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『経験を盗め』 (糸井重里 中公文庫,2007)

 

 糸井重里『経験を盗め 文化を楽しむ編』(中公文庫、2007)を読了。

随分前に買って最後のほうだけ読み忘れていたので、ドイツ語の時間に暇を見つけて読んでしまった。

日本を代表するコピーライターの糸井重里が、各分野の達人たちとその分野を巡って繰り広げた議論の様子が収録されている。

さすが「欲しいものが欲しいわ」のコピーを生み出した糸井だけあって、「経験を盗め」というタイトルも刺激的。思わず買ってしまう。

 

 この本の中で触れられているテーマは、グルメ・墓・外国・骨董・祭・作曲と詞・日記・花火・ラジオ・トイレ・豆腐・落語・水族館・喋り

などである。一見して分かるようにかなり広範囲にわたるテーマを扱っており、糸井との対談に登場する方々も多様である。

同じくコピーライターの仲畑貴志が骨董を語るかと思うと、東大先端研の教授である御厨貴が話術について語ったりする。

(まったくどうでもいいのだが、この両者を取り上げたのは「たかし」が共通しているからである。そういえば立花さんも・・・。)

全体を通じて軽妙な書き起こしで、大変読み易い。

印象に残った部分は「グルメ」についてを扱う章で里見真三が述べた言葉。

「これは私の持論ですが、上半身であれ下半身であれ、粘膜の快楽を過度に追求する者はヘンタイと呼んで然るべきです。」

次に、「花火」についてを扱う章で冴木一馬が述べる

「日本の花火は三河地帯が発祥とされています。中国人が作った花火を最初に見たのが徳川家康で、一緒にいた砲術隊が家康の

生誕地である三河に技術を持ち帰って伝えた、と。当時、火薬は砲術隊、鉄砲屋しか扱えなかった。ところが徳川政権が安定してくると

戦争がないから鉄砲が売れない。それで鉄砲屋が花火屋に移行していったようです。」

という言葉。

そして「豆腐」についてを扱う章で吉田よし子が述べる

「ちなみに穀類プラスその二割の量の豆を食べるだけで、全必須アミノ酸をバランスよく摂ることができるんですよ。

人類は、穀類と豆の組み合わせで生き延びてきたと言ってもいい。」

などだろう。「落語」を扱う章には先日行ってきた新宿の末広亭の名前が挙がっており、何となく嬉しくなった。

あと、御厨さんが登場する章では、御厨さんの様子を御厨ゼミに所属しているS君から時々聞いているので、

それと重ね合わせて読むと妙に面白く思えてしまった。 (読後すぐにS君に本書を紹介した。)

さらっと読める割に、内容がしっかりある良い本だと思います。

 

楽器トライアスロン、『戦争を読む』(加藤陽子 勁草書房,2007)

 

 火曜日は基本的に、楽器の練習に一日を捧げることにしている。

今日もその例に漏れず、いくつか授業を受けてからは音楽に没頭する一日だった。

まず、ピアノでパガニーニ変奏曲を弾く。

といっても難しすぎて中々指が回らないので、第一変奏、第二変奏、第三変奏・・・と区切って片手ずつ弾く。

最初はゆっくりと、それから段々早く。うーむ、難しい。作曲者ファジル・サイの演奏をYoutubeで見る事が出来るのだが、

とんでもないスピードで弾いている。確かに、この曲をフルに活かすにはサイぐらいのスピードで弾かねばならないだろう。

第一変奏が速いからこそ、第二変奏以降との対比が際立つのだ。とはいえ、そんなテクニックは僕に無い。

ひとまず七割ぐらいのスピードで確実に弾けるように練習していく。

今日はサイの半分ぐらいのスピードで最後まで弾き、ラストの和音8連打だけは本来の速さで叩いて満足した(笑)

少し休憩して、Hさんに貰ったモーツァルトのロンド(フルートとピアノのためにランパルがアレンジしたもの)の楽譜を広げる。

まずはピアノで、それからフルートに持ち替えて最後まで通して吹く。フルートを吹くのは久しぶりだったので、高音が時折ぶれる。

何度かやっているとかなり落ち着いてきた。ここでまたピアノに変えて伴奏部分を弾く。さきほどよりテンポ感がかなりマシになった。

 

