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五月祭をゆっくりと。

 

五月祭に行ってきました。

三年生、しかも所属学部が駒場キャンパスにある身なので、今年は何もやる仕事がありません。

何も仕事がない五月祭というのははじめて。二年前と昨年は必死でデザインの仕事をやり、合間には鬼のようにたこ焼きや焼鳥を

焼きました。そして安田講堂の講演会では、席を埋め尽くした聴衆の方々がみな自分のデザインしたパンフレットを机の上に

置いているのを二階席から見て感動したり、渾身の出来と(当時は)自負していたポスターの前で沢山の方が記念撮影をされている

様子を見てじーんとしたりと、慌ただしく過ごしていました。ですが今回は完全フリー。よくよく考えてみれば、今までの二年間は時間に

余裕が全く無くて模擬店すら満足に回ることができていなかったので、今回は沢山のお店を回って、ゆっくりと食べ歩くことにしました。

 

たません、タピオカジュース、チュロス、似顔絵…と手を出しつつ本郷キャンパスを歩いていると、様々な人に出会います。

やたらツインテール+メイド服が似合う一年生の知り合い。ショッキングピンクのジャンパーをまとって四つ打ちのビートに体を揺らす

ゼミの後輩。女性と比べても引けを取らないほど美脚の、セーラー服で女装した高校の後輩。イケメンなのをいいことに相変わらずナンパ

にいそしむ浪人時代の同期。みな思い思いに五月祭を過ごしていて、「ああ、平和だなあ。」と思わずにはいられません。

そんなふうに、今回は一人の来場者として、このお祭りを堪能させて頂きました。関係者の方々、本当にお疲れさま!

 

23歳になりました。

 

23歳になりました。

にじゅうさん!信じられない響きです。自分がこんな年齢になるなんて思ってもみなかった。

20歳を過ぎてしまえば誕生日の感慨なんか無くなって、あとはもう「おっと、また誕生日か。」という感じで大したことないだろう、と

考えていました。まだ20と21ならいざしらず、22歳と23歳では何も変わらないだろうと思っていました。

ですが、23になってみると全然違う。たった一つ数字の下一ケタが増えただけなのに、襲いかかってくる重圧が凄い。

 

それもそのはず、22はまだ20に近かったけれど、23はもう25に近い数字なのです。想像もできない遠さにあった25という数字が

急に現実味を持って迫ってきます。様々な大人の方々から「言語は25歳まで。」「楽器は25歳まで。」「人生の選択も25歳までで決まる。」

と言われているので、僕にとって25歳というのはとても怖い年齢に映ります。先達の方々がおっしゃるように、25にもなると体力的にも

衰えてくるだろうし、記憶力や習得力も落ちてくるはず。そして人生の進路(就職か、大学院か、それとも「それ以外」か)も

ある程度決まってくるでしょう。そういった逃れようのない未来に、僕は確かに近づいてしまった。

 

などと書くと、「若者がそんなに悲観的でどうする!」と一喝されてしまいそうですが、悲観的になっているというわけではありません。

ただ、そろそろ着地点を決めなければならない。好奇心の赴くままに飛び回るのではなく、どこに降り立つか、狙いを

定めていかねばなりません。その作業はとても辛いものだと思うのです。

ですがそれが辛いものであれ、23にもなってまだ学部生をやらせてもらっていることに感謝していますし、これらからも僕には

毎日を精一杯過ごすことしか出来ません。違う世界にどんどん飛びこんでゆく度胸と、飲み会や遊びに誘われたら軽やかについていく

若いノリを忘れず、それでいて少しは大人の魅力(?)を醸し出しつつ、23歳の一年間を思いっきり過ごしたいと思います。

 

「夜景」とは何か -体験不可能な景色-

 

Twitter上で「夜景がデートにもたらす効用」についてゼミ生が議論していたので、それをきっかけに「夜景」とは何か考えてみた。

夜景のキーポイントは、ただ光が暗闇に飛び散っているだけでなく、それが「人の暮らし」を意味するものであるという点だ。

車のライト、高速道路のネオン、マンションの明かり…どれも人が生活しているという実感を伴う。つまり夜景を見ているとき我々は、

「人の暮らし」を外部 から見る立場に自己を置くことになる。闇を彩る色とりどりの光を通じて、この世界に沢山の他者が暮らしている事や

世界が人間の営みで加工されている事を目撃する。静止した夜景は存在しない。車が動いていたり家の電気が消えたりするように、

夜景はいつも動いている。それを見るたび、人間の暮らしの匂いを夜景に感じるはずだ。たとえば超超高層ビルから夜景を見て、

動いている光を見つけた時、「あれは何だろう?車かな?だとするとあのあたり高速道路かな?」と思考するだろう。

つまり、人が見えなくても結果的に人や人の生活を想像してしまう効果を持つ光景が、夜景なのである。

 

