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L’analyse de la pub de CHANEL N°5

 

シャネルのNo.5のCMで一つレポートを書きあげました。(http://www.chaneln5.com/en-ww/#/the-film)

オドレイ・トトゥ演ずるこのCMは、CMという枠を超えた内容を持っています。台詞はほとんど存在せず、ナレーションも最後の一言のみ。

商品の内容や性能は一切説明されることがありません。ですが、見る者にシャネルの五番を強烈に印象付けます。

それは、このCMの狙いが「空間に漂う香り」そのもの、あるいは「香りがもたらすストーリー」を表現したものだからです。

 

シナリオは二つの対称的なテーマ群によって構成されています。

一つは、〈開放〉と〈閉鎖〉の切り替わり。駅へと走るシーンは鳥が青空へと飛んで行くのを見ても感じるように開放的ですが、

夜行列車に乗ってしまえばそこは閉鎖空間。人の気配をすぐ近くに感じる空間であり、窓を開けてもその外に出る事は出来ません。

ですが、いったん目的地(イスタンブール)について降りると、そこには開放的な空間が再び広がっています。

閉鎖空間ならではの「すぐ近くに相手がいる感覚」は霧散し、開放空間ならではの「相手がどこか遠くへ行ってしまった」感覚が

場を支配します。

 

もう一つの軸は、〈偶然の擦れ違い〉と〈運命的な出会い〉。そしてそこに生じる〈視線〉の特異。

男と女は徹底的に擦れ違います。夜行列車の中で、ボスフォラス海峡を渡る船の甲板で。

そして、二人の視線はほとんど交わることがありません。夜行列車のガラスを通して、あるいはカメラのモニター(とファインダー)を

通してのみであって、直接的に交わることはほとんどないのです。夜行列車で扉一枚隔てて男と女が反対方向を見つめあうショットは

その最たるものであって、間違いなくお互いがお互いの事を考えているのに、視線は正反対へと向いています。

ラストシーンで運命的に男と女が巡り合っても、男と女の視線は交錯せず、男は女を後ろから抱きしめ、首(香水をつけている場所)に

唇を寄せるにとどまります。女に惹かれているというよりはむしろ、女の香り(=シャネルの五番)に惹かれている様に見えます。

 

このようにして、広告対象そのものが押し出されることはなく、広告対象が引き起こす出会いを美しい映像の中で描くことで

この香りそのものの空気感を表現していると言えるでしょう。本当によく計算されたCMだと思います。このCMでは途中にビリー・ホリディの

I’M A FOOL TO WANT YOU (恋は愚かというけれど)が流れるのですが、歌詞が

I’m a fool to want you. I’m a fool to want you.

To want a love that can’t be true.  A love that’s there for others too.

I’m a fool to hold you. Such a fool to hold you…

と流れる中で、歌い手がブレスを入れる場所を狙いすましたように汽笛の音が挟まれます。歌い手の声色と汽笛の音色の相性、

そしてこのタイミングが素晴らしいため、汽笛の音が合いの手のように聞こえます。巧すぎる構成!とにかく一度見てみてください。

2004年のニコール・キッドマンを登用したNo.5のCMも素敵な出来なので、ぜひこちらもどうぞ。youtubeで検索すればヒットします。

 

さて、それでは以前書いたように今日から2月の2日まで志賀高原へスキーに行ってきます。久しぶりのスキーなので、

71リフト全制覇するぐらいの心意気で滑り倒してくるつもりです。しばらく更新は出来ませんが、帰ってきたら旅行記と写真をアップします。

なお、先日からTwitterを始めており、Artificier_nuitで検索してもらえば引っかかるはずです。良かったらフォローしてやって下さい。

Twitterのほうは旅行中も稀に更新するかもしれません。では行ってきます。

 

 

感じて、振る。

 

今日はフレッシュスタートのミーティングに参加して、グループワークの内容を練ってきた。

僕の班のJr.TAは工学系の院生の先輩と僕のふたり。全く違う領域の専攻なので、お互いの専攻の話を聞いているだけで

あっという間に時間が経つ。

 

その中で色々と案を出し合ってみた結果、基本的な構成は「アイスブレイク(兼・自己紹介)+ディスカッション」で良いだろうという

事に落ち着き、その上で1.自己紹介をしながら質問を一つしてもらう 2.ディスカッションは小さなグループでやってから全体でやる

という工夫をすることにした。ディスカッションのテーマは確実に全員が話題に参加できるようなもの(たとえば、文理の学問の違いを

考えてもらいながら個別の学問分野の話に結び付けてゆく、といったような)を考えておくが、それを使うかどうかはその場の雰囲気次第。

質疑応答で面白い話題が出ればそちらで広げる。

 

なんだヒネリがないなあ、と思われるかもしれない。が、最初からヒネリまくって、やたら難しいディスカッションのテーマなどを決めてしまい

身動きが取れなくなってしまうのは避けなければならないから、これがベストだと考えている。フレームはフレキシブルにとどめておいて、

状況次第で最適な方向へ変形させてゆく。シンプルな枠組み+柔軟なアドリブで我々の班はグループワークを進めてゆくつもりだ。

 

 

ミーティング後、しばらく指揮の予習をしたあとレッスンへ。最初のアウフタクトの一音だけで五回ぐらいダメだしを喰らったものの、

なんとかベト1二楽章の半分ぐらいまで進んだ。指揮をすることは音楽を生むことであるが、往々にして、次の音を出すのに必死になって

今鳴り響いている音を聞く事が出来なくなる。ある指揮者が(確かハンス・フォン・ビューローだったと記憶している)

「指揮者は頭にスコアを入れなければならない。しかし悪い指揮者はスコアに頭を入れる。」という言葉を残している。蓋し名言である。

生みだした音を聞きながら、次の音を創造する。それは「この音符ならこう振る」という単なる作業や決まり切った技術ではなくて、

音という「見えない何か」を時間と空間の中で捕まえて、対話していることに他ならない。

 

