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『影のない女 Die Frau ohne Schatten』@新国立劇場

 

予定が合う限り、月に一度はオペラを観に行くようにしています。今月はリヒャルト・シュトラウスの大作であるオペラ

『影のない女』の初日公演を鑑賞してきました。このプログラムが日本で演奏されるのは何と18年ぶり!それもそのはず、

オーケストラの編成だけを見てもチューバ四本+バスチューバという指定が書かれているなど、オペラとは思えない

(ある意味ではR・シュトラウスらしい)巨大さを誇っており、技術的にも規模的にも演奏の難しい演目だからです。

実演に接するのはもちろん初めてでしたから、いつも以上にワクワクしながら、立花ゼミの後輩二人と一緒に席に着きました。

 

出だしから「いかにもR・シュトラウス!」と言いたくなるような管楽器の使い方がなされていて、音楽だけを聞いていても飽きません。

このオペラにはライト・モティーフが散りばめられており、しかもかなり分かりやすいものが多いのでライト・モティーフを追っかけながら

シュトラウスの豊麗な音響を楽しみました。二幕終わりのぐんぐん盛り上がるTuttiではホール全体が一つの楽器のように大音響で

震え、圧倒されました。しかし最も驚かされるのは、大編成のこの曲において、各楽器のソロがたくさん用意されていること!

チェロの不安を煽る旋律、ハープの神聖な響き、そして三幕の皇后が一人で歌う部分のヴァイオリンのソロなど、ただ音響で唖然と

させるだけではなく、繊細に繊細に作られているのが分かります。

 

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/classic_concierge/top.html というページにおいて、

「音楽面ではシュトラウスの作品群の中で最大編成のオーケストラを使用していることが第一の特徴。

大編成ながら大きく鳴らすトゥッティ(全奏)はほんの数回 あるのみで、数多くの楽器が組み合わせを変えながら室内楽的ともいえる

精妙な響きを多彩に変容させていくところにシュトラウスの円熟ぶりが見て取れる。

第2の特徴としては調性の巧みな使い分けだ。「エレクトラ」で調性の壁を破る寸前の当時としては、最先端をいく和声法を駆使して

音楽を書き上げたシュトラ ウス。「影のない女」では古典派以来のオーソドックスな和声と最先端の調性コントロール術を混在させ、

登場人物のキャラクターや場面の雰囲気を見事に描き 分けている。例をひとつ挙げるなら染物師夫妻だ。

心根の優しいバラクに付けられた音楽は調性がハッキリした口ずさむことが可能なメロディーが多い。

これに 対して苛立つバラクの妻は臨時記号を多用し調性があいまいで複雑難解な旋律に乗せて歌われる場面がほとんどだ。」

 

と書かれていましたが、まさにその通りで、音楽による場や人物の描き分けが、「オーケストラ全体」と「楽器一つ一つ」を見事に

使い分けてなされていると感じました。歌手ではやはり、バラクの妻を演じたステファニー・フリーデがいいですね。

Schwängest du auch dein Schwert über mir, in seinem Blitzen sterbend noch sähe ich dich!

「剣を私に振り下ろすとしても、 その刃のきらめきの中で、 死にながらももう一度だけあなたに会いたい!」という絶唱には

感動しましたし、このオペラで最も有名な部分、Ich will …nicht!の震える声にもゾクッとさせられました。

 

演出はどちらかというとシンプルなもの。ただ、「影」の扱いについては相当に注意が払われており、三幕終わりの部分の影をうまく使った

演出には「やるなあ!」と唸ってしまいました。人そのものが抱きしめ合うのを見るよりも影が一つになってゆくのを見る方が感動する、

というのは不思議な現象でした。それだけこのオペラにおいて「影」が重要な役割を果たしているのでしょう。

 

ですが、「影」とは一体何なのでしょうか。この「影」の捉え方、「影」が意味するものをどう考えるかでこのオペラはその奥行きを

ぐっと変えるのではないかと思います。本作のストーリーはモーツァルト『魔笛』を踏まえたものであることはよく知られており、確かに

ファンタジックな世界の中に「人間礼賛」に通じる水脈が流れています。たとえば神々の世界の側のヒトであった皇后の

「人間の求めるものを あなたは余りに知らなさすぎた。 ・・・(人間は)いかなる代償を 払っても 重き罪から 蘇り、 不死鳥のように

永久の死から、永久の生へとどんどん高みを指して登って行く。」という歌詞にそれが顕著に現れており、人間の人間性・生と死の問題が

歌われています。そして終幕では舞台裏から「まだ生まれていないものたち」の歌や「子供」の合唱が挿入されます。

そういえばそもそも、このオペラのスタートは「『影』がないと子供を生むことができない」というものでした。

 

