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蠟燭の焔

ガストン・バシュラールの『蠟燭の焔』の原書を入手し、読み進める。

バシュラールは僕の中で「超人」的存在で、その全方向に走る知性に驚嘆と憧れを抱いてやまない。

それにしても何と美しい文章だろう。焔とclignoterという語の関係(「clignoterという語は、フランス語の中で最も震えている語のひとつである」)

を記した一節の後が突き刺さる。

 

「ああ!こうした夢想は果てしない。それは己の夢想の中に迷い込んでしまった哲学者のペンの下からしか生まれ得ないものだ。」

« Ah! ces rêveries vont trop loin. Elles ne peuvent naître que sous la plume d’un philosophe perdu dans ses songes. »

Gaston Bachelard, La flamme d’une chandelle, Presses Universitaires de France 1961, p.43

 

 

バシュラールは郵便局員として働いたのち、物理と化学を教え、ついには哲学のアグレガシオンまで取得してしまう。

そしていわゆる科学哲学、認識論を研究し続け、或る時から「詩学」の研究へと移っていく。(決して、「転向した」とは思わない)

そのほとんど最後の著作が、この『蠟燭の焔』(La flamme d’une chandelle)である。

出版されたのは1961年、死の前年だ。垂直に立ち上る火のポエジーを孤独に描きながら、バシュラールはどういう気持ちでいたのだろうか。

 

 

「語の夢想家である私にとっては、アンプルなどという語は吹き出したくなるようなものである。電球は所有形容詞をつけて呼ぶに十分なほど親しいものとは決してなりえない。

… 電灯は、油で光を作り出していたあの生きたランプの夢想をわれわれにあたえることはけっしてないだろう。われわれは管理を受けている光の時代に入ったのだ。」

 

« Ceux qui ont vécu dans l’autre siècle disent le mot lampe avec d’autres lèvres que les lèvres d’aujourd’hui. Pour moi, rêveur de mots, le mot ampoule prête à rire. Jamais l’ampoule ne peut être assez familière pour recevoir l’adjectif possessif (I). Qui peut dire maintenant: mon ampoule électrique comme il disait jadis : ma lampe?

… L’ampoule électrique ne nous donnera jamais les rêveries de cette lampe vivant qui, avec de l’huile, faisait de la lumière. Nous sommes entrés dans l’ère de la lumière administrée. »

Gaston Bachelard, La flamme d’une chandelle, Presses Universitaires de France 1961, p.90

初心の断章

病に倒れている間に僕は初心を思い出した。

色んなしがらみや関係に窮屈になりすぎていた。難しいことは何も無かった。

小さい頃好きだった広場の鬼ごっこやサッカーのように、楽しいから一緒にやろうよと声をかけて自然とはじまる。

それだけで良かったのだ。だから、今年はこの曲を取り上げよう。あのメンバーと演奏したいと思うから。

 
 

年が明けて最初に開いたのは、限りなくシンプルで執拗なこの楽譜だった。

読み返すたびに見えてくるものが違う。前に読んだ時は苦しさを感じたけれど、今は裏に刻まれた優しさを思う。

正解も完成もない。結局は心が通うかどうかの問題で、それには演奏しないとはじまらない。

 
 

読み返すたびに思う事は変わって行き、見えてくるものも増えてくるけれど

完全に固まることなんてあり得ない。だから固まるのを待とうとしたり、神格化して飾るようなことはもうしない。

うまくやってやろう、と思えば思うほど本質から遠ざかる。ある種の挑戦と冒険に立ち戻る。

今年の僕は、熱を十分に冷ましたら外に出す。

 
 

時間は限られている。

新しい年度に入って、自分の年齢のみならず、友人たちの年齢にはじめて意識が向いた。

あと何曲を一緒に演奏出来るだろう、舞台の上でいくつの瞬間を共有することが出来るだろう。

背負わねばならないものは次第にお互い重くなって行くけれど、それを引き受けつつも初心に返る。
 
 
 

やりたいことを、好きな人たちとやる。

欲を捨て、気負いも捨てて、純な楽しさに仕えるように、無心にボールを蹴ろう。

 

 

あけましておめでとうございます。

 

 

あけましておめでとうございます。風邪&ロタ(?)ウイルスに苦しめられた年末でしたが、

なんとか回復し、ベッドの上でひたすら卒論を書き続ける元旦を過ごしています。

昨年は学問や音楽をする楽しさと共に、その裏にある苦しみを味わった一年でした。

 

学問上は19世紀後半から20世紀初頭のフランス文化史を専門にすることを決め、

それまでに読んできたものが一挙に繋がってくることに言葉に尽くしがたい刺激を受けました。

同時に、「フランス語で書く」ということがこんなに難しいことで、自らの語学に対する不真面目さと共に、

普段の自分がレトリックや曖昧な思考に頼って物を書いているかを突きつけられたような思いがして、

書きたい事が書けない苦しみに現在進行形で悩み続けています。

ともあれ卒論提出まであと二週間。大見得を切ってしまったタイトルに負けないよう最後まで詰めて書いて行きたいと思います。

(タイトルは、La naissance d’une nouvelle sensibilité à la lumière artificielle : Le rôle des Expositions universelles de Paris 1855-1900)

 

