November 2024
M T W T F S S
« May    
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930  

『サブリミナル・マインド -潜在的人間観のゆくえ』(下條信輔 中公新書,1996)

◆要旨

本書は、著者下條信輔の東京大学における一連の講義のまとめ直しという形式をとっている。

最初に下條は、「人は自分で思っているほど自分の心の動きを分かっていない」というセントラル・ドグマを立て、それに沿って

知覚心理学、社会心理学、認知科学などの分野にわたる種々の理論を紹介してゆく。それとともに、様々な実験を引用して例証

しつつ考察を深めてゆく。まず「認知的不協和」や「自己知覚」の理論をあげて、自分自身の態度を我々が決める時というのは他人に

ついて推論する時と似たやり方をとっている事を述べる。次に「情動二要因理論」を用いて、自分の身体の変化を何らかの原因に

「帰する」認知プロセスが重要だと説く。しかしこのような認知プロセスの結果に至る過程はしばしば我々が自覚できない点を強調して

いる。続いては「分割脳」という症例をあげ、この症例から脳の組織体としての統合の緩やかさや個々の部分のサブシステムとしての

独立性を示すことで脳と認知の研究にも切り込んでゆく。次にカクテル・パーティー効果やサブセプション、知覚的防衛などの閾下知覚

の諸研究をあげて先の章で取り上げた神経心理学の諸症例との近似を見出す一方で、盲視覚や半側無視といった症例と閾下知覚の

諸研究から導き出されるものとはまた違った一面を持つということをも述べる。続く第七講はサブリミナル・コマーシャリズムを扱い、

八講では自発的行為を扱うというように、ここからは潜在的認知プロセスに拘束される人間にとっての「自由な行動」とはどのような

ものかという問に対して多様な角度から光を当てる試みが展開される。七講では、自由な行為は本当に自由か疑わしく、意識されない

部分=サブリミナルな部分で自由は完全な自由ではなくなってしまっているのではないか、メディアに情動を操作されてしまっているの

ではないかと問いかけ、八講では人間以外の動物やコンピューターと人間を分ける最もはっきりした違いが潜在過程と顕在過程との

ダイナミックな相互作用という点にあるのではないかと主張する。以上から導き出される第九講では、行為論と法という視点に

潜在認知研究からのアプローチを行い、「故意」という概念に疑問を投げかけ、また続いて「責任」という概念にも潜在認知研究からの

疑問を提示する。社会潜在的・暗黙的な心的過程の存在が規範体系に対して複雑で重大な問題を提起する事を示すためである。

そして、ラディカルな行動主義を方法論的には支持しつつも反面で自覚的意識の存在をも支持するというスタンスを改めて表明する。

最後に、序で述べた「時代の人間観をつねに更新し、また時としてそれと対立し切り結ぶのが、心理学、人間科学の役割ではないか」

という筆者自身の信念に対応する形で、「時代の人間観が崩壊の瀬戸際にあるのではないか」と提言するとともに、

「このような危機的状況を救う洞察もまた、潜在的精神を探求する人間科学の周辺からやってくるのではないか」という展望によって

全章を結んでいる。

 

◆インプレッションと+α

「自由」や「我思う故に我あり」といった近代社会の個人という概念の根幹を、豊富な事例と研究データーから揺さぶりにかかる

この書はとてもスリリングだった。「人は自分の認知過程について、自分の行動から無自覚的に推測する存在である」という人間像の

提出には、なるほどと頷かずにはいられない。

第九章p.282にある「心理学-刑法学-行為と倫理の哲学、この三者の境界に、前人未到の広大な問題領域が存在している」という

一文から、この領域について考察してみたいと最初は思ったのだが、筆者の主張には全面的に同意するものの、三者全てに知識が

不足する今の僕には重すぎる。ましてやブログにさらっと書けるような内容にはなりそうにもない。というわけで、情動と潜在認知を

テーマに進む本書の中で、僕がとりわけ興味を引かれた(同時に恐れを覚えた)第七章、すなわちメディアによる情動のコントロールと

いう論について取り上げてみることにする。(以前行われた著者の講演会から学んだ内容と本書とを総合した内容になっている。)

 

