September 2025
M T W T F S S
« May    
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

「夜景」とは何か -体験不可能な景色-

 

Twitter上で「夜景がデートにもたらす効用」についてゼミ生が議論していたので、それをきっかけに「夜景」とは何か考えてみた。

夜景のキーポイントは、ただ光が暗闇に飛び散っているだけでなく、それが「人の暮らし」を意味するものであるという点だ。

車のライト、高速道路のネオン、マンションの明かり…どれも人が生活しているという実感を伴う。つまり夜景を見ているとき我々は、

「人の暮らし」を外部 から見る立場に自己を置くことになる。闇を彩る色とりどりの光を通じて、この世界に沢山の他者が暮らしている事や

世界が人間の営みで加工されている事を目撃する。静止した夜景は存在しない。車が動いていたり家の電気が消えたりするように、

夜景はいつも動いている。それを見るたび、人間の暮らしの匂いを夜景に感じるはずだ。たとえば超超高層ビルから夜景を見て、

動いている光を見つけた時、「あれは何だろう?車かな?だとするとあのあたり高速道路かな?」と思考するだろう。

つまり、人が見えなくても結果的に人や人の生活を想像してしまう効果を持つ光景が、夜景なのである。

 

問題は、夜景が「人の暮らし」で成立しているものでありながら、夜景の担い手である「暮らしている人」と絶対的な距離を持っている

ことだと思う。眼前に広がる光に満ちた世界は、「人の暮らし」という身近なものの反映でありながら、圧倒的に「遠い」のだ。

あくまでも景色。交わることの ない他者の生活。しかしそんなふうにどこまでも遠い夜景を見るとき、自分のすぐそばに、同じ光景に目を

やる「誰か」がいたらどうだろう。必 然的に、側にいる人との「距離の近さ」を感じることになる。夜景はどこまでも遠い、しかし側にいる人

とはコミュニケーション可能な距離にいる。それを実感するはずだ。つまり夜景は、「交わることのない他者/側にいてコミュニケーションの

とれる距離にいる選ばれた他者」という対比を成立させる。かくして、夜景を媒介にすることで、側にいる他者との近さが、その距離以上に

接近する。こうした意味で夜景はデートに一定の効用を持つのではないか。


「そんな難しい事は考えていないし意識していない。夜景はただ綺麗なだけだ。」と言う反論が予想されるが、確かにその通りで、

夜景は最終的には「あー綺麗」という一言に帰着可能な光景だという特質を持っている。

「綺麗な夜景だね」→「車が走ってるよ」→「あのへん新宿かな、まだ沢山電気ついてる。」→「まあとにかく、綺麗だね。うふふ。」と

最終的には「夜景」という抽象的総体に帰着される、つまり鈍感を許す光景でもあり、まさにそれこそが、デートスポットとして不動の

地位を占める理由であるだろう。

 

そしてまた、夜景の特異は、自然との対比によって明らかになる。夕日や星といった「自然の光」と、夜景、すなわち「人工の光」とは

何が違うのか。それはこうだ。没入できる自然と異なり、夜景は窓枠やガラスなどを通して「外部」から見る事を必要とする。満点の星空

の下に身を置くのと、光に満ちた東京の夜景を六本木ヒルズの上から見るのとでは、根本的に主体の占める位置が異なる。

つまり言うなれば、夜景は鑑賞するものであるけれども、「体験できないもの」なのである。

(おわり)


『影のない女 Die Frau ohne Schatten』@新国立劇場

 

予定が合う限り、月に一度はオペラを観に行くようにしています。今月はリヒャルト・シュトラウスの大作であるオペラ

『影のない女』の初日公演を鑑賞してきました。このプログラムが日本で演奏されるのは何と18年ぶり!それもそのはず、

オーケストラの編成だけを見てもチューバ四本+バスチューバという指定が書かれているなど、オペラとは思えない

(ある意味ではR・シュトラウスらしい)巨大さを誇っており、技術的にも規模的にも演奏の難しい演目だからです。

実演に接するのはもちろん初めてでしたから、いつも以上にワクワクしながら、立花ゼミの後輩二人と一緒に席に着きました。

 

出だしから「いかにもR・シュトラウス!」と言いたくなるような管楽器の使い方がなされていて、音楽だけを聞いていても飽きません。

このオペラにはライト・モティーフが散りばめられており、しかもかなり分かりやすいものが多いのでライト・モティーフを追っかけながら

シュトラウスの豊麗な音響を楽しみました。二幕終わりのぐんぐん盛り上がるTuttiではホール全体が一つの楽器のように大音響で

震え、圧倒されました。しかし最も驚かされるのは、大編成のこの曲において、各楽器のソロがたくさん用意されていること!