音楽活動について、レッスンでは一月から十月までひたすらベートーヴェンの交響曲と取り組み、

「千の会」にてブラームス、ドミナント室内管弦楽団とオール・ベートーヴェン・プログラム、

アンサンブル・コモドさんと東北遠征公演でポップス&クラシックステージ、コマバ・メモリアル・チェロオーケストラとヴィラ=ロボス、

クロワゼ・サロン・オーケストラと音楽鑑賞教室…どれも忘れ難い時間で、その度ごとに沢山の出会いや学びがありました。

うまく行ったこともうまく行かなかったことも沢山ありますが、一緒に演奏してくださった方々やコンサートを支えて下さった方々に、

そして貴重なお時間の中でコンサートにお越し下さった方々に心から感謝しています。

一月に卒論と院試を終えたら、三月にはまた本番が二つ。

自らの年齢に自覚的でありながらそれに焦ることなく、矛盾する要素を常に引き受けながら、

一つ一つじっくりと学んで行きたいと思います。今年も素敵な一年になりますように。

 

コマバ・チェロ・オーケストラ2012

コマバ・チェロ・オーケストラ2012

アンサンブル・コモドさんと東北遠征公演にて。

アンサンブル・コモドさんと東北遠征公演にて。

 

音楽と言葉、2012年の終わりに。

 

毎年恒例のようになっていますが、今年もまた、この一年間にレッスンで見て頂いた曲や勉強した曲を

その時にメモした断片的な言葉と共に一覧にしておこう思います。

 

<2012年1月>

ベートーヴェン:レオノーレ第三番、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第一番

 

・密度の高い音を出せるように、そして相手に任せて相手のエネルギーを上手く使うことを工夫する。

・腕の重みを感じながら空気と空間を圧縮していくイメージ。

・意志の力が通っていて、一つの音符・和音の中に無数の小さな音符がぎっしり充填されたような、そんな音を引き出せるように。

・タイがいかに重要な役割を果たしているか!

・スコアを忘れて流れに身を浸すこと、ppの中で歌うこと。

 

<2月>

ベートーヴェン:交響曲第二番、交響曲第四番、交響曲第五番

・言葉はいらない、自然と音楽が流れはじめる。束縛されている感覚は全く無いのに、隅々まで意志が行き渡っていて、師匠の考える音楽を「弾かされて」しまう。

・指揮は何と繊細で奥深く、底知れない芸術であることか!意識がもっと先へと伸びていないとだめなんだ。

・スポーツでもそうだけど、音楽も上手くいかないときは「その一つ前」に問題やヒントが隠れているものだ。とりわけ、「動き出す前の動き」にこそ。

・自分の身体に落とし込んで、最後には全て忘れる。棒の持ち方が崩れそうになっていたことには要注意だ。

 

・第四番からは三番「英雄」の姿も見えてくるし、次の五番「運命」に繋がる要素も沢山見出せる。

・そういう意味で四番は過渡期 であり、様々な要素を含むからこその魅力に溢れている。複雑な要素が均整の取れた姿形に収まっていて、フィネスという言葉を思い起こす。

・改めて勉強してみて、クライバーの四番の演奏でなぜ背徳感に似た気持ちを覚えたのか分かった気がする。

・音楽をぐいぐい流しながら、沢山ある楽想を華麗に「無視」(適切な表現ではないかもしれないが)していくからだ。

・言うなれば、高速道路を爆速で走りつつ、オービス(速度監視カメラ)が至るところにあるのを十分に知りながら、しかしニヤリと笑ってそれを無視して駆け抜けるような…。

・つまり、この曲に潜んでいる「動き」の要素を抉り出し、極端なぐらい強調し、sfの「長さ」を「鋭さ」に読み替えたのではないか。

 

・ベートーヴェン四番一楽章で滅多切りにして頂く。実に二時間にわたる壮絶なレッスン。もっと重厚で変化に満ちた曲なのだ。今までで一番難しい。

・ベートーヴェン四番二楽章、なんと二小節しか進まず!瞬殺。この二小節にこんなに沢山のものがあったとは!

・バス内でベートーヴェンの四番を譜読み。スキーからそのままレッスンへ。ストックを指揮棒に持ち替えます。

・師匠に「もっと色気が出るといいねえ」と言われる。苦笑いしている僕に続けて師匠、「まだ年齢が足りないんだね。とはいっても、僕は中学生から色気があったと思うけど」

・レッスン終わり!ベートーヴェン四番を暗譜で通し合格を頂くも、「もう少し、もう少しロマンティックな曲なんだよ。まだ若いんだね」とニヤリ。

・レッスン後、師匠と呑む。流されずに生きて、未来に本当の「指揮」を見せてやれ、と強い言葉を頂く。未熟な身にも震える言葉だった。

 

 

<3月>

ベートーヴェン:交響曲第五番

ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲

・今日は右足に乗る。表現しよう、とするあまり、余計な動きが混入していた。削る。シンプルに、シンプルに。

・表現したいと思うことが増えて表現出来る部分が少しずつ増えてきたからこそ、基本に立ち戻る。

・「きちんと立つ」というただそれだけのことが何と難しいことか。

・運命、一度四楽章を通すだけでもこれだけのエネルギーを使うのだから、作曲したベートーヴェンはどれだけエネルギーを使ったことだろう。

・ある意味では、耳が聞こえていなかったからこそ耐えきれたのではないだろうか、とさえ思う。

・運命四楽章の譜読み。なんという単純で凝縮した楽譜。

 

・86歳の師に運命を教わりにいく。いつかみんなと運命を演奏する日を思いながら。

・運命について。「こういう曲は、期待して聞きに来た聴衆に、それ以上のものを聞かせなければいけない」、そんな言葉を頂く。忘れ難いレッスンだった。

・運命をみんなとやれる日が来たら、いつもあの言葉を思い出そう。聴衆の「運命」への期待を良い意味で裏切れるか。それには何年かかるか分からないけれど。

・今日は気持ちに動かされて指揮している感覚だった。終えて師匠はただ一言、「そうだよ」と微笑んで下さった。

・運命三&四楽章、振り終えて師匠から「文句なし!これは立派だ」と笑顔で言葉をもらう。疑っていたら、数秒の沈黙のあと師匠が、「でも ね。」と口を開く。

・「君が僕ぐらいに歳を重ねれば、もっと良い演奏が出来るよ。いくぞ」と棒を取り上げる。言葉にならない凄まじさ。震えた。

 