僕の師はよく、「感じなければ駄目だ。指揮者が感じていなければ、どんなに振っても音楽が鳴るわけがない。」とおっしゃるが、

その意味が徐々に分かりつつある気がしている。(今日は「もう一歩だ。もっと湧き上がってくるように。もっと深いところから。」と言われた。)

音楽が鳴る前に音楽が鳴っているような感覚、次にどんな音が鳴るかが分かる感覚。師を見ているといつも思うこの不思議な感覚を

少しでも早くとらえたい。そして、もっと深いところで感じて振れるようになりたい。

 

僕に残された時間はそう長くない。だから写真のように記憶し、スポンジのように吸収する。一言一句逃さない。

 

ハイドンの45番「告別」

 

久しぶりに更新。前の記事に書いたスケジュールをなんとかひと通りこなしました。

その間、フルートでA氏のピアノとアンサンブルして遊んだり、センター試験の問題を見たりしていましたが、今年のセンターリスニングの

内容を見てびっくりしました。なんとハイドンの「告別」シンフォニーについての話が出題されています。

 

まず「ハイドンの告別交響曲についての説明を聞いて以下の問いに答えよ。」とあって、設問は

「『告別交響曲』の結びでは誰が舞台に残っているか」(問23)

「なぜその田舎の宮殿では音楽家たちは不幸せだったのか」(問24)

「ハイドンのこの交響曲に込められたメッセージは何だったか」(問25)

の三問となっています。クラシックをよく聞く人にとってはリスニングするまでもなく回答できる問題だったのではないでしょうか。

(Wikipediaでこの曲を検索すると「2010年のセンターに出題された」との解説が既に加わっていてびっくりしました。)

 

しかもこの「告別」交響曲は昨年(2009年)のニューイヤーコンサートでダニエル・バレンボイムがプログラムに入れており、

TV中継では演奏の際に「告別」交響曲についてのエピソードが流れていたので、それをたまたま見た人も結構いたと思います。

ついでに国語の現代文では中沢けい『楽隊のうさぎ』という有名な本から出題されていたりと、今年は音楽をやっている人間にとって

少し有利な出題だったかもしれません。指揮法の同門の先輩方に一度見せてみたいと思います。

 

肝心の指揮法自体もかなりいいペースで進んでおり、エチュード四番に奇跡の一発合格を頂いたので次の曲、第五番に入りました。

五番はBeethovenの交響曲一番の二楽章なので、しっかりと気合いを入れて望まないとすぐにボロが出てしまいそうです。

楽譜屋さんからフルスコアを取り寄せて、教程に乗っているピアノ編曲版と見比べながらじっくりと勉強することにします。

一番はあまり日常的には聞かない曲なのですが、CDラックをちょっと整理してみたら意外にも十枚ぐらい持っていました。

ただ、一番単独(あるいは他の交響曲とのカップリング)のCDは少ないですね。ほとんどはBeethovenの交響曲全集としてです。

手始めにフルトヴェングラーの54年ライブ(Radio-Sinfonieorchester Stuttgart)とムラヴィンスキーの82年ライブ、それから

カラヤンの61年の録音を引っ張り出して聞いておきました。二楽章の四~六小節目の歌わせ方にそれぞれの特徴が良く出ています。

 

東京帰還&『海に住む少女』(ジュール・シュペルヴィエル)

 

 新幹線に乗ること二時間半。あっという間に東京に着いてしまいました。

小学校へ通うのに自宅から二時間近くかかっていたことを考えると、新幹線の偉大さを思い知ります。

一週間ぶりに戻ってきた東京は相変わらず人が多く大変でしたが、無事に家へとたどり着くことが出来ました。

 

 さて、東京に帰ってきたからには時間を無駄にせぬように全力で動く日々がまた始まります。

沢山やりたいことはありますが、今年は特に、学生でいられる残り時間をそろそろ意識して、一つずつ「形」にしていかねばなりません。

手始めにFresh Start関連のデザインの仕事をいくつか片づけておきました。東大に今年合格される方には、もれなく僕がデザインした

フライヤーが届くことになります。このブログを見て下さっている東大受験生の方は覚えておいてください(笑)

それからずっと前から依頼されながら延々と悩んでいたFresh Startの公式ロゴのデザインが唐突にひらめいた

(今年のNew Year Concertで放送されたバレエのドレスを見ていて思いつきました)ので、勢いでロゴも完成させました。

まだロゴの配色にはいくつか候補があるので、最終的には友達から多数決を募って決定したいと思っています。

 

 Fresh Start関連では、そろそろパンフレットの内容も考えていかねばなりません。このパンフレット、去年は僕一人で全デザインを

担当しましたが、今年は山本くん(立花ゼミに所属している友達です。立花ゼミのホームページのデザインは彼の作品ですよ。)という

強い味方がいるので、具体的なレイアウトなどは彼に任せて、僕は企画をどんどん立案して一年生に振っていこうかなと考えています。

今回の僕の肩書きは「クリエイティブディレクター」なるものですし、デザインに一心不乱になるよりは全体へ目配りをして

企画や作品の統一感を失わないように纏めることが要求されているようです。とにかく、せっかくの機会なので中途半端なものは

作りたくありません。昨年の自分が作ったものを軽く超えるようなクオリティで、長く手元に置く価値のある魅力的な企画が沢山詰まった

一冊を作りたいと企んでいます。

 

 

 今僕の頭の中にある具体的なアイデアについては1月13日の全体ミーティングで説明するつもりですが、基本的なコンセプトとしては、

本学学生・教員の「知」と「経験」を基に、それぞれの「知」と「経験」のぶつかり合いから生まれる「越境」的なエネルギーを伝えるものに

したいと思っています。同時に、高校の勉強と大学の勉強が完全に乖離しているわけではなくてどこかで繋がってくるものであるという

ことや、各学問分野が他の分野に影響を与え・与えられて発展していく様子を、何らかの形でヴィジュアル化したいと考えています。

高校の科目を根っこに置いて、そこから木(大学での学問)が生えて、そして絡み合っていくような「知のマインドマップ」を作るわけです。

これらのどこまでが実現できるかわかりませんが、出来る限りやってみるつもりですのでどうぞお楽しみに。もし良いアイデアを

思いついた方がいらっしゃいましたら、メールかコメント欄に書いて送って頂ければとても嬉しいです。

Fresh Start 当日まであと二カ月。関係者一同、一生懸命に創意工夫して準備しますので、合格された方はFresh Start@駒場 に

是非参加してみてくださいね!