問題は、夜景が「人の暮らし」で成立しているものでありながら、夜景の担い手である「暮らしている人」と絶対的な距離を持っている

ことだと思う。眼前に広がる光に満ちた世界は、「人の暮らし」という身近なものの反映でありながら、圧倒的に「遠い」のだ。

あくまでも景色。交わることの ない他者の生活。しかしそんなふうにどこまでも遠い夜景を見るとき、自分のすぐそばに、同じ光景に目を

やる「誰か」がいたらどうだろう。必 然的に、側にいる人との「距離の近さ」を感じることになる。夜景はどこまでも遠い、しかし側にいる人

とはコミュニケーション可能な距離にいる。それを実感するはずだ。つまり夜景は、「交わることのない他者/側にいてコミュニケーションの

とれる距離にいる選ばれた他者」という対比を成立させる。かくして、夜景を媒介にすることで、側にいる他者との近さが、その距離以上に

接近する。こうした意味で夜景はデートに一定の効用を持つのではないか。

「そんな難しい事は考えていないし意識していない。夜景はただ綺麗なだけだ。」と言う反論が予想されるが、確かにその通りで、

夜景は最終的には「あー綺麗」という一言に帰着可能な光景だという特質を持っている。

「綺麗な夜景だね」→「車が走ってるよ」→「あのへん新宿かな、まだ沢山電気ついてる。」→「まあとにかく、綺麗だね。うふふ。」と

最終的には「夜景」という抽象的総体に帰着される、つまり鈍感を許す光景でもあり、まさにそれこそが、デートスポットとして不動の

地位を占める理由であるだろう。

 

そしてまた、夜景の特異は、自然との対比によって明らかになる。夕日や星といった「自然の光」と、夜景、すなわち「人工の光」とは

何が違うのか。それはこうだ。没入できる自然と異なり、夜景は窓枠やガラスなどを通して「外部」から見る事を必要とする。満点の星空

の下に身を置くのと、光に満ちた東京の夜景を六本木ヒルズの上から見るのとでは、根本的に主体の占める位置が異なる。

つまり言うなれば、夜景は鑑賞するものであるけれども、「体験できないもの」なのである。

(おわり)

『影のない女 Die Frau ohne Schatten』@新国立劇場

 

予定が合う限り、月に一度はオペラを観に行くようにしています。今月はリヒャルト・シュトラウスの大作であるオペラ

『影のない女』の初日公演を鑑賞してきました。このプログラムが日本で演奏されるのは何と18年ぶり!それもそのはず、

オーケストラの編成だけを見てもチューバ四本+バスチューバという指定が書かれているなど、オペラとは思えない

(ある意味ではR・シュトラウスらしい)巨大さを誇っており、技術的にも規模的にも演奏の難しい演目だからです。

実演に接するのはもちろん初めてでしたから、いつも以上にワクワクしながら、立花ゼミの後輩二人と一緒に席に着きました。

 

出だしから「いかにもR・シュトラウス!」と言いたくなるような管楽器の使い方がなされていて、音楽だけを聞いていても飽きません。

このオペラにはライト・モティーフが散りばめられており、しかもかなり分かりやすいものが多いのでライト・モティーフを追っかけながら

シュトラウスの豊麗な音響を楽しみました。二幕終わりのぐんぐん盛り上がるTuttiではホール全体が一つの楽器のように大音響で

震え、圧倒されました。しかし最も驚かされるのは、大編成のこの曲において、各楽器のソロがたくさん用意されていること!

チェロの不安を煽る旋律、ハープの神聖な響き、そして三幕の皇后が一人で歌う部分のヴァイオリンのソロなど、ただ音響で唖然と

させるだけではなく、繊細に繊細に作られているのが分かります。

 

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/classic_concierge/top.html というページにおいて、