チェロの不安を煽る旋律、ハープの神聖な響き、そして三幕の皇后が一人で歌う部分のヴァイオリンのソロなど、ただ音響で唖然と

させるだけではなく、繊細に繊細に作られているのが分かります。

 

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/classic_concierge/top.html というページにおいて、

「音楽面ではシュトラウスの作品群の中で最大編成のオーケストラを使用していることが第一の特徴。

大編成ながら大きく鳴らすトゥッティ(全奏)はほんの数回 あるのみで、数多くの楽器が組み合わせを変えながら室内楽的ともいえる

精妙な響きを多彩に変容させていくところにシュトラウスの円熟ぶりが見て取れる。

第2の特徴としては調性の巧みな使い分けだ。「エレクトラ」で調性の壁を破る寸前の当時としては、最先端をいく和声法を駆使して

音楽を書き上げたシュトラ ウス。「影のない女」では古典派以来のオーソドックスな和声と最先端の調性コントロール術を混在させ、

登場人物のキャラクターや場面の雰囲気を見事に描き 分けている。例をひとつ挙げるなら染物師夫妻だ。

心根の優しいバラクに付けられた音楽は調性がハッキリした口ずさむことが可能なメロディーが多い。

これに 対して苛立つバラクの妻は臨時記号を多用し調性があいまいで複雑難解な旋律に乗せて歌われる場面がほとんどだ。」

 

と書かれていましたが、まさにその通りで、音楽による場や人物の描き分けが、「オーケストラ全体」と「楽器一つ一つ」を見事に

使い分けてなされていると感じました。歌手ではやはり、バラクの妻を演じたステファニー・フリーデがいいですね。

Schwängest du auch dein Schwert über mir, in seinem Blitzen sterbend noch sähe ich dich!

「剣を私に振り下ろすとしても、 その刃のきらめきの中で、 死にながらももう一度だけあなたに会いたい!」という絶唱には

感動しましたし、このオペラで最も有名な部分、Ich will …nicht!の震える声にもゾクッとさせられました。

 

演出はどちらかというとシンプルなもの。ただ、「影」の扱いについては相当に注意が払われており、三幕終わりの部分の影をうまく使った

演出には「やるなあ!」と唸ってしまいました。人そのものが抱きしめ合うのを見るよりも影が一つになってゆくのを見る方が感動する、

というのは不思議な現象でした。それだけこのオペラにおいて「影」が重要な役割を果たしているのでしょう。

 

ですが、「影」とは一体何なのでしょうか。この「影」の捉え方、「影」が意味するものをどう考えるかでこのオペラはその奥行きを

ぐっと変えるのではないかと思います。本作のストーリーはモーツァルト『魔笛』を踏まえたものであることはよく知られており、確かに

ファンタジックな世界の中に「人間礼賛」に通じる水脈が流れています。たとえば神々の世界の側のヒトであった皇后の

「人間の求めるものを あなたは余りに知らなさすぎた。 ・・・(人間は)いかなる代償を 払っても 重き罪から 蘇り、 不死鳥のように

永久の死から、永久の生へとどんどん高みを指して登って行く。」という歌詞にそれが顕著に現れており、人間の人間性・生と死の問題が

歌われています。そして終幕では舞台裏から「まだ生まれていないものたち」の歌や「子供」の合唱が挿入されます。

そういえばそもそも、このオペラのスタートは「『影』がないと子供を生むことができない」というものでした。

 

以上を考えると、このオペラにおいて「影」というものは、子供を生める能力であり、言ってしまえば「次代の生命」=「子供」なのでは

ないかという考えに至ります。そのように考えてストーリーを振り返ってみると、かなり現代的な問題を孕んでいることが分かります。

「影がない」=「子供が産めない、子供がいない」ことで罰を受けるという展開は女性の権利などの問題を想起させますし、

「影を渡すか渡さないか」という逡巡はストレートに中絶問題に繋がるでしょう。「生まれざる子供たち」が歌う

「ぼくらの生が楽しいものになるように! 試練をけなげに耐えたから」という歌、そして「生まれざる子供たち」という存在自体を考えてみても

このオペラは多分に生命倫理的な問題を含んでいるのではないかという思いに至りました。うーむ、『影のない女』おそるべし!

