ブラジル風バッハ五番のアリアを勉強していたら、何の前触れもなく、一つの言葉を書きつけていた。
「芸術に携わるものなら押し並べてせねばならないことがある。それは祈ることだ。誰に?もちろん、自分に。」
自分に祈るということはどういうことだろうか。それは、自分の中のなにものかに入り込み、思いを馳せるということだと思う。
「祈る」という行為は、対象を慈しみ、尊び、心を注ぐということなのではないか。
祈りに満ちた曲を演奏するとき、対象に向かって心が研澄まされる感覚になる。逆もそうだ。
対象に向かって感覚を研澄ますと、「祈り」という行為を思い起こさずにはいられない。
祈ることを考えてからブラジル風バッハ五番のアリアを見ると、この曲が全く違う深みを帯びて見えてくるし、また
改めて「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲を読み直すと、もっと純化された音楽が立ち上がってくる。
いちどこの間奏曲を振ったとき、師に「こういう曲は淡々とやるほうがいい。」と言われて、そのときは「そういうものなのかなあ。」と
いまいち納得できなかったのだが、今ならその言葉の意味が理解できる。変にテンポを落としたり揺らしたりしなくてもいいんだ。
小細工ではなくて、祈りで純化された音楽が滔々と流れていけばいいんだ。
たぶんベートーヴェンの「運命」もそう。「英雄」もそう。人為的な小細工をして演奏する曲じゃない。
ここから遅く「します」ではなく、ここから遅く「なります」のはずだ。
祈りから溢れ出れば、自然に抑揚もテンポ変化も生まれてくるに違いない。
祈るように演奏する。演奏して祈る。ヴィラ・ロボスがそのことを教えてくれた。