・ハイドン・バリエーションを勉強していると、木で出来た歯車が見える。最後にはゆるやかにその回転を止め、一瞬の沈黙が訪れたあと、一気に…。

・所属や進路を決めてゆく、というのは、 一つの夢を現実にしていくことであると同時に、複数の夢を手放していくことなのかもしれない。

・いつまでも夢や可能性を描き続けることは本当に難しいことな のだ。春が滲む三月の終わり、出勤する人々で満員の電車に揺られながら、ぼんやりとそんなことを思う。

・電車で正面に座った赤ちゃんが、僕の方を指して「あれは?あれは?」と笑顔で言う。

・何だろうと思ってその子の視線を追うと、僕の座席の後ろの窓を見ている様子。

・釣られて僕も後ろを振り返ると、窓の外には何ともいえない美しさの夕暮れと夜のグラデーションが広がっていた。

 

・休学中の最後のレッスンだった。良い一年間だった。数えられないほど沢山のものを教わった。明日からいよいよ「運命」!

・楽しいからやる、という気持ちを忘れたら死ぬ。楽しいと思えなくなったら迷わずやめる。だから楽しさをいつも見出せるように学ぶ。

 

 

<4月>

ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲

ベートーヴェン:エグモント序曲(二回目)

 

・エグモントの思い出話。斎藤秀雄にレッスンを受けたとき、冒頭の一小節をひたすらダメ出しされて、ここだけ何十回もやりなおした、と。

・「だから君も何十回もやらさせる」と同じようにダメだしの嵐。確かに難しいし、うまくできない。

・完成したものを一旦壊し、過去を慎重に再現するのではなく、その場で即興的に作り上げてみよう。

・自在に変奏しながら、しかし変奏と変奏を繋ぎ止めながら、即興が必然と化す一点。

・ピアノ線のように細くも確かな意志の糸を最初の一音から最後の一音に向けて通す。

・楽譜通りにやれば良い、ということと、楽譜に書かれているのは最小限の要素だ、ということは矛盾しない。

 

 

<5月>

シューマン:子供の情景(二回目)

ベートーヴェン:交響曲第一番(二回目)、ピアノ協奏曲第四番、交響曲第三番「英雄」

 

・コンサートを終えて師匠の指導が四割増ぐらいで細かくかつ厳しくなった。

・師匠が教えて下さることが少し変わった。「その感じ方じゃない」「そこはもっと音をシメてみろ」こんな言葉は今まで貰えなかった。

・いまは少し振るのが怖い。見えているものを棒で拾いきれない。棒の網目が掬うべき要素に比して荒い。零れていくものが見えてしまう。

 

・二年ぶりに、シューマンの「子供の情景」を見て頂く。あらためて感動で泣いてしまった。なんという深さ。

・「そうだね、また十年後にやってごらん。人を愛し人生を重ね、子供を育て…そうするうちに二十代の君に今は見えないものがきっと沢山見えてくるよ」

 

・ブラームスの底無しの面白さ。

・プロの奏者の方々から沢山教わる。音楽に関わることの出来る喜びと苦しみを改めて味わった。

 

・英雄。まだ到底表現出来ないけれど、この一楽章が何を言いたいのか少し分かる気がする。

・ナポレオンというよりはギリシャの英雄。個人ではなく英雄「的なもの」 だ。

・二番と三番の間には確かに飛躍があるけど、三番と四番には強く共通する発想があるように思う。

・英雄。師匠の最も愛した曲を見てもらえる幸せ。振るとこんな気持ちになるんだな。今まで経験したことの無い感情が湧いてきた。

・見せて下さるものを受けこぼしたくない。全感覚を逆立てて見る、聞く、感ずる。

 

・統一感をとりつつ一気呵成にならぬよう移ろうことの難しさ。

・ダンテの『響宴』、天使は「その形相においてほとんど透明」(quasi diafani per la purita de la loro forma)と形容されている。

・バシュラールの凄み。「時間とは瞬間の上に局限され、そして二つの虚無のあいだに宙づりにされた実在である」

 

6月

ベートーヴェン:交響曲第三番「英雄」

 

・英雄二楽章、ぶっ飛んで難しい。描いているものは見えすぎるぐらい見える。

・でも、単に情景を描くのではないし、深く沈み込んでいるだけでは死んだ水みたいになる。

・死の中に潜んだ生、生から滲み出す死。葬列、彼岸の揺れを音楽の中に刻むには。

 

・「そうだね。僕も若い頃は君みたいに考えていた、でもこの歳になって思う。葬送とは、死を送るとは、こういうことだ。」

・その言葉と共に振って下さった時に空間を満たした音の深みと孤独、今の僕にはどんな言葉を持ってしても表現できない。

・慟哭か有りし日の栄光か。音が決して抜けないように、光が差し込まないように、僅かな幅に凝縮させて振り続ける。

・「なんでこれが唐突に出来るようになったか分からないけど、さっきより出来ている」と言われた部分。

・見返してみると半分ぐらいヤケクソになっていて、そのおかげで先へ先へと作っていけていることに気付く。ギリギリのズレで置き去りにしていくこと。

 

・英雄四楽章を勉強していると鳥肌が立つ。あらゆる要素が結びついて変奏されてゆく。

・音響や和声だけではなく、明らかに「時間」を操作している。

・レッスン終わり。英雄、暗譜で四楽章まで。これまで暗譜で通して来た1、2、4、5番と全然違う。

・気をつけないと曲に飲み込まれる。楽譜から自由になるどころか、零れ落ちてゆくものに唖然とした。

・終わってから師匠が「英雄が特別だ、という理由が分かっただろう」とニヤリと笑う。未熟!!