 

ぼんやりとそんなことを考えつつ、音楽の余韻に浸りながら帰路へ。

最後になりますが、オペラを観に行くと語学の意義を実感することが出来るので、学生の方(特に一年生)には本当におすすめしたいと

思います。初等レベルで十分、単語と文法が少しわかるだけで楽しみ方が全く変わってきます。今回のオペラでもIch will nicht!が

分かるだけで感動の幅は大きく違うはず。純粋な芸術的感動を得る事が出来るだけでなく、語学のモチベーションを高めるのにも絶好の

機会となるでしょう。僕もフランス語をしっかり勉強して、次回六月のカルメンでは出来るだけ字幕に頼らず鑑賞したいと思う次第です。

 

 

ポール・リクール『記憶・歴史・忘却』(2004,新曜社)

 

最近読んで衝撃を受けたのがこれ。原題はLA MEMOIRE,L’HISTOIRE,L’OUBLI.

上下巻に分かれており、分厚さだけでも衝撃的なのですが、中身はもっと凄いです。まだ理解できたとはとても言い難いので

中身についての細かいレビューは避けますが、フーコーやアラン・コルバンに興味を持っている僕にとって、ポール・リクールの著書は

大いに刺激的なものでした。(それこそ、卒論のテーマ構想に影響してくるぐらい!)

リクールはコレージュ・ド・フランスのポストをフーコーと争った人でもあり、同時にアナール第三世代の影響を強く受けています。

ちなみにポール・リクールの講演はyoutubeで見ることができます。最近のyoutubeではフーコーやドゥルーズの講演も見る事が

出来るので、最近それらをフランス語リスニングの教材にしています。といっても、ほとんど分かりません。読んでも分からないのだから

当たり前といえば当たり前ではあります(笑)

 

リクールの本書を一通り読み終わったので、さっそく今日から再読し始めます。リクールの大著と並んで気になっている本に、

クリストフ・ヴルフの『歴史的人間学事典』があるのですが、こちらは値段が一冊一万円以上するので、簡単には買えそうにありません。

しかし紹介文を見る限りではめちゃくちゃ面白そう。

「歴史的人間学とは、伝統的な規範が拘束力を失った今、人間的な諸現象を多様に、トランスナショナルに学科横断的に研究し続ける

努力、止むことのない思考の活動性である。」

「本書で取り上げられるいずれの事象も、かつて哲学的人間学のように「・・・・とは何か」といった超歴史的・規範的立場からではなく、

ある特定の文化におい て、ある特定の時代において「・・・・はいかに語られてきたか」といった問題設定のもとで論が展開される。

嗅覚や味覚といった、一見超歴史的なものと思え るような事象についてもこうした観点は貫かれ、各文化や各時代の文学作品や

哲学書や民族誌などからその歴史性が明らかにされる。」

「ドイツで展開された歴史的人間学、アングロサクソンの伝統に根ざす文化人類学、フランス歴史学を基盤として、人間の生活様式、

表現様式、叙述形式や、その共通点、相違点を明らかにする。」

 

とあっては読みたくなるのも当然というもの。お酒を呑んだ勢いでAmazonにアクセスしてカートに突っ込もうと思ったのですが、

「在庫切れ」ということでかろうじてストップがかかりました。あぶないあぶない。とりあえずは中古で探してみて、無ければ改めて購入を

考えようと思います。学生には中々この金額は辛い。全頁きちんと読んでレビューを書くという条件で出版社の方が一冊提供して

下さったりしないかなあ、と妄想してみたりしますが、まあそんな美味い話はないですね(笑) 大人しく、いつかどこかで買うとします。

 

 

 

VAIO Pの使いみち

 

まず、ポケットに入れます。

なんてわけはないですが、先日届いたVAIO Pはかなり使い勝手が良いです。とにかく良く考えられた製品だなあという印象。

サイズは片手でバッチリ掴めるサイズ。しかも強度が気にならない程度の厚みを持っています。あんまりペラペラなパソコンだと、

外で開いたりするのに躊躇してしまいそうですが、この厚みならガンガン使える。横長のサイズのおかげで、カフェの小さな丸テーブル

などでもストレスを感じず使うことができます。

 

