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コンサート終了!

 

先日お伝えしました、「こまば夏の音楽祭 -口笛・ピアノ・オーケストラ!」が、無事に終了しました。

準備期間はわずか三週間弱という、常識ではありえないほどの短期間で企画・練習・広報を行った今回のコンサート。

練習に先立ち、まず「ドミナント室内管弦楽団」という小編成のオーケストラを立ち上げるところから始めました。

 

東大のテスト期間が7月終わりに設定されていたこともあり、あまり人は集まらないのではないだろうかと思っていましたが、

大学や学年を超えた方々(立花ゼミの後輩である越智くんが声をかけてくれたおかげで、開成中学・高校からも何名か参加してださり、

下は中学二年生・上は大学院生という物凄いオーケストラになりました!)が集まって下さいました。

しかし本番までの練習回数でとれるのはわずか四回。全員が四回の練習に参加出来るわけでもありませんでしたし、四回というのは

アマオケにしてはかなり短い練習回数ですので、とりわけ一回一回のリハーサルの密度が求められます。指揮者としては

毎回のリハーサルに全力を傾けて、出来る限りのところまで組み立てねばなりません。

 

本番の日はあっという間に来てしまい、開場が次々と設営され、「ここは本当に東大のキャンパスの中だろうか」と思ってしまうほど

ムーディーな空間が完成。そして、予想をはるかに超える人数のお客様が来て下さいました。会場の椅子の数がギリギリで、

立ち見が出るほどでしたので、100名あまりの方々が来て下さったのだと思います。ありがとうございました。

 

プログラムは

Mozart: アイネ・クライネ・ナハトムジーク一楽章

Elgar:愛の挨拶

Poldini:踊る人形

Monti:チャルダーシュ

Debussy:風変りなラヴィーヌ将軍

Debussy:花火

Mozart:フルート協奏曲第二番一楽章(口笛ver)

(アンコール)

Villa-lobos:ブラジル風バッハ四番 前奏曲

アイルランド民謡:ロンドン・デリーの歌

 

というものです。この一つ一つの演奏を皆さんがどう思われたか分かりませんが、小品では口笛とピアノによる「踊る人形」が

出色の演奏でした。この曲の持つリリカルな雰囲気が本当によく出ていた。コンサートが終わってからもしばらく頭から離れなくなりました。

それからピアニストによる「花火」の冒頭は「一体何が起きたのか」と思うほど、会場の空気を一変させてしまうような音が

鳴っていたように思います。すごい。そしてフルート協奏曲では口笛の武田くんはしっかりと暗譜して、カデンツァを含め最後まで

見事に演奏してしまい、世界初のこの挑戦に、会場の方からも大きな拍手を頂きました。ブラボー!

 

指揮者としては、最初の静まり返った空間に響かせるアイネ・クライネはドキドキするぐらい楽しいものでしたし、

アンコールに振ったヴィラ・ロボスのブラジル風バッハ四番の前奏曲が様々な方から好評でとても嬉しかったです。

僕はこの曲に強い思い入れがあります。この前奏曲は僕の指揮の師匠である村方千之の十八番とした曲であり、師のコンサートで

はじめて本曲を知ったのです。師がアンコールでこれを演奏された時、僕は感動のあまり人目もはばからず号泣してしまいました。

最初の一音で空気を変えてしまうような音楽。ブラジルの広い大地を思わせる暖かい旋律がどこまでも広く広く膨らんでいき、

風が吹き、夕陽が沈み、世界がくすんだオレンジ色に染まる。そんな曲だと思うのです。

 

「師の十八番を自分のデビューコンサート(しかもアンコールに)持ってくるのは普通出来ないよ。でも良い演奏だった。」とある人が

終演後声をかけて下さいましたが、この曲はそんな思い入れがあるだけに、どうしてもアンコールに持ってきたかった。

そして「鳥肌が立った」とか、「音楽のことは何も分からないけど、泣きそうになった」という感想を何人かの方から頂き、僕が

泣きそうになってしまいました。師の演奏には遠く及びませんが、直伝の曲として、僕はこれからもこの曲を演奏していきたいと思います。

 

