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布団の国の王様

 

珍しく風邪を引いた。

38度という高熱を久しぶりに経験して、一日中ずっと家に籠っていた。

 

風邪を引いて布団に寝転んでいると、必ず思い出す小説がある。

「童謡」という小説がそれだ。これを初めて読んだのは確か小学二年生の頃だったと思う。

やることを全て放棄して寝転んでいると、作中に出てくる「高い熱はじき下がる。微熱はいいぞ。君は布団の国の王様になれる」

という一節が強烈に蘇るのだ。

 

この小説、しばらく後にはこう続く。

 

「布団の国は楽しくないぞ」「うんそうだろう。ずいぶん痩せたな」

少年の目には友人が若々しい生命力に溢れているように見えた。生きている人間の世界からずり落ちかけている自分を感じた。

(中略)

それから二十日ほど経って、少年はこの土地を離れた。少年の躯は以前の形に戻っていた。久しぶりに学校へ いった。

「すっかりよくなったね。今だから言えるけれど、見舞いに行ったときはびっくりしたよ。君とは思えなかった」「うん」

校庭の砂場では高く跳ぶ練習 をしていた。少年は、不意に勢いよく走り出し跳躍の姿勢にはいった。しかし、横木は、少年の腰にあたって、落ちた。

「前は高く跳べたのに」友人はささやい た。少年は「もう高く跳ぶことはできないだろう」と思った。

そして、自分の内部から欠落していったもの、そして新たに付け加わってまだはっきり形の分からぬもの。

そういうものがあるのを、少年は感じていた。

(「童謡」より抜粋)

 

簡潔にしてキレのある文章。鋭いながら豊かな余韻を失わぬ筆致。

この「童謡」という作品が僕の一番好きな作家、吉行淳之介によるものであったのを知ったのは、つい最近のことだった。

 

 

 

 

「戦争と文学」講演会@早稲田大学大隈講堂

 

早稲田大学大隈講堂で立花先生の講演会の助手をしてきました。

大隈講堂の舞台の上に昇るのはもちろんはじめて。よく考えたら東大の安田講堂にも昇った事がないかもしれません。

舞台の上から客席を見ると二階席までかなりの人数で埋まっており、身が引き締まる思いをしました。

 

講演会自体は集英社の「戦争×文学」というコレクションの発刊に関するもので、立花先生は「次世代に語り継ぐ戦争」といテーマで

「戦争×文学」に収められたエピソードを適宜引用しつつ、沖縄の話からアウシュヴィッツ、香月泰男まで幅広く「戦争」のリアルな側面を

話されていました。前日に先生と打ち合わせた内容と随分話の展開が変わっていて助手としては焦りましたが、僕が立花先生の助手をしていて

一番好きなのは、こういう予想外の脱線や閃き、その場の雰囲気で流れががらっと変わるアドリブの部分なので、神経を尖らせて助手仕事をしつつ

「どんなふうに昨夜準備したこのスライドを使うのだろう」とワクワクしながら先生の話に耳を傾けます。

準備段階では資料を探してそれらを一本のストーリーで繋げる先生の構成力(と体力!)に毎回驚かされますし、

講演会でこうしてアドリブになればその博覧強記ぶりに圧倒されます。知識や本、映画や絵画がまるで呼吸するように湧き出てくるのです。

話しながら先生自身もワクワクしている様子が肌で伝わってきて、「ああ、こういう仕事を出来るようになりたいな。」と思わずにはいられませんでした。

 

先生と一緒にお仕事をさせて頂くと、自分の無知に嫌というほど気付かされます。日々勉強あるのみですね。

 

ハイデガーの面白さ。

 

ハイデガー、というのは僕にとって近付き難い哲学者の一人でした。

『存在と時間』の邦訳は浪人していたころから持っていたし、色々な文脈でハイデガーの名前が出てくるにつれ

「読まねば」と思い続けていたのですが、それでも「しかし僕にはまだ早い。」という思い込みで遠ざけていました。

 