 

 

・コンチェルトの本番を終えてから、色々な楽器の方々より一緒にコンチェルトをしたいというメールを頂くようになった。

・自分の勉強が追いつかないのでまだお受けすることは出来ないけれども、嬉しいことだなあと思う。がんばって勉強しなければ。

 

 

<7月>

ベートーヴェン:交響曲第六番「田園」、交響曲第七番


・田園一楽章の一瞬g-mollになるところが好きすぎて悶絶せざるを得ない。

・雲に太陽が隠れる光景が、快さの中にふと不安や翳りのよぎる心の動きが鮮烈に立ち上がる。

・田園、ドとソばっかりだ。

・田園二楽章を譜読み。ナイチンゲールのフルート、ウズラのオーボエ、カッコウのクラリネット。

・冒頭低弦による三連符は小川のせせらぎ。地上を流れる川と上方を舞う鳥という二つの次元が楽譜/楽器で表現されている。

・そしていつしか小川は川となり、鳥は群を成す。

 

・田園のレッスン、多くを教わる。とりわけ二楽章で頂いた言葉。

・「君はまだ若いから難しいかもしれないけど、いつか分かるよ。繊細に大らかであれ。二つとも君が持っているものだ、同居させてごらん」

 

・田園四楽章「嵐」を勉強。ゆっくりスコアを見たのは初めてで、感動している。

・ここで空に雲がかかり、雨が落ち始め、雷光が鳴り、雷鳴が遅れて轟く。

・その様子、そして自然の猛威を前にした人間の気持ちが楽譜から鮮やかすぎるほどに立ち上がる。雨が振る角度の変化すら、ありありと!

・嵐。世界がモノクロになり、再び色を取り戻していく…。嵐において、なぜコントラバスにこんな無茶なパッセージを書いたか、少し分かる気がする。

 

・五楽章。神様への感謝という感情を含ませて、そして景色がズームイン/アウトするように振ろう。

・嵐のあと、優しい風が樹々を揺らし、鳥が再び囀りますように。

・けれども小細工も恣意もいらない。必然だけが自然に宿るように。

 

・田園を最初から最後まで通す。田舎について、小川のほとりを歩き、踊りと歌を楽しみ、嵐が過ぎる。

・五楽章に辿り着いたとき、こんな気持ちになるのか。内側から幸せがあふれてくる。

・そして一つの物語を閉じる最後の音。信じられないほどの充実感!

 

・ベートーヴェン七番、二楽章まで。そしてブラームス四番一楽章冒頭。ああ、そういうことだったのか。

・詳しく書けないし書こうとも思わない。とにかく忘れ難い時間になった。

 

・自由でなければ息絶える。

・言葉を放つのも、言葉を飲み込むのも、すごくエネルギーのいること。

・金に擦り寄る気配やウケを狙う様が透けて見える芸術ほど醜い物はない。心しよう。

・だから、好きな人たちと好きなことをする。焦ることはない。

 

 

<8月>

ウェーバー:「オベロン」序曲

ビゼー:「カルメン」組曲

 

・サーフィンへ。熱海に近づくにつれ窓の外に広がる海を見ながら、昨年の今頃は「白鳥の湖」を勉強していたのだな、と思い出す。

・あれからもう一年経ったとは。海は、一瞬たりとも同じではいないその揺れ動き、複雑さによって、いつまでも外部を見つめることを可能にする。

・同時に海は、その茫漠とした単純さによっ て、人が自らの内へと静かに意識を向けることを許す。

・二つの性格に通底するのは「時間」であり、それは終わりなき差異と反復の連鎖だと思う。海を見つめることで、人は空と海の境界を喪失する。

・そしてまた、人は海の中に身を投ずることによって、身体と身体の外部との境界感覚を失い、世界へ溶け出でる。

・年齢を重ねるにつれ、奔放でいられなくなる。僕はそれが嫌いだ。守りに入らず、いつもゾクゾクする波と一緒にいたい。

・奔放と誠実は同居しうる。

・再現というよりは、忘却。そして生成。

・相対化し続ける作業は必要だ。苦労して手に入れたものや今にしがみつかず、篩にかけ続ける。

・そして、それでも残るものを大切に。

・夏の陽射しに貫かれた自分の影を見ると一層思う。冬になって、この影のどれほどが残るのか。

 

・初回練習四日前に三つの楽譜が渡され、三日前にまた一つ楽譜が渡されるというエクストリームな状況を体験している。

・大変だが、信頼して頂いているのだと思って勉強時間を捻出してきちんと乗り切るしかない。

・被災地にて。海は凪いでいる。見渡す限り無。風が吹き抜けて緑を揺らす。草地の中に残された泥まみれの上履きが残酷だった。

・宮城県での演奏会、すべて終了。三公演とも同じ曲だけど同じ演奏は無い。最後のフェルマータを伸ばしながら、ああ、終わってしまうのだなと思った。

・見た光景も、会った人々のことも、一つたりとて忘れはしない。

・夢の中で、この三日間で会った人たちの顔と声と音が流れていた。

 

 

・ベートーヴェン七番の四楽章、スコアを見ると驚かずにはいられない。

・今まで半年かけて一番から六番まで勉強してきたが、どの六曲にも比して音符が整然と、そして執拗に密集している。

・舞踏や狂乱という言葉で表現されてきた理由も良く分かる。

・レッスン終わり、ベートーヴェン七番を最終楽章まで見て頂く。

・四楽章、前回はっちゃけすぎて怒られたので、今日は自重気味にやろうとしたら、もっと激しいものだと言われる。

・距離やテンションのシビアさ。

 

