楽をはじめ音楽も高水準。

揺れるようなカメラワークも波間に漂うような雰囲気に満ちていて良い。

 

 映画を観ていて、高二の時に友達と一緒に波乗りに行った時のことを思い出した。

青春十八切符で乗り継ぎ、海の最寄駅に着いたのが夜の12時前。駅から海までは山を二つ越えてバスで30分程度。

そんな距離を、真っ暗な中、ボードを背負って10人ぐらいで歩いた。夜中、ライトもあまり無い山道だったから、途中で

何度も車に轢かれそうになって、何とか山道を越えた時には冷たい汗でびっしょりになっていたのを覚えている。

浜辺に着いたのが朝3時。辺りはまだ真っ暗で、波が打ち寄せる音しか聞こえない。10人ぐらいで浜辺にシートをひいて、

他愛無い話をしながら、波の音に耳を澄ませて目を閉じた。波の音が近寄ってくるような気がして、慌てて起き上がって歩数で

波打ち際までの距離をみんなで交代して測り、その結果潮が満ちてきていることが判明して焦ったりしているうちに、

水平線の向こうがゆっくりと黒からブルー・ブラックに染まってくる。黒からブルーブラックへ、そして次第に明るい空色へ。

何重にも層のかかった青色と、どこまでも広がる海の黒。あのグラデーションと空にかかった月の綺麗さは一生忘れないだろう。

(ちなみに、航空幕僚長講演会のパンフレットに使った写真はこのとき撮ったものである。)

 

映画のレビューのつもりが違う話になってしまったが、とにかく、この映画は自然と生死について考えさせてくれる名作である。

自然との共生を説いた100の本を読むより、本映画を見たり波乗りをしたりする方が自然への畏怖を持つことに繋がるに違いない。