「音楽面ではシュトラウスの作品群の中で最大編成のオーケストラを使用していることが第一の特徴。

大編成ながら大きく鳴らすトゥッティ(全奏)はほんの数回 あるのみで、数多くの楽器が組み合わせを変えながら室内楽的ともいえる

精妙な響きを多彩に変容させていくところにシュトラウスの円熟ぶりが見て取れる。

第2の特徴としては調性の巧みな使い分けだ。「エレクトラ」で調性の壁を破る寸前の当時としては、最先端をいく和声法を駆使して

音楽を書き上げたシュトラ ウス。「影のない女」では古典派以来のオーソドックスな和声と最先端の調性コントロール術を混在させ、

登場人物のキャラクターや場面の雰囲気を見事に描き 分けている。例をひとつ挙げるなら染物師夫妻だ。

心根の優しいバラクに付けられた音楽は調性がハッキリした口ずさむことが可能なメロディーが多い。

これに 対して苛立つバラクの妻は臨時記号を多用し調性があいまいで複雑難解な旋律に乗せて歌われる場面がほとんどだ。」

 

と書かれていましたが、まさにその通りで、音楽による場や人物の描き分けが、「オーケストラ全体」と「楽器一つ一つ」を見事に

使い分けてなされていると感じました。歌手ではやはり、バラクの妻を演じたステファニー・フリーデがいいですね。

Schwängest du auch dein Schwert über mir, in seinem Blitzen sterbend noch sähe ich dich!

「剣を私に振り下ろすとしても、 その刃のきらめきの中で、 死にながらももう一度だけあなたに会いたい!」という絶唱には

感動しましたし、このオペラで最も有名な部分、Ich will …nicht!の震える声にもゾクッとさせられました。

 

演出はどちらかというとシンプルなもの。ただ、「影」の扱いについては相当に注意が払われており、三幕終わりの部分の影をうまく使った

演出には「やるなあ!」と唸ってしまいました。人そのものが抱きしめ合うのを見るよりも影が一つになってゆくのを見る方が感動する、

というのは不思議な現象でした。それだけこのオペラにおいて「影」が重要な役割を果たしているのでしょう。

 

ですが、「影」とは一体何なのでしょうか。この「影」の捉え方、「影」が意味するものをどう考えるかでこのオペラはその奥行きを

ぐっと変えるのではないかと思います。本作のストーリーはモーツァルト『魔笛』を踏まえたものであることはよく知られており、確かに

ファンタジックな世界の中に「人間礼賛」に通じる水脈が流れています。たとえば神々の世界の側のヒトであった皇后の

「人間の求めるものを あなたは余りに知らなさすぎた。 ・・・(人間は)いかなる代償を 払っても 重き罪から 蘇り、 不死鳥のように

永久の死から、永久の生へとどんどん高みを指して登って行く。」という歌詞にそれが顕著に現れており、人間の人間性・生と死の問題が

歌われています。そして終幕では舞台裏から「まだ生まれていないものたち」の歌や「子供」の合唱が挿入されます。

そういえばそもそも、このオペラのスタートは「『影』がないと子供を生むことができない」というものでした。

 

以上を考えると、このオペラにおいて「影」というものは、子供を生める能力であり、言ってしまえば「次代の生命」=「子供」なのでは

ないかという考えに至ります。そのように考えてストーリーを振り返ってみると、かなり現代的な問題を孕んでいることが分かります。

「影がない」=「子供が産めない、子供がいない」ことで罰を受けるという展開は女性の権利などの問題を想起させますし、

「影を渡すか渡さないか」という逡巡はストレートに中絶問題に繋がるでしょう。「生まれざる子供たち」が歌う

「ぼくらの生が楽しいものになるように! 試練をけなげに耐えたから」という歌、そして「生まれざる子供たち」という存在自体を考えてみても

このオペラは多分に生命倫理的な問題を含んでいるのではないかという思いに至りました。うーむ、『影のない女』おそるべし!

 

ぼんやりとそんなことを考えつつ、音楽の余韻に浸りながら帰路へ。

最後になりますが、オペラを観に行くと語学の意義を実感することが出来るので、学生の方(特に一年生)には本当におすすめしたいと

思います。初等レベルで十分、単語と文法が少しわかるだけで楽しみ方が全く変わってきます。今回のオペラでもIch will nicht!が

分かるだけで感動の幅は大きく違うはず。純粋な芸術的感動を得る事が出来るだけでなく、語学のモチベーションを高めるのにも絶好の

機会となるでしょう。僕もフランス語をしっかり勉強して、次回六月のカルメンでは出来るだけ字幕に頼らず鑑賞したいと思う次第です。

 

 

ポール・リクール『記憶・歴史・忘却』(2004,新曜社)

 

最近読んで衝撃を受けたのがこれ。原題はLA MEMOIRE,L’HISTOIRE,L’OUBLI.