 

<9月>

ベートーヴェン:交響曲第八番

尾高尚忠:フルート協奏曲

平井丈一郎:チェロ・アンサンブルのための頌歌

 

・「コンサートをしよう、さあ場所はどうする」という発想も良いけど、 「この空間で何かしたい、さて何をやろうか」という発想も好きだ。

・駒場の施設をめいっぱい活用して演奏していきたい。

・日本人の曲を取り上げる、という姿勢も師から受け継ぎたい。そして僕は日本人の曲が好きだ。

 

・ベートーヴェン八番四楽章、ここから何かの言葉を読み取ることは今の僕にはどうしても出来ない。
・工夫と遊びに溢れた精巧な楽章なのは分かるけど、あまり好きにはなれない…。観賞用の美女という感じ。

 
 

・波の待ち方、波の乗り方。そのウネリは海という大きな「全体」の中 でどんな波なのか。
・波の一つ一つを精緻に見ながら、海という全体の中に位置づけなければならぬ。
・海面に少し立てるようになったら、次はもっと高くに自らを 飛ばし、広々と見渡さなければならない。そういうことだ。

 

・一緒に演奏して下さった奏者が出演する演奏会には、出来る限り行きたいなあと思う。曲はもちろん、人で音楽は繋がっている。

 

・先のことなんか分からない。病は悪化するかもしれないし、明日死ぬかもしれない。とりあえず毎日楽しんで一生懸命生きるしかない

・帰ってきて少し進化した。前に出来なかったことが一つ可能になっている。低音と休符。滑らかな時間、条理の入った時間の中で取る整合性。

・息をゆっくり吐こう。密度と脱力。去年の課題に立ち戻り、苦しまずにのびのびと。

・右足を出す。左手が出る。肩が風を切る。そういうことだ。不自然なものは何も無かった。

 

・昨日とは違うことが出来そうな気がする、というこの不思議な予感に魅せられて音楽をしている。

 

<10月>

ベートーヴェン:交響曲第九番(一楽章のみ)

ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ一番

ウェーバー:オイリアンテ、魔弾の射手

 

・音楽しているときと学問しているときとで明確に気持ちを切り替えられるように、しかし両者が敏感に触発し合うように頭の中を作っていきたい。

・15年ぶりに会う友人から、15年前にあの子はあなたの事を好きだったのよ、と聞かされて、アルルの女のアダージェットを思い出した。

・そして小六の自分が 書いた文章が今も彼女の記憶にある事を聞く。数行に全身全霊を込めて書いたあの幼い文章が、まだ誰かの中で生きているとは。

・一年前の自分の演奏を聞いて、何にも分かっていなかったことが分かった。おそらくまた来年も、再来年も、前を振り返ってそう思うに違いない。

・そういうふうにして少しずつ積んで行くしかない。何にも分かっていなかった!と思えなくなったら、その時はもう音楽をやる資格を失った時なのだと思う。

 

・ヴィラ=ロボス。自分にとって最も大切な曲の一つ、と言える曲を振りに行く。本番も楽しみだ。

・一生この曲を取り上げていくつもりだし、何度も何度も師から教わりたい。いつまでも勉強し続けたい。

・過去を再現してはダメなのだ。一からその場で作り直す。その時のあらゆる要素に影響されながら、無から生まねばならないのだ。

 

・数回の迷いから脱出した。孤独でいることは大切だが、孤独に入り込んではいけないのだ。

 

・信じられない事だが第九を勉強していたら朝になっていた。天地を創造しにいくぞ、という気持ち。

・いつか第九を振りたい。

・一楽章がこんなに凄まじい音楽だったとは勉強してみるまで分からなかった。空間を動かすエネルギー。

 

・魔弾の射手が好きすぎて打ち抜かれることも辞さない。

・魔弾の射手、師の至芸を見た。

・「中々良いね。でも君はまだ景色や物語を見ている。それを超えるとさらに面白いことがわかるよ」と振り始めると、

・とんでもなく悠々と広々とした音がふわり。笑顔にならざるを得ない。「どうだい?」と聞かれて思わず「…幸せです…」と答えてしまった。

・風景に入り込むか、風景をその場で生成させるかの違いだ。

・一週間後、魔弾の射手を暗譜で通す。こんなに気合いが入ったのは久しぶり。

・振り終えて師匠はぽつりと「これなら満足できる」と一言。帰り際に「今日は良かった」と言葉を下さる。

・足りぬ所はたくさんあるけど、今は素直に喜んでおこう。

 

・音楽も光も香りも、空間と時間をコントロールする芸術なのだ。

・結局は想像力の問題で、僕はそこに惹かれている。

・想像力を掻き立ててくれるような、あるいは想像力を鍛えてくれるようなモノや行為と関わり続けていたい。

・舞踏会のように人を愛す。涼やかな秋風に柔らかな笑顔が宿る。

 

<11月>

メンデルスゾーン:「フィンガルの洞窟」序曲、交響曲第四番「イタリア」

グリンカ:「ルスランとリュドミュラ」序曲

リスト:「前奏曲」(レ・プレリュード)

 

・フィンガルの洞窟のスコアを読んでいると、海鳥が空を舞うのが見える。

・フィンガルを振って、沢山のことに気付いた。ボードレールの万物照応。異なる時間の混入。

・記憶が「よぎる」こと。明日はもっと4Dにやる。

 

