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シンポジウムのお手伝い

 

今日は「教育から学びへ:大学教育改革の国際的潮流」というシンポジウムの手伝いをしていた。

シンポジウムの内容は手伝いをしていたために十分に聞くことは出来なかったが、なかなか盛況だったようだ。

昨日の夜に急遽作った会場スクリーン用の壁紙も好評だったようで一安心。来場者は大人の方が比較的多かったように思ったが、

それなりに学生も見える。教育心理学に進学が内定している学生や、教育に興味がある一年生がしっかりと参加していたのには

純粋に凄いなあと思った。

 

終わってからはレセプション。普段は開放されることのない生協食堂三階でルヴェソンヴェールの美味しいご飯を頂きつつ、

来場者の方と懇談。キャラメルケーキ(これにバニラソースをかけて食べる)が異常に美味しくて、友達と大量に食べてしまった。

レセプションが終わってからは片づけをし、機構の部屋に帰る。そこで教授や友達と、東京大学の現状や東京大学の行く末などを

真剣に語り合ったりしたが、これがとても面白くて、ついつい12時前まで話し込んでしまう。先生方は教養学部という組織に

誇りと自信を持っていらっしゃるし、それに見合うだけの教育を日々試行錯誤していらっしゃるということが分かり、教養学部に四年間

所属することになる僕としては何だかとても嬉しいものがあった。一年生の後輩が、「次の学期からはもっと勉強しようって気になれました。」

と言っていたのが印象的。僕も来学期はもっともっとやらなければな、と改めて身の引き締まる思いがした。

 

教養学部は縛られない学部だからこそ、可能性を無限に持っている。文理のジャンルを超えて学ぶことが出来るのはもちろん、

組織も理念もフレキシブルなだけに、アイデアを形に移しやすい学部だと思う。あと二年間で何が出来るのか、色々と考えてみたい。




Hommage à L3-15

 

ドイツ語のテストがようやく終わった。「第二外国語ドイツ語選択⇒フランス科進学」なんてイレギュラーなことをすると、二年生の四学期で

ドイツ語の試験勉強をやりながらフランス語の授業の準備をし、英語のプレゼンの発表を慌てて作るなどという瀕死状態に追い込まれる。

とはいえ、ドイツ語のザクザクっと言葉が切れていく感じは思考が整理されていくようで面白い。フランス語とはまた違った魅力がある。

ドイツ圏の音楽、たとえばブラームスにしろウェーバーを考えてみても、ドイツ語の性格と共通したところは沢山見つかる。

音楽は一つの言葉だから、作曲家の育った言語と無縁ではいられないのだ。

 

さて、昨日のドイツ語の最終テストを持って、前期教養学部のほとんどが終わったと言ってよいだろう。

クラス単位で何か授業を受けたりテストを受けたりする機会はもうない。つまり、ある意味では、昨日がクラス解散の日だったのだ。

入学して、いきなり渋谷に呑みに連れて行かれて顔を合わせたクラスの友達。あれから二年が経ったと思うと信じられない思いがする。

文Ⅲ十五組には、強烈なやつが沢山いた。強烈な奴たちと色々な事をした。夜を徹して呑み明かしたり議論したり、超ハイクオリティな

シケプリを制作しまくったり、旅行に何度も行ったり、オペラやコンサートや能を見に行ったり、学校行事に深く関わってみたり・・・

ここには書ききれない事が山のようにある。他のクラスではたぶん考えもしないようなことを沢山した。本当に居心地の良いクラスだった。

振り返ってみて、浪人して、なおかつドイツ語選択で入学して良かったな、と改めて思う。

二年間幸せでした。

 

こんなふうに書くとこれで今生の別れみたいになってしまうけれど、実際にはそんなことはない。

クラスメーリスは今後もガンガン活用して、コンサートに能にと走り回りたいし、またみんなで集まる機会も何度だってあるだろう。

ほとんどの人は本郷キャンパスに進学してしまうので、もう駒場キャンパスにはあんまり寄らないのかもしれないが、たまには

戻ってきてくれたら嬉しいなと思う。僕はずっと駒場にいるので訪れた時には連絡してください。イタトマでコーヒーぐらいならおごりますし

みんなが来てくれないと酒瓶が片付かないので、時間ある時はまたウチで呑み明かしましょう。

専門課程での話や活躍を聞くのを楽しみにしています。これからもよろしく!