次にバイオリンでCoriolan序曲の1st部分を適当に弾く。

Coriolanの総譜。浪人中から愛読?しているため、もはやボロボロである。珈琲までこぼしてしまった。ベートーヴェン様ごめんなさい。

Coriolan 23小節目から。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この曲には静と動の激烈な対比が描かれている。が、技術的には難しくないので、僕のような初心者が練習するにはもってこいだ。

50小節目までと52小節目以降の劇的な変化はいつ聴いてもゾクっとする。

102小節目以降や134小節目以降のテンポは指揮者によって解釈が大きく異なるが、僕は速いテンポの演奏が好きだ。

焦燥や不安に煽られているような感じがこの曲には相応しいと思う。ドキドキして進むからこそスフォルツァンドが効果的に聞こえる。

前のめりになるように走り抜け、時に心臓を掴まれるようなスフォルツァンド、そしてまた音量を落として駆けだす。

声を失ったかのような一瞬のゲネラルパウゼの後、叫ぶようなフォルティッシモ。最後は静かに、息を引き取るように終わる。

自分で弾いていると下手さ加減に呆れてくるが、楽器を離してスコアを見ていると本当に手に汗が滲んでくる。

どうやったらこんな曲が書けるのか。天才としか言いようがない。

 

 

 片付けなど溜まっていた雑事をこなし、読書タイム。

加藤陽子『戦争を読む』(勁草書房、2007)を読了。立花隆の『僕はこんな本を読んできた』のジャンルを特化したような本だ。

細谷雄一の『大英帝国の外交官』を紹介するくだりで、 

 

「・・・どれも珠玉。バカラのグラスを用意する。大きな氷塊を一つ入れ、とっておきのウィスキーを注ぎ、一二回半撹拌し、

ベッドへゴー。読書灯をつけ、一日一章ずつ読む。ああ至福、極楽。」

 

と書かれていたので、僕も同じ事をやろうと思ってCHIVAS REGAL12年を引っ張ってきた。

バカラのグラスなんて持っているはずもないので適当なタンブラーで代用。大きな氷塊も無いので普通の氷。

よく考えたらベッドも読書灯も我が家には無いので、布団を敷いて蛍光灯を一段暗くして本を広げる。

いささか怪しい状況である。文章化するなら、

 

「適当なタンブラーを用意する。100均で買った製氷器で作ったごくごく普通の氷を入れ、日常的に飲むウィスキーを注ぎ、

なぜか家にあるバースプーンで撹拌し、布団を敷く。蛍光灯の灯りを一段階落とし、わざわざ読みづらい中でガシガシ読む。

正直、布団で読む必要が感じられない。」

 

・・・あまりリッチな光景ではない。

 

 まあそんなことはいい。読んでいて興味を惹かれたのは、「川奈提案」というものについて。川奈提案とは、

98年4月、橋本首相がエリツィン大統領に対して行った北方領土問題解決と平和条約締結に向けた秘密提案のことである。

 

この内容はいまだ機密扱いだそうで、大変気になった。プーチンが来日ついでにバラしてくれないかなあ。

 

面白かったのは「本はともだち」と題された第三章である。

それぞれの本屋の様子が目に浮かんでくるようで、本の紹介と一緒にスイスイ読ませて貰った。

この本に挙がっている坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』は、本屋に並んでいるのを見るばかりで読んだ事は無かったので、

この機会にAmazonで注文した。合わせて金森先生に勧められたArendt ”The Human Conditon” も注文。

洋書なので相当の値段を覚悟していたが、意外に手に入れやすい価格で安心した。

  

 

 

夏日、それからプロとの試合

 

 今日はとても暑かった。

ニ限のソフトボールをやっている間なんて、もう夏が来たんではないかと思ってしまう暑さだった。

怪我防止のため長袖のアンダーアーマーを下に着ていたのだが、怪我云々の問題はさておき着たことを後悔した。

みんなの鉄壁の守備と好打によって圧勝したので良いとしよう。やっぱり試合に勝つと素直に嬉しい。

 

 三限の政治Ⅰの時間は機構で仕事という名のもと、かっぱが買ってきてくれたたこ焼きを食しつつ色々ミーティング。

四限の姜尚中の情報メディア伝達論は講義の内容よりも教官のトーク力に感心してしまう。講義というよりは講演会のように流暢で、

ニ階で授業を聴いている僕から見た限り、机の上にさしたる原稿もなさそうだった。原稿なしにあれだけ話せるというのは凄い。

ボイスレコーダーで録音しながら一生懸命ノートを取っている女の子がいた。きっとファンに違いない。

 

