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伊豆サーフトリップその2

 

 クラス旅行Part2、またまた伊豆へ波乗りに行ってきた。

宿泊先は前回と同じくガーデンヴィラ白浜。下田駅からバスで十分、歩いて一時間(勢いあまって歩いて来た友達が約一名いた)

の距離に立つ、とても素敵な宿である。天気予報では三日間とも曇り空の予報が出ていて、電車が下田に近づくにつれて

雨が降ってきたりして「泳げるのか・・・?」という不安に駆られたりもしたが、前回も雨の予報を覆した実績があるので、

自らの晴れ男パワーを信じて雨の伊豆高原を抜け、下田に達する。

 

 海辺は青空だった。海の緑がかった青がどこまでも続き、沖の方にはうっすらと島が見える。晴れ男パワー恐るべし。

太陽に喜びつつ急いで宿に向かい、オーナーさんに挨拶をして水着に着替え、浜へ向かう。

台風が過ぎた後だけあってかなり良い波が来ている。崩れ方も綺麗な胸ぐらいの波。その分人は結構多かったが真夏の比では無い。

ボディボードを教えたり友達を穴に埋めたりビーチフラッグスをやったりして海を満喫する。前回よりも海水が塩辛かった。

合間を見て、今年からはじめたショートボード(今まではロング-ファンだった)に挑戦してみるが、今までとは感覚が違い、なかなか

テイクオフが安定しない。板が短いために浮力が乏しく、パドリングでかなりスピードをつけないと安定したテイクオフにならない。

二日目になってようやくコツがつかめ、それなりに安定したテイクオフが出来るようになった。出来るようになってみると楽しいもので、

ボディボードやロングボードに乗っている時よりも滑り出しの感覚が気持ち良い。波に押される、というよりは波を切る感じ。

波の力でグッと押されるというよりはシューッと波を切っていく感じがあって、耳元で波切り音が聞こえるのがとても楽しかった。

 

 宿の素晴らしさは相変わらずで、初日の晩御飯には前と同様、豪華な舟盛りや神がかった美味しさのグラタン、伝説の海老フライ、

二日目の晩御飯(バーベキュー)では大量の肉に加えてサザエやホタテやカマスやアジのヒラキなどを堪能。

「学生がこんなの食べてすいません帰ったらチキンラーメンでしばらく過ごしますので・・・。」と謝りたくなるぐらいの豪華な食事だった。

友達が大分帰省のおみやげに『かぼす酎』という絶品のお酒を持ってきてくれたり、オーナーさんが御好意で『磯むすめ』という焼酎を

一升瓶でプレゼントして下さったり、バーベキューでお隣になったグループ(結婚祝いだったそうだ)の方々からビールやサザエやケーキ

をふるまって頂いたり、宿では沢山の人の温かさにも触れることになった。本当にありがとうございます。

 

 結局三日間とも雨が降る事はなく、それどころかどんどんと天気が良くなっていった。

三日目の朝に窓から差し込んだ光は真夏と変わらないぐらいの明るさで、雲は夏の入道雲、そして部屋から見える海は輝いていた。

最終日、ホテルを出発して海へ向かう前に少し時間があったので、ロビーに置かれていたピアノで久石譲のAsian Dream Songを

適当に弾いてみたり『海の上のピアニスト』の楽譜をロビーで発見してPlaying Loveを片手でさらってみたりして遊びながら、ふっと

鍵板や楽譜から眼を離したとき凄いことに気づいた。なんとこのピアノのボディ、海と空が映っている!!