 

 

スキー旅行記その1

 

生きてます。スキーから帰ってきて以来、レポート⇒願書⇒レッスン⇒吞み会のコンボでしばらく更新出来ずにいました。

Twitter上では携帯から結構つぶやている(ブログの記事にするための備忘録代わりに使っている)のですが、こちらのブログの方は

パソコンの前に座ってゆっくりと時間を取れないことには書けないので、どうしても更新が遅くなってしまいますね。

そういう意味では、140文字で何の気兼ねもなく思い思いのつぶやきを投稿するというTwitterのシステムは巧妙だなあと感じます。

 

さて、スキー旅行については一緒に行った立花ゼミの栄田さんが大量に写真を撮ってくださったので、栄田さんが落ち着き次第

(僕以上にレポートに追われているようです。お忙しい中スキーを計画してくださってありがとうございます。)写真を頂いてアップする

予定です。というのは、僕の写真よりも栄田さんの写真のほうがクオリティが高いので。このスキー中には、栄田さんのフォトグラファー魂が

炸裂していました。ウェアの右ポケットと左ポケットに別々のデジカメを入れ、2300mの標高から2000mぐらいの距離を

手にデジカメを構えて動画モードで撮影しながらボーゲンだけで(手ブレを抑えるため)滑ってくる栄田さんはもはや伝説です。

上半身と手に構えたデジカメを全く動かさずに中級者コースの曲がりくねった道を滑り降りてくる姿に修学旅行生たちがビビっていました。

彼らの青春の思い出としてその雄姿が焼きついたことでしょう。(僕と西田君の目にも焼き付きました。栄田さんすごい。)

 

夜にはフランスのウォッカであるシロックウォッカを雪の中に埋めて冷やし、栄田さん持参の絶品リンゴジュースで割ってウォッカアップル

にしてみたり、降り積もったばかりの新雪を氷にしてロックで呑んでみたりしていました。いずれも最高に美味しかったです。

少し呑んだ後にホテル内をうろついていると、ホテルに併設されたバーにビリヤード台を発見しました。

これはやるしかないでしょう。ということで、一時間だけ球を突くことに。バイトらしき外国人のお姉さんに英語で「ビリヤードしてもよいか」

と尋ねて酒(グラスの白とロゼ)を頼み、玉突きに集中します。西田くんは安定感のあるスタイルで次々球を沈めていきますし、

ビリヤードはこれがはじめて、という栄田さんは、異常なほどのペースで上達していました。面白くなってきてついつい二時間延長して

閉店時間までビリヤードをやることに。男三人の夜はこうして更けてゆくのでした。

 

L’analyse de la pub de CHANEL N°5

 

シャネルのNo.5のCMで一つレポートを書きあげました。(http://www.chaneln5.com/en-ww/#/the-film

オドレイ・トトゥ演ずるこのCMは、CMという枠を超えた内容を持っています。台詞はほとんど存在せず、ナレーションも最後の一言のみ。

商品の内容や性能は一切説明されることがありません。ですが、見る者にシャネルの五番を強烈に印象付けます。

それは、このCMの狙いが「空間に漂う香り」そのもの、あるいは「香りがもたらすストーリー」を表現したものだからです。

 

シナリオは二つの対称的なテーマ群によって構成されています。

一つは、〈開放〉と〈閉鎖〉の切り替わり。駅へと走るシーンは鳥が青空へと飛んで行くのを見ても感じるように開放的ですが、

夜行列車に乗ってしまえばそこは閉鎖空間。人の気配をすぐ近くに感じる空間であり、窓を開けてもその外に出る事は出来ません。

ですが、いったん目的地(イスタンブール)について降りると、そこには開放的な空間が再び広がっています。

閉鎖空間ならではの「すぐ近くに相手がいる感覚」は霧散し、開放空間ならではの「相手がどこか遠くへ行ってしまった」感覚が

場を支配します。

 

もう一つの軸は、〈偶然の擦れ違い〉と〈運命的な出会い〉。そしてそこに生じる〈視線〉の特異。

男と女は徹底的に擦れ違います。夜行列車の中で、ボスフォラス海峡を渡る船の甲板で。

そして、二人の視線はほとんど交わることがありません。夜行列車のガラスを通して、あるいはカメラのモニター(とファインダー)を

通してのみであって、直接的に交わることはほとんどないのです。夜行列車で扉一枚隔てて男と女が反対方向を見つめあうショットは

その最たるものであって、間違いなくお互いがお互いの事を考えているのに、視線は正反対へと向いています。

ラストシーンで運命的に男と女が巡り合っても、男と女の視線は交錯せず、男は女を後ろから抱きしめ、首(香水をつけている場所)に

唇を寄せるにとどまります。女に惹かれているというよりはむしろ、女の香り(=シャネルの五番)に惹かれている様に見えます。

 