 五限は高等動物の比較生物学。前回の授業はイマイチ面白くなかったが、今日はめちゃくちゃ面白かった。

テーマは「天然毒の研究と創薬」で、獣医学専攻の教官による講義。

「毒」はギリシャ語でToxicon、「矢」がギリシャ語でToxonであることから、毒というのは矢に関係したものであったことが分かる。

(ギリシャ語で矢につける毒をToxicosという) このような語源の話から始まり、PoisonとToxinとVenomの違いなどの説明を

導入として、様々な毒を紹介して頂いた。カイメンから色々な毒がとれ、それは有効利用できる毒になるそうなのだが、

カ採れる毒の一つにホスファターゼ阻害剤として応用されるOkadiac acid、すなわちオカダ酸というものがあるらしい。

この名前がやたらツボに入って(分かる人は分かるだろう)、今度あの人に会ったらOkadiac acid先生と呼んでみようと決心した。

キノコから採れる毒としてのムスカリンの話からアセチルコリンやニコチン受容体の話に広がったり、ビンアルカロイドの話から

抗癌剤、さらにはチューブリンの話に拡がったり、全体として「毒」を切り口にして生物の体に迫ろうという意図が感じられた。

声が聞きとり易かったことも手伝ってとても面白く聴かせて頂いた。

 

 授業終了後、急いで帰宅してボールバッグを取って経堂ボウルへ。今日はプロのレッスン&試合である。

レッスンでは、肘を入れるタイミングを一定にする(トップから一気に入れる)ことと、手の傾けによるアクシスローテーションの調整に

関するアドバイスを頂いた。気合が入ると更なる回転を求めて肘入れのタイミングが不安定になりがちであるのは意識していたので、

プロの指摘はこれを意識する上でとても役に立つものだった。プロの的確なアドバイスと練習の成果あって、追い求めてきた投げ方は

かなり完成形に近づいたように思われる。豪快なキックバックを見せてくれるような満足な球も高い頻度で投げられた。

しかしこのあとのプロとの勝負には1勝2敗、トータルで負けてしまった。アベレージは195.3。プロは210ぐらいだったか。

プロが6つストライクを続けてくるところでこちらはダブル‐スペア‐スペア‐ダブルとストライクを続ける事が出来なかったのが痛かった。

支配人さんがギャラリーにいたので、いいところを見せようとついつい力が入ってしまったのかもしれない。ナチュラルに投げねば。

それにしても一度見つけたラインに確実に同じ球を投げ込んでくるプロの技量はやはり凄い。次回こそリベンジしたいと思う。

 

 暑い日が続くだろうがボウリング場はいつも涼しい。強い日差しは無いし、飲み物も自由に飲めるし、座って休憩する事も出来る。

夏には良い競技かもしれないな、などと思いつつ、長谷部恭男『憲法学のフロンティア』(岩波書店、1999)を再読。

長谷部教授の本は新書でも単行本でも難しい事を分かりやすく説明してくれるので愛読している。

(岩波新書『憲法とは何か』や、ちくま新書『憲法と平和を問いなおす』など。他には杉田敦と共著の朝日新書『これが憲法だ!』)

この本では随所に設けられた「プロムナード」のコーナーが楽しい。

もしも法学部に進学することになったら、是非とも長谷部教授の下で勉強してみたい。

というわけで、とりあえずは明日の一限にある法Ⅰの授業に備えて寝ます。

 

『花祭』(平岩弓枝 講談社文庫,1984)

 

 平岩弓枝 『花祭』(講談社文庫、1984)を読了。

前述した山田詠美の小説と一緒に古本屋で50冊ほど纏め買いした中の一冊である。

話の筋は別段上手いわけでもないし、ちょっと最後も予測がつく展開。

「こうなったら最後はこうならざるを得ないだろうなー」と思って読んでいるとその通りの展開。おそらく殆どの読者が予想する通り。

裏表紙には「激しい愛を寄せる青年調香師・彰吾が現われて」とあるが、それはちょっと違う気がする。

激しい愛を寄せたのは別の人間であって、主人公の彰吾自体は密やかな愛を寄せていたのではないか。

本文中に「ゲランの夜間飛行を愛用している」という一節があったが、今となってはこの香水が入手困難であるだけに、

この小説が書かれて20年以上前のものであったことを感じさせる。

内容は取り立てて良いとは思わないものの、『花祭』というタイトルが素敵だと思った。

 