以上を考えると、このオペラにおいて「影」というものは、子供を生める能力であり、言ってしまえば「次代の生命」=「子供」なのでは

ないかという考えに至ります。そのように考えてストーリーを振り返ってみると、かなり現代的な問題を孕んでいることが分かります。

「影がない」=「子供が産めない、子供がいない」ことで罰を受けるという展開は女性の権利などの問題を想起させますし、

「影を渡すか渡さないか」という逡巡はストレートに中絶問題に繋がるでしょう。「生まれざる子供たち」が歌う

「ぼくらの生が楽しいものになるように! 試練をけなげに耐えたから」という歌、そして「生まれざる子供たち」という存在自体を考えてみても

このオペラは多分に生命倫理的な問題を含んでいるのではないかという思いに至りました。うーむ、『影のない女』おそるべし!

 

ぼんやりとそんなことを考えつつ、音楽の余韻に浸りながら帰路へ。

最後になりますが、オペラを観に行くと語学の意義を実感することが出来るので、学生の方(特に一年生)には本当におすすめしたいと

思います。初等レベルで十分、単語と文法が少しわかるだけで楽しみ方が全く変わってきます。今回のオペラでもIch will nicht!が

分かるだけで感動の幅は大きく違うはず。純粋な芸術的感動を得る事が出来るだけでなく、語学のモチベーションを高めるのにも絶好の

機会となるでしょう。僕もフランス語をしっかり勉強して、次回六月のカルメンでは出来るだけ字幕に頼らず鑑賞したいと思う次第です。

 

 

情報学環の研究生になりました。

 

多忙な日々に追われて書くのを忘れていました。

情報学環の研究生の選抜をパスしたので、この春から東京大学大学院情報学環教育部に所属することになりました。

メインの所属は教養学部の地域文化研究科フランス分科であることに変わりはありませんが、もう一つ所属が増える形になります。

地域フランスは駒場キャンパス、情報学環は本郷キャンパスなので、これで東大の二つのキャンパスを使うことが出来ます。

(そのぶん、移動が時間的にも金銭的にもキツいのですが・・・。)

 

そしてちょうど昨日、情報学環の入学(部)式を終え、研究生の先輩方とともに吞み会へ行ってきました。

研究生の方々は年齢も所属も経歴もさまざま。同じく教養学部の人がいるかと思えば社会人で元プロデューサーの人がいたりと

かなりカオスな感じです。でも、それが楽しい。整理された狭いコミュニティだけに所属していては思考が停滞してしまいます。

斬新で説得力のある発想のためには、専門分野を深く掘り下げながらも専門分野以外のモノや人と常に接触し続け、

常に外部を求めて刺激に晒される必要があります。情報学環の「不揃い」さは、僕にとってとても魅力的に映りました。

 

これから研究生としてどのようなことに関わっていくのかはまったく道ですが、駒場と本郷の両方に所属というかなりマイナーな身分を

活かして、両方のキャンパスで学ぶことを繋げるような何か面白い企画をやれたらいいなと考えています。お楽しみに!

指揮法教程終了

 

ついに齋藤指揮法教程の練習曲が全て終わった。

最終曲の「美しく青きドナウ」は、細かいニュアンスを表現するのに苦しめられたが、読み込むにつれ、練習曲で学んできたこと全てが

一本の糸で繋がるような感覚を覚えた。ドナウの最終試験では、振り終わってから先生が「よくここまでやったね。95点の演奏だ。」と

言って下さって、心の底から嬉しかった。相手がプロでもめったにそんな点数は出さないとのことなので、相当にうまく振れたのだろう。

確かに、振りながら気持ちが乗っていくのを感じたし、曲のイメージも浮かんだ。そして細部にまで自分の意志が行き届いているのを

感じた。音の無い時間=「間」を十分に楽しみながら振ることが出来たように思う。春の陽気に覆われたこの日に、この「美しく青きドナウ」

を振ることが出来たのは本当に幸せだった。

 