 

 まあこんな感じでパンフレットのアイデアも徐々に出始め、ロゴも上手く出来てちょっと喜んでいたところ、

「あと二時間ぐらいでこの企画のフライヤー作れる?!綺麗な感じにして!」と例によって先生から無茶振りをされました。

やや手間取りましたがなんとか夜九時には完成。今日は良く仕事をしています。駒場を後にしてからは三軒茶屋の喫茶店に寄って

ジュール・シュペルヴィエル『海に住む少女 L’enfant de la haute mer』(訳:永田千奈 光文社古典新訳文庫,2006)を読了し、

続いて上村忠男『ヴィーコ 学問の起源へ』(中公新書,2009)の第五章までを読んだところで閉店時間となったため、席を立ちました。

続きはまた明日読むことにします。

 

 帰宅してからは白州12年をちびちび呑みながら『構造人類学』の訳読を進め、その後、買ったばかりの

『フランス哲学・思想事典』(弘文堂)の最初にある「16・17世紀総論」の項を読みました。事典を読むのは本当に面白いです。

浪人中に読んだ『現代思想芸術事典』『図解音楽辞典』に続いて大学三年生の間にこれを何とか読み切りたいと考えているので、

今日からこの事典を毎日寝る前に読み進めることにします。ちなみに、広辞苑を通読しようと高校生のころに思ったことがあるのですが

これは全く歯が立ちませんでした。「あ」だけでギブアップします。物理的にも重すぎるため、腕が筋肉痛になること請け合いです(笑)

 

 

New Year Concert 2010 と弾き初め

 

 先日のNew Year Concert2010はここ数年で最高の演奏会だったと思います。

プレートルは大きくテンポを動かし、溜めるところではかなり溜める(とりわけドナウの「間」は絶品でした。)指揮をしていました。

かといって昨年のバレンボイムのようにずっしりした重さを感じさせるものではなく、軽妙洒脱という言葉がぴったりの華やかな演奏。

最初の「こうもり」序曲から最後まで通じて感じたことですが、管が弦に埋もれないようにやや強めに吹かせている印象を受けました。

「酒、女、歌」などでその傾向が特に顕著だったように思います。「クラップフェンの森で」では鳥の鳴き声を模した楽器(名称不明)

を吹かせまくって目立たせてみたり、「シャンパン・ギャロップ」では実際にシャンパンを注がせてみたり、遊びも満載。

そうかと思うと「ラインの妖精」序曲では会場が静まり返るような繊細なトレモロを出させてウィーン・フィルの弦の

素晴らしく精緻な響きを楽しませてくれたりと、見どころ・聴きどころともに十分なコンサートでした。

 

 音楽だけでなく映像にも様々な工夫が感じられました。いくつかに分けて見てみましょう。

 

・フラワーアレンジメント

これについては全くの門外漢なので単なる感想でしかありませんが、エレガントさよりは元気の良さを感じさせる配色だったと思います。

いわゆるビタミン・カラーが中心のアレンジメントでした。黄色・オレンジ・赤といったホット・カラーを手前に持ってきて奥に緑や白を

入れることで、メリハリのついた見映えになってたように感じます。花はチューリップ、バラ、デイジーなどでしょうか。

 

・照明

照明にも一手間加えられていて、曲想に応じて光量が調節されていました。「ラインの妖精」の際には客席後方の上部ライトが

かなり落とされていましたね。

 

・バレエ

普段はウィーンだけなのに、今回はパリとウィーンの二つのバレエ団の踊りが収録されていました。「朝刊」で見せたバレエは

撮影場所の建築をうまく使ったショットが沢山あって感動させられました。衣装(色とりどりの「花のドレス」)もとても好みです。

 

・メイキング

第一部と第二部の休憩時間の間には、大抵アナウンサーとゲストのトークが挟まれているのですが今回はその時間帯に

「プレートルのリハーサル風景」と「バレエの衣装デザイン」という二つのメイキング映像が挟まれており、トーク無しになっていました。

個人的には今回の構成のほうがいいなと感じます。リハーサル風景やデザインのメイキングムービーなんかは僕のような人間に

とって垂涎のものでした。来年からもこの構成で放送してくれることを切に願います。

 

・カメラアングル

映像では今回ここに一番注目される点がありました。カメラアングルがいままでにない豊富さだったのです。

客席最後部の上から天井の彫刻を映し出した後、フリップしながら客席→ステージへと移していくカメラワークもさることながら、

指揮者のはるか上からのアングルは今までになかったのではないでしょうか。二つ目のバレエの終わりと最後のラデツキー行進曲の

終わりで見せた、「上から舞台を捉えるショット」はフランス映画の十八番の構図だと思います。たとえば「シェルブールの雨傘」や、

新しいところでは「ココ・アヴァン・シャネル」の宣伝ムービー(シャネルのページから無料で見れます。セリフはほとんどありませんが

風景・人物の撮り方が本当に綺麗で感動します。一度見てみてください)で目にすることができるでしょう。このあたり、もしかすると

フランスの指揮者ジョルジュ・プレートル仕様なのかもしれませんね。上からのショットは頻繁に活用されており、

ステージ頭上のハープを持った女性の彫刻の上から写して、彫刻のハープをカメラに収め、そのあと次第にステージへズームしていって

(オーケストラで実際に弾いている)本物のハープを彫刻の向こう側に遠近つけて写す手法には感動しました。これは巧い。

 

 というわけで非常に満足な演奏会だったので、三日の再放送もスコア片手にじっくりと見入ってしまいました。

ついでに家にいる間に色々弾いておこうと思い、今年度の弾き初めも兼ねて六年ぐらい前に演奏会で弾いたガーシュウィンの

プレリュードNo.3を弾きました。あの頃は指が回っていたのに今はもう全然です。中盤で止まりまくりです。悲しい。

 