ちょうど窓を背にして置かれている形だったから外の風景が映り込んでいたのだ。ピアノの黒に青い空と海が映るのは感動モノだった。

 

 三日間かけて体力の限界まで海を楽しみ、白浜を後にする。

夏の雲はいつの間にか鱗雲に変わっており、雲と溶けあう水平線を見ながら夏の終わりを感じた。そろそろ秋がやってくる。

 

 

OTELLO@新国立劇場

 

 Otelloの初日公演に行ってきた。

詳しく書きたいが明日からのクラス旅行の準備をせねばならないので手短に。

指揮のリッカルド・フリッツァをはじめとする豪華キャストで送られるこのOtello、初日だったこともあり相当に気合いの入った公演だった

ように思う。冒頭のAllegro agitatoの表現も激烈で一気に作品に引きずり込まれた。ちょうど右側の座席だったために金管や打楽器が

近い場所にあり、純粋な音量だけでもかなりの迫力。注目すべきは演出で、かなりスクリーンを駆使するなど、「映画」的な演出方法が

至る所でとられておりとても刺激的。歌手に関して言えばカッシオ役はイマイチだったが、イアーゴが途中からどんどん調子を

上げてゆき、ニ幕の「イアーゴのクレド」のところに至っては素晴らしい歌唱を聞かせてくれた。カーテンコールの際もイアーゴが

オテロやデスデーモナを差し置いて一番の拍手をもらっていたのではないだろうか。

(もちろんオテロやデスデーモナも素晴らしい歌唱であり、万雷の拍手をもらっていたのだが、イアーゴはそれを上回った。)

「イアーゴのクレド」は演出も素晴らしく、歌に合わせて壁に十字架を書きつけ、水をぶっかけて消す、というのが面白かった。

 

 四幕、結末は何度も聞いて分かっているはずなのに、いざその時が近づくと鼓動が速くなる。

ここに至ってデスデーモナも絶好調。最後の歌を絶望と悲哀と無念を込めて歌い上げる。一幕の終わりにある「もういちど口づけを」

のシーンと対比させる構図でオテロは自害。音楽も最初の動機をやや強調した形で演奏された。

幕が降りてから、少しの間誰も拍手をせずにじっとしてしまうほどの名演。カーテンコールの際にホールを振り返ってみると

七割ぐらいの観客がスタンディングで拍手を送っている様子が目に入る。それぐらい素晴らしい時間であった。

(なお、僕の近くの座席にキャンベル教授がお座りになっていらっしゃるのを発見してびっくり。派手なシャツを着ていらっしゃいました。)

 

 明日から三日間、クラス旅行という名目で伊豆にサーフィンに行ってくるのでしばらく更新が途絶えると思います。

宿は圏外になるので電話及びメールも時間によっては繋がらないかもしれません。

帰ってきしだい、溜まっている書評や旅行談などを順次書いていく予定です。

 

面白い動画をいくつか

 

 昨夜ネットサーフィンをしていたら面白い動画を発見したので、いくつか紹介。

 

how to go down the stairs ⇒このままGoogleに打ち込めば最初に出ます。ちょっと真似したくなった。

Top 10 tricks⇒http://www.youtube.com/watch?v=YTLFLn9gHRE&feature=relatedで。子供は真似しちゃダメ絶対。

タイヤの結末⇒Googleで タイヤ レース 結末 で検索すればトップに来ました。激しくシュール。結末はもっとシュール。

A normal days trick ⇒ニコ動でこのタイトルで検索すれば出るはず。日常に取り入れてみたいと思います。

Chain Surfing ⇒Googleでこのタイトルで検索。動きが神がかってる。やってみたいけど捕まりそう。駒場で練習するか。

30000 matches bomb ⇒YoutubeかGoogleでこのタイトルを検索。大した意味はない動画だが、実験好きにはたまらない。

最近の親は子供にこんなDQNネームを名づけます⇒ニコ動。にわかには信じがたい名前が連発です。

タキシード仮面&月影の騎士名台詞70⇒ニコ動。これは見るべき。笑い過ぎて涙が出ました。こんなに面白かったとは・・・!