具体的な使い方としては、前の記事で書いたように、電子辞書化+EVERNOTE+メールチェック専用のパソコンにしています。

授業中はとりあえず開いて起動させておく。分からない単語や意味があったら即座に辞書にアクセスするか、ネットにアクセスして

検索をかける。手で取りづらいメモは打ち込む。こんな感じです。小さなサイズだからキーが打ちづらいのでは、と思われるかも

しれませんが、もともと打ちづらくないうえ、慣れてしまえば普通のキーと同じぐらいのスピードで打てます。キーを斜めから打つというよりは

上から打つ感じにする(ピアノの弾き方に似ている)と良いでしょう。これによって、ネットサーフィンやブログ更新ぐらいならスルスル

出来てしまうし、長文メールも打つのが苦になりません。カバンの中にポンと入れておいて本を読む感覚で取り出すことができるというのは

これ以上ない快適さです。最初にこれが発売されたのは去年だったと思いますが、さっさっと買っておけばよかった!と少し

後悔しています。(とはいえOSがVistaでは辛そうなので、待っておいて正解だったかもしれません。待ち過ぎた感は否めませんが)

 

機種の性格からして、ユーザーそれぞれが使い道を相当に工夫して使っていらっしゃいそうな気がします。

他のPユーザーがどのような使い方をしているか気になるところですね。

立花ゼミの新入生へ

 

などと題して、一ゼミ生に過ぎない僕がちょっと大きなことを書いてみようと思う。

立花ゼミの新歓は先日を持って無事終了した。(もちろん、興味を持った方はこれ以降でもいつでも入ることが出来ますよ!)

模範ブレストや自己紹介をやりながらずっと思っていたのは、「人めっちゃ多い!」ということに尽きる。

放射状に並んだ椅子と新入生たちを前から見ていると、まるでオーケストラに見えるぐらいの人数だった。

「ゼミ」と名のつくサークルにこれだけ人が集まるのは異例だろう。ひとえに、新歓係として体力と知恵を注いだ二年生の二人の

おかげである。ほんとうにお疲れ様でした。

 

沢山の人が来てくれたけれども、立花ゼミには「セレクション」なるものはないので、希望する人は誰でも入ることが出来る。

しかし参加する人は段々減っていくかもしれない。というのは、立花ゼミは何かやることが上から降ってきたり、やることが

決まっていたりする場所ではないからだ。一人ひとりの好奇心や情熱を原動力にしているので、一人ひとりがモチベーションや

問題意識を燃やし続けなければ立花ゼミの魅力は失われてしまう。常にクリエイティブであることが要求されている。

それはとても大変なことだが、自分で自分に着火し続ける限り、立花ゼミは他のどこでも出来ない経験が出来る場所になるだろう。

 

コンパでも少し話したけれども、立花ゼミは大学の外に通じる「出口」なのだと感じている。

一つの安定した組織(大学)に所属していると、外部に対して無関心になってしまいがちだ。

そんなときに立花ゼミという「出口」から吹いてくる風を受けると、自分のいる世界が全てでないことに痛いほど気付かされる。

色々な世界があって、世界には色んな人がいて、色んなことを考えている。

当たり前のことだが、それは衝撃的なことなのだ。

 

そして 「出口」は同時に、「入り口」でもある。どんな入り口になるのか、つまりどこに「ドア」を付けるのかは自分次第。

最先端の科学技術への入り口。あるいは現代を生きるアーティストの思考への入り口。

火花の散る最先端に自ら足を踏み入れる。遠い存在だと思っていたあの人の近くに飛び込んで、直接話を聞く。

そんなふうに、座学では決して味わうことの出来ない、刺激的な経験が待っているだろう。

 

 

 

今日から2010年度立花ゼミは動き出す。改めて、立花ゼミへようこそ。

世間話からアカデミックな話まで、新入生の皆さんと沢山の話が出来る事を心から楽しみにしている。

出来るだけ早く皆さんの名前を覚えようと思っているので、仲良くして頂ければ幸いである。

どんどんアイデアを出して、遠慮なくアイデアをぶつけあって、面白いことをやりましょう!