このようにして、広告対象そのものが押し出されることはなく、広告対象が引き起こす出会いを美しい映像の中で描くことで

この香りそのものの空気感を表現していると言えるでしょう。本当によく計算されたCMだと思います。このCMでは途中にビリー・ホリディの

I’M A FOOL TO WANT YOU (恋は愚かというけれど)が流れるのですが、歌詞が

I’m a fool to want you. I’m a fool to want you.

To want a love that can’t be true.  A love that’s there for others too.

I’m a fool to hold you. Such a fool to hold you…

と流れる中で、歌い手がブレスを入れる場所を狙いすましたように汽笛の音が挟まれます。歌い手の声色と汽笛の音色の相性、

そしてこのタイミングが素晴らしいため、汽笛の音が合いの手のように聞こえます。巧すぎる構成!とにかく一度見てみてください。

2004年のニコール・キッドマンを登用したNo.5のCMも素敵な出来なので、ぜひこちらもどうぞ。youtubeで検索すればヒットします。

 

さて、それでは以前書いたように今日から2月の2日まで志賀高原へスキーに行ってきます。久しぶりのスキーなので、

71リフト全制覇するぐらいの心意気で滑り倒してくるつもりです。しばらく更新は出来ませんが、帰ってきたら旅行記と写真をアップします。

なお、先日からTwitterを始めており、Artificier_nuitで検索してもらえば引っかかるはずです。良かったらフォローしてやって下さい。

Twitterのほうは旅行中も稀に更新するかもしれません。では行ってきます。

 

 

三木清『語られざる哲学』(講談社学術文庫,1977)

 

なんとなく三木清を読んでいる。

西田幾太郎の弟子にしてドイツ語とフランス語を自在に操り、横断的な思索を巡らせ続けた三木清。

暗い時代に生きた彼は、48歳という若さで獄中にして非業の死を遂げる。

彼がじっくりと読むべき日本の偉大な哲学者のひとりである事は間違いないだろう。

 

全集を読み始めたばかりの僕が三木清の哲学についてあれこれと語ることは出来ない。

だが、三木清の文章はどれも美しく、強い言葉であって、漫然と生きている自分に強く刺さってくる。強靭な意志の力を感じずには

いられない。以下に三木清自身の文章を『語られざる哲学』(講談社学術文庫)より、四つほど引いておく。

 

 

「真の懐疑は柔弱ではなくて剛健な心、自分自身をも否定して恐れない心、ヘーゲルの言葉を用いるならば真理の勇気

(Der Mut der Wahrheit)をもった心において可能である。それは戦士のような心のことであって掏摸(すり)のような心のことではない。」

 

「私は樹から落ちる林檎を見て驚異を感ずる心よりも空に輝く星を眺めて畏敬の情を催す心をもって生まれた。

幸福なことには、私は美しき芸術を感じ、正しき真実に驚きよき行為を畏れる心を恵まれていた。私の哲学はこの心から出発するであろう。

そしてこの心が私をして子供のような無邪気さをもって闇の空にではなく大きな青空に夢み出させた。

また私の純粋さはこの夢において保たれて来た。」

 

 