 

 ひと通り見た後、指揮法のトレーニングをこなし、明日のOtelloに備えてちょっと楽譜を勉強。読めばよむほどヴェルディ凄い。

明日が楽しみです。ちなみに今日コンビニで「流浪に剣心」の復刊(?)バージョンが置いてあったので立ち読みしてきたのだが、

最後にるろけんを読んだのは中学時代の授業中だったので、久し振りすぎて大変懐かしい気分になった。やっぱこの漫画は名作です。

基本はドラゴンボールっぽい(というか、ドラゴンボール以降の戦闘シーンのある漫画はドラゴンボールの影響を受けないのは不可能

なんじゃないかとすら思う。NARUTOなんかまさにそんな感じ。ロシアン・フォルマリズム的に分析したら面白いかもしれない。)

のだが、るろけんは力の抜き方がうまい。この漫画で扱われる「抜刀術」という技に適応するかのように、シナリオにおける静/動の

対比が素晴らしいと思う。静の部分で描かれるキャラの表情が動部分とGAPがあって、とても可愛らしい感じに描かれているから、

男性のみならず女性ファンもかなり多かったというのも納得できる。静と動を切り替えつつ、キャラクターが見事に立っている。

復刊コミックはまだ天駆龍閃(漢字これで良かったか自信なし)を覚える遥か前、牙突の斎藤一と再会するシーンあたりなので、

次巻以降どんどん面白くなってくるところだ。久し振りに読みなおそうと思う。

(どうでもいいけど牙突の構えってビリヤードの構えに似ている気がする。ブレイクショットに応用できないものか。)

 

まさかの大澤真幸

 

 社会学者の大澤真幸教授が京大を辞職されたことを知った。

原因はどうやらセクハラのようだ。それを聞いて本棚に並んだ大澤の『恋愛の不可能性』を眺めると何とも言えない気分になった。

この書で大澤は欲求と恋愛の不可分性を述べていたが、今回の事件、ある意味で恋愛の不可能性に陥ってしまったようにも見える。

 

 高校時代から僕は大澤真幸の著作に大きく影響を受けてきた。

そして大澤真幸の著作はほとんど購入してきた。あの分厚い『ナショナリズムの由来』ですら浪人時代に買った。(初版だった)

内容というよりはむしろ、テーマへの切り込み方や文の運び方を尊敬していた。

大澤の師匠である見田宗介もそうであったが、とにかく「読ませる」文章を書かれる人だ。

書き手の思考の切れ味や知性がバシバシ伝わってくるような文章で、こんな文章が書けたらいいなあと少し憧れていた。

問題への切り込み方も本当に鮮やかだった。『美はなぜ乱調にあるか』で彼は最後に「イチローの三振する技術」という論考を

掲載している。たとえこれが「トンデモ」だと言われようと、この論考がとても魅力的である事は変わらない。

(最後につけられた脚注を読んで欲しい。大澤はここで、野球において打者は中世の「騎士」であり、投手と捕手という「夫婦」の

関係を攪乱する第三者であるという読む者の目を驚きに開かせる注をつけている。)

大澤の文章の巧みさについては、松岡正剛先生が「千夜千冊」というサイト(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/)の

2005年12月14日の記事、『帝国的ナショナリズム』の評で「能」の用語を用いて説明されているので、それを引用させて頂こう。

・・・

能はカマエとハコビでできている。(最近の大澤の文章は)そのハコビに緩急が出てきた。そうすると読者も「移り舞」に酔える。また、能の面の動きはテル・クモル・シオル・キルに絞られているのだが、十分にゆっくりとした照りと曇りが見せられれば、突如の切り(面を左右に動かす)が格段の速度に見える。そうすると観客の心は激しく揺すられる。
学問といえども、その70パーセントくらいは読者や観客に何を感じさせたかなのである。カマエもハコビも大事だし、テル・クモル・シオル・キルも習熟したほうがいい。ついでながら学問の残りの20パーセントは学派をどのようにつくって、それがどのように社会に応用されたかどうかということ、残りの10パーセントが独創性や前人未踏性や孤独感にかかわっている。学問はそんなものなのだから、どこで才能を発揮してもいい。