だが、当然気になるのはあとの5点。

「あとの5点はどうやったらいいんですか?」と先生に聞いてみたら、

「演奏に《完全》はないから、100点なんかはないし、誰も100点の演奏は出来ない。でも、出来るだけ100点に近付けるために

努力しなくてはならない。そしてその道筋は言葉で表現できない。これから色々な曲を振っていく中で自分で見つけなさい。

そして時には僕から見て盗め。」との答えが返ってきて、感動した。

 

指揮という芸術に、そして音楽に終わりはない。

指揮法教程をマスターするうちに指揮の技術が体に叩き込まれただけでなく、音楽の見方もずいぶん変わった。

どんな細かい部分も音楽という全体を構成している。全体はディテールに宿っている。そして音楽は建築に似ていて、

一つ一つの音符が組み合わさって巨大な建物を形作っているのだ。そういうことを頭で考えながら、同時に心で感じなければならない。

そんなふうに、技術だけでなく「音楽」を教えてくれた。

 

指揮の師匠に出会ってから6ヶ月。寝る暇を惜しんで練習した甲斐あって、相当に早いスピードで進んでいる。

次の6か月、僕はどの曲に出会い、どの曲をどんなふうに振るのだろう。今から楽しみで仕方ない。

 

南京から帰ってきています。

 

またしばらく殺人的スケジュールに追われていました。

前回は中国から更新しましたが、二週間の旅を終えて無事に日本へ帰ってきています。

中国での生活は本当に刺激的なものでした。南京大学の学生たちを前に壇上で話す機会も頂きましたし、ちょうど南京へ視察に訪れた

東大の教養学部長(!)と一緒に揚州を回らせて頂く機会もありました。朝は講義、昼はディスカッション、夕方は観光と

息をつく暇もなく動き回り、深夜には本場の中国式マッサージも経験してきました。片言の英語と中国語を駆使して

按摩師の方とツボの名前で盛り上がったのですが、翌日に先生方が同じ店へマッサージに訪れた際、

「日本人ですか。昨日はツボの名前にやたら詳しい東大からの学生が来ましたよ。」と言われたそうです(笑)

 

今回の南京大学集中講義で何より印象に残ったのは、中国という「場所」よりも、中国で出会った「人」です。

とりわけ南京大学の学生さんたちの語学力の高さ(「言葉のあや」という日本語を即座に中国語に同時通訳していました。)には

驚かされましたし、東大から僕と一緒に派遣された大学院生の方たちの冴えた思考には心底圧倒されました。

中国語が現地人並みに堪能な方や膨大な知識をお持ちの方、議論を的確に纏める明晰さをお持ちの方など、それぞれの「凄さ」を

目の当たりにして、僕ももっと勉強せねばと思った次第です。

 

何はともあれ、無事に二週間を過ごすことが出来たのは南京大学日本語学科の院生の方々のおかげです。

このブログを見てくれているとのこととなので、この場を借りてお礼申し上げます。南京大虐殺やマルクスの話から

道教やジブリ、果ては恋愛の話まで、タブーを超えて沢山の話が出来て楽しかったです。そしてまた、沢山のお酒を飲み、夜遅くまで

一緒に時間を過ごして下さって本当にありがとうございました。今回の経験は僕にとっていつまでも忘れられない思い出になりました。

 

南京に来ています。

 

今日から集中講義で南京に来ています。

ま成田空港から北京へ行き、北京から国内線に乗り換えて南京へ向かうルートで南京に到着しました。

飛行機の窓から遥か下に広がる風景を見ながら思ったのは、中国は田畑が多いということ。大きな河が至る所に流れていて、

それに寄り添うように田畑が綺麗に区画化されて広がっています。緑というよりは土の色が目につく感じで、そうかと思えば

住宅が集中しているところは本当に特定の一ブロックの中に集中している印象を受けました。

先生のお話によれば、中国では住宅に許された面積が決まっていて、広い家に住みたい場合は横に広げるのではなく縦に広げる

のが基本だそうです。従って、平屋→二階建て→三階建ての順に階層が分けられるということになります。

 