「私はかつてニュートンの言葉から思い出して人生を砂浜にあって貝を拾うことに譬えた。

凡ての人は銘々に与えられた小さい籠を持ちながら一生懸命に貝を拾っ てその中へ投げ込んでいる。

その中のある者は無意識的に拾い上げ、ある者は意識的に選びつつ拾い上げる。ある者は習慣的に無気力にはたらき、

ある者は活快 に活溌にはたらく。ある者は歌いながらある者は泣きながら、ある者は戯れるようにある者は真面目に集めておる。

彼らが群れつつはたらいておる砂浜の彼方に 限りもなく拡って大きな音を響かせている暗い海には、彼らのある者は

気づいておるようであり、ある者は全く無頓著であるらしい。けれど彼らの持っておる籠 が次第に満ちて来るのを感じたとき、

もしくは籠の重みが意識されずにはおられないほどに達したとき、もしくは何かの機会が彼らを思い立たせずにはおかな かったとき、

彼らは自分の籠の中を顧みて集めた貝の一々を気遣わしげに検べ始める。検べて行くに従って彼らは、彼らがかつて美しいものと

思って拾い上げた ものが醜いものであり、輝いて感ぜられたものが光沢のないものであり、もしくは貝と思ったものがただの石であることを

発見して、一つとして取るに足るもの のないのに絶望する。しかしもうそのときには彼らの傍に横たわり拡っていた海が、

破壊的な大波をもって襲い寄せて彼らをひとたまりもなく深い闇の中に浚っ て 行くときは来ておる のである。

ただ永遠なるものと一時的なるものとを確に区別する秀れた魂を持っている人のみは、一瞬の時をもってしても永遠の光輝ある貝を

見出して拾い上げ ることができて、彼自ら永遠の世界にまで高められることができるのである。

私たちはこの広い砂浜を社会と呼び、小さい籠を寿命と呼び、大きな海を運命と呼 び、強い波を死と呼び慣わしておる。」

 

 

「個性の根柢は普遍的なるものにある。

しかして普遍的なるものは己れ自身に具えた力によって内面的に発展して特殊の形をとるのである。」

 

 

感じて、振る。

 

今日はフレッシュスタートのミーティングに参加して、グループワークの内容を練ってきた。

僕の班のJr.TAは工学系の院生の先輩と僕のふたり。全く違う領域の専攻なので、お互いの専攻の話を聞いているだけで

あっという間に時間が経つ。

 

その中で色々と案を出し合ってみた結果、基本的な構成は「アイスブレイク(兼・自己紹介)+ディスカッション」で良いだろうという

事に落ち着き、その上で1.自己紹介をしながら質問を一つしてもらう 2.ディスカッションは小さなグループでやってから全体でやる

という工夫をすることにした。ディスカッションのテーマは確実に全員が話題に参加できるようなもの(たとえば、文理の学問の違いを

考えてもらいながら個別の学問分野の話に結び付けてゆく、といったような)を考えておくが、それを使うかどうかはその場の雰囲気次第。

質疑応答で面白い話題が出ればそちらで広げる。

 

なんだヒネリがないなあ、と思われるかもしれない。が、最初からヒネリまくって、やたら難しいディスカッションのテーマなどを決めてしまい

身動きが取れなくなってしまうのは避けなければならないから、これがベストだと考えている。フレームはフレキシブルにとどめておいて、

状況次第で最適な方向へ変形させてゆく。シンプルな枠組み+柔軟なアドリブで我々の班はグループワークを進めてゆくつもりだ。

 

 

ミーティング後、しばらく指揮の予習をしたあとレッスンへ。最初のアウフタクトの一音だけで五回ぐらいダメだしを喰らったものの、

なんとかベト1二楽章の半分ぐらいまで進んだ。指揮をすることは音楽を生むことであるが、往々にして、次の音を出すのに必死になって

今鳴り響いている音を聞く事が出来なくなる。ある指揮者が(確かハンス・フォン・ビューローだったと記憶している)

「指揮者は頭にスコアを入れなければならない。しかし悪い指揮者はスコアに頭を入れる。」という言葉を残している。蓋し名言である。

生みだした音を聞きながら、次の音を創造する。それは「この音符ならこう振る」という単なる作業や決まり切った技術ではなくて、

音という「見えない何か」を時間と空間の中で捕まえて、対話していることに他ならない。

 

僕の師はよく、「感じなければ駄目だ。指揮者が感じていなければ、どんなに振っても音楽が鳴るわけがない。」とおっしゃるが、

その意味が徐々に分かりつつある気がしている。(今日は「もう一歩だ。もっと湧き上がってくるように。もっと深いところから。」と言われた。)

音楽が鳴る前に音楽が鳴っているような感覚、次にどんな音が鳴るかが分かる感覚。師を見ているといつも思うこの不思議な感覚を

少しでも早くとらえたい。そして、もっと深いところで感じて振れるようになりたい。

 

僕に残された時間はそう長くない。だから写真のように記憶し、スポンジのように吸収する。一言一句逃さない。

 

LANGAGE ET PARENTÉ 完読!