ですがこの春から休学してから、ドイツ語読解力を落とさぬようにと『存在と時間』の原著Sein und Zeitを一日に一ページずつ、

色々な解説本を参照しながらゆっくりゆっくりと読み始めていました。

論が進むにつれて「どうしてもっと早く読まなかったんだ!」と叫びたくなるぐらいの衝撃に駆られます。

ああ、当時/後世の思想家や哲学者たちに(あるいはナチスに)影響を与えたのも頷けるな、と。

 

最終的に「共存在」が民族や共同体と接続されていくところはやはり納得できませんが、それを抜きにしても

やはりハイデガーは読まなければならない。そして今まで色々な思想家(たとえばナンシーの『無為の共同体』)の

著作を読んできましたが、その中にはハイデガーを理解しないことには理解出来ない(何が本当に問題なのかが分からない)ものも

沢山あったことに気付き、自らの不明を恥じました。僕は何にも分かっていなかった!(そして、きっと今も。)

夏の間にハイデガーのこのSein und Zeitを何とか一通り読み終えて、もう一度ナンシーやリクールを読み直してみるつもりです。

同期の友人たちはみな卒論に追われつつも、就職も次々と決まって社会人へとその歩みを進めつつあり、

その様子を見ていると少し自分の現状が不安になりますが、その一方で、こうして休学という身分を利用して

ゆっくりとハイデガーを一人で読み進めることが出来る時間を得られたのは、かけがえのないことだなと思っています。

 

 

現在、朝の五時。暑いけれども今日はとても天気が良いようです。

アイスコーヒーを淹れて、ハイデガーの邦訳とウェーバー「舞踏への勧誘」のスコアだけ持って

携帯も財布も家に置いたまま、公園に寝転がって、陽射しが眩しくなるまで読んでくることにします。

音楽も思想も文章も同じ。所属しないことを楽しみながら、一年間をゆっくりと、

自分が本当に学びたいもののために捧げたいですね。

 

 

きみ、ツィオルコフスキーについて知ってる?

 

猫ビル(立花隆事務所)で作業を少しして、帰ろうと思ったところで、

「きみ、ツィオルコフスキーについて知ってる?」と立花さんに呼び止められた。

 

立花隆の話はいつも唐突だ。さっきまでアウシュヴィッツの話をしていてコルベ神父のエピソードを調べていたのに、

今度は突然ロシアっぽい名前が飛んできた。ツィオルコフスキー。

初めて聞く名前で言葉に詰まる僕に、立花さんはバサバサと本を棚から引き抜きながら雄弁に説明する。

「彼が今の宇宙研究の基礎を作ったんだよ。ロケット開発は彼の研究があってこそ。

日本ではなぜかあまり一般に取り上げられることのない人だけれど、この人は相当変な人だったみたいだよ。というのはね…」

 

言葉と知識が溢れ出す。

本当に楽しそうに話す立花さんのその様子に僕も楽しくなりながら、同時に自らの知識の狭さに悔しくなる。

早く帰ろうと思っていたのも忘れて、こっそりネットでツィオルコフスキーのことを調べてウェブで関連書籍を注文する。

次に立花さんがツィオルコフスキーの話を振ってきたときにはスラスラと答えられるように。そうやってこの一年間勉強して行こうと思う。

 

立花さんの好奇心の炎は途切れる事がない。あの人の頭の中では、取材や本や思考を通じて、世界が一瞬一瞬広がっている。

張り巡らせたアンテナの感度、その反応の早さ!気になったらすぐに足で調べる。手に取って読む。専門家に聞く。

自分の生きている世界は狭いものだけれど、それでも、世界は、いつでも広げる事の出来る可能性をその内に秘めているのだと思い知らされる。

 

 

 

休学という選択、夢中になれるもの。

 

東京大学を休学することにしました。

何を突然、と思われるかもしれませんが、実はずっとずっと考えていたことです。

 

立花隆のもとで、一年間助手をして過ごします。

立花さんと一緒に日本を飛び回りながら、昼間は猫ビルに籠り、あそこにある本を読める限り読みつくそうと思います。

村方千之のもとで、一年間指揮を集中的に学びます。

おそらくもう二度と日本に現れる事のない不世出の大指揮者だと僕は信じて疑うことがありません。

「知性」と「感性」の師、そして「死」を意識するこの二人の巨匠と接して以来、

この機会を逃してはならない、と思い続けてきました。

 