もともと大澤真幸はかなり早口で喋っていても、その語りをもう一人の自分でトレースできる才能をもっている。いま自分がどんな言葉をどの文脈で使おうとしているか、その言葉によって話がどういう文脈になりつつあるのか。それを聞いている者にはひょっとするとこんな印象をもったかもしれないが、それをいま訂正しながら進めるけれど、それにはいまから導入するこの用語や概念を説明なしに使うが、それはもうすこし話が進んだら説明するから待ってほしい、それで話を戻すけど‥‥というふうに、自分で言説していることをほぼ完璧にカバーできる能力に富んでいた。アタマのなかの”注意のカーソル”の動きが見えている。
 ぼくはどうもうっとりできないんですよ、「考える自分」と「感じる自分」とが同時に動いていて、その両方を観察してしまうんですよ、と大澤自身がどこかで言っていた。まさにそうなのだろう。それがいいところなのだ。

・・・

大澤真幸の文章に親しんでいる人なら、「そうそう、まさにそんな感じ!」と頷いてしまう、的確な評だと思う。

アカデミズムの構造を利用したセクハラは許されるべきではないが、一読者として大澤真幸の著作は楽しみにしているので、

これからも魅力的な書を書き続けて頂ければなあ、と思う次第である。

 

 そんなこんなで今日は一日家でゆっくり。

少し前にプールへ行ってバカみたいに2キロ泳いだ(1キロを平・クロール・背泳ぎで。残り1キロをビート板を使ってパドリングだけで。)

ので、身体が筋肉痛でやられていて動く気にならない。いつもなら8ゲームほど投げに行くところだが今日は自粛。

その代わりにネットサーフィンをして良さげな新作ボールの動きを見る。

Stormのレイン、900Globalのブレイクポイント・パールの動きは見ていて欲しくなる。自分の回転数とセンターのオイルの関係上、

どうしてもパール系の球ばかりが欲しくなってしまう。ブラックパールとソラリスの予備も買っておきたいし、Kineticのエピセンターも

投げてみたい。でもそんなに買ったら間違いなく破産するし、まず家に足の踏み場がなくなってしまうだろう。というわけで我慢。

もし走る球を購入しようと考えている方がいらっしゃれば、新作ではこの辺りのボールがお薦めだと思います。

 

 夜、冷蔵庫のあり合わせを使って三つ葉と豆腐のお吸い物と出し巻き卵を作り、白旋風の水割りと合わせて頂く。

卵焼き用ではないフライパンだが、それでも十分に綺麗な卵焼きが作れるようになって嬉しい限り。外はふんわり、中はややトロである。

我ながら美味しい。一杯のお酒とそれなりの御飯があればとても贅沢な気持になれるものです。

なお、『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記(上巻)』と『日本の近世 14.文化の大衆化』を読了したので、

また日を改めてレビューを書きます。

 

東大ガイダンスのブログに寄稿しました。

 

 おはようございます。

東大ガイダンスさんより頼まれた記事を書いていたら、いつの間にかスーツ姿のサラリーマンが町を埋め尽くす時間になっていました。

こちらのブログにも書きたい事はあったのですが、そろそろ寝ないとレッスンで寝てしまうことになりそうなので、今日の記事は

東大ガイダンスのブログに寄せた文章ということにしておきます。こちらのブログに書いている事のまとめのような記事なので、

このブログをいつも読んで下さっている方にはやや退屈かもしれませんが、結構気合いを入れて書いたので是非読んでみてください。

それではおやすみなさい。

 

 と思ったところで炊飯器が電子音を鳴らしました。セットしていた時間どおり、律儀に米を炊いてくれたようです。

寝ようと思ったのに・・・でも炊きたての御飯を放置して寝るのは米と炊飯器に申し訳ないなあ・・・。どうしたものやら(笑)

 

 

" La fille sur le pont " 邦題 『橋の上の娘』(Patrice Leconte)

 

 最近、映画評ばかりが続いています。

というのは近所のレンタルショップがたまにレンタル一週間190円セールをやってくれるので、その日に大量に借りこんできたためです。

フランス映画が中心なのはフランス語のリスニングにいいかなと思ったから。字幕あり/なしで二回見るとかなり勉強になりますね。

 