上下巻に分かれており、分厚さだけでも衝撃的なのですが、中身はもっと凄いです。まだ理解できたとはとても言い難いので

中身についての細かいレビューは避けますが、フーコーやアラン・コルバンに興味を持っている僕にとって、ポール・リクールの著書は

大いに刺激的なものでした。(それこそ、卒論のテーマ構想に影響してくるぐらい!)

リクールはコレージュ・ド・フランスのポストをフーコーと争った人でもあり、同時にアナール第三世代の影響を強く受けています。

ちなみにポール・リクールの講演はyoutubeで見ることができます。最近のyoutubeではフーコーやドゥルーズの講演も見る事が

出来るので、最近それらをフランス語リスニングの教材にしています。といっても、ほとんど分かりません。読んでも分からないのだから

当たり前といえば当たり前ではあります(笑)

 

リクールの本書を一通り読み終わったので、さっそく今日から再読し始めます。リクールの大著と並んで気になっている本に、

クリストフ・ヴルフの『歴史的人間学事典』があるのですが、こちらは値段が一冊一万円以上するので、簡単には買えそうにありません。

しかし紹介文を見る限りではめちゃくちゃ面白そう。

「歴史的人間学とは、伝統的な規範が拘束力を失った今、人間的な諸現象を多様に、トランスナショナルに学科横断的に研究し続ける

努力、止むことのない思考の活動性である。」

「本書で取り上げられるいずれの事象も、かつて哲学的人間学のように「・・・・とは何か」といった超歴史的・規範的立場からではなく、

ある特定の文化におい て、ある特定の時代において「・・・・はいかに語られてきたか」といった問題設定のもとで論が展開される。

嗅覚や味覚といった、一見超歴史的なものと思え るような事象についてもこうした観点は貫かれ、各文化や各時代の文学作品や

哲学書や民族誌などからその歴史性が明らかにされる。」

「ドイツで展開された歴史的人間学、アングロサクソンの伝統に根ざす文化人類学、フランス歴史学を基盤として、人間の生活様式、

表現様式、叙述形式や、その共通点、相違点を明らかにする。」

 

とあっては読みたくなるのも当然というもの。お酒を呑んだ勢いでAmazonにアクセスしてカートに突っ込もうと思ったのですが、

「在庫切れ」ということでかろうじてストップがかかりました。あぶないあぶない。とりあえずは中古で探してみて、無ければ改めて購入を

考えようと思います。学生には中々この金額は辛い。全頁きちんと読んでレビューを書くという条件で出版社の方が一冊提供して

下さったりしないかなあ、と妄想してみたりしますが、まあそんな美味い話はないですね(笑) 大人しく、いつかどこかで買うとします。

 

 

 

VAIO Pの使いみち

 

まず、ポケットに入れます。

なんてわけはないですが、先日届いたVAIO Pはかなり使い勝手が良いです。とにかく良く考えられた製品だなあという印象。

サイズは片手でバッチリ掴めるサイズ。しかも強度が気にならない程度の厚みを持っています。あんまりペラペラなパソコンだと、

外で開いたりするのに躊躇してしまいそうですが、この厚みならガンガン使える。横長のサイズのおかげで、カフェの小さな丸テーブル

などでもストレスを感じず使うことができます。

 

具体的な使い方としては、前の記事で書いたように、電子辞書化+EVERNOTE+メールチェック専用のパソコンにしています。

授業中はとりあえず開いて起動させておく。分からない単語や意味があったら即座に辞書にアクセスするか、ネットにアクセスして

検索をかける。手で取りづらいメモは打ち込む。こんな感じです。小さなサイズだからキーが打ちづらいのでは、と思われるかも

しれませんが、もともと打ちづらくないうえ、慣れてしまえば普通のキーと同じぐらいのスピードで打てます。キーを斜めから打つというよりは

上から打つ感じにする(ピアノの弾き方に似ている)と良いでしょう。これによって、ネットサーフィンやブログ更新ぐらいならスルスル

出来てしまうし、長文メールも打つのが苦になりません。カバンの中にポンと入れておいて本を読む感覚で取り出すことができるというのは

これ以上ない快適さです。最初にこれが発売されたのは去年だったと思いますが、さっさっと買っておけばよかった!と少し

後悔しています。(とはいえOSがVistaでは辛そうなので、待っておいて正解だったかもしれません。待ち過ぎた感は否めませんが)

 

機種の性格からして、ユーザーそれぞれが使い道を相当に工夫して使っていらっしゃいそうな気がします。

他のPユーザーがどのような使い方をしているか気になるところですね。