 

深夜の本郷キャンパス

 

情報学環のコモンズというスペースを使って徹夜で勉強してみた。

普段駒場で毎日過ごしている身としては、本郷というだけで珍しい。深夜の本郷となればなおさらだ。

夜中二時ぐらいに休憩しようと思って部屋を出て、赤門から外に出ようとしてビックリした。門が閉まっている。出る事ができない。

なんと本郷キャンパスは夜になると竜岡門という門を除いてすべて閉鎖されるらしい。いつでも空きっぱなしの駒場キャンパスに

慣れていたので、「夜に門が閉まる」というのに激しく違和感を覚えた。

 

一旦部屋に戻ってネットで検索したところ、本郷キャンパス内にあるローソン(安田講堂のすぐ近く)は24時間開いているとのこと。

門を締めている以上、外部の人がわざわざこのローソンに買いにくることはまずないだろう。つまりこのローソンは、夜中に勉強したり

研究したりする学生専用に24時間オープンしていることになる。「がんばって勉強・研究しなさいよ。」という東大の声が聞こえてくるようだ。

しかも「夜中に勉強・研究する学生用」だからだろうか、夜9時以降はお酒を販売してくれないらしい。ビールでも飲みながら勉強の続きを

やろうと思っていたので、ちょっとアテが外れて残念。

 

気を取り直して「野菜生活」のペットボトルを購入した。KAGOMEの100%のやつである。

闇夜にそびえる安田講堂を見上げながら、これを一気飲みする。健康なんだか不健康なんだかよく分からない。

なんとなくやってみたかっただけだ。安田講堂に背を向け、飲み終えたペットボトルをぶらさげて講堂から続くまっすぐな道を

歩きながら、東大での生活にいつの間にか自分がすっかり馴染んでいることを実感した。もう三年生になってしまった。

時間が経つのは本当に早い。

 

わざと遠回りして深夜の本郷キャンパスを散策する。

午前三時。人の気配はほとんどない。駒場キャンパスと違って、暗いところは容赦なく暗い。

総合図書館の近くなど、足元がまったく見えない。「誰もいないように見えるけど、実は横の暗がりに沢山の人間が息を潜めていたら・・・」

などと考えてちょっと怖くなる。「闇は想像力を掻き立てる」というセリフをどこかで聞いた気がして、何だったかなと考えながらしばらく

闇の中を歩いた。文学部棟をくぐり、医学部棟の前でぼんやりと佇んでいるうち、唐突に思い出した。『オペラ座の怪人』だ。

この映画の中で歌われるThe Music of the Nightという曲の冒頭に

Night-time sharpens, heightens each sensation.  (夜はあらゆる感性を高め、研ぎ澄ませる。)

Darkeness stirs and wakes imagination.  (闇は想像力を掻き立て、目覚めさせる。)

という一節があるのだった。部屋に帰ったら作曲者のアンドリュー・ロイド・ウェーバーのCDを聞きながら勉強することにしよう。

 

ひとしきり歩くと一時間ぐらい経っていた。

目はだいぶん暗闇に慣れ、夜風が肌に気持ちいい。春の夜は不思議な力に満ちている。冬とは明らかに違う何かがある。

目にとびこんでくる電燈の光は、キラキラと鋭く輝いていた冬と違ってどこか鈍い。昼間の陽光はすっかり姿を潜め仄寒いが、冷たさという

よりは「涼しさ」といったほうがしっくり来る。朧げな空気、だがその中に、明日の暖かさへと繋がる「何か」が息づいているのを感じる。

 

冬は終わった。春は確かにそこにある。

また一つ季節が変わったことを知り、深いブルーブラックの空を見上げながら大きく伸びをして、元いた場所へゆっくりと歩きだす。

僕の22歳は、もうすぐ終わる。

 

 

Evernote・VAIO P・Orobianco

 

四月に入ってから、Evernoteというソフト(あるいはサービス)を使い始めました。

Evernoteがどんなソフトなのかはグーグル先生に問い合わせて頂ければすぐ分かると思いますが、要はオンライン・オフライン両用

できるストレージです。とくにノート形式でメモや本の抜き書きを保存するのに適していて、画像なども貼りこんで保存することが可能です。

かつ、webページの保存機能が優秀で、clipperと呼ばれるアプリケーションを用いることで、ウェブページのすべて・あるいは特定の

部位だけを選択してテキストとして保存することが出来ます。(そのページのアドレスなどもきちんと保存されます。)

