ブラジル風バッハ五番のアリアを勉強していたら、何の前触れもなく、一つの言葉を書きつけていた。
「芸術に携わるものなら押し並べてせねばならないことがある。それは祈ることだ。誰に?もちろん、自分に。」
自分に祈るということはどういうことだろうか。それは、自分の中のなにものかに入り込み、思いを馳せるということだと思う。
「祈る」という行為は、対象を慈しみ、尊び、心を注ぐということなのではないか。
祈りに満ちた曲を演奏するとき、対象に向かって心が研澄まされる感覚になる。逆もそうだ。
対象に向かって感覚を研澄ますと、「祈り」という行為を思い起こさずにはいられない。
祈ることを考えてからブラジル風バッハ五番のアリアを見ると、この曲が全く違う深みを帯びて見えてくるし、また
改めて「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲を読み直すと、もっと純化された音楽が立ち上がってくる。
いちどこの間奏曲を振ったとき、師に「こういう曲は淡々とやるほうがいい。」と言われて、そのときは「そういうものなのかなあ。」と
いまいち納得できなかったのだが、今ならその言葉の意味が理解できる。変にテンポを落としたり揺らしたりしなくてもいいんだ。
小細工ではなくて、祈りで純化された音楽が滔々と流れていけばいいんだ。
たぶんベートーヴェンの「運命」もそう。「英雄」もそう。人為的な小細工をして演奏する曲じゃない。
ここから遅く「します」ではなく、ここから遅く「なります」のはずだ。
祈りから溢れ出れば、自然に抑揚もテンポ変化も生まれてくるに違いない。
祈るように演奏する。演奏して祈る。ヴィラ・ロボスがそのことを教えてくれた。
木許さんの美についての考え方がとても好きです。
「認識を鋭くする」「普通の人が無益と見逃すものに価値を再発見する」、
どこかで上の2つの記述を読んで気に入りずっと覚えているのですが、
「感覚を研ぎ澄ます」、「祈り」、「対象を慈しみ、尊び、心を注ぐ」、「思いを馳せる」、
木許さんの目には同じことがこう見えるのか、と感じます。
>彼方さん
コメントありがとうございます。
どれも僕が見つけたものではなく、指揮の師に教わり、あるいはヴァレリーやコクトーなど、偉大な思想家・文筆家たちから学んだものです。
音楽、とくに自ら音を出す事のない「指揮」という芸術を学んでゆくにつれ、「祈り」や感覚を鋭くすることの重要性に気付きます。
祈りが溢れてこない事にはブラームスのあの音楽は振れないし、漫然と音符を並べて音符を再現するだけではモーツァルトはモーツァルトにならない。
言葉にすると抽象的かもしれませんが、でも本質はそういうことなのだろうなあと溜め息と共に思う日々です。
芸術と言葉も全然等価ではないのですね…。