三島由紀夫の『憂国』を読んでいて、音楽が聞こえた。
第五章の麗子の自刃のシーン。それまで閉鎖されていた空間に、戸を<あける>ことによって外部の冬の空気と第三者の眼差しが侵入する。
二章、三章で延々と湧き上がって来た性と死の興奮がリセットされ、Subito pからわずか数小節-半ページでfffまで達する。
中尉の壮絶な死の描写に対して、(小林先生の言葉を用いれば)「遅れて」くる死。
どうしようもなく遅れてくるのだけど、それ以上の遅れは拒否される。「麗子は遅疑しなかった」と。
その決定の鋭さ、その刃の<甘い>味はこの外の冷たさが一瞬侵入する事によって際立つ。そのダイナミクスの興奮といったら!
三島にとっての死の美しさとは、実のところこの短い五章、この半ページにこそ宿されているのではないか。そんなことを考えた。