 

これをどう使うか。色々な使用方法があると思うのですが、いまの僕の使い方はこんな感じです。

 

1.文献の抜き書きの保存場所として。

ワードでは一覧性が悪いので、オフラインで動作するEvernote上に「ノート」として抜き書きを打ち込んで保存しています。

具体的には、年度ごとに「2010抜き書き」「2009抜き書き」という名前のノート(フォルダみたいなものです)を作って、その中に

該当年に読んだ本のタイトルごとにファイルを作りました。大学に入ってから読んだ本のデーターはほとんど今使っているパソコン

(VAIO SZ95カスタム)に残していたので、それらをすべてEvernote上に移行させた結果、1000冊近くのファイルが出来ました。

なかなか壮観です。そしてこのデーターをオンライン上で動作するEvernoteと同期させることで、パソコンを持ち歩いていない場合でも

ネットさえ繋がれば抜き書きを参照することが出来ます。かつ、タブをそれぞれにつければ

(たとえば、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』に「身体」「権力」「フェミニズム」「性」「ラカン」「クリステヴァ」などとつけておく。)

タブによって検索が可能になります。これは本当に便利で、「身体」とタブで検索すると僕の読んだ本の中で身体論に関連するものが

ザーッとリストアップされるというわけです。一人暮らしをしていると家に置ける本の量に限りがあり、すべてを家の本棚に並べておくわけ

にはいかないので、このような機能は本当に助かります。

 

2.メールの保存場所として

携帯・パソコンともに、重要なメールを保存する場所として使っています。携帯のメールの保存方法は簡単で、割り当てられたアドレスに

メールを転送するだけ。スケジュールに関係するものや「あ、これ重要だな」と思ったものなどは携帯で受信したら即Evernoteに転送

しています。フランス語やドイツ語の文例集のメルマガを購読しているので、その貯蔵庫としても活用しています。

 

3.デザインのアーカイブとして

デザインのお仕事を頂く際、「過去の作品を見せて」と言われることがしばしばありますが、そう毎日パソコンを持ち歩いているわけでは

ありませんので、中々簡単にお見せすることが出来なかったします。過去の制作物をEvernote上にあげておけばEvernoteに

アクセスするだけでお見せすることが出来るので、とても便利です。フラッシュメモリに保存する代わり、という感じですね。

 

4.スケジュール管理として

予定をEvernote上に入力しておき、yahooのカレンダー機能と組み合わせて、指定の時刻にメールが届くようにしてあります。

スケジュール自体は手帳に書き込んであるのですが、つい手帳を確認し忘れる事があるので、この機能はリマインダーとして非常に

有効です。

 

5.欲しい物リストとして

この使い方は、Twitter上で友達から教えてもらったのですが、欲しいものの載っているwebページを見つけたらどんどんclipperで

ページごと保存して「欲しいものリスト」と名付けたノートに投げ込んでいきます。外出先で、

「あの商品なんだっけ。パソコンに保存してあるのに。」とか、商品の実物を前にして「あの商品ネットで買った方が安かったかなー。」と

悩むことは結構あると思うのですが、Everclipperを使えば外出先からでも「欲しいものリスト」にアクセスすれば簡単に確認することが

出来ます。

 

 

ですが、これらの機能を最大限に使うためには持ち運び可能なミニノートがあったほうが好ましいのは明らか。

そこでVAIOのPを購入しました。まだ現物は届いていないのですが、これとEvernoteを組み合わせることで、授業中でも電車の中でも、

思いついた時に「抜き書き」フォルダや「講義ノート」フォルダにアクセスすることが出来るでしょう。とくに抜き書きフォルダは自分の

バックグラウンドそのものといっても過言でないぐらい重要なものなので、これにいつでもアクセス出来るというのはとても便利ですね。

また、複数の言語を学んでいる身としては、言語ごとに電子辞書を持ちかえたりカードを差し替えたりする手間を非常に厄介に

感じていたのですが、VAIO Pの中に複数言語の辞書ファイルを突っ込み、なおかつオンラインでの辞書サイトをフル活用することで、

最強の電子辞書としての使い方が出来ると期待しています。

 