足を運んで下さった方々、そして僕の拙い指揮についてきてくれたオーケストラの皆様、撮影や照明、会場予約やステマネなど

様々な仕事を手伝ってくださったスタッフの皆様には心から感謝しています。今後もドミナント・オケはどんどんとメンバーを

集めながら、駒場キャンパスでコンサートを開いて行きたいと思うので、これからもどうぞよろしくお願いします。

 

朝まで続いた打ち上げから帰宅して、書き込みだらけのアイネ・クライネの楽譜とフルート協奏曲の楽譜をめくりながら、

心地よい疲れと寂しさに身を任せ、満ち足りた気持ちでひとり静かに眠りに落ちました。音楽を、指揮をやっていて良かったな、と

声にならない幸せを噛みしめて。

 

 

ritardando

 

 

  十二月の昼下がり。街は沢山の人で埋まっていた。

買い物帰りなのだろう、手にはみんなどこかの紙袋を下げている。足早に街を歩いていくが、その顔はどこか楽しそうだ。

そんな様子を見ながら、十二月がもう終わりに近づいていることを実感する。

 

 人ごみを避けて駒場キャンパスの中にある喫茶店へ入った。三面がガラス張りになっているこの喫茶店は、午後の西日の光を

吸収してとても暖かい。ちょっと眠くなるのが難点だが、この暖かさはとても居心地がよい。

二年の冬学期になって、学校のある日はだいたい毎日ここへ足を運んでいる。珈琲一杯200円。それで買ってきたばかりの本を

一冊読み切るのが日課のようになってきた。本だけでなく、課題を読み進めたり、文章を書いたり

駒場の喫茶店にて。差し込む西日がとても綺麗だった。

レッスンに備えて楽譜を読み込んだりと、一人になってやりたいことをやるときには大抵ここを使う。

そのせいか店員さんたちにすっかり顔を覚えられてしまったようだ。と同時に、僕も

いつもいる常連さん(学生から教授、近所の子供連れのお母さんまで)の顔ぶれを覚えてきた。

ここに来ると自分の生活にリタルダンドをかけることが出来る。

若さにあふれる駒場でゆっくりと落ち着けるのはこの喫茶店ぐらいかもしれない。

 

 駒場は、やはり若い。

専門課程に入った三・四年生は本郷へ大抵移ってしまうため、駒場にいるのは一年生・二年生が

中心になる。だが、僕のように後期教養学部に進学することになった人間はひたすら駒場に

残留する。大学院に行かないとしてもあと二年は確実に駒場に残ることになる。 
 
それはそれで悪くないのだが、ちょっと取り残されたような気がしないでもない。
 
  
 
 
 
 
 
 

「花は半開きを見、酒は微酔に飲む。この世の中に大いに佳趣あり。」

 一年生は毎年毎年入れ替わる。

僕が四年になった時、新たに入ってくる一年生はきっと五・六歳ぐらい下になるのだろう。

僕には四歳下の弟がいるけれど、弟より下の世代となるといまいち想像できない。

未知の領域である。今はまだ、食堂にふらっと足を運んでも、そこで楽しそうに話す一年生たちを

見てクラスの友達と食堂で延々話していた一年生のころを 思い出して懐かしくなるだけだが、

四年なんかになると、食堂で楽しそうに話す一年生たちの若々しさに微妙な居心地の悪さを

感じてしまうことになるのだろうか。

 

 ふうっと溜息をついて、どんどんと自分が十代から離れていくことを感じながら、

もう一杯珈琲をお代わりして長居することにした。

 

十二月が過ぎてゆく。また次の一年がやってくる。

 

 

 

 

必修のテストが終わりました。

 

 やっと必修のテスト二つが終わった。ドイツ語のテスト翌日に英語のテストはキツい。

canと書きたいところをkannと書いてしまったり、動詞が二番目に来ていないと(ドイツ語の大原則)妙な違和感にかられたりする。

とはいえThe British Empireに関する英語のテストは異常に簡単だったのでホッとしている。先生の優しさに感謝。

アトリーはどこの政党に属していましたか、なんて設問はDVDを見てリスニングするまでもなくみんな答えを書いていた。そりゃそうだ。

 

 必修のテストは終わったものの、選択科目のテストやレポートが何個か残っている。具体的にはハンドボールのレポートや、獣医学

・宇宙科学のレポート、そして生権力論・記号論のレポートなど。(こうやって並べてみると無秩序でいい感じですね。教養学部らしい。)

