東京大学を休学することにしました。
何を突然、と思われるかもしれませんが、実はずっとずっと考えていたことです。
立花隆のもとで、一年間助手をして過ごします。
立花さんと一緒に日本を飛び回りながら、昼間は猫ビルに籠り、あそこにある本を読める限り読みつくそうと思います。
村方千之のもとで、一年間指揮を集中的に学びます。
おそらくもう二度と日本に現れる事のない不世出の大指揮者だと僕は信じて疑うことがありません。
「知性」と「感性」の師、そして「死」を意識するこの二人の巨匠と接して以来、
この機会を逃してはならない、と思い続けてきました。
はじめて立花事務所、通称「猫ビル」に入らせて頂いた時の感動は忘れられません。
僕が憧れていた本に囲まれた乱雑な空間がそこにありました。図書館とは違う空間。
陳列や収集の空間ではなく、一人の人間の「頭のなか」そのもの。
何万冊もの本が書き込みと付箋だらけでそこかしこに散らばっている。
一つの本を書いたり話したりするためにこれだけの勉強をされていたんだ、と背筋が伸びる思いをしました。
そしてまた、村方千之にレッスンを見て頂いた時、また師のコンサートで「ブラジル風バッハ四番前奏曲」を聞いた時の
感動は生涯忘れる事が無いでしょう。「シャコンヌ」の堂々として祈りに満ちた気品、ベートーヴェンの「運命」や
ブラームスの一番の何か太い芯が通ったような強靭さ。息の止まるような感動をなんど味わったことか。
眼を閉じて聞いているだけで感動が抑えきれなくなるような純然たる「音楽」がそこにありました。
本と音楽が好きな僕にとって、これ以上の出会いは無いでしょう。
ですが、お二人に接する事の出来る残り時間は限られている。
巡り会えたという喜びと、もう時間はあまり無いのだという焦りとを同時に味わいました。
この機会を逃すと僕は一生後悔する。そしてこれらは片手間に勉強できるものではないし、片手間に勉強することが許されるものではない。
二浪していて僕はすでに23という歳ですが、もう一年を賭けてもいいと思えるぐらいの衝撃を受けたのでした。
休学を考えていた頃に巡り会った、コクトーの文章が背中を押してくれました。
コクトーはこう書きます。
「孤独を願うのは、どうやら社会的な罪であるらしい。一つ仕事が済むとぼくは逃げ出す。ぼくは新天地を求める。
習慣からくる弛緩を恐れる。ぼくは、自分が技術や経験から自由でありたい ―つまり不器用でありたいと思う。
それは、奇人、叛逆者、曲芸師、空想家であることなのだ。そして賛辞としてはただ一つ、魔術師。」
「彼(エリック・サティ)はそこで自分を軽石で磨き、自分に反撃し、自分にやすりをかけ、
自分の繊細な力がもはや本源から流出するしかなくなるような小さな孔をきたえあげたのだった。」
浪人中に僕はそんな時間を過ごしました。
いま、そうした時間を自分が再び必要としていることに気付かされます。
ヴァレリーの言葉に「夢を叶えるための一番の方法は、夢から醒めることだ。」というものがありますが、
その通り、夢中になれるものを見つけたなら、自分の身でそこに飛びこまないと夢のままで終わってしまう。
だからこそ、レールから外れて不安定に身を曝しながら、一年間学べる限りのことを学んでいきたいと思います。
この選択を快く許してくれた両親には心から感謝していますし、回り道が本当に好きだなと
自分でも改めて呆れてしまいますが、後悔は少しもありません。
どんな一年間になるのか、どんな一年間を作っていけるのか、ワクワクしながら2011年の春を迎えています。