 コマーシャリズムに乗せられたくない、コマーシャリズムに自らの思考を規定されたくないという意思は誰しもが少なからず持っている

だろう。しかし、実際に抵抗できているのか?という疑問を昔から抱いていた。反発は容易に出来る。繰り返されるコマーシャル

(場合によっては、同じCMを連続でリピートする!)には嫌気が差すだろうし、選挙カーの名前連呼は耳について不快に感じる人も

多いはずだ。だが下條は研究データーから、「好感度は単純に繰り返されればされるだけ、一律に増大する」

「繰り返し見せられるほど機械的に好感度も増大してしまう」という結果を見せる。そしてこのことよりもさらに衝撃的な一文が後に

続いている。「はっきりした再認記憶がある場合よりも無い場合のほうが効果が大きいという可能性が指摘されている」と。

これは一般に理解されているものと正反対だろう。僕自身、CMは記憶にヴィヴィッドに焼き付いてこそCMたり得ると感じていた。

しかし下條の述べるように帰属説を援用(「いや、自分の場合はコマーシャルの影響などではない、自分本来の好みなのだ」)すれば、

潜在記憶に刷り込むCMが強力であることが理解される。頭にリフレインされるCMには抵抗を覚えるが、このように潜在記憶に

刷り込まれたCMは意識しないだけに全く抵抗できないからだ。その意味ではこのように潜在記憶に語りかけ、情動に転化させる

コントロールに対して我々に何が出来るだろうか。

そう、何も出来はしない。例えばマクドナルドの椅子は硬い。長居しづらくすることで回転率を上げることを狙ってそうなっているのだ。

というような話を知っていたとしても実際に抵抗することは難しいだろう。座り心地が悪ければそう長くないうちに自然と立って

店を出るはずだ。そしてその時に、「椅子が硬かったからではない、外の空気を吸いたかったからだ」などと、別原因に帰属させてしまう

ことになる。だがしかし当の本人は自由な行動をとったつもりでいる!

こう考えていくと現代では消費者として完全に「自由」でいることは不可能なのかもしれない。

今や、意識される拘束と意識し得ない拘束が我々を取り巻いている。

B.Schwerzが“The Paradox of Choice”で述べているように、現代は「過剰な選択」にあふれている。そしてそれは表面的には安定

を与えるが、潜在的な不安を人間に与える。その潜在的な不安をコマーシャリズムは狙っている。現代コマーシャリズムの本質は、

論理的な説得を目指すものではなく、ブランドイメージの定着や意味の連想を期待するものでもない。

古典的-道具的という二種類の条件付けか、あるいはサブリミナルに訴える単純呈示効果にこそ本質がある。

いまやコマーシャリズムは、人間の非常に抵抗しづらい部位の狙撃者となった。

 

 では、高い情動価を持って潜在認知に訴えてくるこのようなコマーシャリズムに、我々は具体的にどう対応しえるのか?

答えは出ない。だが、少なくとも、情動と潜在認知に訴えかけることがコマーシャリズムの本質であると理解することから抵抗の第一歩

が始まるはずだ。自由と制御が並存する(ここには何の矛盾もない。現代人の意思決定はますます状況依存的になっている。

そのことは自由と制御の接近、重複を意味してしまうという事が本書で十分に述べられていた。)近未来社会を出来る限り

「自分として」生きていくためには、まず情動と潜在認知という概念に対する深い理解を持つ以外に方法は考えられない。

情動と潜在認知―それは自分という「個」の証の一つである「創造性」の源泉を担う可能性を持ちつつも、

他者によって容易に動かされてしまう可能性を持つ要素なのだろう。

 

(「影響力の武器」と「サブリミナル・マインド」の書評は、以前書いた原稿を編集しました。いつもと雰囲気が違うのはそのせいです。

この二冊、どちらも非常にお勧めです。合わせて読むと理解が深まるんじゃないかと思います。)

 

『影響力の武器 ―なぜ人は動かされるのか 第二版』(ロバート・B・チャルディーニ 誠信書房,2007)

◆要旨

「だまされやすい人間」であった筆者が三年間にわたる参与観察を行うことで、承諾誘導は六つの基本的カテゴリーに分類できることを

発見した。すなわち、返報性・一貫性・社会的証明・好意・権威・希少性の六つである。この六つに豊富な例をもとに解説を加えてゆく

という形式をとっている。人間の社会的行動の不可思議な側面は社会的影響の原理によって理解できることを示そうとしたものであり、

実験室で行う実験のみにデーターをとどめず、実際の社会に例をもとめている点が本書の白眉であろう。

 

 【返報性】という概念は「お返し」をせねばならないという意識から承諾してしまう性質を指し、拒否したあとには譲歩するという

ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックにも代表される。【一貫性】(と、コミットメント)という概念は自分の言葉、信念、態度、行為を一貫した

ものにしようとする性質で、承諾の決定に対して一貫性への圧力が過度に影響することを明らかにする。

 

 【社会的証明】という概念は不確かさと類似性の二つの状況において最も強く働くもので、状況があいまいな時人は他の人々の行動に

注意を向けそれを正しいものとして受け入れようとする性質と、人は自分と似た他者のリードに従う性質を持つということである。

ここから、誤った社会的証明に影響されないために、類似した他者が行っている明らかに偽りの証拠に対して敏感であること、

類似した他者の行動だけを自身の行動決定の基礎にしてはならぬことなどが述べられている。

 

 【好意】という項では、人は自身が好意を感じている知人に対してイエスという傾向があることを示し、身体的魅力がハロー効果を

生じさせるため魅力的な人の方が影響力が強いことを述べる。そして、承諾の決定に対して好意が不必要な影響を及ぼすことを

防ぐのに有効な戦略は要請者に対する自分の過度の好意に特に敏感になることだと説く。

 