さて、今回の南京大学集中講義では、「身体論」を軸に据えて色々な講義が行われます。

僕が派遣されるこの一週間では、福島先生による障害学の講義と清水先生によるトランスジェンダー論の講義が開かれていて、

それらの講義を聞いた後で南京大学の大学院生たちと討議を何時間にもわたってやったり交流したりすることになります。

南京と聞けばすぐに思い浮かぶのはやはり南京大虐殺ですから、日本人の我々は肩身の狭い思いをするかと思いきや、

南京に到着してすぐににこやかな笑顔で南京大学の学生さんたちが迎えてくれたのはとても嬉しかったです。

向こうの学生さんたちと一緒に晩ご飯も食べてきて、何人かとは仲良くなることが出来ました。みなさん親しく接して下さいますし、

彼・彼女らの日本語の上手さと日本の文化に対する知識・興味の深さには日本人の我々が舌を巻くほどです。

僕も中国語で考えを伝えられればいいのですが、やり始めて二週間ほどではやっぱり挨拶程度しか出来ず、

英語と日本語を行ったり来たりしつつ、どうにももどかしい思いをしています。中国語やっとけば良かったなあ。

 

明日からの討論会でしっかりと自分の意見が伝えられるか少し心配ではありますが、とにかく出来る限りの事は話してこようと

思っています。受験生の頃に使っていた世界史のノートのうち中国史の部分だけ抜き出して持ってきたので、歴史問題に話が

発展しても大丈夫なように今からザッと見直してから寝ることにします。それではおやすみなさい。

 

Twitter論 -文体と「なう」を巡る考察-

 

一月半ばからTwitterを始めている。

周りのみんなが「Twitterは凄いぞ」とあんまりにも言うものだから、天邪鬼な僕はTwitterに理由もなく疑いの目を向けていたのだが

いざ始めてみると「なるほどこれは凄いかもしれない。」と思うようになった。Twitterは、フォローする対象を自分で選択することが出来て、

一度選択するとフォローした人のツイート(つぶやき)がどんどんとタイムラインに表示されていくシステムである。

つまり「能動的に情報を選択し、受動的に情報を受け取る。」ことができるのであって、しかも「選択」への垣根はボタン一つととても低い。

フォローをやめたくなったらいつでもやめることができる。

 

そしてまた、フォローする人を限定して情報の量より質を取ることも可能だし、逆にフォローしている人を増やしまくって情報の洪水に

身を浸すことも出来る。あるいはニュースサイトを沢山フォローして、ニュースを読む場所として使うことも可能だろう。

とにかく、非常に広範な使い方が出来るという点がTwitterの強みであり脅威だと思う。

 

だが、僕が一番脅威に感じるのはTwitterというシステムが我々の「文体」に与える影響だ。

間違いなく、Twitterは文体を変える。140字という短い制限の中においては息の長い文章は書くことが出来ないし、書くことは

望ましくない。理由は簡単で、140字の枠の中では、修飾を駆使した文章や副文の多用された文は非常に読みづらく映るからだ。

僕も最初はこのブログと同じ文体でツイートを書いていたのだが、いつの間にか短い文章を重ねてつぶやくようになった。たとえば、

 

「昨夜は下北沢を堪能。後期教養の友達で呑みまくった。上海土産の酒を友達が持ってきたのでそれも呑む。52度。うまい。

みんなストレートでやって、みんなバグってた。無理しすぎ。 おかげで終電まで、潰れたやつを介抱する羽目に。何となく見慣れた展開。

でもこれはこれで楽しい。」

 

自分でもびっくりするぐらいブログの文体と違う。同じ人間が書いているのに、これほどまでに文体がシステムに規定・変形されている。

「ゲーム脳」という言葉があるが(本当かどうかはさておき)、Twitterだけで文章を書き続けていると「Twitter文」ともいうべき

現象が起こってしまうかもしれない。つまり、「長い文章が書けない」人々が増加するのではないか。

(たとえば、東大の日本史や世界史の大論述に対する受験生の解答。文と文との繋がりを重要視しなくなって、箇条書きのように

文章を書く人が増え始める、など。長文が息の長い文章の連続や接続詞によって作られるのではなく、短文の羅列に近づいてゆく。)

このように、Twitterの短い文章で慣れ親しんでしまうと、文章の「構成」への意識や接続詞への意識が希薄化する可能性がある。

 

 

