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帰省と『世界は分けてもわからない』(福岡伸一,講談社現代新書,2009)

 

 部屋を片付け、戸締まりをチェックし、買ったばかりの白シャツを羽織って家を出る。

一度駒場に寄ってロッカーからサッカーのスパイクを取り出し、合宿解散後と思しき学生たちの列に紛れながら渋谷へ向かう。

渋谷から新宿へ、それから中央線で東京駅へ。座席を取った新幹線までにはまだ少し時間があったので、八重洲北口の近くの

ロッカーへ荷物を全て入れ、財布と携帯だけを持って丸の内北口へ歩いた。

することは決まっている。OAZOの丸善で、車内で読むための本を買う。そのまま階を上がり、丸善の文房具売り場を冷やかした後、

新丸ビルへ向かう。ここで何を買うわけでもないけれど、僕はこの新丸ビルの内装と雰囲気が大好きだ。

重厚さを持ちながら圧迫感の無い空間。パサージュに並んだ店を通ってゆく快感。

間接照明が壁の木目に何とも言えない影を作っている。この空間が本当に似合う大人になりたいと思う。

エスカレーターを上がったところの広間には見るからに座り心地の良さそうなソファが並んでいるから、新幹線の時間を待つために

一階が見下ろせるソファの一つに座って、買ったばかりの『世界は分けても分からない』を読み始めた。

 

 東京を電車が離れてゆく。あっという間に東京が後ろへ流れ去ってゆく。逆説的ではあるが、このようにして東京駅を後にするたび、

僕は自分が東京で生活していることを実感する。戻る場所が二つあるのは幸せなことだ。

名古屋を過ぎたあたりで『世界は分けてもわからない』を読み終えた。ちょっとしたオチが隠された話になっているから、

ここに詳しく書く事は避ける。前著の『生物と無生物のあいだ』でも感じたことだが、福岡伸一はやはり「読ませる」科学者だ。

断片的なエッセイのような文章。しかし、それが全体の中ではしっかりと繋がりを持っている。とりわけ面白かったのはES細胞を

「空気が読めず、自分探しをしている細胞」と説明している部分や、ガン細胞を「あるとき急に周囲の空気が読めなくなった細胞、

停止命令が聞こえなくなった細胞」だと定義している部分。これらの記述が見られる第四章は、ES細胞とは何なのかを非常に

分かり易く読ませてくれる。それから第六章の「細胞が行っているのは懸命な自転車操業なのだ」などのくだりも面白かった。

 

 さらに第六章では人の生・死をどこに求めるかという点が書かれているが、ここでの「人が決める人の死は生物学的な死から離れて、

どんどん前倒しされている」という記述はたった一行に留まらぬ深さを持った問題であろう。(ここから、「人の死」を脳死とするなら、

論理的対称性から、「人の生」は脳がその機能を開始する時点に求められるという「脳始」論が構想されることになる。だが、これは

生物学的な生の両端を切断することに他ならず、我々の生命の時間を縮めることになる。)

 

 第七章は様々な事例を参照しながら、記憶と認識の関連を探った章である。ここでとられているのは科学的なアプローチであるが、

それはP158の「顔とは・・・(中略)・・・私たちの認識の内部にある」という一節に見られるように、アンリ・ベルクソンの哲学を想起

させる。ベルクソンの記憶論を、実例を用いながら検証しているような思いにさせてくれる章であった。

第八章から第十一章の「ストーリー」は、実際に本書を読んでドキドキするのが一番だと思うので、ここには書かない。

『生物と無生物のあいだ』のみならず、『もう牛を食べても安心か』や『動的平衡』など、福岡伸一の本は今までハズレが無かったので

今回も楽しみにして買ったのだが、予想よりも遥かに面白い本であった。文系・理系関係なく、気楽に読んで楽しめる本だと思う。

 

 新幹線を降りると京都特有の湿った暑さが立ち込めていた。

エスカレーターではみんな右側に立っているし、周りから聞こえてくる言葉も関西弁ばかりなのでホッとした気分になる。

帰省しているのはわずか二週間に過ぎないが、予定は大量に詰まっている。母校の会議に出たり高校時代の友達とサッカーをしたり、

浪人時代の友達と会ったり、生き別れ(?)になってしまった僕のボウリングの師を探す旅に出たり・・・。

しばらく京都や大阪、神戸を行ったり来たりすることになるだろう。駿台神戸校で恩師の授業にも潜り込んでみようと企んでいる。