 そのあとピアノの横にある楽譜用の引き出しを整理していたところ、高校生の時に書いた小品の楽譜が発掘されました。

ちょっと弾いてみましたが、自分で作っただけあってこちらはスラスラ弾けてしまいます。でも弾けば弾くほど恥ずかしくなる曲。

メロディーだけで作ったのがバレバレで全く厚みがない。当時はこれを傑作だと本気で信じて友達に弾いて聴かせていたのですから

怖いもの知らずですね。穴掘って土下座したいぐらいです。

そして曲の内容にもまして恥ずかしいのが曲名。あの頃ハマっていた三島由紀夫のある作品から採ったのが透けて見えます。

楽譜ごと燃えるゴミの日に出してしまおうと思いましたが、なんとなくそうすることも出来ず、改めて引き出しの一番奥にしまって

記憶から抹消しておくことにしました。きっとまた何年後かに発見して破りたくなることだと思います(笑)

 

 フルートは東京へ置いて帰ってきてしまったので吹くことができず。東京へ戻ったらしっかり練習します。

指揮の方は叩き・跳ね上げ・平均運動・しゃくい・先入を毎日筋トレのようにやっているので弾き初めという感じは特にありません。

今度の課題曲No.3(Haydn No.20 Andante grazioso)の譜読みは昨年中に終えましたが、次は暗譜するためにさらに読み直す

ことにします。曲自体はとても単純なのですが、先入・半先入・分割先入という技法をフル活用することが要求されているので、

指揮するのは結構大変かもしれません。頑張って練習します。

 

 なお、新年一発目はレヴィ・ストロースの『パロール・ドネ』(中沢新一 訳、2009,講談社選書メチエ)を読了。

これはコレージュ・ド・フランスでの講義の報告書を訳したもので、とても読みやすい本です。レヴィ・ストロースの著作を読んだことがある

人にはとてもおすすめ。これを読みつつレヴィ・ストロース本人の著作を読めば本人の著作がぐっと分かりやすくなるはずです。

訳者の中沢新一が後書きでこんなことを書いています。

 

「いったん書き始めると、レヴィ・ストロースはただの人類学者でなくなって、一人の作家ないし文人と呼ぶにふさわしい、おそるべき

文体の人に変容するのであった。シャトーブリアンやフローベールに学んだという彼の文章は、まさに螺鈿細工のように複雑にして

精緻を極めたフランス語の名文であった。そのために、フランス語に堪能でない私たちは大いに泣かされてきた。

ところが、講義中のレヴィ・ストロースは、(中略)まったく飾り気のない平明極まりない言葉で自分の思想を明確に伝えることだけに

専念している、一人の人類学者に立ち戻っているのだ!」(同書P.366より)

 

 原文で読んでいないのでこの講義録がどれほど平明なのか僕は日本語訳を通して推し測るしかありませんが、

確かに『構造人類学』に比べるととても読みやすい。これぐらい読み易ければ『構造人類学』ももっと早いペースで訳せるのになあ、

と思いつつも、「螺鈿細工のように複雑で精緻なフランス語の名文」に接することが出来る幸せを同時に覚えます。

そんなわけで、あと二日で提出せねばならない『構造人類学』訳文のレジュメ作成にまたもや苦しまされるのでした。

 

 

Ich wünsche Ihnen ein glückliches neues Jahr!

 

 Je vous souhaite une bonne et heureuse année! 

あけましておめでとうございます。曇りの予想を裏切って明け方は晴天でした。

外へ出てみると、吹きつける冷たい風の中、眩いほどに光を放つ太陽が空に輝いていて思わず眼を細めてしまいました。

昨夜の満月も綺麗でしたし、天気に恵まれた年末年始になりましたね。

 

新年といっても、たった一日が過ぎただけ。何かが変わるわけではありません。

でも、外の空気はなんとなく昨日と違う清々しさを感じさせます。昨日とは明らかに違う何か。30日と31日の違いにはない何か。

それは僕が新年を意識しているからか、それとも沢山の人々が新年を意識して生きていることから生まれるのか

よくわかりませんが、何はともあれ今年も無事に新年を迎えることが出来たことを素直に喜びたいと思います。

 

 日の出を見てから、家族で京都の北野天満宮へ恒例の初詣へ行ってきたのですが、北野天満宮は雪がうっすら積もっており、

ところどころ氷が張っているほどでした。弟と一緒に御神籤を引いてみたところ、なんと弟が「大吉」で僕は「吉」。

数日前からデジカメの充電器が見当たらず、デジカメが使用不能状態にあって困っていたのですが、僕の引いた籤の「失物」の

ところには「家の外を捜しなさい。」という、「諦めなさい。」とほぼ同義のお告げが書かれていました。

ほとんど範囲の狭まらない余事象です。家の外って・・・ほとんど全てじゃないですか(笑)

 

 御神籤にひとしきり突っ込んだ後、これまた恒例、境内にある長五郎餅という絶品の羽二重餅を購入。

それから天満宮前にある梅餅(いまだこれを超える餅には出会ったことがありません。甘酸っぱくてとても上品な味。最高です。)

を買いに行ったところ、行った時間が早すぎたのか餅屋さんが寝過ごしたのか、シャッターが下がっており、買えませんでした。

これはちょっと悲しい。また日を改めて買いに行くことにします。

 

 元旦ならではということで、あと数時間で放送されるウィーンフィルのNew Year Concert 2010について少し書いておきましょう。

今年の指揮者は2008年にも登場したジョルジュ・プレートル。あのアンドレ・クリュイタンスに指揮法を師事したフランスの指揮者です。

2008年以前はあまり有名ではなかった(CDに恵まれなかっただけで、プレートルは素晴らしい指揮者だと思います。1990年代初頭に

ヴァルトビューネコンサートを振った録音・録画があるのですが、そこでもプレートルは驚くほど素晴らしい演奏を引き出しています。)