 続く【権威】の項ではミルグラムの実験を下に、権威からの要求に服従させるような強い圧力が社会に存在することを示すとともに、

権威の三シンボルである肩書き、服装、装飾品が承諾を引き出す際に及ぼす影響に考察を進める。最後に【希少性】という概念に触れ、

人は機会を失いかけるとその機会をより価値あるものとみなすことを示し、希尐性の原理が商品の価値の問題だけではなく、

情報の評価のされ方にも適用できることを挙げる。そして希尐性の圧力に対して理性で対抗するのは困難であるという結論に至る。

 

 終章では「自動的で何気ない承諾」に関しても考察を加える。

現代の生活は情報が溢れ選択の幅が爆発的に拡大しただけに、認知の過剰負担の傾向が強まっていて、それに比例して我々が

簡便な意思決定を行いがちだと説き、承諾誘導を狙う者に対する知識を身につけよと主張して全編を閉じている。

 

◆インプレッション

本書を読んだのは少し前になるが、忘れられない一冊だ。眼を惹く色遣いとダイナミックに白抜きで配したタイトルに惹かれ、

生協でこの本を買ってきて、一気に食堂で読みきった。全編にわたって膝を打たずにはいられない例、そして納得してしまう解説。

チャルディーニによる六つの分類に、自らが経験してきた事例がピッタリと当てはまりすぎて、もはや騙されないための分類に

騙されているような気分に陥るほどだ。スーツと小物類を買う時の例であげられているコントラストの原理は至るところで経験するし、

返報性のルールのために知らず知らずのうちに恩義を感じてしまう事は日常的だ。チケットの値段が書いていないからといって

電話をする(=コンサートに対する最初のコミットメントを行ってしまう)なんて、つい先日したばかりだ。

残る項目も、みな身に覚えのある例で埋め尽くされていて、人事のように読めない。ここに挙げられた例以外でも、読み進めるうちに

沢山の例が思いついた。例えば、第四章まとめにある「不確かさ」の説明。

「自分が確信を持てない時、あるいは状況が曖昧な時、他の人々の行動に注意を向け、それを正しいものとして受け入れようとする。」

これこそが、カンニングの本質ではないだろうか。正しい根拠などどこにもないのに、自分に自信が持てないからという理由で

他の人の答案が正しいものとして受け入れる所作こそがカンニングであろう。

気になったのは第三章「コミットメントと一貫性」のP.149で述べられている、「他集団と差別化して自らの集団の連帯意識を持続させる

ことに腐心する集団においては、苦難を要求するような加入儀礼は簡単になくならない」という一文。これは大学の入試にも

言えることではないか。もちろん、大学の入試の目的が「他集団と差別化しての自らの集団の連帯意識の持続」にあるわけでは

ないだろう。だが、結果として、入試は「連帯意識の持続に繋がる苦難に満ちた加入儀礼」になっているように僕には思える。

一定のレベルを確保するため、あるいはその大学の求める教養を身につけて入学してもらうためなどといった言説を入試に被せても、

結果として加入儀礼の意味を失うことはこれからもないのではないか。

 

第七章の希少性については身につまされる思いで読んだ。

個別性の感覚が現れて来る年代にあるから仕方ないと慰められようが、自らの過去の行動を振り返ってみると、いかに自分が

今まで「数量限定」や「最終期限」などの承諾誘導の戦術に乗せられていたことか!「希少性の圧力に理性で対抗するのは困難」と

あるが、その事実を知っただけでも対抗の一手段にはなりえるはずであるから、このことを常に意識せねばならぬと思った。

人を動かす手段は善悪双方でこれからも応用され、そして情報が溢れる現代に蔓延していくだろう。

その中で本書の主張する六つの分類の視点を持つことは、影響力の武器に対する武器になるに違いない。

 

『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ 江口清 訳 角川文庫,1978)

 

 何を今さら、という感じかもしれないが、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周 Le tour du Monde en Quarte-vingts Jours』を

読んだ。小学校の時に図書館で借りて読んで以来だから、これを読むのは十年ぶりぐらいである。

再読した理由はまあ色々とあるのだが、十年ぶりで読むと昔と楽しみ方が全く変わっていることに気づいた。昔読んだ時は

賭けの結果が気になるのは勿論、この旅に出てくるユニークな登場人物たちの動きや会話を追うことに集中していた事を覚えている。

「パスパルトゥーもフォッグ氏もかっこいいなあ」、とか、「意外にアウダ夫人強いな」、とか、「そんなオチありかよ」とか。

今読んでみると、そうした登場人物たちの動きが極めてオペラ的であることに気付かされる一方、なによりもヴェルヌの描写力に

驚かされる。人物の描写よりも場所の描写が巧みで、時代を反映してステレオタイプなところはあるにせよ、様々な地域を「それらしく」

描いている。この小説から風景描写を全て省いてしまえば、いくら登場人物たちのドタバタが面白くても味気ないものになってしまうに

違いない。この小説が書かれた当時と違い、今や世界を一週間すらかからず廻ることが可能な時代になったが、世界を一日で

回ってしまってはこのように豊かな風景・地域描写は不可能になってしまうだろう。

そういう意味では、80日間で世界を廻る時代というのは非常に豊かな時代だったのかもしれないな、と読後にふと思った。

 

