March 2011
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はじまりの思い出。

 

ちょうどこれぐらいの時期だった。

母や弟、そして犬に見送られながら、父の運転する車に自転車から本まで積み込んで、夜中に京都から東京へと車を飛ばした。

途中で雨が降ってきてフロントガラスが雨に滲み、高速道路のオレンジの灯が車の中に柔らかく広がる。

拡散して揺れる光を眠気の一向にやってこない目で見つめながら、無理やり積み込んだ自転車が後部座席でカタカタと音を立てるのを聞きながら、

「ああ、僕はこれから大学生として一人で暮らしていくんだな。」とはじめて意識した。

高速道路の標識に表示される「東京まであと何km」の表示がどんどん減っていく。次第に夜が白んでゆく。車は止まらない。時間も止まらない。

今まで生きていた世界とは全く違う世界に自分が向かっているような気分がして、朝が訪れるのが何だか怖かった。

 

「精一杯楽しめよ。じゃあな。」

下宿につき、荷物を運び込み、父はいつも通りの口調で一言残して去っていった。

部屋にぽつんと取り残された僕は何をするでもなく、部屋の隅に座ってぼんやりと窓の外を眺めていた。

真新しい部屋の匂いが、わけもなく憎らしかった。

 

 

フランス科卒業パーティ -Convivialité-

 

今日は東京大学の学位授与式だった。

授与式のあと、僕の所属する学科である教養学部地域文化研究学科フランス分科でも、卒業生の方々を囲んで歓送会が開かれた。

例年ならば渋谷か下北沢で飲みながら華やかにお祝いをするところだが、今年は地震の影響を考慮して中止も囁かれたぐらいの雰囲気。

だが、幹事である我々三年生や先生方と打ち合わせた結果、「せっかくの卒業の日に何もせず先輩方を送り出すのは申し訳ない」ということに

話がまとまり、研究室でささやかに歓送会を行う事になった。アルコールはもちろん無し。料理もスナック程度。

開催することは出来たけれども、これではさすがに寂しくなるなあ、と不安を感じながら当日を迎えた。

 

心配は杞憂に終わった。

外で食べるよりも豪華だったかもしれない。確かにアルコールは一滴も無かった。シャンパンもワインもビールもなし。

だが、なんと先生方や院生の方々が手製のお料理を持ってきて下さった。何を置けばいいんだろう、と思うぐらい広く感じていた

研究室の机は、持ち寄った料理でぎっしりと埋まった。教授がフランスにいたころにレシピを覚えたという帆立のテリーヌ。

わざわざ炊いてくださったお赤飯。見た目もおめでたい海老の揚げ物。洒落たサンドウィッチ。デザートに苺、そしてティラミス。

よく本でお名前を見るぐらい有名な先生方や、研究や学内行政で忙しいはずの先生方が、ご自分の時間を割いてこのお料理を作ってくださったのか、と

考えると、司会をやりながら言葉に詰まるぐらい感動してしまった。

 

突然の日程変更にも関わらず、狭い研究室には20人を超える方々が詰めかけ、

今までのどんな飲み会よりも温かい雰囲気が終始流れていた。先生方の「贈る言葉」は堅苦しくないのに含蓄とユーモアに富むもので、

さすがフランス科と唸らされるようなものばかり。話が突然フランス語になったり身体論の話が出たり、いくら聞いても飽きないほど。

中でも、イヴァン・イリイチのConvivialityという概念を引用して、「宴」の意味を持つこの言葉に「共に生きる」という意味が響いていることを

今回の震災の話に引きつけながら話された分科長のスピーチは、身体の深いところまで沁みるような思いがした。

 

フランス科は温かい。

一学年には四人ぐらいしか学生がおらず、授業は信じられないぐらい厳しいし、卒論をフランス語で書き切らなければならないけれど、

そこにいる人はみんな温かい。僕は第二外国語がドイツ語で、フランス語を授業で取った事は一度も無かったのに進学振り分けの時に

不思議な勢い(今考えてみれば、金森先生と話させて頂いた影響が大きかった)に突き動かされてこの分科に進学した。

語学があまり得意でないこともあり、はじめは「進学先を間違ったかな…。」と思ったこともあるが、先生方や先輩方の温かさに触れ、

そんな心配は綺麗に消え去った。もう一度進学振り分けをやり直せるとしても、今と同じく、フランス科を躊躇無く選択するだろう。

卒業して院に進む先輩方は笑顔で言う。「まだフランス科に顔を出せるのが幸せ。」と。

卒業して社会に出る先輩方は、晴れやかな顔でこう言った。「フランス科ではフランス語を学ぶのではなく、フランス語を使って、文化や思想の奥にある<何か>を

学んだ。これからフランス語を使う機会は少なくなるかもしれないけれど、フランス科で積んだ経験はいつか必ず活きることを確信している。ヒートアップする世の流れに乗らず、