指揮者ですが、2008年以来急速に脚光を浴びていると言えるでしょう。優雅で、かつ芯のある音楽を作る大指揮者です。

 

 2008年の演奏はフランスに関係する曲目を織り交ぜつつ、全体として自由で柔らかい演奏でした。

プレートルはあまり拍を振ることもなくザッツだけ出してあとはデュナーミク(音量の強弱)やアーティキュレーションを示すだけ。

リハーサルではかなり細かく指示を出していたらしいですが、本番は「あとは好きなようにやってください。」という感じで

とても自由な指揮姿。ウィーンフィルが相手だから出来るワザですね。プレートルの笑顔がとても優しくて、見ているとなんだか

幸せになるような演奏でした。とくにポルカ 「とんぼ Die Libelle」はカルロス・クライバーの演奏に次ぐ名演だと感じました。

 

 2010年の曲目は「こうもり」序曲に始まり、ポルカ「恋と踊りに熱狂」、ワルツ「酒・女・歌」、シャンパンポルカにシャンパンギャロップと

非常に華やかなラインナップです。「パリの謝肉祭」があるのも見逃せません。オペラ指揮者として鳴らしたプレートルは「こうもり」序曲を

どんなテンポで、どんな風に演奏するのでしょうか。きっと拍手鳴りやまぬうちに三つのあの華やかな和音を始めるのでしょう。

色々参考にしようと思って、今日演奏される曲のフルスコアをいくつか実家の本棚から引き出してテレビの前に積んでおきました。

85歳を超えたプレートルの円熟の指揮がとても楽しみです。

  

  

近況です。

 

いつものように近況を。相変わらずハードな毎日が続いています。

 

・能鑑賞

ここに時々コメントをくれる水際のカナヅチ氏のお誘いで能を見に行ってきました。

野村萬/野村万歳による狂言「箕被」、そして友枝昭世/宝生閑による能「葵上」の二本立てという

豪華なプログラム。何より、出演者の方々が日本トップの能楽師の方々です。

「学生のための特別公演」ということで、これがS席3000円で聞けるとは・・・学生でよかったと思います。

能は二回ほど見に行ったことがあるだけなので何も的確な感想は言えませんが、とくに「葵上」のおどろおどろ

しさは尋常ではありませんでした。変拍子チックな太鼓と笛と地謡に乗って展開される

六条御息所の霊Vs行者の激しい戦い。行者の法力が勝ったかと思うといきなり六条御息所が振返り、

その鬼のような形相を見せて逆に行者を追い詰めます。この迫力はすごい。ぞっとします。

妖しげな光を放つ青色とくすんだ赤色で、舞台が明滅しているような錯覚を覚えました。

 

 帰り際、客席を見回すとAIKOMの留学生の友達や高校時代の友達、それから上クラなど、10人ぐらいの

知り合いを発見してこれまたびっくり。ついでに、ホール出口のところで、浪人時代の友達で

しばらく音信不通だった人にばったり遭遇して、眼が合うなり「あーっ!!」と叫ばれました。

世界は狭いですね。まあとにかく、良いものを見て聞いてすることができました。カナヅチ氏ありがとう。

 

・指揮

能を見た後にそのまま指揮法レッスンへ。「葵上」の衝撃が残っていたのか、師匠に

「今日の君のピアニッシモはなんか冷たいね。もうちょっと柔らかく出したら?」と言われてしまいました。

それ以外の問題点は無かったようなので、合格を頂いて一つ曲を終えました。今週から新しい曲に入ります。

しっかり譜読みせねば。

 

 

・Fresh Start

というイベントがあるのですが、このイベントにJr.TAとして関わっています。

肩書きは「クリエイティブディレクター」なる大層なものなのですが、まあいつものようにデザインやら司会やら

色々と担当する感じになるでしょう。大きなイベントなので、色々案を出して盛り上げていきたいと思います。

さっそくFresh Start Jr.TA説明会の司会を一部やらせて貰いましたが、ずっと立ちっぱなしで三時間弱は

流石に疲れますね。「むくまないストッキング」なるものがバカ売れするのも納得です。

 

・ボウリング

8ゲーム投げて209アベ。目標にあと1ピン足りません。スペアミスが効いていますね。

練習を終えた後、スタッフをやっている後輩に投げ方のアドバイスを求められたので

一歩目の出し方からダウンスイングの下ろし方など、様々な「コツ」を伝えました。

彼にとってこのアドバイスが壁を超えるきっかけになってくれれば嬉しいです。

 

・本

ベルナール・スティグレール『技術と時間 第一巻』を読了。明日、スティグレールが来日して本郷で

シンポジウムが開かれるのでその予習の意味を兼ねて。ちなみに明日は午前中に駒場でシンポジウム

午後に本郷でシンポジウムというダブルヘッダーなので。かなり忙しくなりそうです。

 

 

 

左側通行の謎と雨の休日

 

 関西から上京すると、たちどころに違和感を感じるところがある。

そう、エスカレーターの立ち位置だ。関西では右側に立ち、左側が歩いて登っていく人のためのゾーンと

なっているが、関東ではその逆。左側に立ち、右側が歩いて登ってゆく人のスペースとなる。

エスカレーターにおいて、関西は「左空け」、関東は「右空け」のルールを持っていると言うことができるだろう。

 

 この地域差がどうして生まれてきたのか?それには信憑性の低いものからもっともなものまで諸説ある。

ところで、海外はどうなっているのだろうか?ちょっと調べてみると、

 

「左空け」・・・大阪、香港、ソウル、ロンドン、ボストンなどの都市や、ドイツなどヨーロッパの大陸系諸国。

「右空け」・・・東京、シドニーなどの都市。オーストラリアやマレーシア、ニュージーランド、シンガポール。

 

 ということで、世界の大多数は「左空け」が主流らしい。なぜこのような違いが生まれるのか。

まず、世界の左空けと右空けの分布を見たとき、すぐ気付くことがある。

右空け(の都市を持つ)の国に共通するのは、島国および島嶼部である。

では島国なら右空けになるのか?しかし、ロンドンが左空けであることを考えるとそうとも言えない。

(イギリスはヨーロッパとの関わりが大きかったから「島国」としてカテゴライズすべきではないかもしれないが)