『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(金森修 NHK出版,2003)

 

 NHK出版から出ている哲学のエッセンスシリーズの『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(金森修,2003)を読了。

このシリーズは150ページ足らずの薄い冊子の中に思想が手際よく纏められているので大変重宝している。

今回のベルクソンは僕があまり触れた事の無い哲学者だったが、サブタイトルの「人は過去の奴隷なのだろうか」と著者に惹かれて

購入して読んでみた。いやあ・・・これはこのシリーズの中でも相当いいんじゃないでしょうか。名著だと思います。

ベルクソン特有のタームが平易に噛み砕かれており、『負の生命論』などに見られるような厳しい文章を書く金森先生の文章とは

思えないぐらい、本書はやさしく語りかけてくる。純粋持続に関する章も面白かったが、一番面白かったのは「知覚」に関する章。

(ベルクソンの知覚論は彼の「純粋持続」という概念に立脚しているので、両者はバラバラのものではない。)

 ベルクソンにとっての知覚とは、

 

「物そのものに人間の感覚器官が働きかけ、対象に人間の側から何かを足すことではない。それどころか知覚とは、本来ははるかに

複雑で流動的な物の総体から非常に多くのものを抜き去ること、引き算すること、無視することである。」(本書P.67,68)

 

こうあるように、ベルクソンの哲学における知覚とは引き算なのだ。我々が世界のあらゆる事象、周りを取り囲むもの全てを

認識してしまっては、家から大学へ行くという日常的な行為においてすら、困惑せずにはいられまい。知覚は微細な運動や変化を

無視することによって、だいたいの輪郭やだいたいの様子をまとめあげる。知覚はある種の省略なのである。

そして、省略法としての知覚と同様の働きをする行いが【ことば】に他ならない。「家から大学へ行く」という行為を

「家を出て電車に乗って駒場東大前駅で降りる。」と言語化した時、本来的な流動の世界の混沌(実際に「家から大学へ行く」という

行為において直面する色々なこと。たとえば鍵を閉めたり車をよけたりSuicaにチャージしたり改札機にタッチしたり…etc)を

明瞭化し、単純化している。「ベルクソンにとって、言語とは、持続する世界を放擲して、この複雑な世界のなかをある程度

的確に動き回るのに十分なだけの素描を固定し、決定するための装置である。」(同書P.72)

では、知覚でも言語でもない「記憶」はベルクソン哲学ではどのように捉えられるのか?記憶は劣化した知覚なのだろうか?

ベルクソンは、記憶が劣化した知覚だという考えを否定し、両者が全く別物であることを主張する。彼の主張では、

 1.記憶

 2.記憶心像 le souvenir-image (さらにその背景に〈純粋記憶〉le souvenir pur が存在)

3.知覚

の三つが存在しており、この三つが直線で繋がる、すなわち記憶心像を介することで記憶と知覚が繋がっているとする。

この構図で考えたとき、純粋な知覚なんてものは存在し得ない事が分かるだろう。つまり、なにかを知覚するとき、その瞬間に

記憶=過去に知覚が影響されることになる。そう考えると、

 

「君の現在は、君の過去から逃れられない。君の記憶の膨大で奥深い厚みは、君の現在の知覚に押し寄せ、君の知覚をほとんど無に

近いものにしてしまう。君がいまこの瞬間知覚している、と思っているものは、君の純粋記憶から養分を受け取った記憶心臓像が

物質化しつつあるものに他ならない」(同書P.84) のである。

 

勘の良い方ならもう気付かれていることだろうが、これこそが表題の「人は過去の奴隷なのだろうか」という問いかけの内容なのだ。

それに対するベルクソンの答えは、やや曖昧だが、「そうではない。」という答えだと考えてよいのだろう。

その根拠は「自由」と関連しているようだが、それがイマイチ僕にはまだ理解できていない。本書を通じてベルクソン自身の書に

挑戦してみようという思いを抱いたので、『時間と自由』及び『物質と記憶』などを読んで、最後の問題を考えてみたい。

加えて、明日のゼミで著者の金森先生に会うので、その時にこの問題について聞いてみようかと企んでいる。明日のゼミが楽しみだ。

 

 

谷川俊太郎+吉村和敏『あさ』(アリス館,2004)

 

 谷川俊太郎による詩と吉村和敏による写真とのコラボレーション、『あさ』を読んだ。

「ひかりにくすぐられて」なんてフレーズには流石の一言。「朝のリレー」という詩の中盤、

 

この地球では

いつもどこかで朝がはじまっている

ぼくらは朝をリレーするのだ。

経度から経度へと

そうしていわば交替で地球を守る

 

には「いいなあー」と呟かずにはいられない。

写真も朝の光やグラデーションを見事にとらえた透明感に溢れるもので、詩との相性が素晴らしい。

最後に置かれた「美しい夏の朝に」を読んでいるうちに、ランボーのAube「黎明」を思い出した。

 

J’ai embrassé l’aube d’été.