 さて、この『橋の上の娘』、1999年公開の映画にもかかわらず全編にわたってモノクロです。

最初はちょっと戸惑いましたが、観終わった後に「この作品はモノクロでないと!」と言わしめる内容を持っています。

ナイフ投げの男Gaborと、橋の上から飛び込んで自殺しようとしているところをGaborに救われナイフ投げの「的」にスカウトされた

Adeleの二人が織りなすストーリー。でも、ストーリー自体は非常に単純。後半の展開はほとんどの人が読めてしまうもので、

「もしかしてこれで終わるの・・・?」と思っていると下からエンドロールが上がってくるという、もうひと展開ぐらい期待したい

ストーリーではあります。この映画の素晴らしさはショットのスピード感ではないでしょうか。緩急を自在に操るカメラワークで、たとえば

Adele役のヴァネッサ・パラディが髪を切っていくところのスピード感溢れるショットや、試着室でドレスを次々に着替えていくところの

躍動感(音楽と動きを合わせてあるため、ダンスみたいに見えます)は見ていて「うまいなあー!」と思わされました。

モノクロであることがこのあたりのスピード感の表現に繋がっているのかもしれません。(モノクロで思い出しましたが、この映画には

虹を見て「虹ってイタリア語でなんていうの?」と問いかけるシーンがあります。モノクロの虹を見たのは初めてで、とても新鮮でした。)

 

 モノクロでなければならなかった最大の理由、それはこの映画の本質である「官能」を表現するためではないでしょうか。

Adeleはその眼差しを使って出会ったばかりの男たちとすぐ寝てしまいますが、ベッドシーン自体は殆ど描かれません。

むしろそれは大したものではないように描かれ、そこに官能性は皆無といって良いでしょう。しかし、Gaborのナイフ投げを「的」として

受けるときのAdele(そしてGabor)は違う。ナイフ投げのショーを無事に終えた後、

「恐怖と快感を同時に感じた事はある?」とAdeleが問い、「ある。さっきだ。」とGaborが答えるシーンがあるように、

この映画においてAdeleにナイフ投げを行うシーンはベッドシーンの表象だと言っても過言ではないはずです。

中盤、線路を渡った後のシーンで行われる「観客のいない二人だけのナイフ投げ」では、AdeleとGaborが

(ちょっとわざとらしすぎるほど)ベッドシーンを彷彿とさせる表情でナイフ投げを行っています。

暗闇に男の荒い息と鋭い眼つきが浮かび上がり、モノクロの肌のすぐ近くに輝く刃が突き立つ。

ここは監督のパトリス・ルコントが最も力を入れたであろうシーンではないでしょうか。官能と恐怖の近似をリアルに伝える映画でした。

あと、映画の内容にはあまり関係ありませんが、台詞で「コアントロー」と言っているところを字幕で「甘口のリキュール」と

訳しているのはちょっと興味深かったです。

 

 

  映画を見たのは例によって深夜で、夕方にはこれまた恒例のプロとの試合に行ってきました。

今日はいつもと違ってオイルがかなりあるレーンだったので、レフティの王道ラインである五枚目や場合によっては二枚目まっすぐ

というガターギリギリのラインで、横回転を主体にして手前を十分に走らせ、奥で一気に切れ込ませるラインをとりました。

このラインをとったのは本当に久しぶり(ホームのセンターはオイルが薄いので、いつもディープインサイドに立つ羽目になっています。)

だったのですが、このラインで投げるのは、大きく出し戻しするいつものラインに比べてめちゃくちゃ簡単に感じました。

気合いを入れて外を転がしておけばポケットに勝手に集まるし、入った時のタップも少ない。残っても7ピン一本だけがほとんど。

おかげで9ゲームでセミ・セミパーフェクトを含む224アベレージを叩く事ができ、プロに勝つことができました。

 

