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Mais pas si bien. 

 

二十六歳になってしまいました。

なって「しまった」とこんなに強く感じるのは、二十六歳が初めてのように思います。

何か一つの世代が終わったような。もう戻れないところに来てしまったような。そういう遠さ。

そう思わせるのは、自分の精神的・肉体的な変化はもちろんの事ながら周りの環境の変化によるものが大きいのでしょう。

中高時代の同期や先輩は続々と結婚し始めました。大学で親しくしていた同期はもちろん、後輩たちも就職してまた新しい道へと歩き始めました。

 

その中で僕はというと、一年生のころと同じく駒場キャンパスにたたずみ、相変わらず孤独に楽譜と向き合い、指揮することの難しさに直面する日々。

多数を占める流れから置いて行かれたような気持ちを覚えるのは確かです。これで良いのかな?と自問自答することも無い訳ではありません。

けれども静かに振り返ってみれば、そうした日々は、これ以上無いほど贅沢で、刺激的な時間でもあることに気付くのです。

 

二十六歳。

ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ九番」、奇跡のような八分の十一拍子のフーガを勉強しながら

この何とも言い表しがたい年齢を迎えるにあたって頭に浮かんだのは、もう何度も引用しているジャンケレヴィッチの文章です。

『第一哲学』最後を締めるあの文章。

 

On peut, apres tout, vivre sans le je-ne-sais-quoi, comme on peut vivre sans philosophie, sans musique, sans joie et sans amour.

Mais pas si bien.

結局のところ、この<何だかわからないもの>が無くても生きていける。哲学や、音楽や、喜びや、愛が無くても生きていけるように。

だけどそれじゃつまらない。

 

Mais pas si bien. 曖昧な言葉かもしれないけれど、僕にとってはその気持ちが全てなのかもしれません。

敢えて長く書く事はしません。この言葉の強度を信じて、ある種の「遠さ」を引き受けながらも、

今年もまたストイックなエピキュリアンとして歩き続けようと思います。

 

 

二十五歳の最後には、お世話になっている近所のお店で特大のぶりかまを頂きました。

日々を一緒に過ごして下さった人に心からの感謝を。この一年、また沢山の忘れ難い日々がありますように。

 

 

 

 

 

珈琲とバルザック

 

もう六年ぐらいお世話になっている珈琲屋さんから、また新しい豆とアイスコーヒーが届いた。

さっそくパナマのストレートを集中して淹れる。浅煎りの豆でこんなに美味しいと思えるものには滅多に出会わない。

クッキーのような軽やかな香ばしさ、果実と蜂蜜の合わさったような心地よい酸味と甘さ。膨らんですっと抜けて行きつつも長く残る余韻。

この珈琲に、この珈琲を煎るマスターに(まさに「職人」)巡り会うことが出来ただけで浪人していて良かったと思えるほどに、無くてはならないものの一つ。

 

ぼんやりと考えていて、珈琲といえばバルザックだ、と思い出す。

「精神の緊張」を求めたバルザックは夜中にとんでもない量の珈琲を飲んでいたらしい。

それは三種類の豆のオリジナルブレンドだったという話もあるし、デミタスカップで一日に五十杯ぐらい飲んでいたらしいという話も残されていて、

彼の手による『近代興奮剤考』の中にもこんなことが書いてある。

「(珈琲によって)神経叢が燃え上がり、炎を上げ、その火花を脳まで送り込む。するとすべてが動き出す。戦場におけるナポレオン軍の大隊のように観念が走り回り、戦闘開始だ。記憶が軍旗を振りかざし、突撃歩でやってくる。比喩の軽騎兵がギャロップで展開する。論理の砲兵が輸送隊と弾薬入れを持って駆けつける。機智に富んだ言葉が狙撃兵としてやってくる。登場人物が立ち上がる。紙はインクに覆われる。というのも、戦闘が黒い火薬に始まりそして終わるのと同じく、徹夜仕事も黒い液体の奔流に始まりそして終わるからだ。」

 

それは幾らなんでも言い過ぎではと思わないでもないが、とにかく珈琲に普通ではない興味を持っていたことが伺えるだろう。

『近代興奮剤考』はこの部分しか知らなかったので、この機会に珈琲に関するところを原典で読んでみようと思い立ち

パブリックドメインで公開されているものをダウンロードしてみた。(便利な時代だ!)

そうすると実に強烈なバルザックの「珈琲論」が展開されていて驚く。たとえばロッシーニが

 

« Le café, m’a-t-il dit, est une affaire de quinze ou vingt jours;le temps fort heureusement de faire un opéra.»

(「コーヒーが効くのは二週間から二十日ぐらいで、それは有り難いことに、オペラを一つ仕上げるのにちょうど良い期間だ。」)

 

と言っているのに続けて«Le fait est vrai. Mais, »(「その通りだ。でも…」)と更なる珈琲の活用法や効かせ方があることが力説されていったりする。

おいおい、と突っ込まざるを得なかったのは

Enfin, j’ai découvert une horrible et cruelle méthode, que je ne conseille qu’aux hommes d’une excessive vigueur [...]