ただ、「右空け」に島国の割合が大きいことは確かだ。

エレベーター自体はアメリカのオーチス・エレベーター社が1850年代に開発したもので、アメリカで販売した

あと、国外に向けてはまずカナダ近辺で売り始めたらしい。そのあと、次々にヨーロッパ諸国へ向けて

売り出してゆく。ならばアメリカ、カナダ、ヨーロッパ諸国は、開発国であるアメリカの風習を受けて

「左空け」になったのだろうか。だとすると、なぜアメリカで「左空け」のルールが生まれたのだろうか。

うーむ。よくわからない。

 

 とりあえず日本で考えてみよう。やはり、なぜ地域差が出るのか、ではなく、「そもそも左空け/右空けの

意味は?」と問うところから始めるのが良さそうだ。エスカレーターの無い時代から考えてみよう。

先日読んでいた『読み方で江戸の歴史はこう変わる』(山本博文、東京書籍)には、

「(参勤交代において)左側通行になるのは、お互いの刀の鞘などが触れ合わないようにするためである。」

という一節が見られる。江戸時代の武士は刀を左側に差していていた(右手で抜くため)から、進行方向に

対して左側に寄らねば、自分の体の幅から飛び出ている刀の鞘が前から来た相手とぶつかってしまう。

それを避けるために左側を歩いた、というのだ。

 

 問題はどの地域までこの風習が行われていたのかということだ。

参勤交代で人が集中する場所は、むろん江戸周辺である。参勤交代から自分の藩へ帰る行列、

参勤交代へ向かう行列が交差する場所は、なんといっても江戸周辺であろう。したがって、江戸周辺では

左側通行(右空け)のルールが成立したはずだ。これは、東京のエスカレーターが「右空け」であることと

符合する。

 

 では、江戸周辺以外では大名行列は道のどちらを歩いたのだろうか。岐阜を超えたあたりから右側歩き

(=左空け)に切り替わればエスカレーターの話と符合するのだが、それは良く分からない。

そもそも武士が刀を差している以上、江戸に限らず左側通行・右側空けのルールで過ごした方が

刀の鞘が触れて問題になるケースは減るだろうから、この風習が江戸だけのものだったとは考えづらい。

(このルールが生まれたのは江戸周辺であっただろうが、江戸周辺から地方へも伝播してゆくはずだ。)

 

 たとえば大阪は「商人の町」であったから、武士よりも商人が主体となって活動しており

刀の鞘が触れる云々などは大した問題ではなかったから左側通行が浸透しなかった、などの理由には

ちょっと無理が感じられる。これを発展させ、武士の帯刀ゆえに左側を歩いたこととパラレルに

「商人の経済活動においては、(右利きが大多数であるから)右手に荷物を持っていることが多かった。

だから人に荷物が当たらないように右を歩いた。」などといってみてもちょっと胡散臭い気がする。

(そもそも、江戸時代の立ち位置と現代のエスカレーターの立ち位置に直接の関係があるかどうか怪しいが)

持ち物が歩き方を決めるなら、「西洋では右にピストルを下げて右で取り出していたので、左側を空ける。」

みたいな理由も通ってしまいそうだ。1900年代に西洋人の多くがピストルを腰に下げていたとは考えづらい。

 

 なんとなく思いつくままに色々書いてみたものの、謎は謎のままである。

「ルールが当初どんな意味を持って、どこから生まれ、どのようにして広がっていったか」という問いは

このエスカレーターの立ち位置問題に限らずとても面白いと思うのだが、解明することは難しい。

と、ここまで書いてふと思ったのだが、エスカレーターの登り路線と下り路線が並列してあるところでは、

どちらに登りを置いてどちらに下りを置くのか決まっているのだろうか。

歩行と違って、エスカレーターの問いでは、エスカレーター一本の中だけで立ち位置を考えるのみならず、

逆向きのエスカレーターとの関連を考えなければいけないのかもしれない。つまりエスカレーターにおいては、

1.構造上の立ち位置(対抗エスカレーターの位置)と、2.慣習上の立ち位置(単線上で左右どちらに立つか)の

いわば「二重の縛り」に行動が規定されていると言えそうだ。

 

そんなどうでもいいことを考えながら、雨の土曜日はコーヒー片手に家で本と音楽に戯れる。

雨の夕方に合うものは、と考えてCHET BAKERの ‘CHET+1′ (Riverside)を棚から引っ張り出してきた。

このアルバムは一曲目にALONE TOGHETHERを持ってきたセレクトが神だと思う。チェットの甘くてどこか

ダルさの漂うトランペットと、ビル・エヴァンスの前に出過ぎないしっとりした音が絶妙。

ALONE TOGHETHER、つまり「たった二人で」の曲名にぴったりな音。ボーカルが無くてもあの歌詞が

浮かんでくる。Alone together, beyond the crowd…こんな音が出せたなら良いのになあ。

HOW HIGH THE MOONのスローテンポも、SEPTEMBER SONGのKENNY BURRELLのギターも最高で、

これを聞きつつ加藤尚武『現代を読み解く倫理学』(丸善ライブラリー,1996)を読了。合間にあるコンクール用

のエッセイを書いていたが、10枚ぐらい書いたところで愛用している満寿屋の原稿用紙が切れたので中断。

立花先生から頂いたChez Tachibana原稿用紙を使おうかと思ったが、勿体ないので置いておくことにした。

 

 雨が止んだら新宿へ原稿用紙を買いに行こう。ついでに知り合いの研究員さんが推していたLamyのStudio

を試筆してみるつもりだ。レーシンググリーンのインクもそろそろ補充しておきたいし、MDノートの横罫と

カバーももう一セット買っておきたい。5ゲームぐらい投げてちょっと体を動かしたい気もする。

二時間ぐらいぼーっと玉突きするのも良いかもしれない。土曜なら知り合いの常連さんたちがいるだろう。

 