Rien ne bougeait encore au front des palais. L’eau était morte. Les camps d’ombre ne quittaient pas la route du bois. J’ai marché, réveillant les haleines vives et tièdes, et les pierreries se regardèrent, et les ailes se levèrent sans bruit…

 

(僕は夏の黎明を抱きしめた。

宮閣の奥ではまだ何物も動かなかった。水は死んでいた。陰の畑は森の道を離れなかった。

僕は歩いた、鮮やかな暖かい呼吸を呼びさましながら。

すると宝石たちが目をみはった。そして翼が音なく起きいでた。…)

 

ランボーの詩とともに、「よがあけて あさがくるっていうのは あたりまえのようでいて じつは すごく すてきなこと」

という谷川俊太郎のあとがきが深く染みてくる。

 

宇宙とテキーラ・サンセット

 

 とてもいい天気だ。光と風が気持ちいい。空を見上げると雲が凄いスピードで動いている。駒場は緑が多くて好きだ。

一限の基礎演習の手伝いを終え、アフター基礎演習のため初年次教育センターへ。

質問などを受け付けつつ、合間に昨日の読書録を書いておくことにする。

昨夜はひたすらフレッド・アダムズ+グレッグ・ラフリン『宇宙のエンドゲーム』(ちくま学芸文庫,2008)を読んでいた。

ニ時間ほど読んでいると飽きてきたので、ここぞとばかりにテキーラサンセットを作ってアルコールを摂取する。

思いっきり冷やしたロングカクテルが美味しい季節になってきた。グレナデンシロップの赤色(ちょっと入れすぎた)が、本の

表紙の色と合っていて何だかとても綺麗である。

宇宙のエンドゲームとテキーラサンライズ

 

 

カラフルな表紙とお酒に合わせるべく、Motion Dive を

起動してカラーエディタが映るよう写真を撮ってみた。

『宇宙のエンドゲーム』はまだ七割ほどしか読んでいないが

文章が非常に分かりやすくて良い。セクションの見出しが

秀逸である。コラムに、高校地学でおなじみのHR図の解説

が載っていて懐かしい思いをした。

 

 

 

 

 なお、これと並行して池上嘉彦『記号論への招待』(岩波新書,1984 )を読了。この本が記号論入門の古典と呼ばれて久しいのは

知っていたが、実際に読んだことは無かった。やっと読んでみて、これはスラスラ読める本ではないなとの感想を抱いた。

書かれている内容は表題通り記号論の概説である。だが、内容が詰まっているだけに、さっと流して読める本ではない。

書かれた年代ゆえに、今の記号論で流行りの「メディアの記号分析」などは書かれていないが、記号論を手際よく、しかし

じっくりと紹介してくれる。内容にまで踏み込んだレビューは見聞伝(立花ゼミのメインサイト)の『僕らはこんな本を読んでいる』

コーナーにいずれ書くことにしよう。このブログ内で書いた本のレビューは順次あちらのコーナーへ移していくつもりだ。

 

 次の授業はマルク・ブロックを自分で読む授業。その次の金森ゼミで、今日は何を(誰を)扱うのかが楽しみである。

マスクと視線の生政治

 

 今日は法Ⅰが休講になったので出席すべき授業がほとんど無くなった。

家で一日ゆっくりしていようかと思ったが、宇宙科学のレポートを返却してもらう必要があるのを思い出して学校へ行く。

帰ってきた宇宙科学のレポートはA++で、妙に満足感を味わった。

 

 休講、と書いて思い出したが、関西では休講及び休校が相次いでいると言う。原因はもちろん豚インフルエンザの流行だ。

(個人的に豚インフルをTONFULと呼んでいる。TOEFULと掛かっている感じが気に入っている。草食系男子、などという無理やりな

ネーミングよりもよっぽどいい名前ではないかと思うのだが、いかがでしょう。)