・バレエのレッスンはめちゃくちゃ面白かったし勉強になった。ちょっと考え方が変わりそう。

・一瞬の産み方掴み方、加速減速による「滑らかな時間」の混入など、指揮に繋がるところが山ほどあった。

・心の持ち方はもちろん、技術的・身体的なほんの僅かなズレで意図した音から遠ざかる。

・昨日の僕は手首が少し内側に入っていた。腕の重さが狙い通りに集まっ てこないと冒頭のあの音の厚みは引き出せない。

・音量ではなく質の問題。そう言語化することで意識に叩き込み、レッスンへ向かう。いつだって原因は基礎にある。

・ルスランとリュドミュラを振っていて凄い事が起きた。

・最後のフェルマータ(ティンパニロール)の和音を鳴らした瞬間ジャストで地震。大地が鳴った。

 

・レプレの譜読み。気付いたら泣いていた。苦しい。なぜCのピチカートが二回あるのだろう。二回の違いは。意味は。Dとの関係は。

・レプレ、読むだけでどっと疲れる。ある種の狂気が宿っていて、そしてそこが好き。

・細かい音符を拘束するのではなく、invite出来るように意識。

・その瞬間に何十人もの身体を預かっている、ということをもっと考えよう。

 

 

<12月>

リスト:前奏曲(レ・プレリュード)

レスピーギ:リュートのための第三組曲(古代舞曲とアリア)

ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲

J.シュトラウス:「こうもり」序曲

 

・レプレ、凄まじいレッスンだった。ここ数ヶ月で一番濃かったかもしれない。

・実に一時間半ぐらい見て頂いて、昨日も同じ曲をやったはずなのに全く違うものが響いていた。

・言葉抜きに音楽で師と会話してその度ごとにその場で作って行く感覚。極めて刺激的。

 

・前回の激しいレッスンを踏まえて何が出来るか。断片を統一させる。無理矢理にではなく、あくまでも自然に。

・音がボケてる、という師の指摘はまさに。光景を目の前で作って行かなければならないところで、先に光景へと入り込んでいた。

・このバランスの微妙さ!あくまでもキャンバスに色を落として行く画家でなければならず、描かれる光景の中に生きてはならない。

・目の前で絶えず作り変えていくこと。光景はその結果の産物。音符は音符じゃないんだけど音符。禅問答みたいな真実。

 

・弓の速度と息の速度を考えること。

・ウネリと全弓と管の音の密度。圧ではなく深さ。真っ黒なCとグリザイユのD。ロマン派の音楽の距離感の難しさ。

・終わってから師に「先生は楽譜とどれぐらいの距離なんですか」と抽象的な問いをぶつける。

・簡潔だがしかし深い、仙人のような答えが帰って来た。

・昨日まで取り組んでいたリストの前奏曲とはもう全然違う世界、古代舞曲とアリア(第三組曲)。

・二楽章のメドレーを一つずつキャラクターを立たせていくのは簡単ではないけれど、テンポも拍子も表情もころころ変わるので振っていて楽しい。

・今年最後のレッスン終わり。こうもり序曲を楽しく。この曲は難しい顔では振れない。

・終わってから、昭和24年(だったか?)に金子登さんがこうもり を日本初演した時にアシスタントをしていたという師の思い出話を聞く。

・懐かしいなあ、と遠くを見ながら話していらっしゃった。オペレッタや オペラ、そして序曲は沢山のことを教えてくれる。もっとやりたい。

・pのレンジとニュアンスをもっと考えよう。音色の問題にもっとシビアになろう。大きな流れを掴めるように。

 

・一年間の振り納め、気恥ずかしくなるほど鮮やかな薔薇の花束を頂いて帰宅し、本番用の指揮棒をケースに戻す。

・協奏曲や東北遠征公演など、沢山の本番を頂いて幸せだったと同時に、もっともっと勉強せねばと思う一年間だった。

 

・自身の変化を感ずる一年だった。年齢じゃなくて環境がそうさせる。年齢なんて所詮数字で、体や頭の諸々の変化は誤差の範疇だ。

・にも関わらず変わらせるものがあるとすれば、それは自らが経験した事であり、出会った人であり、悩んだ時間であるだろう。

 

 

 

こうして並べてみて、ベートーヴェンで頭がいっぱいになった一年間だったことを確認しました。

25歳の一年間が87歳の師よりベートーヴェンの偉大な交響曲を教わっていく一年間であった事が幸せです。

一年前にまっさらだった九冊のシンフォニーの楽譜は、持ち歩き、書き込み、本番でも演奏するうちに、

いつしかボロボロになって本棚に眠っています。

 

レッスンのみならず、一年間に七回の本番を頂き、色々なオーケストラで色々な曲を振っていくうちに

音楽をすることの楽しさだけではなく、苦しみを知った一年間でした。

教えを下さった方々に、そして一緒に演奏して下さった方々に心から感謝します。

孤独に悩み、何を守るべきか迷った時もあったけれど、しかしそれでも、僕は指揮をやりたいと思う。

来年も沢山の曲を学び、沢山の感情と人とに出会い、沢山のステージを経験できますように。

2012年の終わりに。

2012年の終わりに。

 

 

 

来年の課題

 

音楽の大きな流れをつかむこと。ひとつの音の中にあるたくさんの要素を聞き取り表現すること。

十分に用意しながら、けれどもその場で響いた音に柔軟であること。

任せる所は自由に任せ、ここぞという肝心の場所と全体の見通しとでしっかり引っ張っていくこと。

そして最後に、失うことを恐れないということ。

 

砂原伽音さんのバレエレッスン

 

モスクワで学び、日本をはじめ世界で活躍するバレリーナ、砂原さんのバレエレッスンを見学させて頂きました。

砂原さんとは僕が指揮した「ブラジル風バッハ四番」を聞いて下さった(そして、なんとそれに振り付けを付けて下さった!)ことから

知り合いました。人の縁とは本当に不思議なものだと思わずにはいられません。

 