成績がかかっているのでこれらをキッチリと片付けつつ、しばらく休憩していた立花ゼミの活動にもコミットしていきたいと思う。

テスト期間中に読んだ8冊の本のレビューも書かねばならないし、「運命の七冊」企画にも本腰を入れねばならない。

といいつつ、KIRINさんとのワークショップのフライヤーを依頼されているので、週末はこれのデザインを考えるのに時間を注ぐ。

第四回はキリンのビール工場見学。ちょっと大胆なデザインにしてみようかと考えている。

 

 そういえばテストの間だったので返信し損ねていたのだが、ここに時々コメントをくれるH氏から、

「ボウリングのスコアが200の大台に乗りかけた!」というメールとスコアシートの画像を貰った。

最後に2‐10のスプリットになってしまったのが残念でしたね。特に10フレは絶対に三回投げたかった。

10フレを落としたくないときや200に何とか乗せたいときは、ストライクにはならないかもしれないが絶対に割れない

(=スペアが取れる)コースに絞って投げる方法はアリだと思う。アベレージを維持したいときとかに安全策として使うと有効です。

右投げなら意図的にブルックリンのコースに入れてみるとか。ちなみに、僕も先日投げに行ってきたが、10ゲーム投げて

アベレージ193。しかし200アップは一回も無いという奇妙な展開になった(笑) ヘタレである。 

こういうときには大胆にコースを変えてみてストライクの続くコースを探すことが必要になってくる。一週間前に210アベを叩いた時は

レーンの変化に合わせて大胆に動くことが確かに出来ていた。安全策と大胆さ、冷静と情熱の駆け引きもボウリングの難しさの

一つなのだろう。本当に奥深い。とにかく、H氏もメキメキと上達しているようなので、夏に一緒に投げるのが楽しみだ。

 

「その他」であるということ

 

 周りから見ていると分からないかもしれないが、進振りが迫ってきたいま、僕は真剣に進路を悩んでいる。

やりたいことが多すぎる。ずっと前から分かってはいたことだが、おそらく進振りの直前まで悩み続けることになるのだろう。

 

 だが、誤解を恐れず言ってしまえば、どこの学部に行くかというのは大した問題ではないと思っている。

「東大なんたら学科卒」という看板を外しても、社会でしっかりと生きれるような人間になりたい。

校内を歩いていると目に入る、ドリームネットというサークルが主催している交流会のポスター、自分-東大=?というキャッチコピー。

もう少し目立つようにデザインすればいいのに、と残念になるぐらい、このコピーは重要な意味を持つものだと思う。

自分から東大という名前を取ったときに何が残るか。今、たとえばここで突然東大が消滅し、自らの所属が無になるような状況が

生まれたとき、自分は何を拠り所にして生きるか。

大学という所属を持っていると、所属しているというだけで安心感が生まれる。

そして、次第にそれに依拠してしまいがちである。(五月病なんてのもその一種だと考えられるかもしれない。)

 

 予備校に所属する事もなく、自習室を借りて二浪していた時、とても貴重な経験をした。

どこにも属していなかったから、何かの証明書に記入する時には、高校生でも大学生でも社会人でも学生でもない

「その他」に丸をつけることになる。この恐怖といったら!!

宙ぶらりんの恐ろしさ、当り前のように踏んでいた足場を外されたときの言葉にしがたい恐怖。

自分は何者でもない。学んでいるわけでも働いているわけでもない単なる「その他」である。

だが、「その他」でしかないのか、と気づいたとき、「最強のその他」になろう、という目標が生まれた。

失うものは何もない。どこかを除籍されることもなければ、呼び出されることもない。誰にも何にも所属しない中でも自信を持って

自己を確立できるように、どこにも属さない貴重な時間を使って出来る限りのことをしなければならない。

ひとまず大学に所属するようになった今でも、その気持ちは変わっていない。

どこに進学するにせよ、究極的には東大が突然あした消滅したとしても、社会で逞しく生きていける人間になりたい。

 

 

数か月後の進振りで些末な事象に拘泥して道を見失ってしまわないよう、数か月後の自分に向けて書いておいた。

マスクと視線の生政治

 

