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指揮を教えるということ

 

昨夜が2014年の最後のレッスンだった。

師匠から託され、棒の握り方からスタートして基礎を教えさせて頂いていた門下の後輩。

僕にとって人生初めて指揮のレッスンをさせて頂いたお二人がついに、二年間をかけて指揮法教程練習題最後の「美しく青きドナウ」まで終えたのだ。

師匠から「君が教えろ」と最初に言われたときは、僕に出来るわけがないし、そんなことが許されるとも思えなかった。

門下には僕よりももっと経験の長い先輩方が沢山いる。ましてやその言葉を頂いたとき、僕はちょうどスランプに入って苦しんでいた頃だった。

なぜ師匠は今の僕にこの重責を与えて下さったのだろうか。一回のレッスンを終えるたびにそのことを考え続けた。

自分がまだ何にも分かっていないのに、それでも教える席に座るということはとても難しくて、

僕が教えているのを後ろから見ている師匠に何度も何度も「そうやって教えるんじゃない!」と怒られた。

褒めて頂くことは滅多に無かったし、「教え方が良かったんだな」という言葉を正面から頂いたのは吹奏楽の曲をレッスンしたあとの一回だけだった。

自分が振ることも難しいし、指揮を、それも<基礎>を教えるということはその何百倍も難しかった。

 

 

今になって分かる。

教えるという機会を頂き、教え方そのものを師匠に見て頂いた経験が、どれほど希有なことであったか。

僕なりに師から学んだ体系はある。不十分ながら頭では理解しているつもりだし、それをやってみせろと言われれば拙くとも少しばかりは見せることができる。

しかし教えるというのは、ただそれだけではない。自分が指揮するとき以上に感じ、原因の根本を分析し、相手の思考と現況を読み込み、追いかけながらも遥かに先に行くことなのだ。

今日は何か辛い事があったのかな。体調が悪いのかな。そういうことまで自然と見えてくる。そこまで見えなければ真に適切な言葉をかけることは出来ない。

物凄い集中力と懐の深さが要求される。自分の未熟さにひたすら気付かされると共に、教える中で気付かせて頂いた事は限りない。

 

 

おそらくは、師があのような人間でいられたのは、若い頃から教えることに関わり続けていたからだ。

教えるということの苦しさを相談させて頂いたとき、病床で師がぽつりと呟かれた言葉が忘れられない。

「僕だって若いときから今まで、どうやって教えたらいいか悩み続けているさ。そして、悩めるということは幸せなことなんだよ…。」

 

その師は、自分が教え始めた年齢より遥かに若い僕にその仕事を託して下さった。それが平坦な道のりであるわけはない。

見本として振ってみせることに必要な勇気と確信。当然ながら、長い苦しみと勉強のはじまりとなることを覚悟する。

僕はこれからもオーケストラや吹奏楽を指揮するだろう。そして、これからも教えさせて頂くということを通じて勉強して行くだろう。

先生からお預かりした大切なお弟子さんを一つの区切りまで導くという役目をひとまず果たしました。教えるという機会を頂いたことに今は心から感謝しています。

至らないところばかりだったかもしれないけれど、今の僕に出来る限りの全力を毎回のレッスンで尽くしたし、良い信頼関係が築けたと思っています。

師匠にそう報告したい。そして、「そんなのじゃあ全然だめだよ!」とまたあの元気なお声で僕を天国から叱り飛ばしてほしい。