『ダニエラという女』を観た。監督はベルトラン・ブリエ。2005年の映画である。
原題は Combien tu m’aimes? つまり「私をいくらで愛する?」という感じになるだろうか。
原題から分かるように、ここで出てくる主役のダニエラは娼婦である。宝くじで大金を当てたといって
冴えない中年男(この冴えなさを演じられるベルナール・カンパンはある意味で凄い)が彼女、ダニエラを
「金が無くなるまで一緒に住んでくれ。」と言って買う。そしてそれを受けたダニエラは男の家に行き、
ソファーに座って彼女は自信たっぷりに言う。「特技は愛されること。私を見た男はみんな私を愛すわ。」
確かにダニエラ(を演じるモニカ・ベルッチ)は凄いプロポーションで、自身に満ちたそのセリフにも
説得力があると言うものだ。とりわけ背中が美しいので、「女性の肩甲骨あたりにエロスを感じる。」という
方には是非見て頂きたい。ただし、シナリオは最終的に「なんじゃこりゃ」的な展開を見せるため、感動を
期待して見ると痛い目に合うと思われる。(個人的にはモニカ・ベルッチよりも中盤に出てくる
サラ・フォレスティエの方が好みだが、まあそんなことはどうでもいい。)
女優ばかりに目が行きがちな映画だが、異常なまでにコケティッシュな音楽の使い方も一聴に値すると思う。
ちなみに、本映画はR18指定。映像自体は「ベティ・ブルー」の方がよっぽどR18だったが、セリフの激しさは
こちらの方に軍配が上がるかもしれない。日本語字幕ではかなり控えめに訳されているようだが、
原語のセリフは間違いなくR18である。ちょっとここには書けないぐらいだ。
しかし結局、この映画は何をやりたかったのだろうか。
金で居場所を転々とし、金で男に買われ、しかしそんな生活に誇りと満足を覚えていたダニエラは
最後に中年男のところへ戻る。ラストシーンの衝撃的な事実を知らされても、である。
中盤で彼女は言う。「私の自由は私のもの。金で私を買っても、私の自由は私のものよ。」
しかし、一方で彼女は、「自由になるのが怖い。」とも言うのだ。その二面性は一体何なのだろう。
このあたりにこの映画の意図が含まれているような気がする。
色々と考えながら、ダニエラを演じるモニカ・ベルッチのその先に何も捉えていないような空虚な目を
見ていると、「今」も「未来」も何もかもが夢みたいに思えてくる。どこからが現実でどこからが虚構なのか。
確かなものなんて何もないし、一瞬先がどうなるかなんてもちろん分からない。
けれども、美しいものは確かに美しい。そんなふうに、我々が縛られている常識や規範の枠組みを超えた「
「美」礼賛の映画と見ることもできるかもしれないな、とふと思う。コケティッシュな美しさや性・愛を
このように堂々と、しかし狙い澄まして陳腐に描くベルトラン・ブリエは、やはり只者ではない。
美しい肩甲骨が罪なのであって、肩甲骨を美しいと思うことが罪なわけではない、と自己弁護。
俺はモニカ・ベルッチのほうがいいかな
って何言ってんだ(笑)
サラ・フォレスティエさんは髪の毛をおろしてるときの方がいいと思いました。
>カナヅチ氏
出たな!(笑)肩甲骨、とまで限定的ではないけれども、背中のエロスは俺も理解できるよ。
>聖氏
お、意外。ちなみにこのときのベルッチは40代だそうです。
>N氏
同じく。俺は基本的に、前髪があって髪の毛おろしてる人の方が好きですね。
なぜかこの記事が異性の好みについての記事になりつつあるのが面白い(笑)