 

 決まった予定が無い日は久しぶり。慌ただしい師走を一日ぐらいゆっくりと、好きなように過ごそうと思う。

やりたいことは沢山あるけれども、行くかどうかは天気次第。そんな自由がたまらなく幸せだ。

 

 

 

12月の満月

 

 今日は月がびっくりするぐらい大きく、明るかったですね。今まで見た月で一番迫力があったかもしれません。

空気も澄んでいたので表面の模様までよく見えて、しばらく見とれてしまいました。

以前にギリシャ哲学の大教授がおっしゃっていた、「太陽はあんなに明るく大きいのに地上の我々から見れば

空にある太陽は足の幅の大きさのように見える。それは、本来の大きさだと我々はその輝きに目を

見開くことができないからだ。これは〈真理〉と似ている。真理が眼前にあると、真理が放つ光が激烈過ぎて

我々はそれに目を見開くことができない。だから真理はとても遠くにあって、その弱い光を我々は見ているに

過ぎない。だが、哲学するものは、みずからの身を焦がすことを恐れず、眩しすぎる真理へと挑んでいく。」

という言葉をなんとなく思い出しました。

 

まあそんなわけで、先日の記事が固かったので今日は近況を軽く書いておくことにします。

 

・立花ゼミ

先生方と国際関係論と音楽とデザインについての喧々諤々の議論(?)をやっている間に

今日のゼミの時間が終わってしまい、今週はゼミに出ることができませんでした。ちょっと悲しい。

立花ゼミの「二十歳の君へ」書籍化企画が着々と進んでいる中、その企画の一環として

「立花隆対策シケプリ」を作る予定なのだが、それについてゼミ生がどの分野を担当するか決めやすいように

各自の得意分野・専門分野をメーリスに書いて流したらどうか、という提案をしようと思っていましたが

言う機会を失ってしまいました。まあここに書いておけば何人かは読んでくれるでしょう。

あと、僕が細々とやっている芸術企画の一環として「香り」について問うプロジェクトをやろうと思っています。

ただいまインタビュー先のリストアップ中です。

 

・ボウリング

かなり安定してきました。210アベレージをここ数週間コンスタントに維持できており、プロにも二連勝しました。

ホームにしているセンターのレーンはかなり遅く結構荒れていることが多いので、回転数の多い僕にとっては

結構苦しむレーンなのですが、無理せずボールを走らせる技術をようやく完全に会得した気がします。

あとはスコアの振れ幅を出来るだけ小さくしていく(ちょっと前には245の後に128を出しました…。)ことが

必要ですね。あんまり崩れてしまうと、精神的に次のゲームがきつくなるので、ローゲームは180ぐらいまでで

留めておきたいところです。

 

・フルート&指揮

フルートは中音域を響かせるコツというか、息を当てるポイントが掴めてきた気がします。

適当にそのへんの曲を吹きながら、オクターブの練習をひたすらやっています。

指揮は練習曲その1にじっくりと取り組み中。「もっとスマートに振らなきゃ。」と帰り際に師匠に言われて、

「スマートって一体何だ・・・。」と帰りの電車で考え込んでしまいました。「もっと自然に!」というのも

師匠から良く言われることなのですが、こちらも中々難しいことですよね。力が入ってしまっているのは

自分でも分かるときはありますが、かといって力を抜くのはとても難しい。ですが、この「脱力」こそが

指揮の奥義の一つの筈なので、なんとかしてこれをマスターせねばなりません。何年かかることやら・・・。

 

・本

ここ数日かけてブルデューの『ディスタンクシオン』(藤原書店)を上下二巻読み切りました。

ブルデューの議論に通底するものは、一言でいえば「再生産」だと思います。

この本でも、ディスタンクシオン(卓越化)という言葉と、「ハビトゥス」という概念を用いて、個人の「趣味」が

本人の自由意思のみに基づいて形成されるものではなく、個人の職業や社会的階層、あるいは

両親の職や学歴や環境に大きく規定されていることが明らかにされます。有名な例では、一巻の第一章に

ある、「好きなシャンソン歌手・音楽作品」と「所属階級・学歴」の相関表。シャンソンのことはよくわからない

ので、シャンソン歌手との相関については何とも言えないのですが、音楽作品として挙げられている

『美しく青きドナウ』『剣の舞』『平均律クラヴィーア』『左手のための協奏曲』だけを見ても、上流階級・知的職

になるに従って『平均律クラヴィーア曲集』を好む人の割合が増え、一方で庶民階級は『美しき青きドナウ』や

これに続いて『剣の舞』を好む人が多いというデーターがあります。このように諸作品につけられた価値の

「差異」が学歴資本の差に対応している、とブルデューは結論付けます。そしてこうした文化の価値は

「フェティッシュの中のフェティッシュともいうべき文化の価値は、ゲームに参加するという行為が前提として

いる最初の投資のなかで、つまりゲームを作りだすとともに闘争目標をめぐる競争によって絶えず

創りなおされるところの、ゲームの価値に対する集団的信仰の中で生まれてくる。」(P.386)と言います。

 

 なかなか分厚い本ですが、最後まで息切れせずに読ませる面白さをこの本は持っています。

名著と呼ばれて久しいのも納得です。興味がある方や社会学部に進学される方は是非読んでみてください。

立花ゼミの「貧困と東大」企画の参考になるかもしれません。

 

というわけで次は『ルーマン 社会システム理論』(新泉社)へ。第三者の審級概念についての大澤論文を

読んでいて、自分のルーマンのシステム論への知識が圧倒的に不足していることを痛感させられたので

12月はルーマンを集中的に攻めたいと思っています。まずこの概説書を読んでから、次に

長岡克行『ルーマン 社会の理論の革命』へ、そして馬場靖雄『ルーマンの社会理論』を読みつつ

ルーマン自身の著作に取り掛かる予定です。それから冬休みにはカール・ポランニーの『大転換』と

ちくま学芸文庫から出ている『経済の文明史』と『暗黙知の次元』を読む予定。あとずっと読みたかった

東浩紀『存在論的、郵便的 -ジャック・デリダについて-』も読みたいですね。浪人中に立ち読みしてみた

もののさっぱり理解できず、「これはもっと勉強してから読もう・・・。」と諦めた経緯があります。

サントリー学芸賞受賞作は分野問わず全て読もうと企んでいるので、やっぱり本作を外すわけには

いきません。再チャレンジします。

 