 

ようやくレヴィ・ストロースの『構造人類学』に収められたLANGAGE ET PARENTÉ (言語と親族)を原典で読み終えた。

かなり丁寧に読んでいったので相当な時間がかかったけれども、文法事項から表現、そして内容に至るまで、得たものは大きい。

この達成感と徹夜明けの妙なテンションが自分の中で偶然の出会いを果たし、昼には一人で駒場東大前近くの蕎麦屋で上天ざる

1100円を頼んでしまった。徹夜明けの身体に食後の蕎麦湯がしみる。満足だ。財布の中身は見て見ぬふりをするのがコツである。

 

ここ数日間は毎日何かしらのレポートや小論に追われている。既に書き終わったものだけでも生命倫理、メディア論、映像分析、

身体論、音楽と詩などがある。これから書くものは広告論、科学技術倫理、ヨーロッパの心性史、ディルタイの哲学などがある。

そこに加えて比較法学のテストがあったりドイツ語のテスト勉強をしたり、指揮のために楽譜を読み込んだりしているので、毎日が

大変なことになってしまっている。にもかかわらず、30日の夜から2日の夜までは志賀高原へスキーに行くことにした(笑)

 

ゼミ旅行と銘打ったこの旅行、志賀高原を力の限り攻める予定である。

71のリフトを乗り継ぎまくって初級コースから上級コースまで幅広く制覇したいと思う。志賀高原全山のスキーコース中で最も手強い

丸池の一部のコースと焼額山の「熊落とし」と呼ばれる急斜面+コブだらけのコースをどう乗り切るかがポイントになるだろう。

スキー旅行記については写真とともに後日ここで公開するつもりなので、どうぞお楽しみに。

選抜通過

 

とあるプログラムの選抜を通過しました。一週間前に出したペーパーが運良く審査を通ったようです。

どれくらいの人数が審査を受けたのか分かりませんが、選抜されたのは学部生・院生合わせて九人でしたから、もしかすると結構な倍率

だったのかもしれません。選抜されるとどうなるかと言うと、なんと三月の中ごろに中国(南京)へタダで行って勉強することができます。

具体的には、南京で身体論に関する集中講義を聴講したのち、南京大学の学生たちとディスカッションをやったりする予定だそうです。

中国語はほとんど分からないのでちょっと日和そうにもなりましたが、こんな機会は滅多にないと思って飛び込んでみる事にしました。

 

飛び込んだ、と言っても、身体論という分野は以前から僕にとっては非常に興味を惹かれる分野でした。

そもそも自分の主要な興味のフィールドがフランス現代思想、生命倫理、表象文化論、社会学あたりである以上、「身体」という問題は

絶対に外すことができませんし、むしろこれらのフィールドの全てに横たわる問題だと言ってもよいでしょう。ましてや指揮法を学んでいる

ので、「身体」への意識は否でも日々高まらざるを得ません。(マルク・リシールの用語を使えば「透明な身体」と「不透明な身体」の間を

日々行ったり来たりしているのです。僕はこの状況を「明滅する身体」と表現し、今回のペーパーを書いてみました。)

また、A氏に連れられてdialog in the darkを経験してから、五感と身体の関係性について色々と考えさせられ

折にふれては小論をちょこちょこ書いたりもしていたので、実際問題としていま最も興味を持っているのは、まさにこの

「身体論」なのかもしれません。無秩序に広がりがちな自分の興味が「身体」という言葉でスッと纏まりそうな気がしています。

 

南京へ行くのは3月中旬。フレッシュスタートの準備が慌ただしくなる頃ですが、パソコンさえ持っていけばスカイプなり何なりで

いくらでも作業やデザインの仕事は出来るのできっと大丈夫でしょう。フレッシュスターとでのグループワークの内容もいっそ

「身体」を切り口にした何かをやってみようかなと企んでいます。

 

ともあれ、タダで中国に行ける、というのは要するに税金で勉強させてもらってくるわけなので、有意義に色々と学べるよう

出来るだけの準備をして出発せねばなりません。ドイツ語とフランス語で手いっぱいの状況なので中国語まではさすがに手が

回りませんが、まずは身体論に関連する本をこの一カ月で読みまくりたいと思います。

 

というわけで手始めに、一年ぐらい前に購入した『ディスポジション 配置としての世界』(現代企画社)から

「馬に乗るように、ボールに触れ、音を奏でるように、人と関わる」という文章、それから「世界・環境・装置」と題された

対談、そして「心身の再配置のために デカルト哲学における意志の発生と権能」という論考を再読。二つ目に挙げた対談の中で

フーコーを引きながら「身体に作用するのが暴力、行為に作用するのが権力」と定義しているところが印象に残りました。

 