『快楽の動詞』(山田詠美 文春文庫,1993)

 

 山田詠美『快楽の動詞』(文春文庫、1993)を読了。

何とも軽妙なエッセイ集。エッセイと小説の間、ある種の批評といった方が的確かもしれない。

作品の中に入り込む「書き手」としての視点と、作品を読む「読み手」としての視点を

山田詠美が自由自在に行き来する妙技が味わえる。やはりこの人は文章が上手い。

さらっと読める割には、随所に鋭い指摘があって読んでいて頷かされることも多々あった。

「単純な駄洒落は、〈おもしろいでしょ〉というそれを認めた笑いを求める。

しかし、高品位な駄洒落は正反対に、〈おもしろくないでしょう〉という笑いを求めるのである。

前者の笑いは、わはははは、であるが、後者の笑いは、とほほほほ、である。」

 

 うーむ・・・なるほど。

『病魔という悪の物語』(金森修 ちくまプリマー新書,2006)

  
 実在したチフスキャリア(健康な保菌者)であるメアリーを巡る話。
メアリーが隔離されたのは、彼女がチフスキャリアであったからだけではなく、社会的な背景があった事を説く。
ここにフーコーの議論を重ねたとき、すぐさま生権力論が想起される。
「正常」という状態を作り上げ、個人を「正常」な方向へ生かし、時に「正常でない」個人を排除する力学。
bio-politiqueあるいはbio-pouvoirを説明するための導入には最適な一冊であろう。
著者がゼミの教科書に指定したのも頷ける。

  
 僕は今、この本の筆者である金森先生のゼミに参加している。このゼミ(というより授業に近いが)は本当に良い。
今まで受けた授業の中で最も知的興奮を覚える。ニ時間あまりノンストップで手を動かしたくなる
(「動かさねばならない」、ではない。「動かしたくなる」のだ。)授業は、現実問題として大学においては珍しいだろう。
それは扱う内容が個人的に関心のあるフーコーやアガンベンといった思想家の思想にまつわるからだけではなく、
金森先生の語りが絶妙であるからだ。知識がとめどなく溢れ出す。しかもきちんと論理立っている。

 前回のゼミでは、フーコーの生権力論が応用された例としてナチスにまつわる問題を扱った。
書き始めると凄い量になってしまうから詳しくは別の機会に譲るとして、一つだけ前回の授業で学んだ事を書くにとどめる。
 

 なぜ、ナチスはあれほどまでのユダヤ人を殺し得たか。それには、虐殺の手法の変化を直視する事が必要である。

 
【当初】
突撃隊EinsatzGlupenにユダヤ人を集めさせ、森の方に連れて行き、先に掘っておいた穴の前に座らせて後頭部を打ちぬく。
そして穴に落とす。この方法で一日300人あまりのユダヤ人を虐殺した。しかし、これはまだ原始的な手法である。

 
【ポーランド侵攻期】
T4(ティーアガルテン四番地)作戦あるいは動物園作戦と呼ばれる手法が取られた。
ポーランドの重度の精神障害者を集めてきて収容する。夜中に患者の就寝している病室に一酸化炭素ガスを充満させて殺す。

ここで「安楽死」という概念が生まれる。つまり、重度の精神障害者は「生きるに値しない命」だと考えられ、生きるに値しない命は
「人道的理由から」奪ってもよいものと考えられた。これがいわゆる「Mercy Killing/Gradentod 慈悲的な殺し」の思想的基盤となる。
 
(1895  Adolf Jost “Das Recht auf den Tod” 「治療し得ない精神障害者は国家によって殺しうる」)
(2001 Adolf Hoche, “Die Freigabe der vernichtung lebensunwerten Lebens”  
直訳では、「生きるに値しない命を殺すということについての解除」。邦訳は「生きるに値しない命とは誰のことか」2001年)