色などの構成は、オニキスブラック×モザイク×ダークブラウン英字キーボードのカスタムを選択しました。本当はガーネットレッドの

天板(ヌードラーズという万年筆のインクメーカーが出しているOttoman’s Roseと、エルバンのPoussière de luneというインクの中間の

ような、絶妙な色。とても手の込んだ表面加工が為されており、SONYならではのコダワリを感じます。)

を選びたかったのですが「入荷未定」ということで泣く泣く諦め、フォーマルな場所でも使いやすそうなこの組み合わせに決定。

ちょっと買う時期が遅かったかもしれません(笑)

 

ちなみにVAIO Pは、ちょっと出かけるときなどに愛用しているオロビアンコのLINAPISTA(シルバーグレー)というモデルのショルダー

バッグにぴったり入る気がするので、ぜひやってみたいと思っています。この組み合わせで使っている人は中々いないでしょうし、他の

パソコンでは恐らく出来ないんじゃないでしょうか。オロビアンコさんもこれにパソコンを入れられることになるとは考えていなかったはず。

VAIO Pの横長フォルムが為せるワザですね。また手元に届き次第感想などを書くつもりですので、どうぞお楽しみに。

 

 

ドニゼッティ《愛の妙薬》@新国立劇場

 

ふと思い立って、ドニゼッティの名作として名高いオペラ《愛の妙薬》L´elisir d´amoreを聴いてきた。

場所はいつもの新国立劇場である。「愛の妙薬」の話は知っていたし、「人知れぬ涙」Una furtiva lagrimaという曲は

時々聴くことがあったが、すべてを通して観るのは初めて。楽しみにしながらひとり席について幕が下りるのを待つ。

そういえばクラスのみんなで「こうもり」を見に行ったのはもう二年近く前になるんだなあ、と感傷にふけっている間に

あっという間に開演時間がやってきた。

 

今日が公演初日だったのでこれから見に行かれる方たちにネタばれにならないよう詳細は書かないことにするが、

「面白かった!」という一言に尽きる。歌手では主人公であるネモリーノ役のジョセフ・カレヤが飛びぬけていた。声量も抜群だったし、

「人知れぬ涙」の歌唱も素晴らしかった。ファゴットが悲しげにつぶやき始めたあとに切々と歌い上げられるこのアリア、終わりの

Di più non chiedo, non chiedo. Si può morire! Si può morir d’amor.

(もうそれ以上何も求めない。彼女が僕のものになるなら死んでもいい。)

と歌い上げる部分でのジョセフ・カレヤの表現力に感動した。

 

演出も随所に工夫が凝らされていて、洗練と俗っぽさを同時に感じさせるように仕組まれた(であろう)舞台セットはさすが。

音楽を邪魔しない範囲で遊びが詰まっていた。それから「愛の妙薬」と偽ってワインを売りつけるドゥルカマーラの胡散臭さは最高。

登場(プロペラ機に乗って出てくる。しかもセクシーな美女を二人侍らせつつ。)から服装・髪型まですべていかがわしくて笑ってしまった。

ちなみに、休憩が終わってライトが落ちて二幕が始まる直前に、後ろのドアからこのセクシー美女が「妙薬」を携えてオーケストラ・ピットの

方へ歩いて来た!そして、ピットの中にいる指揮者に「妙薬」を売りつける(指揮者のパオロ・オルミはお金を出してこれを購入)という

遊び心に溢れた演出があって、これは大いに盛り上がっていた。なお、指揮者のパオロ・オルミはかなり細かくキューを出して丁寧に

振っている印象を受けた。引っ張っていくというよりは歌手にぴったりつけていく伴奏のうまい指揮者だと思う。分かりやすい指揮だった。

 

《愛の妙薬》は楽しく観ていられるオペラだが、その内容はただ楽しいだけのものではない。

たとえば、自由奔放な恋愛のスタイルを吹いては去ってゆく「そよ風」になぞらえて歌われる第一幕の二重唱「そよ風にきけば」。

これはとても美しいイメージを呼び起こす曲だが、そこで語られていることは恋愛に対する二つの対極的な考え方である。

「恋愛とは何か」みたいな、答えの出ない深刻な問題が横たわっている。変わらぬ愛を歌う主人公のネモリーナに向かって

ヒロインのアディーナはこうやり返す。

 

「変わらぬ愛なんて狂気の沙汰

あなたは私の流儀に従うべきよ

それは毎日愛する人を変えること

毒をもって毒を制すというように

新たな恋で昔の恋を追い払う

私はそうして自由に恋を楽しんできたのだから」

 

永遠の愛を信じてまっしぐらに走るのがいいのか、そよ風みたいに自由に恋愛するのがいいのか。それは答えの無い問いであり、

答えがあるとしても人それぞれだろう。だが、この問いに人は昔から悩み続けてきたに違いない。だからこそこの二重唱は、時代を

超えて、聴くものをハッとさせる。「愛の妙薬」というオペラは、それ自体が愛について再考させる薬なのかもしれない.