ハイドンの45番「告別」

 

久しぶりに更新。前の記事に書いたスケジュールをなんとかひと通りこなしました。

その間、フルートでA氏のピアノとアンサンブルして遊んだり、センター試験の問題を見たりしていましたが、今年のセンターリスニングの

内容を見てびっくりしました。なんとハイドンの「告別」シンフォニーについての話が出題されています。

 

まず「ハイドンの告別交響曲についての説明を聞いて以下の問いに答えよ。」とあって、設問は

「『告別交響曲』の結びでは誰が舞台に残っているか」(問23)

「なぜその田舎の宮殿では音楽家たちは不幸せだったのか」(問24)

「ハイドンのこの交響曲に込められたメッセージは何だったか」(問25)

の三問となっています。クラシックをよく聞く人にとってはリスニングするまでもなく回答できる問題だったのではないでしょうか。

(Wikipediaでこの曲を検索すると「2010年のセンターに出題された」との解説が既に加わっていてびっくりしました。)

 

しかもこの「告別」交響曲は昨年(2009年)のニューイヤーコンサートでダニエル・バレンボイムがプログラムに入れており、

TV中継では演奏の際に「告別」交響曲についてのエピソードが流れていたので、それをたまたま見た人も結構いたと思います。

ついでに国語の現代文では中沢けい『楽隊のうさぎ』という有名な本から出題されていたりと、今年は音楽をやっている人間にとって

少し有利な出題だったかもしれません。指揮法の同門の先輩方に一度見せてみたいと思います。

 

肝心の指揮法自体もかなりいいペースで進んでおり、エチュード四番に奇跡の一発合格を頂いたので次の曲、第五番に入りました。

五番はBeethovenの交響曲一番の二楽章なので、しっかりと気合いを入れて望まないとすぐにボロが出てしまいそうです。

楽譜屋さんからフルスコアを取り寄せて、教程に乗っているピアノ編曲版と見比べながらじっくりと勉強することにします。

一番はあまり日常的には聞かない曲なのですが、CDラックをちょっと整理してみたら意外にも十枚ぐらい持っていました。

ただ、一番単独(あるいは他の交響曲とのカップリング)のCDは少ないですね。ほとんどはBeethovenの交響曲全集としてです。

手始めにフルトヴェングラーの54年ライブ(Radio-Sinfonieorchester Stuttgart)とムラヴィンスキーの82年ライブ、それから

カラヤンの61年の録音を引っ張り出して聞いておきました。二楽章の四~六小節目の歌わせ方にそれぞれの特徴が良く出ています。

 

疾風怒濤の日々

 

 数日間、怒涛の日々を過ごしていた。

指揮法の門下生で新年コンパ→翌日一限プレゼン(フランス語)→五限プレゼン(英語)→レッスン(夜十一時まで)

→翌日五限プレゼン→六限フレスタ説明会+ゼミ→レッスン(夜十一時まで)→翌日二限プレゼン(いまここ)

→レポート締切×2→吞み会→二限テスト(比較法学)→レッスン(フルート)

という、殺人的なスケジュールである。しかもその合間に授業や指揮法の予習、バイトや仕事が入ってくる。これは結構キツイ。

 

 とはいえ、一番準備が進んでいなかった言語情報文化論のプレゼンを、アドリブ的な喋りに任せて上手くこなすことが

出来たので一安心である。この授業はLignes de tempというソフトを用いて映像分析をやる授業なのだが、発表の時期を考えて

僕の班はウィーンフィルのニューイヤーコンサートについて映像分析を行った。25年分ぐらいの映像を見ながらその変遷を

追って行った結果、ウィーンフィルのこのコンサートの映像は三つの時代に大きく区分できる変遷を見せていることが分かった。

 

1.「人」の時代・・・指揮者や演奏者を中心に映した時代。1987年のカラヤンまで。

 

2.「音」の時代・・・1989年(指揮者クライバー)以降。1987年同様に指揮者をしっかりと映しながらも、音楽を「聞かせる」ために

           映像が協力する時代。具体的には、「ソロを吹いている楽器を見せる」「楽曲上の動機となる低音部を映す」

           「指揮者の意識が向いている楽器を映す」などの傾向が挙げられる。実演を聞くだけでは接しえない、

           「指揮者と奏者とのコンタクト」を映像として捉えたのは画期であろう。

 