 
ここに至って、ナチスは原始的な手法で殺していた初期と異なり大量殺害のノウハウを獲得するに至る。

 
【ユダヤ人へのT4作戦転用】
T4作戦で用いた手法、すなわち毒ガスを用いた大量殺害の手法をユダヤ人に転用する。
この手法では、「人が人を目の前で撃つ=その手で殺す」という作業が必要ではなくなる。集めて、部屋の外からスイッチを押す。
これは極めて合理的、系統的に殺しを行う手法である。ここに、銃で命を奪っていた頃とは決定的に異なる状況が生まれる。
すなわち、人を「平常心に限りなく近い状態」で殺すことが出来るようになった。極限状態になることなく、平常心に近い状態で殺しを行う。
いわば「事務的」に殺しを行う事が可能になったからこそ、ナチスはあれほどまでのユダヤ人を殺し得たのである。
(これがナチスの行った事で一番許し難い事である、と金森先生はおっしゃった。平常心で殺す状況が生まれたことから、ナチスの中には
「死体から金歯を抜きとる」という行為までが起こる。これが如何に酷い行いであるか。人を人とは見ていない!)
 
 
 他には
「ナチスに医者があれほどまでに協力したのは何故か。」
「ナチスの健康論とは何か。(決してナチスの時期は知的停滞期ではなかった。)
「ナチスの〈血〉と〈水〉に根ざした大地の思想と肉食への敵意の関連はどこにあるか」
「人種衛生学Rassenhygieneとは何なのか」などを学んだ。
近日中に理解したところを纏めてみたい。昨年より精読を続けている佐々木中 『夜戦と永遠』(以文社、2008)と合わせて、
フーコーに関する知識と理解をニ年の間に小論として組み立てる事が出来れば、と考えている。

 

『表象 3』 (表象文化論学会 月曜社,2009)

 

 表象の機関誌は毎回新刊が出るたびに買っている。確か第一号を買ったのは神戸で浪人していた頃だった。

まず表紙がとても目立つ色合いであった。(一号は白と赤。センターを空白にしたことで差し色の赤がとても効いている。)

それ以上に装丁に使っている紙にコダワリが感じられ、「さすが表象・・・やるなあ。」と分かったふうに感心した記憶がある。

将来的に表象文化論を専攻したいとまでは思わないのだが、僕にとって表象文化論という学問はどこか気になる存在である。

 

 さて、表象の第三号。ニ号と同様、生協で平積みしてあったのを見かけて買ってみた。

帰って早速読もうと思い、早々に家に辿り着き、いつものようにポストを開けて郵便物をチェックする。

いつもは不動産や宅配ピザの広告ばかりなのに今日は大きな茶封筒が入っていた。

送り主を見ると「表象文化論学会」 ・・・嫌な予感がする。

封を切ってみると、案の定、先ほど生協で買ったばかりの「表象 3」が現れた。

この瞬間の絶望した僕の様子は、それだけで表象文化論の分析対象となりえる程だっただろう。

学会に所属していると無料で一冊貰えるのを忘れていた。1800円もしたのに・・・(泣)

(どうでもいいが、『さよなら絶望先生』のフランス語版が出ているそうだ。タイトルは“Sayonara Monsieur Désespoir”

このタイトルだけ見ていると、何だか相当シリアスな読み物に見えてくる。カミュの『表と裏』にある

“Il n’y a pas d’amour de vivre sans désespoir de vivre.” 「生きる事への絶望無くして生きる事への愛はない。」

という文章を思い出す。内容的に、この漫画と通底する所があるような無いような。)

 

 

 嘆いていても漱石先生たちが逝ってしまった事実には変わりがない。気を取り直して読んでみた。

今回の特集は「文学」である。読み切って一番面白かったのは「文学と表象のクリティカル・ポイント」というシンポジウムの様子。

東浩紀と古井由吉(この人の本はまだ読んだ事が無い。近日中に読むことにする。)と堀江敏幸(とてもダンディな教授)の三人が

対談しているのだが、中でも「固有名詞の消えた文学」というテーマと、「漢字をパソコンで打ち込むことの特異性」というテーマが

興味深かった。「固有名詞の消えた文学」というのは、そもそも柄谷行人が村上春樹の小説を評した言葉である。

村上春樹の小説には確かに固有名詞があまり見られない。(もちろん、無いわけではない)