僕の母校もどうやらしばらく休校になった様子。休校になった高校生たちがカラオケに殺到して大行列、などというニュースを

耳にしたが、自分も休校になったらついつい遊びに出たくなるような気がして、あまり批判できたものではない。

さらに、この未曽有のTONFUL事件に対応して、マスクの売り上げが前代未聞なことになっていると聞く。

ヤフオクで10倍ぐらいの値段で取引されているそうだ。値段の跳ね上がり方にもビックリしてしまうが、そもそもオークションで

マスクを買う、という行いが為されていること自体驚きである。

大学でいくつかの授業を受けている限りで言えば、教授たちは今回のTONFUL騒動に懐疑的というか「メディアが騒ぎすぎ。」

という意見を持っていらっしゃる方が多いように感じている。病理学の知識が無い僕にはTONFULの実際の危険性が分からないので

果たしてメディアが騒ぎすぎなのかどうかは何とも言えないが、この機会にちょっとばかりこの事件について考察を加えてみたい。

 

 それは、今回のTONFUL事件は、まさにフーコー的な視点で分析してみる価値のある事件ではないか、ということだ。

少し前に『チフスのメアリー』という本を紹介したが、TONFUL事件はこの本で描かれていることと極めて近い状況にあるようにも思われる。

TONFULが発病している関西でマスクをしている人たちは

「マスクをしても防げないのは分かっている。でもマスクをしていないと他人から嫌な目で見られるからマスクをしている。」

と話しているらしい。つまり、菌を避けるのではなく、他者からの視線を回避するためにマスクを着用しているのである。

「自分が保菌しているか分からんけど、何にせよとりあえず他人に移さないように努力しています。」

ということを表象しようとしているのだ。(断わっておくが、マスクをつけるべきだという論調を非難している訳ではない。)

このように他者からの視線によって埋まれる「権力」、それはまさにフーコー的な「権力」の図式の最たる例ではないか。

フーコーが述べた権力の図式とは、La Volonté de Savoir 知への意思 によれば、

 

1.権力は無数の点から出発し、不規則で一定しない諸関係によって成立するゲームの中で機能する。

  揺れ動く諸関係の中でそのつど創り出されるものである。

 

2.権力の諸関係は、経済、学問、性といった現象が生み出している諸関係の外にあるものではなく、

    そうした諸関係の中に創り出されている。あらゆる社会現象の中に権力関係が存在するのである。

 

3.権力は下部からくる。支配するもの、されるものという古典的二項図式は否定される。社会の基盤にある家族や社会、

    サークルなどの小集団のなかで生み出される力の関係が、全体を統括する権力関係の基礎となる。

4.権力をふるうのは特定の個人でも組織でもない。あくまでも諸関係の中で、その作用によって権力が行使される。

 

といったものである。

マスクをつけていない人に対して冷ややかな目を注ぎ、マスクをつけろよ、という視線の暴力で

個人の自由( 「マスクなんかつけなくてもいいのでは」 )を侵犯する。

それはまさに、上からの権力ではなく、集団の中で生み出された権力、生政治bio-politiqueではないだろうか。

 

 などと考えつつ、五月祭の模擬店の前売り券を作成した。前売り券はその場で使い捨てるようなものなので

デザインに凝る必要はないのだが、ついつい凝ってしまった。安田講堂前の大通りでやってるので皆さん是非来て下さい。

もしかしたら五月祭自体がTONFUL事件で中止になってしまうかもしれませんが。

なお、本日は山川出版社の『新体系日本史2  法社会史』と福島章『子どもの脳が危ない』(PHP新書,2000年)を読了。

詳しいレビューは、ゼミのページにある、『僕らはこんな本を読んでいる』企画の中に書こうと思っている。

スポーツで人と出会う一日。

 

 昨日は看板のデザインに没頭していてブログを書く余裕が無かった。でもとりあえず完成したので良しとしよう。

画像を載せようと色々やってみたのだがなぜかエラーが出て画像が表示されない。仕方ないので文字で宣伝する。以下、宣伝。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

五月祭で焼鳥を食べたくなったあなたは、【焼鳥屋とぅるてるたうべ】 にどうぞ!

一本100円でネタはネギマ・かわ・砂肝から自由に選択できます!また、味は塩とタレの二種類を用意してあります!

「ブログを読んで買いに来ました。」なんて言えば、もしかすると秘密のサービスがあるかもしれません。お楽しみに!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

宣伝終わり。

というわけで是非来て下さいね。

 

 さて、今日は二限がソフトボール。暑いぐらいの日差しに涼しい風が時折吹いてきて、最高に気持ちいい天気。

こんな天気の下で運動をしてテンションが上がらないわけがない。楽しく試合をやって、連勝した。今のチームは守備も攻撃も

素晴らしく上手い。キャプテンということで、前回の試合ではあんまり打たないようにしていたのだが、みんながガンガン打っていく

中で凡退するとちょっと悲しくなるので、今日は遠慮せずに打って打点4。真芯にあててセンターに返すととても爽快な気分になる。

 