しかしもちろん、僕は「短い文章」を非難しているわけではない。短い文章には短い文章なりの魅力があることは確かだ。

フォローさせて頂いている方に某広告代理店のクリエイティブディレクターの方がいらっしゃるが、この方のつぶやきは

一つ一つがコピーのようにキレが良くて人を惹きつける。文法構造とか「ら抜き言葉」とか、そんな問題を超越した魅力がある。

短いけれども意味が伝わる文章や、短いけれども内容の凝縮された文章を書くための場所としては、Twitterは最高の練習場所に

なるに違いない。だからTwitterでは短くてキレの良い文章を、ブログではちょっと長くて少し入り組んだ文章を書くことで

二つの文体を使い分けてゆきたいと思う。文体を使い分けてTwitterとブログがそれぞれ持っている特性を活用したい。

 

最後に、Twitterを語る上では欠かせない言葉である「なう」について少しだけ論じておこう。

Twitter語の代表に「なう」が挙げられる。「なう」。既に死語となって久しい「ナウい」と同じ語源を持つ言葉だから、ある意味では

「ナウい」の復活といってもよい。しかしTwitterの「なう」は「ナウい」と意味の重層性が決定的に異なる。Twitterの「なう」はただの

Nowではない。「なう」は、いま「ここにいる/こんなことをしている/こんなものを聞いている/これを食べている/etc」と、今の状況を

示すための言葉なのだ。つまり「なう」は、Nowの意味を持ちつつも、be(ing)であり、かつdo(ing)の意味を持つものなのである。

 

そしてまた、「なう」が「ナウ」という表記でない理由もここにある。このように「なう」はもはやNowの範疇を離れているから、

Nowに振られた読み仮名としての「ナウ」ではいられない。それは「なう」という平仮名で表される、新しい日本語なのである。

このような使い道の広さと文字の短さが「なう」の普及のまず一番大きな要因だと考えられるが、「なう」普及の要素はあと二点あると思う。

 

一つは「エクリチュール(書かれたもの・文字)としての見かけの可愛らしさと、パロール(発声されたもの・音声)としての可愛らしさ」だ。

「な+う」という曲線が醸し出す柔らかさ。それから「na/u」という短く丸っこい響き。程よく力の抜けた脱力感。それが人々を惹きつける

とともに、Twitterの持つカジュアルな雰囲気(そして字数制限)と相性が良かったのではないか。

 

さらにもう一点。キーの配列特性を考える必要がある。とりわけ携帯電話の文字配列が「なう」を普及させるに貢献したのではないか。

なう。「な」+「う」。

「な」は「な」行の先頭だから、キーの「な」のところを押せば直ちに画面上に表示される。「ね」のように何度もキーを押す必要がない!

そして最近の携帯にはたいてい予測変換機能が入っているから、何度か「なう」と変換していれば「な」のボタンを一度押しただけで

「なう」が表示されるだろう。

 

つまり【「な」を一回押して「な」を表示させ、「あ」を三回押して「う」を表示させる】という計四回の動作をするまでもなく、

【「な」を一回押して「な」を表示させ、予測変換で出た「なう」を選択する】という、実質一回か二回の動作で「なう」は画面上に表示される。

「のう」では予測変換を使ったとしても【「な」を五回押して「の」を表示させる】という手順を踏まなくてはならないが、「なう」であれば

キーにワンタッチするだけで「な」にアクセスすることができる。この物理的・心理的な手軽さが「なう」普及の一端を担ったのではないか。

 

以上が僕の考える「なう」普及の背景である。「なう」を使う人は多いが、「なう」について考察した人は未だ多くないんじゃないだろうか。

ちなみに僕は、まだこの「なう」という語を使ったことはない。特に理由は無いけれど。

 

 

取材旅行記2 -生理学研究所 -

 

取材旅行記その2。

愛知県は東岡崎の生理学研究所で、鍋島先生に「脳内のイメージング」についてお話をして頂きました。

三時間にわたるインタビューだったために記事が相当長くなってしまいましたが、グリア細胞の働きから幼児の「発達」まで

非常に刺激的な内容で、当日は息つく暇もありませんでした。(なお、幼児の「発達」については、記事を改めて書きます。)

 

・・・・・

生きている動物では細胞や神経ネットワークの構造を見る事は技術的に難しい。

けれども、「多光子励起顕微鏡」なるものを使えばそれが可能になる。この多光子顕微鏡は

①赤外光=組織への透過力が強いため、深部まで届く

②多光子=ピンポイントでの観察が可能

という二つの特徴を組みあわせたものであって、この二点によって、生体内部を深く・細かく観察することができる。

これを用いた例として、頭蓋骨の骨細胞イメージングを見せて頂いた。(色素SR101を全身投与してある)

