自分が読んできた本を後輩に貸すのが好きだ。
この本はいつ読んだものだったかな、と貸す時に思い出しながら、後輩と同じ年齢のころ、
自分は何をしていたか・何に興味があったかを思い出す事が出来るから。
先日貸したのはフレッド・アダムズ+グレッグ・ラフリンの『宇宙のエンドゲーム』(ちくま学芸文庫,2008)だ。
この本について何か記事を書いたような気がして、自分のブログを検索してみると、2009年の5・6月に読んでいたのだった。
四年前の今頃、自分は何をしていただろう。
それは指揮に出会う前だった。22歳になり、とりあえず闇雲に本を読みまくり、映画をたくさん観て、
ボウリングに集中しながら、後期課程への進路に悩む時期だったと思う。
2009年5月21日の自分はこう書いている。
…
<その他であるということ>
周りから見ていると分からないかもしれないが、進振りが迫ってきたいま、僕は真剣に進路を悩んでいる。
やりたいことが多すぎる。ずっと前から分かってはいたことだが、おそらく進振りの直前まで悩み続けることになるのだろう。
だが、誤解を恐れず言ってしまえば、どこの学部に行くかというのは大した問題ではないと思っている。
「東大なんたら学科卒」という看板を外しても、社会でしっかりと生きれるような人間になりたい。
校内を歩いていると目に入る、ドリームネットというサークルが主催している交流会のポスター、自分-東大=?というキャッチコピー。
もう少し目立つようにデザインすればいいのに、と残念になるぐらい、このコピーは重要な意味を持つものだと思う。
自分から東大という名前を取ったときに何が残るか。今、たとえばここで突然東大が消滅し、自らの所属が無になるような状況が
生まれたとき、自分は何を拠り所にして生きるか。
大学という所属を持っていると、所属しているというだけで安心感が生まれる。
そして、次第にそれに依拠してしまいがちである。(五月病なんてのもその一種だと考えられるかもしれない。)
予備校に所属する事もなく、自習室を借りて二浪していた時、とても貴重な経験をした。
どこにも属していなかったから、何かの証明書に記入する時には、高校生でも大学生でも社会人でも学生でもない
「その他」に丸をつけることになる。この恐怖といったら!!
宙ぶらりんの恐ろしさ、当り前のように踏んでいた足場を外されたときの言葉にしがたい恐怖。
自分は何者でもない。学んでいるわけでも働いているわけでもない単なる「その他」である。
だが、「その他」でしかないのか、と気づいたとき、「最強のその他」になろう、という目標が生まれた。
失うものは何もない。どこかを除籍されることもなければ、呼び出されることもない。誰にも何にも所属しない中でも自信を持って
自己を確立できるように、どこにも属さない貴重な時間を使って出来る限りのことをしなければならない。
ひとまず大学に所属するようになった今でも、その気持ちは変わっていない。
どこに進学するにせよ、究極的には東大が突然あした消滅したとしても、社会で逞しく生きていける人間になりたい。
数か月後の進振りで些末な事象に拘泥して道を見失ってしまわないよう、数か月後の自分に向けて書いておいた。
….
青い文章だなあと読み返して笑いたくなるけれど、たぶん本質的に、僕はこの頃と同じ気持ちでいる。
4年が経って26歳になった今も、原点はあの宙ぶらりんの一年間にあるだろう。
70歳を迎えたドガがエルネスト・ルアールに伝えた言葉を思い出す。
「いま自分が何をなしているかではなく、他日、何をすることができるか、それをつよく意識しなければならぬ。
そうでなければ、仕事などするまでもない。」
好きな後輩に好きな本を貸すこと。
『宇宙のエンドゲーム』一冊が沢山の記憶を蘇らせてくれた。