 続く三限の政治Ⅰを自主休講にしてテラスで山川出版の『新体系日本史2 法社会史』を読んだりフラ語の単語を覚えたり、

エーリヒ・クライバーとACOの『田園』(確か1953年ぐらいの録音)を聞いたりしていると、向こうから見覚えのある人がやってきた。

先ほどソフトボールで一緒だった人である。四限の授業で同じものを(かんさんじゅん)を選択していたので、一緒にかんさんじゅんを

受ける。朝鮮戦争にまつわる映画(Joint Security Area)を見た。自分では絶対レンタルしない内容の映画だ。

でもレポートを書かねばならないので、一応真剣に最後まで見る。内容はここに書き切れるものではないから書かないが、

ショットの切り替えが安易すぎて映画の価値を落としているように思えてならなかった。

 

 五限は高等動物の比較生物学。今日のテーマは、動物も痴呆症にかかるか、というもの。

前回の「毒」にまつわる話に比べてあまり面白くなかった。

ピアノで久石譲 Asian Dream Song を何回かさらったのち、ボウリングに行く。

やたら盛り上がっている団体が二組いてお互いとても楽しそう。きっと大学生だろう。

投げているうちに、横のボックスで投げていらっしゃった妙齢の女性とちょっと親しくなる。色々話をしながら9G投げ切った。

はじめて話した人なのに「また一緒に投げましょうね。」と言って頂き、社交辞令だったとしても大変嬉しい気持ちになる。

 

ついでにここに書いておこう。

僕がボウリングを続けている一番の理由は、色々な人と交流を持つことが出来て楽しいから、という理由である。

スポーツとしてボウリングをやっていると、年齢層も職業もばらばらの人と仲良くなれる。

自分と全く違う世界を生きてきた人たちの話を聞かせてもらうことが出来る。思い返せば、ボウリングをやっていたことで様々な人に

出会ってきた。大阪フィルの元奏者の方、主婦の方、左官屋さん、企業の社長さん・・・年上の人に限らず、先日にはコンパ前に

ボウリングに来ていた日本大学の一年生の集団ともl仲良くなった。このように多様な方々から教えて頂いたことや、

見せてもらったことは、到底ここに書き切れるものではない、いろんな世界があるんだなあと毎回毎回思う。

 

 ボウリングを通じて、本当に貴重な出会いをしてきたと思う。その意味では、学生連合に入って投げていた昨年は本当に不毛だった。

学生連合に入って投げる、ということは、組織に所属しているという安心感を得られるかもしれないが、色々な人と出会うという

可能性を自ら拒否することになってしまう。開かれた環境でボウリングを通じて自由に人との交流を行うことが可能な今のほうが、

よっぽど楽しい。昔、僕の師匠が

「マイボウラーとかハウスボウラーとか、そんなものはボウリングにとって関係ない。学生たちが大声で騒ぎながらやろうが、

腕に何かメカメカした装置を付けたおじさんが一生懸命投げていようが、それはどちらもボウリングだ。

ボウリングはマイボウラーのためのものではない。レジャーの楽しみ方だってあっていい。だから、レジャーボウラーにいやな顔をする

なんて論外で、レジャーボウラーたちと一緒に楽しく横のボックスで投げれるようにならなければいけない。楽しく、良い投げ方で

そして良いスコアを出していれば、注意なんかしなくてもレジャーボウラーは右側優先を守ってくれるようになる。

周囲の人との関わりを楽しみながら、とにかくボウリングを楽しめ!」

と言っていたが、まさにそういうことなんだと今になってこの言葉の意味を噛み締めている。

 

 そんなこんなで、今日はスポーツを通じて色々な人と出会う一日だった。

アイデアが湧くのをひたすら待ちつつ、色々読む。

 

 昨夜からずっと、五月祭でクラスが出す模擬店の看板デザインを考えている。

以前Fresh Start用の立看板を作ったときにも感じたことだが、ディスプレイよりも遥かに形状が大きく、そして横長のものを作ろうと

するとイメージがなかなか湧かない。バランスなどを想像しづらいのである。

それだけではなく、今回は店名が非常に難しい。「焼き鳥屋 とぅるてるたうべ」と言うのだが、この「とぅるてるたうべ」という文字が

曲線だらけで、なかなかスタイリッシュにならない。カッコよく背景を作ったとしてもその上に「とぅるてる・・・」と載せると、どうしても

脱力感に襲われてしまう。かといって、曲線を生かした可愛らしいデザインにして、ついでに端に鳥のイラストでも載せようもんなら

「焼き鳥」の字と相まって、「・・・この鳥が今から焼かれるのか。」 と妙に生々しくなってしまう。どことなく吉田戦車っぽいシュールさ。

これは困った。いっそレトロな感じにしてみようかなあ・・・。

 