 今日は法Ⅰが休講になったので出席すべき授業がほとんど無くなった。

家で一日ゆっくりしていようかと思ったが、宇宙科学のレポートを返却してもらう必要があるのを思い出して学校へ行く。

帰ってきた宇宙科学のレポートはA++で、妙に満足感を味わった。

 

 休講、と書いて思い出したが、関西では休講及び休校が相次いでいると言う。原因はもちろん豚インフルエンザの流行だ。

(個人的に豚インフルをTONFULと呼んでいる。TOEFULと掛かっている感じが気に入っている。草食系男子、などという無理やりな

ネーミングよりもよっぽどいい名前ではないかと思うのだが、いかがでしょう。)

僕の母校もどうやらしばらく休校になった様子。休校になった高校生たちがカラオケに殺到して大行列、などというニュースを

耳にしたが、自分も休校になったらついつい遊びに出たくなるような気がして、あまり批判できたものではない。

さらに、この未曽有のTONFUL事件に対応して、マスクの売り上げが前代未聞なことになっていると聞く。

ヤフオクで10倍ぐらいの値段で取引されているそうだ。値段の跳ね上がり方にもビックリしてしまうが、そもそもオークションで

マスクを買う、という行いが為されていること自体驚きである。

大学でいくつかの授業を受けている限りで言えば、教授たちは今回のTONFUL騒動に懐疑的というか「メディアが騒ぎすぎ。」

という意見を持っていらっしゃる方が多いように感じている。病理学の知識が無い僕にはTONFULの実際の危険性が分からないので

果たしてメディアが騒ぎすぎなのかどうかは何とも言えないが、この機会にちょっとばかりこの事件について考察を加えてみたい。

 

 それは、今回のTONFUL事件は、まさにフーコー的な視点で分析してみる価値のある事件ではないか、ということだ。

少し前に『チフスのメアリー』という本を紹介したが、TONFUL事件はこの本で描かれていることと極めて近い状況にあるようにも思われる。

TONFULが発病している関西でマスクをしている人たちは

「マスクをしても防げないのは分かっている。でもマスクをしていないと他人から嫌な目で見られるからマスクをしている。」

と話しているらしい。つまり、菌を避けるのではなく、他者からの視線を回避するためにマスクを着用しているのである。

「自分が保菌しているか分からんけど、何にせよとりあえず他人に移さないように努力しています。」

ということを表象しようとしているのだ。(断わっておくが、マスクをつけるべきだという論調を非難している訳ではない。)

このように他者からの視線によって埋まれる「権力」、それはまさにフーコー的な「権力」の図式の最たる例ではないか。

フーコーが述べた権力の図式とは、La Volonté de Savoir 知への意思 によれば、

 

1.権力は無数の点から出発し、不規則で一定しない諸関係によって成立するゲームの中で機能する。

  揺れ動く諸関係の中でそのつど創り出されるものである。

 

2.権力の諸関係は、経済、学問、性といった現象が生み出している諸関係の外にあるものではなく、

    そうした諸関係の中に創り出されている。あらゆる社会現象の中に権力関係が存在するのである。

 

3.権力は下部からくる。支配するもの、されるものという古典的二項図式は否定される。社会の基盤にある家族や社会、

    サークルなどの小集団のなかで生み出される力の関係が、全体を統括する権力関係の基礎となる。

4.権力をふるうのは特定の個人でも組織でもない。あくまでも諸関係の中で、その作用によって権力が行使される。

 

といったものである。

マスクをつけていない人に対して冷ややかな目を注ぎ、マスクをつけろよ、という視線の暴力で

個人の自由( 「マスクなんかつけなくてもいいのでは」 )を侵犯する。

それはまさに、上からの権力ではなく、集団の中で生み出された権力、生政治bio-politiqueではないだろうか。

 

 などと考えつつ、五月祭の模擬店の前売り券を作成した。前売り券はその場で使い捨てるようなものなので

デザインに凝る必要はないのだが、ついつい凝ってしまった。安田講堂前の大通りでやってるので皆さん是非来て下さい。

もしかしたら五月祭自体がTONFUL事件で中止になってしまうかもしれませんが。

なお、本日は山川出版社の『新体系日本史2  法社会史』と福島章『子どもの脳が危ない』(PHP新書,2000年)を読了。

詳しいレビューは、ゼミのページにある、『僕らはこんな本を読んでいる』企画の中に書こうと思っている。