 個人的なものなので他の人の参考になるかは分かりませんが、特に肘を入れて投げる方は、ボールの下に手が来た時に手のひらを

のばす(当然フィンガーも伸びる。手のひらが全体的に張るような感じ。)ようにするとカップをブロークンにする際に親指を抜きやすく

なることに気がつきました。この動きは本当に一瞬のものですが、調子のいいときにはしっかりとこの動作を意識する事が出来るし、

出来たときには球に乗ってくる回転数が段違い!これが出来てはじめて、小指に意識を向けることによる回転角度のアレンジが

可能になってくるはずです。ここまでくれば「手のひらがボールを追い越す感じ」も味わえます。出来るとかなり気持ちいいですよ。

リフト&ターンの動きを考えてみたとき、肘を入れずに投げる方でもリリースの瞬間に掌をのばしてみる(全力で「パー」をする)と、

親指が綺麗に抜けてフィンガーに乗ってくる効果が得られるかもしれません。

 

 新聞配達のバイクが去っていく音がしました。

そろそろ朝ですね。七月・八月ごろと違ってまだ空は明るくなりそうな気配がありません。

空つながりというわけではないですが、今からアラン・コルバン『空と海』(藤原書店)を読んで寝ることにします。

東大ガイダンスのブログの記事と母校から小論の寄稿を頼まれているのでこちらも早く完成させなければ。

指揮法のレッスンやフルートのレッスン、デザインの仕事など、夏休みの終わりになって段々と予定が増えてきた感があります。

この調子のまま学校が始まったら毎日どうなるんでしょう(笑)

 

植田伸子さんのピアノリサイタル

 

 オール・ベートーヴェンで組まれたこのリサイタル、Haydnのコンチェルトのソリストでクラスの友達のNさんからチケットを頂いたので

わくわくしながら上野にある東京文化会館へと向かった。植田さんのコンサートを聴くのは昨年の演奏会に続いて二回目。プログラムは

演奏順に Piano Sonata No.3 , 13 , 18 , 27であり、No.14が『月光』、No.17が『テンペスト』、No.26が『告別』であることを考えると、

有名どころのソナタをあえて外して構成されたプログラムのように思われた。No.3 , No.13はそれまでにほとんど聞いた事が無かった

ため、はじめて聞く曲のつもりで聞く。対してNo.18 , No.27は自分でも弾いた事がある曲で、とりわけNo.18は好きなソナタの一つ

(Rubinsteinのピアノ、Barenboimの指揮による『皇帝』にカップリングされているNo.18を数年前から愛聴していた。)であったため

この軽快な曲がどのように弾かれるのか楽しみにして、ホールのライトが落ちるのを待った。

 

 あっという間に全て聴き終わる。No.27も良かったが、No.18がとりわけ素晴らしい演奏。

この曲はしばしば指摘されるように、出だしが二度の七の和音(Ⅱ7)という型破りの音で始まる。

これをどんな音色で弾くか、そしてその後の激しいテンポ変化をどう表現するかで全体の性格がある程度決まると思う。

植田さんは出だしの音にじゅうぶんな時間をかけ、その響きを我々の耳に焼き付けた。リタルダンド、フェルマータに差し掛かっては

聴衆に息を止める時間を与え、そして走り出す。多くない音がかえって美しい。ガラス玉を光に透かしたような輝きの高音、

重さのある低音、二楽章での左手の同音連打の強調が心地よい。そうかと思うと音量の鮮やかなコントラストに耳を奪われる。

ひたすらに楽しい二楽章。一転して三楽章ではしっとり、でも思いっきり歌った演奏。

頭の中で二楽章のリズムがリフレインされながら、ベールのようにこの三楽章が被さってくる。

そして四楽章、楽しさをもう一度爆発させる。左手の伴奏に乗っかってくる右手がほんとに楽しそう。

植田さんがベートーヴェンを楽しんでいることが伝わってきた。量感ある低音に支えられた表情豊かな演奏。

聴きながら思わず笑顔になってしまった。そして、ラストも持って回ったような引き伸ばしをせずにサラッと軽めの音で切り上げる。

動けないような感動を与えるのではなくて、「楽しかった!もう一度聴きたい。リズムやメロディーの一部が頭から離れない。」という

思いにさせてくれる演奏だった。こういう演奏凄く好きです。

 