 

 

 

情報学環の研究生になりました。

 

多忙な日々に追われて書くのを忘れていました。

情報学環の研究生の選抜をパスしたので、この春から東京大学大学院情報学環教育部に所属することになりました。

メインの所属は教養学部の地域文化研究科フランス分科であることに変わりはありませんが、もう一つ所属が増える形になります。

地域フランスは駒場キャンパス、情報学環は本郷キャンパスなので、これで東大の二つのキャンパスを使うことが出来ます。

(そのぶん、移動が時間的にも金銭的にもキツいのですが・・・。)

 

そしてちょうど昨日、情報学環の入学(部)式を終え、研究生の先輩方とともに吞み会へ行ってきました。

研究生の方々は年齢も所属も経歴もさまざま。同じく教養学部の人がいるかと思えば社会人で元プロデューサーの人がいたりと

かなりカオスな感じです。でも、それが楽しい。整理された狭いコミュニティだけに所属していては思考が停滞してしまいます。

斬新で説得力のある発想のためには、専門分野を深く掘り下げながらも専門分野以外のモノや人と常に接触し続け、

常に外部を求めて刺激に晒される必要があります。情報学環の「不揃い」さは、僕にとってとても魅力的に映りました。

 

これから研究生としてどのようなことに関わっていくのかはまったく道ですが、駒場と本郷の両方に所属というかなりマイナーな身分を

活かして、両方のキャンパスで学ぶことを繋げるような何か面白い企画をやれたらいいなと考えています。お楽しみに!

指揮法教程終了

 

ついに齋藤指揮法教程の練習曲が全て終わった。

最終曲の「美しく青きドナウ」は、細かいニュアンスを表現するのに苦しめられたが、読み込むにつれ、練習曲で学んできたこと全てが

一本の糸で繋がるような感覚を覚えた。ドナウの最終試験では、振り終わってから先生が「よくここまでやったね。95点の演奏だ。」と

言って下さって、心の底から嬉しかった。相手がプロでもめったにそんな点数は出さないとのことなので、相当にうまく振れたのだろう。

確かに、振りながら気持ちが乗っていくのを感じたし、曲のイメージも浮かんだ。そして細部にまで自分の意志が行き届いているのを

感じた。音の無い時間=「間」を十分に楽しみながら振ることが出来たように思う。春の陽気に覆われたこの日に、この「美しく青きドナウ」

を振ることが出来たのは本当に幸せだった。

 

だが、当然気になるのはあとの5点。

「あとの5点はどうやったらいいんですか?」と先生に聞いてみたら、

「演奏に《完全》はないから、100点なんかはないし、誰も100点の演奏は出来ない。でも、出来るだけ100点に近付けるために

努力しなくてはならない。そしてその道筋は言葉で表現できない。これから色々な曲を振っていく中で自分で見つけなさい。

そして時には僕から見て盗め。」との答えが返ってきて、感動した。

 

指揮という芸術に、そして音楽に終わりはない。

指揮法教程をマスターするうちに指揮の技術が体に叩き込まれただけでなく、音楽の見方もずいぶん変わった。

どんな細かい部分も音楽という全体を構成している。全体はディテールに宿っている。そして音楽は建築に似ていて、

一つ一つの音符が組み合わさって巨大な建物を形作っているのだ。そういうことを頭で考えながら、同時に心で感じなければならない。

そんなふうに、技術だけでなく「音楽」を教えてくれた。

 

指揮の師匠に出会ってから6ヶ月。寝る暇を惜しんで練習した甲斐あって、相当に早いスピードで進んでいる。

次の6か月、僕はどの曲に出会い、どの曲をどんなふうに振るのだろう。今から楽しみで仕方ない。