そして夕食をご一緒させて頂いた際に、11月25日の駒場祭にてチェロ・オーケストラで「ブラジル風バッハ一番」をやります、とお伝えしたところ

そのリハーサルの見学に砂原さんが来て下さり、こんな感想を下さいました。

 

木許さんの音で、ブラジル風バッハのリハーサルを聴いてきた。惚れてしまって、振付してしまったほどに、だいすきな曲。思わず涙が…。リハーサルでこんなにも生き生きと演奏できるのは指揮者が持っている魅力にあるのか、奏者全員が指揮者を信じて、彼の動きや表情を見て、奏者は揃えて音を出していて…。バレエのリハ(コールドの場合)では、このようなモチベーションでいられるのはありえないので新鮮だったし素敵だった。指揮者の指示ひとつひとつに反抗せず、自分への貴重な言葉だと受け止めて、指揮者を納得させてやる!では無く、良い音を出したいという気持ちで、心からの音を出す奏者達は素敵だった。

 

駆け出しながらも指揮者としてこのような感想を頂けるのはこれ以上無い幸せの一つで、

苦しいことは沢山あれど、これからも頑張って音楽と向き合っていこうと身が引き締まる思いをしました。

 

では僕は、バレエから、砂原さんのバレエレッスンから何を学ぶ事が出来るか。

バレエの曲をいくつかレッスンで見て頂いたことはありますが、バレエの実際の所については恥ずかしながら全くの無知。

けれども指揮とバレエに共通点が沢山あるだろうという予感は以前から抱いていたため、限りなくワクワクしながらスタジオに向かい、

いざレッスンが始まると夢中になってメモを取っていました。

 

 

まず全体に思ったのは、バレエは「合理的で自然な美」だということ。

一つ一つの動きが計算されていて、観客の視線を受け止めるに耐えうる美の強度が目指されている。

肩甲骨、背面、アキレス腱、指の先(指を見よ!と何度も指導されていました)、足指の人差し指の側面…

軸から先端に至るまで、身体の隅々まで意識が巡らされています。

このように書くと何だか「ややこしい」もののように思えてしまいますが、砂原さんがお手本を見せて下さるとそれが自然で、

この手は・この指先はここに無ければならないという納得や確信を与えてくれる。

指揮の師匠がいつもおっしゃる「技術を忘れた所に本物が宿る」という言葉と同じものを見た気がしました。

 

 

何より、バレエは佇まいと軌道が美しい。

肩甲骨を洗濯バサミで引っ張られるように/内股の筋肉を合わせてその軌道を通るように/骨盤を呼吸させよ/と指導されていたのが印象的でしたが、

そうしたイメージによって身体を構築しながら、先端だけで動かすのではなく、付け根から動かしにかかることが大切にされていたように思います。

動きの中には確かな「アクセント」があって、全てをがしゃがしゃと動かすのではなく、固定すべきところを固定し、動く所を限定して「魅せる」。

くるりと回る「ピルエット」を間近で見たのは初めてだったのですが、まるで風に吹かれたように回るその動きは、

軸がぶれずに動きの中で動かない場所が明確であったという点で美しいもので、

自分の軸を中心とした円空間が「支配している領域」として可視化されるような錯覚を覚えました。

身体を回したときや足を大きく回したときの軌道はもちろん、残像すら美しい。

次々と展開される動きに、過ぎ去った軌道の残像がオーバーラップする。

過去と現在(そして未来)が眼前で交錯して行くその鮮やかさに息を呑みます。

 

一方で、動の中に静を取り入れることと並行して、静の中に動を含ませることの必要を感じました。

たとえば「アラベスク」のようにピタリと「静止」した姿勢にあっても、静止の要素が入り込みすぎるとダメで、

静止の中でも次の動きへの予感が含まれていないと動きが死んでしまう。

脱力の中で「動性を静性の中に混じらせる」=「静の中に動を予感させる」というのは

今年の七月から今に至るまで、指揮する上で意識していることでもあったので、とりわけ興味深いものがありました。

 

そしてまた、「滑らかな時間」がその動きの中に混じっている事も発見しました。

「滑らかな時間」というのは、フランスの哲学者・ドゥルーズや作曲家・指揮者のブーレーズが使っている言葉で、

個人的に共感出来るところが多く、(少し変形してしまっているとは思いますが)音楽やスポーツをやる際には僕も好んでこの言葉を使っています。

簡単に纏めてしまえば、拍通り・メトロノーム通りの時間(=「条理の刻まれた時間」)に対してパーソナルな時間のことで、

規則正しく流れている時間からの逸脱だと言えます。逸脱ではあるがしかし、拍通りの時間の中でこの逸脱を展開することによって「自然な」伸縮が生まれる。

本来無いはずの「一瞬」を生成し、掴み、異なる時間を定められた枠の中で展開させることによって、

「いまのは何だったのか?」という、宙づりにされたような感覚が生じるのです。

プリエで生んだ時間・空間を使ってピルエットを仕掛けるところはまさにそういう瞬間で、

いち、にい、さん。という規則正しい時間の中にいくつもの速度や時間感覚が含まれていました。

 

 

帰り道、丁寧に子供達を指導し、時々お手本を見せて下さる様子を思い出しながら、

そういえば砂原さんがお手本を見せて下さる時には身体の「重さ」を感じなかったなと気付きます。

しっかりと足は地についているのに、重さを感じない。重力を使いつつ重力から自由で、

この瞬間に地面が消えたとしてもそのままふわりと浮いてしまいそうな鳥のような軽さ……。

それはとても不思議で、美しい時間でした。

 