 全体的に、プログラムが進むにつれてどんどん調子を上げて演奏されていたのではないだろうか。

No.13の後半ぐらいから植田さんの持ち味(だと僕が勝手に思っている)の重さと鋭さを備えたスフォルツァンドが聞こえてきたと思う。

アンコールもすべてベートーヴェンで、〆は昨年と同じく『エリーゼのために』。力の抜けた演奏、たっぷりとルバートをかけた演奏で、

誰もが知るあのフレーズに聴き入った。

 

 久しぶりにコンサートへ足を運んだがやっぱり生演奏はいい。外からはもちろん、身体の中からも元気が湧いてくる。

素敵な時間を過ごさせてもらいました。チケットをくれたNさんありがとう。またみんなで何かコンサート聴きに行きましょう。

 

『ベティ・ブルー インテグラル』(1986,Jean-Jacques Beineix)

 

 うーむ。

とんでもない映画を見てしまった気分になった。

日本では『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』として公開された作品の完全版がこの『インテグラル』で、原題は37°2 le matin という。

これは「朝、37.2度」と訳されるもので、女性が妊娠する確率が最も高い体温のことを指すそうだ。

このことだけからも分かるように、本映画はとにかく激しい。冒頭からいきなりびっくりさせられる。

この映画は見る人の性別によってまったく評価が変わってくると思うが、男の僕からすると、最後までベティの激しさに困惑し、

振りまわされ続け、ときに「もう手に負えんなこれは。」とイライラしつつもどこかで惹かれ続け、悲劇的な結末に言葉を失った。

印象的なセリフも場面も沢山あるが、あらすじに関する部分を書いてしまうと一気につまらなくなるから、それは実際に見てもらう

(特に女性の方はこの映画にどんな感想を持つのか聞いてみたい。)ことにして、ここでは映像の美しさを語るに留めようと思う。

 

 この映画、とにかく「青」が美しい。

とりわけ朝、夜と朝の境界の時間だけに差し込む光の青だ。

この青は白いものを神秘的に染める。擦りガラスの白、テーブルクロスの白、猫の毛の白、女の肌の白・・・これらが青に染められる

様子をこの作品は見事に捉えている。そして、この青が届く場所と届かない場所を分けて明確に対比させている。

ラスト直前のあのシーン、ベティを包むシーツには青の光が届かない。建物の壁は青く塗られているが透明な青ではなく、俗悪だ。

対してゾルゲの後ろにある窓から差し込む光の青はこの青、ベティ・ブルーとも言うべき青である。

そしてラストシーン、ゾルゲが机に向かい小説を書く姿の後には、瓶に入った水がぞっとするほど美しい青に照らされてそこにある。

炎のように燃えるベティの激情や血が全編を貫きながらも、観終わった後にある種の静謐さを感じるのはこの青のせいだろうか。

 

 夜明けと朝の境界の青。

神秘的なこの色に包まれて、身を破滅させるほどに激しく鮮烈な物語が夢のように消えていく。

朝四時、ちょうどベティ・ブルーがあふれる時間がやってきた。カーテンを開けよう。

 

" Pas sur la bouche " (邦題 『巴里の恋愛協奏曲』)

 

 ” Pas sur la bouche “、つまり「口ではなく」という映画を見た。監督は『夜と霧』のアラン・レネ。

感想は・・・なんじゃこりゃ、という感じ。(笑) 音楽と衣装と舞台がゴージャスな、フランス語でテンポよく演じられる吉本的コメディ。

真剣な場面は一切なく、すべてがユーモアと歌に溢れている。1920年代のオペレッタをそのまま映画化した作品だそうで

映画というよりはミュージカルっぽい。何も考えずにリズミカルな曲と衣装のきらびやかさに浸っていられるので見ていて疲れない。

何度も何度も歌われるため、この映画を見れば「口」がフランス語で女性名詞(la bouche)であることは確実に記憶できるはずだ。

 

 『アメリ』の主人公役で、最近では『ダヴィンチ・コード』のヒロインであるソフィー・ヌヴーを演じたオドレイ・トトゥがとても綺麗で、

彼女がシャネル役を演じる『ココ・アヴァン・シャネル』を観るのが楽しみになった。(公開は今年の九月十八日。あと一週間ちょっと。)