 看板の締切が迫っているので詳しく内容を書く余裕が無いが、とりあえず 『古代天皇制を考える』(講談社,2001)と、

唯川恵『ベター・ハーフ』(集英社文庫,2005) 、それから『国家史』(山川出版社,2006)を読了。この三冊を並べて書くと変な感じだ。

『国家史』の第二章で「陣定」について、「注意すべきなのは下位の人から順に全員が意見を述べる慣行である。上位の高次の権力を

もつ人から発言したとすれば、下位の者は当然それに影響されるだろう。下位の参議から順に全員が判断を述べ最後に大臣が発言

する形式は、民主的な会議の運営方式であり、公卿各人の自主判断を重んじる方式である。」との一文がとても印象深かった。

 

なお、昨日の金森ゼミでネグリの生政治論について学んだことから、三年前に読んでイマイチ理解できなかった

『帝国 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(以文社,2003)を再読しはじめた。

一年の間にフーコーとドゥルーズを集中的に読んだことで、浪人中よりはこの本を理解できるようになった気がしている。

 

 

風と陽射しの一日。 『王権を考える』(編:大津透 山川出版社 2006年)

 

今日は風がとても気持ちいい陽気だった。ただ、夕方ぐらいからちょっと風が強すぎるて自転車を漕ぐのに一苦労。

「坂道+向かい風+空気抜けたタイヤ」という奇跡のコラボレーションが出来上がってしまい、電車で行けば良かったとちょっと後悔。

 

 まず二限がハンドボール。ハンドボールは今学期から始めたのだが、なかなか面白い。

キーパーの動き方にもかなり慣れてきた。最初はサッカーでGKをやっていた時と同じ動きで動いていたのだが、

それでは不十分な対応しかできない。下からボールが浮いてくることの多いサッカーでは、ボールが上に浮いてくる力を流すように

して手のひらや指先に乗せればゴールの外に持って行ける。しかし、ハンドボールではそうにはいかない。

身長と手の長さに加えてジャンプが加わるから、自分の頭の上からボールが叩きつけられるようにしてシュートが来る。

サイドに流すことは可能なのだが、それは角度のついたシュートを処理するときにしか通用しない。上から来るシュートに対しては

自分の体に当ててはじく方法しか無いんじゃないだろうか。だからこそポジショニングが重要になってくる。幸いにしてサッカーよりも

ゴールが圧倒的に狭いから、シュートコースを切るポジショニングが比較的やりやすい。どこに立つか、をもっと意識して掴もうと思う。

 

 三限は英語二列。大して面白くはない。必修の授業とはそういうものだ。

四限は比較芸術の授業で、駒場美術館へ。矢内原忠雄の特設展を見たり、秘蔵の展覧会カタログ所蔵室に入らせてもらったり。

カタログ所蔵室はなかなか面白かったが、以前に国立新美術館のカタログ所蔵室に入らせてもらった経験があるため、

量・内容ともにやや物足りなかった。もちろん、大学の中に4000冊ものカタログが所蔵された場所があるのは凄い事だと思うのだが。

 

 授業終了後、テラスのベンチで五月祭で出す模擬店の看板デザインをラフスケッチする。

何個か案が浮かんだがどれも実現にとても手間のかかるものばかりだ。普通でいいのに、よく分からないコダワリが邪魔をする。

 

なお、本日は『王権を考える 前近代日本の天皇と権力』(編集:大津透 山川出版社 2006年) を読了。

2005年11月に開かれた史学会シンポジウムの内容を纏めたもの。様々な時代を対象に「王権」「権力」などをテーマに分析が

為されている。少し前に退官された五味文彦先生の東西王権論(今回は殆ど東の王権に関する議論だが)も読めて面白い。

なぜこのような本を読んだかと言うと、日本史の本を定期的に読むようにしていることに加え、先日紹介したマルク・ブロックの

『王の奇跡』を読んでいて、日本の王権はどうだったのか知りたくなったというのが主な理由である。

日本史を紐解いて王権を考えることは、必然的に天皇制について考えることに繋がるはずだ。

というわけで講談社の『古代天皇制を考える 日本の歴史8』も併せて手元に置くことにした。

これを読むために、長い夜を覚悟してミントジュレップを作る。

ミントジュレップは五月初旬に開かれるケンタッキー・ダービーの名物カクテルで、ミントの葉をソーダーとシュガーシロップを混ぜた中で

潰しておき、それをクラッシュドアイスを一杯に詰めたグラスにバーボンウイスキーと一緒に注いで作るカクテルである。

単純だが、とても美味しい。夏を感じる日差しになると飲みたくなる。とはいってもいちいちミントの葉を調達してなんかいられないので、

今回は既成のミントジュレップを使用した。ベースはアーリータイムズである。これを氷を入れたグラスに注いでステアするだけ。

ミントジュレップ、即席バージョン。とても美味しい。度数もそれなりに高いので、夜中の目覚ましにもなる。

 先述の本は中々読むのに難儀しそうだが、このお酒と一緒なら良い気分で読めるだろう。

 

下の画像はちょっと前に頂いた百合。つぼみだったものが綺麗に咲いた。

部屋の中が百合の良い香りで満たされていて幸せである。

頂き物の百合。とても綺麗に咲いた。