これが物凄い迫力であって、僕は本当にビックリしてしまった。どんどん脳の奥深くまで入り込んでいって、細かく細かく分かれた細胞を

見て行くその様子は、枝の生い茂る森の中を分け入っていくようであり、「こんなものが自分の頭の中に広がっているのか」と

不思議な気分になる。

 

次に見せて頂いたのは、ミクログリアという脳の中の免疫細胞が活動する様子。簡単に用語を説明しておくと、

シナプス=細胞間の情報の受け渡し部位

ニューロン=神経細胞

グリア細胞=神経細胞の伝達を効率化する細胞。(何種類かある)

であって、グリア細胞の中の一種であるミクログリア細胞を見せて頂いたのである。

 

ミクログリアは、幼少期にマクロファージが脳の中に入ってきて居座ったものであって、「シナプスの監視」という仕事を担っている。

その仕事をする瞬間をリアルタイム生体イメージングで見せて頂いたのだが、これもまた感動せずにはいられないものだった。

シナプスに対してミクログリアが手を伸ばして盛んにタッチする様子が見える!しかもタッチする瞬間に、ミクログリアの先端が

聴診器のように膨れてシナプスを触診しているのだ。正常回路の場合はミクログリアは「一時間に一回、約五分ごと」に監視を行う。

(しかもかなり正確な間隔で) しかし、頭を叩いたりして神経活動を起こしたりすると、「二時間に一回、約五分ごと」に監視のリズムが

変わる。つまり、神経活動のアクティビティに監視のリズムは依存している。これがヴィジュアルに見えるのだ!

 

正常回路でない場合、ミクログリアの動きは変わってくる。障害シナプスに対しては、たとえば20分ぐらいずっとタッチしたままになり、

しかも聴診器のように膨れてタッチするのではなく、シナプスの周りをラッピングするようにタッチして精密検診を行う。

(つまり、正常回路でない場合はミクログリアの働きの時間と方法が変わる)

 

このような非正常回路の場合において、ミクログリアが精密検診を行っている最後の10分間をリアルタイム・イメージングしてみると

障害しているシナプスが除去される(ストリッピング)様子が見える。ミクログリアの検診によって、シナプスが消えたり、新生したり

組み換えが起こったりするのである。つまり、ミクログリアは神経ネットワークの再編成に関係している。

 

ミクログリアとシナプスの間には、何らかのケミカルなインタラクションがあると想像されているが、ミクログリアがシナプスにタッチしている

間に何が起こっているか、具体的にはまだ分からない。というのも、この状況を取り出した瞬間にミクログリアが活性化してしまうからである。

ミクログリアは頭をたたくだけでも活性化するし、頭蓋骨の中を見るために少しでも骨を削ろうものなら生体リアクションが起きてしまう。

そのために、最先端のイメージングサイエンスは頭蓋骨を開けることなく、その内部を見ようとしているのだ。

 

今回のNINSシンポジウムのタイトルには「ビックリ!」というキャッチがついているが、それに偽りはない。来て、見てほしい。

シナプスとミクログリアのインタラクションが国際フォーラムのスクリーンに映し出された時、あなたはきっと「ビックリ!」することだろう。

 

 

 

取材から帰ってきました。- 分子科学研究所 -

 

愛知県・岐阜県を横断してのサイエンスの最先端取材旅行から帰ってきました。

愛知県の東岡崎にある自然科学研究機構というところからスタート。まずは分子科学研究所を訪れ、斉藤先生のお話を聞きました。

分子運動の時間スケールというのは1フェムト秒(1000兆分の1秒)と極めて微小なものであり、そのために動的な観察が難しいのですが、

シミュレーション映像を上手く用いて研究することで現象をとらえやすくなります。そこで斉藤先生が見せて下さったのは、

水の結晶化過程のシミュレーション映像。乱れた構造である水が、どのようにして秩序を持った氷へと変化するのか。

これをシミュレーション動画で見せて頂いたのですが、正直感動してしまいました。

最初は乱れた水素結合が画面上に映っているだけなのですが、しだいに安定な水素結合の核が出来てゆき、、水素結合ネットワークが

成長して、欠陥が少しずつ減って六角形の結晶構造がどんどん成長していくのです。カオスな状態が時間とともに秩序立てられていく

様子はとても美しいものでした。(ミクロな世界に秩序が自生してゆくことで最終的には物質の態が変わっていくのです。これはすごい。)