それに対してNonを唱え、あえて違う道を探ること。理性的だが感情を失わないスタンスで社会に臨みたい。」

ああ、いいな。この学科に来て良かったなと思った。

 

 

時間は流れ、人は未来へと送り出されてゆく。先輩方のご卒業を心からお祝い致します。

 

 

プロオケを振ります。

 

5月4日、ついにプロのオーケストラを指揮することになりました。

僕はトップバッターでモーツァルトの『フィガロの結婚』とプロコフィエフ『古典交響曲」を振ります。

そして最後には師匠が、ベートーヴェンの「運命」を指揮します。

指揮を習い始めて間もない僕がこんな豪華なメンバーの(本当に凄い奏者の方ばかりで、ドキドキしています。)

オーケストラを振らせて頂いていいのかと思うほどですが、今出来る限りで、精一杯の演奏をさせて頂きたいと思います。

 

そして86歳になる師の「運命」。この機会を逃すともう一生聞く事は出来ないでしょう。

ご自身でも「これが僕の人生最後の<運命>になる。」とおっしゃっていました。

チケットなどは僕(kimoto_d_oあっとyahoo.co.jp)までご連絡頂ければご用意させて頂きます。

五月の祝日、ご都合の合う方はぜひお越し下さいませ。

 

 

 

「千の会」第十回フライヤー

 

スキーに行ってきます。

 

また今年もスキーへ行ってきます。

昨年に二日で全リフトを制覇した志賀高原へ、ドミナントのメンバー9人と一緒です。

どうやら初日は−15度ぐらいになる極寒の様子。ここまで寒いと逆に楽しみになりますね。

今年は一つ野望があって、横手山の山頂で、フォアローゼズのプラチナを呑んでこようと企んでいます。そのためにちゃんとスキットルを購入!

そうです、西部劇でガンマンが夕日に照らされつつ、胸からおもむろに取り出して呑む「アレ」です。ステンレス製とチタン製があるようですが、

手に入りやすいステンレス製にしておきました。父から頂いたこのめちゃくちゃ美味しいお酒を、山頂から世界を眼前に広げて呑むとどんな味がするのか、

楽しみでなりません。

 

夏はサーフィン、冬はスキー。

自然を満喫して人生を過ごしたいものですね。

 

カイエ:音楽と人生をデザインするということ。

 

五月に練馬文化センターで指揮する、プロコフィエフ『古典交響曲』のレッスンを受けていた。

二楽章がとても難しい。ppが基調となったこの楽章、盛り上がるところはわずか一、二小節しかないけれど、それでいてしなやかな音楽だ。

スタッカートとスラーのつき方を見ただけでもそのことが分かる。まるでバレエのように、すらりと伸びた肢体がしずしずと、しかし弾力性を持ちつつピルエットを繰り返す。

師匠は言う。「こういう音楽はとくに、自分で音楽の流れを作っていかないとだめだ。一切ごまかせないよ。あなたが振ったとおりに音が出てしまう。プロコフィエフも残酷な曲を書いたなあと思う。」

僕にはまだ、「流れ」を自然に作っていくことはできない。作ろうとすればあざとくなり、無心で流れに身を委ねると弛緩する。意志をピアノ線のように細く、しかし強靭に隅々まで張り巡らせなければならない。

それは分かっているけれども、静かな音が積み重なっていくこの音楽に僕はまだ耐えられないのだ。静けさを心地よく感じるどころか、静けさを暗闇のように感じてしまう。

こんなに好きな曲なのに、うまく振れない。それが今はひたすらにもどかしい。

 

音楽の流れ。それを自分で作っていくということは、とてもとてもエネルギーのいることだ。

たぶん人生もそうなのだろう。引かれたレールの上を、誰かが踏み固めた雪道の上を歩くのは容易い。だが、たとえ稚拙だと言われようが、ぼくはぼくのやり方で、人生にレールを引きたいと思う。

夢を描いて地をならし、何かを捨てては拾い上げ、汗をぬぐっては涙に濡れる。既にある道を横目に、足元も先行きも見えない暗闇を引き受けて、それでもなお、光を開拓しようと全身ずたぼろになって足掻きたい。

「意志の力」などという不確かなものを信じ、常に自分を追い込みながら、限界の中から前へ前へと進み行くエネルギーを生産し続ける。創造的に生きるとはたぶんそういうことだ。