 

空を見上げたくなるような秋晴れの一日、バレエという芸術の面白さと共に、

異なる芸術から学び・比較し・重ね合わせ・応用する楽しみをまた一つ味わいました。

お誘い頂いたことに心から感謝します。砂原さん、本当にありがとう。これからもご活躍を!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

矛盾

 

大地に足をつけたまま、重力から自由でいたい。

 

魔弾を射る

 

レッスンでしばらくウェーバーに取り組んでいた。

「オベロン」「オイリアンテ」と来て最後に「魔弾の射手」序曲を振った。

魔弾の射手は大好きな序曲の一つ。指揮を学び始める前に見たカルロス・クライバーのリハーサル動画が焼き付いている。

この曲を指揮出来るのか、と思うと幸せで、なんとしても目一杯学びたいと一際気合いを入れて臨んでいた。

 

冒頭の暗闇の応答が終わったあとにはじまるホルン。

僕が振ったのち、師が「まだ君は景色を見ようとしているね。そういう次元に留まらず、一つ飛び越えてみると良い」と言って

振り始める。導入の一小節の伴奏の豊かさ。とたんに悠々と広がる角笛の響き。部屋が深い森にワープしたような、というか

ホルンという楽器が森に響くならばこうして響くだろう、としか思えない音が空間を満たす。歌に溢れていて、残響にすら色がある。

「という感じだ。どうだい?」と問われて僕は言葉に詰まり、考えた末に出て来たのは、「…幸せです」という何とも間の抜けた、

しかし最も素直な言葉だった。そして同時に、そのような音の変化をなぜ起こすことが出来るのか、かつては見えなかったものが僅かに見えた気がした。

 

帰ってから卒論を放り出し、翌日のレッスンに向けて今日のレッスンで見たもの・聞いたもの・感じたものを考え抜く。

昼になって、大学の銀杏並木をぼんやりと歩いているときに突如として閃く。

五月までの自分-ベートーヴェンの一番・二番・四番・五番・三番、ブラームスのハイドン・バリエーション-に取り組んでいたころの自分と

六月からの今までの自分-ベートーヴェンの六番・七番・八番・九番、そしてブラジル風バッハとピアノ協奏曲第四番や尾高のフルート協奏曲-が

ようやく繋がったと思えて、一つ壁を越えたのではないか、という直感があった。

 

はやく振りたい、と心から思えた。

始点と終点だけでなく、いまは少しだけ(ほんの少しだけ)その過程を操作することが出来る。

二拍目に余白を生むことができる。音符から少しだけ自由になれる。

「風景に浸るのではなく、その場で風景を生成変化させていくのだ」という言葉の意味が自然と理解される。

 

そしてレッスンで、気付いたら僕は楽譜を開く事もなく暗譜でこの曲を振っていた。

未熟なところは山ほどあった(相変わらず、伸ばす音や休符は思ったより短くなってしまうものだ)と思うけれど、

振り終えてから師匠は「これなら満足出来る」と一言。帰り際にも「今日のは良かった」と言葉を下さった。

自分でもそれなりに良い演奏をしたんじゃないかな、という実感があった。入り込みながらも自由でいられた。

楽想に応じて自然と表情が変わってくるのを感じた。コリオランと英雄を振ったとき以来かもしれない。

こういう感覚は久しぶりだった。

 

音符の見え方が変わる。余白が沢山出来るからこそ仕掛けることや表現する事が可能になる。

余白のある充実。楽譜を読むことが、棒を振ることが楽しくて仕方がない。

10月の終わり、心の底からまたそういうふうに思えるようになった。

 

 

ロベール・ブレッソン『白夜』@ユーロスペース渋谷

 

ブレッソンの幻の映画、『白夜』を見た。

多くを語るべきではないだろう。この作品にいま出会えた事を、そして誘ってくれた友人に感謝する。

激しい雨に歩道が輝く帰り道に幸せを思う。今日は雨でなければならなかった。

 

四日間の幻想。あるいは迫真の現実。「あなたは私のことを愛していないから好き」と語る女の目のゆくえ。

そして女の裸はどうしてこうも美しいのか。イザベル・ヴェンガルテンが鏡にその肢体を映すシーンに僕は何の官能も感じない。

美に対する感動が先に訪れる。そうした欲を掻き立てるものがあるとすれば、それは彼女のまなざしでしかないだろう。

観るものの視線をまっすぐ受け止めながら、その奥にわずかな揺らぎが見えて、ただその一瞬にのみゾクリとした。

 

光。水。色。音。

色と音がセーヌ川に煌めく。水は、光にとって零度のキャンバスなのだ。光を光として描き出すことのできる唯一の素材なのだ。

終わり近くで水面に揺らぐ光が一瞬だけ静止するシーンがあった。そういえばこの映画において光はいつも揺らいでいた。

この映画を貫く一つのテーマがここにある。静止していることと揺らいでいること。日常と非日常、現実と夢想。

だが、声は?いまここで発した声とレコーダーから再生されるその声とでは、果たしてどちらが静止したものだと言えるのだろうか。

長くなった。パラフレーズした問いを置いて終わりにしよう。

白夜は果たして夜なのか、と。

 

ニーチェの反転

 

深夜、楽譜を開けてぼんやりと、自分の内に強烈な感情が結晶していくのを冷静に眺めている。

そういう日々が続く。手に取りたくなるのはニーチェだ。『悦ばしき知識』だ。

 

ニーチェの散文は孤独に溢れているが、それが最終的には前へ進むエネルギーへと変換されていくように見える。

どうしようもないほどの絶望が恐ろしいほどの強度に反転する。