 

水だけでなく、タンパク質のイメージングも見せて頂きました。体内で水の次に多く存在しているのがタンパク質であり、中でも細胞の

増殖はRasというタンパク質の活動と休止によって制御されています。そして、Rasの突然変異により細胞増殖の信号がonになり続けると、

ガンに繋がります。先生によれば、ヒトの癌の30パーセントはRasの変異に関係しているとのこと。つまり、Rasというタンパク質の研究は

ガンを考える上で非常に重要になってくるものなのです。そこで先生が見せて下さったのが、RasとGAPの複合体形成過程の

シミュレーション映像です。これがどのようなものであったか、というのは理系のゼミ生に任せますが、とにかく迫力があってびっくり。

このようにシミュレーションを上手く用いることで、ガンの分子論的な理解に繋がるということを先生は主張されていらっしゃいました。

 

Rasの生物学的機能

 

 

 

取材旅行へ行ってきます。

 

今日は国立大学の二次試験ですね。昨日も駒場キャンパスには下見に来ている受験生たちがたくさんいました。

みんな気合いの入った目でキャンパスを歩いていて、僕も身が引き締まる思いをしました。受験生の頃のペースで

大学生が勉強し続けたら、大学生の知的水準は一気にあがるでしょうね。(もちろん、遊ぶことや社会勉強もすべきだと思いますが)

とにかく今日は受験生の邪魔にならないように家に籠っていることにします。

 

さて、明日から、NINSシンポジウム事前取材のために立花さんと学生数人で愛知県と岐阜県へ取材旅行へ行ってきます。

訪れる場所は分子科学研究所・基礎生物学研究所・生理学研究所・核融合科学研究所の四か所。

いずれも、国内のサイエンスをリードする研究所ばかりです。文系(といっても理系の分野にも興味はあります。)の僕には

理解できない内容も多々あるとは思いますが、最先端の現場を見る事が出来ると言うのはまたとない機会。

貴重なお話を沢山聞き、また色々と発言して来たいと思います。

 

愛知県に行くのはほとんどはじめてのようなものなので、空き時間には色々と観光もしてくるつもりです。

愛知県出身の友達に聞いたところ、「コメダ珈琲には行っとけ。」と言われたので、とりあえずそこから攻めます。

愛知県の方で、「これはおすすめ」という場所や施設を御存じの方がいらっしゃいましたら、教えて頂けると嬉しいです。

 

なお、クラスメイトでこのブログにも良くコメントをくれる水際のカナヅチ氏(通称「かっぱ」)がブログを始めたとのことでしたので、

リンクを張っておきました。「砂嘴のあしあと」というブログです。

 

「音を慈しむ」ということ。

 

ピアノをデザインに用いると、大抵は黒鍵と白鍵という「鍵盤部分」を使うことが多い。

だが、ピアノの一番美しい瞬間は鍵盤そのものではなくて、鍵盤を駆け巡る指先がピアノ・ブラックのボディに映っている様子だと思う。

白鍵と黒鍵、そしてその上を自在に駆け 巡る白く細い指。それが磨き抜かれた黒に映っている。

残響を慈しむようにピアニストが顔を上げると、立ちあげた蓋に自分が映る。ハンマーで叩かれて震えた弦から生まれた音は蓋に反射し、

四方へ散らばっていく。だが、蓋に映った映像は、いつまでもそこにある…。

 

いつかこんな情景をデザインに出来たら、と思うのだが、僕のテクニックではいまだ十分に表現することが出来ない。

作っては壊し作っては壊しを繰り返すうちに、思い描くものに近付いて行くのだろうか。今度のコンサートのポスターのお仕事でも

とりあえず試作してみたいと思う。

 

さきほど、 「音を慈しむ」と書いた。

僕はこの、「音を慈しむ」という表現がとても好きだ。いつくしむ。とても綺麗な日本語だと思う。

空間に確かに存在するが決して見えない「音」。演奏者は全身全霊でそれを生み出し、聞き、膨らませる。

けれども音はいつだってゼロへと向かう。世界に現れた瞬間から消え始める。

だからこそ、生みだした音を精一杯愛し、暗闇へ溶けてゆく瞬間を温かく看取る。音を慈しむとは、きっとそういうことだ。