デビュー作『風の歌を聴け』にしても「鼠」や「小指のない女の子」という名前であったり、『羊を巡る冒険』でも「誰とでも寝る女の子」

なんて名前で登場人物が語られる。これはそれまでの「文学」という既存のディシプリンから外れるものだと言える。

そしてまた、「最近流行りのケータイ小説の文体は浜崎あゆみの歌詞と極めて似ている。」という速水健朗の指摘が紹介される。

(浜崎の歌詞の特徴は固有名がないことであり、そこにあるのは漠然とした「愛」や「悲しみ」となどの漠然たる一般名詞である。)

なるほど、この議論はとても面白いと思う。何が文学で何が文学でないのか、そもそも文学とは何なのか、という問題そのものだろう。

ここでは言及されていないのだが、ライトノベルはどうなのだろう?固有名詞が消えた「文学」なのか?

ライトノベルは逆に固有名詞を強調する「文学」ではないのか。

ライトノベルにおいては、「キャラが立っている」ことが要求されているのではないか。ライトノベルには一種RPGのゲームのような

性格があるように思う。そのキャラや世界に没入して、冒険や恋愛を繰り広げる楽しみ。例えばFF7のキャラクターの名前が

 

主人公=「僕」

途中で死ぬヒロイン=「ガール・フレンド」

片手が銃になった革命組織のリーダー=「片手が銃のおとこ」

主人公の幼馴染の女=「幼馴染のおんな」

人間の言葉が話せる獣=「ふしぎなどうぶつ」

(以下省略)

などという名前だったら、かなり面白くないだろう。

(いや、ある意味面白いかもしれない。FF9のガーネットに「田吾作」という名をつけて最後までプレイした奴が友達にいる。)

——————————————————-

~Aという村に着いて ~

ふしぎなどうぶつ 「ここが私の故郷だ。」

ぼく         「やれやれ。」

「まったくもって変わった町だね」、とガール・フレンドは言った。

「でも、あなたが住んでたことは理解できる。」

——————————————————-

ちょっとだけなら面白いが、こんな会話が最後まで続けば苦痛に思えてくるだろう。

 

 話がかなり飛んでしまったが、キャラを曖昧な一般名詞にしたままライトノベルを進めるのは難しいのではないか。

その意味で、ライトノベルは固有名詞を避けた作品群に組み入れづらいものだと考える。

 

 もう一点の「漢字をパソコンで打ち込むことの特異性」について。パソコンで文字を打ち、感じに変換し、文章を作る、という流れは、

「書く」というより「選ぶ」行為である。手書きで漢字を書くとき、我々は「漢字が書けない」「文字を忘れて立ち止まる」という

書くときのひっかりを多かれ少なかれ経験する。だが、パソコンを用いることによって、漢字は「ひらがなと同じ速度で画面上に

表示できる記号」になる。さらに予測変換機能の進化によって、「漢字の変換」は「文節ごとの変換」、さらには「文ごとの変換」となる。

「こまばじだい、たちばなせんせいにさまざまなくんとうをうけた」という文章であれば、「駒場」「時代」と変換していくのではなく、

全部打ち込んだあとで変換キーを押して「駒場時代、立花先生に様々な薫陶を受けた」と記述するようになるということだ。

 長くなってしまった。そろそろ終わりにしよう。

 今期の立花ゼミでは文学に関する企画が立ち上げられているが、このシンポジウムの内容は文学企画に関わる人にとって

有益なものになるはずだ。最初に書いたようにこの本は二冊持っているので、要るようでしたら次のゼミの時に一冊持って行きます。

 

『情報都市論』(西垣通ほか NTT出版,2002)

 『情報都市論』を読了。

最近、都市論や都市表象分析に興味があるので読んでみた。かなり装丁に金のかかった本だ。

オムニバス的に構成されているため、一章ずつ概観する方が良いだろう。

 

 一人目の古谷誠章の「ハイパー・スパイラル」考想には、いきなり圧倒された。

建築を鉛直方向に伸ばすのではなく、斜め上方に延伸できるような構造を取る事で拡張しやすくし、

人間の移動にあたっても、鉛直方向ではなく水平方向への移動という性格を強める。地上高くまで展開された

二重らせん構造の建築など、考えてみたこともなかった。だが、これは本当に安全なのだろうか。

技術的な安全性は専門家に任せよう。問題は、精神的な安全性にある。

もし僕がこの建築のユーザーなら、正直恐怖を抱かずにはいられまい。「これで暮らしてみて下さい。」などというテスターのバイトが

あったら、相当条件が美味しくても遠慮したいと思う。これは、いわばジェットコースターの路線の上に暮らしているようなものだ。

下を支えている柱、、下を支える階、下を支える骨組が意識されるからこそ、我々は近代の高層建築に暮らし得たのではないか?