学術書ばかりになってしまいましたが、小説では上橋菜穂子『獣の奏者』を読んでいます。

まだ一巻の途中ですが、段々面白くなってきました。このあとの展開が楽しみです。

 

・モノ

PILOTから出ているバンブーという万年筆が今年の夏に廃番になっていたことを知りました。

夏にはまったく欲しいとは思わなかったのですが、廃番と聞くとちょっと欲しくなりますね。

とくにMニブの青軸は有名どころの文具店では軒並み完売だそうです。意外と地方の文具屋さんでは

残っていたりするかもしれませんね。もし発見された方がいらっしゃったらご一報下さい。

 

『二十歳の君への宿題』メールフォーム

 

先日ここに書いた、立花ゼミ駒場祭企画『二十歳の君への宿題』のメールフォームができました!

URLはhttp://kenbunden.net/20/です。作ってくれた技術班の方々ありがとう。

このブログをお読み頂いている方で21歳以上の方は上のURLをクリックして、立花ゼミの企画に是非ご協力ください。

20歳以下の方はご両親や御親戚などにこのページを紹介して頂けると大変嬉しく思います。

また、ホームページやブログをお持ちの方はこの企画を宣伝して頂けると幸いです。どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

さて、しばらく更新できていなかったのでまた纏めて色々書いておきます。

 

・ボウリング

プロとの試合で、4ゲームトータル973というスコアが出ました。たかが4ゲームに過ぎませんが、アベレージ243。これは珍しい。

スコアシートの画像を添付しようと思ったのですが上手くいかないので、内訳を書いておきます。Xがストライク、/がスペアです。

1G 9/XX9/XXXXXXX9⇒268

2G XXXXXX9-XX8/X⇒245

3G 7/XX9/7/XXXX9/9⇒234

4G X818/XXX9/XXX9/⇒226

ノーヘッド(1番ピンに当たらないこと)は0でした。イージーミスは7ピンの一回、スプリットは7-10の一回。

ポケット入って7-10スネークアイが出た時は「あちゃーこれで終わった。」と思ったのですが、なんとか立て直せたようです。

面白かったのは1G目。僕が先攻で投げていたのですが、あとから投げるプロも10フレーム二投目まで僕と全く同じ展開、全く同じ

スコアでした。5フレから7つストライクを続けて来て、「これで勝ったかな?」と思っていたら、プロも5フレから7つ続けて来ます。

ここまで来ると我慢比べですね。スタッフの方や一般のお客さんの方も僕らが投げているボックスの後ろに集まって成り行きを

見守っていらっしゃったようで、大変熱い展開になりました。結局、10フレ最後で僕が9本だったのに対してプロはストライクを

出したので268-269で負けてしまいました。恐るべしプロ。

 

・指揮

師の「平均運動」が美し過ぎて感動しました。何気なくやっているように見えるのに、あれは絶対真似できない。凄い。

最近ベルリオーズの幻想交響曲の同曲異演を集めてスコアを読んでいるのですが、師の書き込みだらけのスコアを発見したので

その場で大体を書き写して帰りました。師が研究に研究を重ねて書き込んだスコアというのは、それだけで一つの宝物です。

 

・ブログ

立花ゼミに新しく入った有賀くんのブログとリンクしました。彼とは前期教養課程で同じクラスで良く呑む仲です。家もすぐ近く。

哲学科に進学するだけあって彼の思考はとても面白い。刺激を受けます。

 

・映画

「アメリ」を見ました。奇怪なオープニングにびっくり。「元通りしまうこと」というくだりでL’étranger,enfantと言っているように聞こえた

のですが、字幕で確認するのを忘れてしまいました。全体的にコミカルな(ある意味で「俗」な)展開なのですが、雨が降る所を

上から映したショットなどはフランスらしい色彩感に満ちていて美しかったです。また、主演のオドレイ・トトゥは右斜め上45度からの

写りが抜群に綺麗だなと感じます。「人間に人生に失敗する権利がある」とテレビの登場人物が語るワンシーンが印象的でした。

 

・珈琲と紅茶

珈琲の方はいつもお世話になっている樽珈屋という珈琲屋さんから届いたコロンビアの中煎りを飲んでいます。

ミルはカリタのナイスカットミルを使用し、一杯ずつペーパードリップ。香ばしさの中に甘さを感じられる、とても美味しい豆です。

紅茶の方は近くのカルディでJanatの葉が缶で安売りされていたのでブレンド・セイロン・アールグレイの三種を買い込みました。

Janatの紅茶は香りがとても良く、(たまに「?!」となるようなものもありますが)ミルクティーにしても香りが消えないものが多いので

愛用しています。夜中に飲むと癒されますよ。缶のデザインもお洒落ですし、後期課程でフランス科に進学する身としては書かれた文章

(Pour l’amor de mon chat,qui m’a inspiré des bonnes idées et que j’aime toujours.)に妙に親近感を覚えます。

猫の絵がかわいい。

 

・デザイン

KIRIN-東京大学パートナーシッププログラムのフライヤーのデザインが最終稿まで終了しました。内容に配慮しながら、文字情報を

すっきりと見せることを心がけました。背景に敷いた写真と、アクセントに入れた薄紫の文字が気に入っています。

 

・虫垂炎

虫垂炎にかかってしまったようです。夜中に苦しんだあと、一日学校を休んで病院へ。久し振りに点滴を打ちました。

血液検査の結果次第ですが、もしかしたら一週間弱ほど入院するかもしれません。

一日休むだけで予定が6つおじゃんになり、4か所に電話をかけて事情を説明する羽目になりました。色々痛すぎます。