ラストシーンで流れる曲の歌詞が、『このオペレッタ、笑ってくれると嬉しいな。それではさようなら。(しばらく間奏)

・・・あれ、まだ残ってくれてたの?フィナーレまで残って観ていってくれてありがとう。また観てね!」という内容だったのがニクいところ。

聴いていて楽しい曲が沢山あったのでサウンドトラックを買ってみようと思っている。頭の中で何曲かリフレインされていて寝づらい・・・。

 

『大聖堂 果てしなき世界 中・下巻』(ケン・フォレット,ソフトバンク文庫 2009)

 

 ついに完読!!

素晴らしい小説だった。今日は一日家に籠っていようと思い、午後三時に本書の中巻を開いて読み始めてから、飲まず食わずで

夜の十一時までかけて中巻・下巻合わせて1300ページ以上をノンストップで読み切った。

中巻の一ページ目を開いてから下巻の最後の一行を読み切るまで、休憩したいとも休憩しようとも思わなかった。

 

 中巻はまずもって「権威」との戦いが描かれている。権威を持たない者たちがあの手この手で権威や保守的構造・慣習に

立ち向かおうとする。一度は上手くいくように見えるものの、最終的には地域レベルを超えたより上位の権力の前に屈服させられる。

その様子は、読んでいてイライラするほどだ。これらと同時に、すれ違うばかりで上手く交差しない恋愛や、中世ならではの「ナンセンス」

な恋愛構造が描かれもする。そして最も大切なことは、ペストという大悪疫(La moria grande)と、百年戦争という戦い。

中世世界を揺るがせるこの二つの事件が、人々に次々と死を与えていく。中盤あたりで独白的に述べられる、これらを目の当たりにした

カリスの言葉からも見えるように、中巻は全体としていわば「不条理」が描かれている巻だと言えるだろう。

 

 対照的に下巻は解決の書だ。

上巻からずっと時間が経ってあの頃の指導者たちはほとんどが故人となり、子供だった登場人物たちがこの世界を動かしてゆく世代に

なっている。彼らは時代に翻弄され、抵抗し、罰せられ、そして立ちあがる。

とりわけ、メインキャラクターとして描かれるカリスの不屈の精神力(そして同時に、時折見せる人間らしい弱さ。)は読む者の心を打つ。

以下に、「絶対に許さない」と夜明けの大聖堂の屋根の上で力強く言い切るカリスの台詞を引用しよう。

 

カリスはさっと腕を広げ、町とその向こうの世界を示した。

「何もかもよ。身体がどうにかなるまで喧嘩している酔っぱらいとか、わたしの施療所の入口に病気の子供を捨てていく親とか、

ホワイト・ホースの外のテーブルの上で酔った女と性交するために行列をつくっている男たちとか、遊牧地で死んでいく家畜とか、

半裸で自分を鞭打ち、見物人から小銭を集める悔俊者もどきとか。それに、わたしの修道院で若い母親が残忍に殺されたわ。

ペストで死ぬのなら、運命と諦められるかもしれない。でも、生きているかぎりは、この世界が壊れていくのを黙って見ているわけには

いかないわ。」 (同書下巻 P.268)

 

  偶然に揉まれ、必然に流され、時代の中で登場人物たちは時に交錯しながら必死に生きる。

それぞれがそれぞれの問題を抱え、読者である我々に問いかける。死や生といった抽象的な問題だけではない。もっと具体的な問題、

例えばカリスとマーティンの辿った人生を考えたとき、「結婚」とはいったい何なのだろうかと考えずにはいられない。

他にも多くのテーマが横たわっているがそれは読んでもらえば届くことなので、これ以上多くは語らないことにしよう。

 

 総計、約2000ページ。

原題である ” WORLD WITHOUT END ” が示すように、時間的にも空間的にも 途方もないスケールと深さを持つ作品だった。

塔の天頂から果てしなく続く世界を視界に広げ、吹いてくる風に身を委ねるような、ただただ心地よい読後感が残っている。