とはいえ我々は最初から高層建築に親しんでいたわけではない。ならば同様に、この新しい形に慣れる日がいつか来るのだろうか。

 

 ニ章の松葉一清「ウェブシティーを目指して」ではパサージュからストリップへの流れが示され、「ウェブシティー」という

新たな都市にまつわる試論が展開されている。一つだけ言いたいのは、飯田橋のウェブフレーム(大江戸線の緑の配管です)

について「自立的に伸長したと一目で分かる」とあるが、少なくとも僕は「自立的に伸長した」ものだとは分からなかった。

 

 三章の山田雅夫は「都市は拡張するのか、それともコンパクト化に向かうのか」で、情報化が都市という空間にどのような影響を

及ぼすかを考察しつつ、電子地図やCADの普及によって、「都市を俯瞰する視点」が市民レベルで共有できるようになったことを説く。

面白かったのは、東京から見て300キロの円の上(東京から片道ニ時間程度の行動範囲)にこそ立地の優位性が生まれてきており、

そこに位置する都市が広域鉄道網の結節点、結節点都市と考えられるということ。

このような都市は見方によっては東京の一部と呼んで差支えないと筆者は言う。

ちなみに以上に該当するような都市は、具体的には仙台、名古屋、新潟である。

 

 四章の石川英輔は、「江戸の生活と流通・通信事情」で江戸の都市事情を描く。中でも、情報伝達の中心は飛脚であったが

情報量が増えると手紙を送るようになった、という指摘は、当たり前ながら見逃せないものである。

 

 五章の北川高嗣は「新世代情報都市のヴィジョン」と題して、今後メディアがもたらす街づくりへの寄与の可能性を考察している。

個人的には、その可能性の考察より「コルビュジェの近代建築の五原則」や、ニュートン的世界観に対立する世界観としての

マンデルブローのフラクタル理論、ムーアの法則やメトカーフの法則といった知識事項を吸収するのに良いセクションだったと感じる。

(著者自身もあとがきで書いているが)文章と文章の繋がりや連関が薄く、幾分箇条書き的である点で、この章はやや読みづらい。

 

 六章の隈研吾は「リアルスペースとサイバースペースの接合に向けて」の中で「建築物を消去した建築」について語っている。

ゾーニングでもシルエットでもなく床への書き込みによって、外部を内部へ取り込み内部を外部へ流出させるという試みは、隈研吾の

仕事に通底するものだと思う(岩波新書「自然な建築」を読んでもそれが見て取れる)が、これにはいつも興味を惹かれる。

何より、隈は文章が上手い。一つ気になったのは「20世紀とは室内の時代でありハコモノの時代であった」のくだり。

モード、とりわけ女のモードの歴史について集中的に調べていた時に、「女にとって19世紀は室内の時代であった」という

フレーズを見つけたことがあるだけに一瞬違和感を感じた。(確かベンヤミンのテクストか何かだったと思うが)

ここで隈が言う「室内の時代」は19世紀、女が社会的に押し込められていたものとはまた異なり、建築されたオブジェクトによる

人間の「構造的押し込め」であったと理解するべきであろう。

 

 第七章の若林幹夫「情報都市は存在するか?」は大変参考になるセクションだった。マクルーハンとヴィリリオのテクストを手がかりに

情報都市のヴィジョンを双方の視点から議論にかける。議論の過程で取り上げられる首都と都市の違い、電話というメディアの

両義的性格(遠さと近さ)などにはハッとさせられた。

 

 西垣通による第八章「ブロードバンド時代の都市空間」は、アクロバティックな芸当が見られる章である。

今まで挙げた論者たちの論考・主張を満遍なく用いて本書のまとめを構成している。軸になっているのは

「ツリーからリゾームへ/定住からノマドへ」(これはドゥルーズを彷彿とさせる)、「ユビキタスとコンパクト化」の二つである。

この本の書き手はみな立場を微妙に(あるいは大きく)異にしているにも関わらず、それら多様な意見を上手く集約させて

「まとめ」を書いてしまう筆力は凄い。得る物の多い本であった。