Il s’agit de l’emploi du café moulu, foulé, froid et anhydre (mot chimique qui [...]

教えることと教わること

 

四月の終わりから、未熟な身であるにも関わらず、師匠に代わって大学生の学生指揮者のレッスンをさせて頂いている。

レッスンというより伝えることを通して自分も教わっているようなもの。

そうして自分自身学んでいけ、そして基礎に忠実であれ、基礎の大切さを教えるうちに痛感せよ。

そういうメッセージを師匠から頂いたと思って、僕に出来る限りのことをやろうと試みている。

 

昨夜はその学生指揮者の女性が今度振るという吹奏楽曲をレッスンさせて頂いた。

師匠の椅子に座って、その子が振るのを見ながら、言葉だけではなく「そこはそうじゃなくて」と代わりに振ってみせることを何度もした。

レッスンが終わってからその子が、「音の変わりように鳥肌が立ちました…。」と言って下さった。

そこまでガラリと音が変わったのは奏者の方が協力して下さったからこそだが、それでも僕にはその言葉がとても嬉しかったのだ。

 

僕は指揮を習い始めて以来、師匠が自分に代わって振って下さるのを見て・聞いて、数えきれないほど感動した。(今もそうだ)

そしてそのことが、僕を「指揮」という営みにのめりこませていった。

何だか分からない、自分では音を鳴らさない棒の一閃が明らかに音を変える。

それまでニコニコしていた人の身体からエネルギーが湧き上がり、その場に「何か」を生成させる。

息を呑み、言葉を失い、痺れるほかない驚異の瞬間!

 

もちろん、僕には師匠のような次元でその変化を見せることは到底出来ないのだけれど、「指揮してみせる」という同じやり方で

僕が師匠から頂いた感動のほんの僅かでも彼女に伝わったとすれば、それは本当に幸せなことだろう。

だから改めて思ったのだ。この先生のもとで指揮を学んでいて良かった。

行き詰まることも行き違うこともあるけれど、これからも必ず学び続けよう。

自らの棒にすべての原因を求めることは精神的に過酷だが、その厳しさを引き受けよう。

 

気付いてみれば東京の他でも指揮する機会を今年も頂き、2014年には海外で指揮する機会も頂いた。

焦らず学び続けていれば機会はやってくる。

言葉にしがたい驚異の瞬間を何度も何度も味わいたいし、少しでも与えられるようになりたいだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Partout dans l'air court un parfum subtil.

 

昨夜ドビュッシーを振ってみて、もう本当に言葉にならないほど幸せな気持ちになった。

風を操っているような感覚。夢の中でもずっと「小舟にて」のフルートが水面に反射していた。

 

ドビュッシーを勉強するのは楽しい。

学問上専門にしているフランスものだから、ということもあるけれど、ポエジー、としか表現の出来ないものに強烈に惹き付けられる。

「小組曲」の第一曲目「小舟にて」第二曲目「行列」にインスピレーションを与えたとされるヴェルレーヌの詩集を参照すれば、「小舟にて」の詩の美しさに感動する。

Cependant la lune se lève/Et l’esquif en sa course brève/File gaîment sur l’eau qui rêve.

小舟は昼間に走らない。描かれているのは、月明かりの中、金星が映る、空より暗い水面をゆく小舟。

 

第三曲目「メヌエット」はヴェルレーヌではなく、同名のバンヴィルの詩集が踏まえられていて

バンヴィルの詩を用いてドビュッシーがかつて書いた歌曲「艶なる宴」のメロディを転用したもの。

Partout dans l’air court un parfum subtil.(「空にあるものは全て、幽かな香りを漂わせる」)

というドビュッシーの世界を凝縮したようなバンヴィルの一節はこのメロディに当たるのかと納得。

そして「艶なる宴」について考えて行くと、やはりヴァトーの絵にまで行き着く。

音楽から詩へ、詩から絵画へ。比較芸術の研究と指揮の勉強が重なりあう幸せな瞬間…。

 

そういうヴェルレーヌの空間を過ごし、今日は朝から授業でミシェル・ドゥギーのボードレール論を原典購読する授業。

もちろんボードレールを(「悪の華」を)折りに触れて参照しながら読むわけだけど、そこにはヴェルレーヌと全然違う世界がある。

駒場をもうすぐ去られる大先生のインスピレーションに満ちた「読み」が凄すぎて、鳥肌が立った。

pietàとpieuse、「悪の華」のあの「無名」の100番目の詩の21行目から、ミケランジェロのピエタ像とのコントラストを用いて

「逆転したピエタ」と表現してしまう、あの煌めくような読みを、他の誰が出来るだろうか!

 

 

豊かなイマージュの世界に音楽と学問で遊べる幸せ。今年も充実したゴールデンウィークを過ごしている。