帰国して一週間以上経つというのに耳から子供たちの笑い声と歓声が離れない。
フィリピンでの日々がどれほど自分に衝撃を与えたか思い返している。
フィリピンについた二日目、僕はマクタン島の海に行った。
遠くへ伸びた突堤の先端まで一人で歩きながら、この十日間で海をつくろう、と決心した。
海は、どんなものだって受け入れる大きさを持ちながら、確かな方向性を持っている。
様々な要素を包み込むことと、大きな流れを見失わないこと。海のイマージュに託して考えたのはそういうことだった。
包み込むこと。
オーケストラには考え方や性格や技術の異なる色々な人がいる。それはそういうものだし、それこそがオーケストラなのだ。
無理に一つに整えようと躍起になるのではなく、それぞれの個性を最大限に尊重しながら自然と同じ方向へ導いて行く。
一人一人が自由に奏でた結果、同じ流れの中に合流して大河を生む。
それは簡単なことではなく、時間のかかることかもしれないが、技術の巧拙を超えて「志」を持った温かい音はそこから生まれると信じる。
大きな流れ。
細かな視点から書き上げれば、一つの音符の方向性にはじまり、主題の作り方、楽章ごとの持っていきかた、曲そのものの持っていきかた、
そして曲と曲の非連続/連続性=プログラミングに至る。細かな要素一つ一つに「流れ」があり、同時にそれはマクロな流れの中に位置づけられる。
そういう意味で当然ながらプログラミングの重要性は大きく、相当なこだわりを持って毎回のプログラムを作って行った。
(フィリピンではいわゆるコンサートホールのようなものが十分に存在しないこともあり、
演奏会場についてから音響とお客様の様子を考慮して、その場でプログラムを決定させて頂いた)
それ以上に大きな流れ。それは、「十日間続くコンサート」という連続した日々の流れだ。
一回一回のコンサートの流れが小説のチャプター一つずつにあたるとすれば、これは小説全体の流れにあたる。
一回一回のコンサートが支流を作るようなものであったとすれば、この最も大きな流れを捉える思考は鳥の眼差しだ。
それぞれの川がいつしか集まって一つの「海」を作っていたことを見出すような…。
どこまで果たせたかは分からない。
けれども、最後の演奏会を指揮しながら、僕には確かに海が見えたのだ。