3.「映像」の時代・・・2004年(指揮者ムーティ)以降。ちょうどこの2004年にハイビジョン放送が開始された。

            圧倒的に高精細に表現することが可能になったのと対応するかのように、この年度から音楽と直接に関係のない、

            花、ホール、天井画、柱、大理石、風景などが映像に占める割合が増え始める。この時期以降、細かい「小ネタ」が

            目につくようになる。

 

このようにして変遷を区切った後で、2010年の位置づけを考えてみた。詳しい説明は割愛するが、僕の考えでは、2010年はこの

いずれにも当てはまりながら、いずれにもピッタリおさまるものではない。曲、人に加えて、上からの映像を多用することでコンサートが

行われている場所を全体性とともに映し出すその構成は、「場」の時代とでも呼ぶべきものの到来を予期させる。

(「それはつまるところ、コンサートのバーチャル・リアリティー化に近いのではないか」と発表の後で教授がおっしゃっていた)

そんな感じの内容でプレゼンを行った。

 

 音楽絡みで書いておきたいのが、最初に触れた、指揮法の門下生で行った新年コンパ。これは本当に面白かった。

門下生の多くは何らかの形で音楽に専門的に従事していて中にはプロの指揮者として活躍されている方も何人かいらっしゃる。

そんな中に僕がいるのも変な感じではあるが、一番の若手ということで大量にお酒を飲ませて頂きつつ

(紹興酒がとても美味しかった。しかし一番感動したのは、先生がシャンパンを二本持ってきて下さったこと。一本はモエシャンドン、

もう一本はなんとWiener Symphoniker というラベルだった!)

夜を徹して音楽談義を繰り広げていた。誰かが「さっき指揮者のスウィトナーが無くなったらしい」なんてニュースを呟けば

そこからスウィトナーの録音について熱い話が展開される。そうかと思うと「ジュピターの四楽章は何拍子で振るか」みたいな

議論になったり、「ちょっと君、あの曲のあの部分振ってみて」みたいな突然の無茶ぶりがあったりもする。

(しかし、そんな無茶ぶりに対しても、「え、あのホルン入ってくるとこですか?えーっとこうですよね。」としっかりとお振りになっていた。)

 

皆さんいくらお酒が入っていても、先生がぼそっと話しだされると一斉に静かになって先生の言葉を一言一句漏らさぬように聞いている。

それもそのはず、先生が呟かれる話はどれも大変にインスピレーションに富んでいる。先生の音楽観や音楽性が凝縮されている。

最長老の門下生の方などはもう30年以上も先生に習っているそうなので、このような機会を何度も得ていらっしゃるのが本当に

うらやましい限りである。長老さんによれば、先生の全盛期は「それはそれは怖かった」とのこと。

僕から見れば今でも十分怖いので、昔はどれほどだったのか想像するのも怖いぐらいだ。

とにかく少しでも先輩方に追いつけるように気合いを入れて練習しよう、と珍しくちょっとお酒の回った頭で決心した。

その甲斐あってか、先入と半先入、分割先入を駆使するエチュードNo.3はなんと二回のレッスンで終了。多くの人がここで止まると

言われていたので、無事に通過することが出来てホッとした。今週からは、いよいよNo.4のHaydnのAllegroへ突入する。

叩きの練習の成果が出るか楽しみだ。

 

 そういえば先日の記事で東大の日本史・世界史の問題を「ゼロ年次教育プログラム」と表現したところ、結構好評だったようで

(塚原先生のページ、1.13日の記事に言及があります。)ちょっと嬉しい。

「これは入試問題ではなくて東大の教育プログラムの一環なのだ」と考えれば、受験勉強に対する意識が少しは変わるかもな、とふと

思った。「東大の問題に真剣に向かい合う」というのは、「既に東大の教育プログラムを受けている」こととほぼ同義なのかもしれない。

 

 なお、本日は上村忠男『ヴィーコ 学問の起源へ』(中公新書,2009)を読了。次は熊野純彦『日本哲学小史』(中公新書,2009)に

入ります。どちらも生協書籍部の新書フェアで買ったもの。生協書籍部では「東大出版会20%オフ」フェアを現在やっているので

近いうちにまた大量に散財することが予想されます(笑)