はじめて立花事務所、通称「猫ビル」に入らせて頂いた時の感動は忘れられません。

僕が憧れていた本に囲まれた乱雑な空間がそこにありました。図書館とは違う空間。

陳列や収集の空間ではなく、一人の人間の「頭のなか」そのもの。

何万冊もの本が書き込みと付箋だらけでそこかしこに散らばっている。

一つの本を書いたり話したりするためにこれだけの勉強をされていたんだ、と背筋が伸びる思いをしました。

 

そしてまた、村方千之にレッスンを見て頂いた時、また師のコンサートで「ブラジル風バッハ四番前奏曲」を聞いた時の

感動は生涯忘れる事が無いでしょう。「シャコンヌ」の堂々として祈りに満ちた気品、ベートーヴェンの「運命」や

ブラームスの一番の何か太い芯が通ったような強靭さ。息の止まるような感動をなんど味わったことか。

眼を閉じて聞いているだけで感動が抑えきれなくなるような純然たる「音楽」がそこにありました。

 

本と音楽が好きな僕にとって、これ以上の出会いは無いでしょう。

ですが、お二人に接する事の出来る残り時間は限られている。

巡り会えたという喜びと、もう時間はあまり無いのだという焦りとを同時に味わいました。

この機会を逃すと僕は一生後悔する。そしてこれらは片手間に勉強できるものではないし、片手間に勉強することが許されるものではない。

二浪していて僕はすでに23という歳ですが、もう一年を賭けてもいいと思えるぐらいの衝撃を受けたのでした。

 

休学を考えていた頃に巡り会った、コクトーの文章が背中を押してくれました。

コクトーはこう書きます。

 

「孤独を願うのは、どうやら社会的な罪であるらしい。一つ仕事が済むとぼくは逃げ出す。ぼくは新天地を求める。

習慣からくる弛緩を恐れる。ぼくは、自分が技術や経験から自由でありたい ―つまり不器用でありたいと思う。

それは、奇人、叛逆者、曲芸師、空想家であることなのだ。そして賛辞としてはただ一つ、魔術師。」

 

「彼(エリック・サティ)はそこで自分を軽石で磨き、自分に反撃し、自分にやすりをかけ、

自分の繊細な力がもはや本源から流出するしかなくなるような小さな孔をきたえあげたのだった。」

 

浪人中に僕はそんな時間を過ごしました。

いま、そうした時間を自分が再び必要としていることに気付かされます。

ヴァレリーの言葉に「夢を叶えるための一番の方法は、夢から醒めることだ。」というものがありますが、

その通り、夢中になれるものを見つけたなら、自分の身でそこに飛びこまないと夢のままで終わってしまう。

だからこそ、レールから外れて不安定に身を曝しながら、一年間学べる限りのことを学んでいきたいと思います。

 

この選択を快く許してくれた両親には心から感謝していますし、回り道が本当に好きだなと

自分でも改めて呆れてしまいますが、後悔は少しもありません。

どんな一年間になるのか、どんな一年間を作っていけるのか、ワクワクしながら2011年の春を迎えています。

 

 

 

Il faut être voyant.

 

アルチュール・ランボーのドメニー宛書簡より。

 

「というのも、〈私〉は一個の他者なのです。(JE est un autre) 銅がめざめてラッパになっていても、なんら銅が悪いわけでは

ありません。それはぼくには明白なことです。ぼくはいま、自分の思考の開花に立ち会っているのです。それを見つめ、それに耳を

傾けています。ぼくが楽弓をひと弾きする。そうすると交響楽が深みで動き出す。あるいは、舞台上に一気に躍り出る。」

 

「ぼくは言います。見者でなければならない、見者にならなければならないと。〈詩人〉は、あらゆる感覚の長期的な、広範囲にわたる

論理に基づいた錯乱によって、見者となるのです。 あらゆる形の愛、苦痛、狂気によって。詩人は自分自身を探求し、自分の内から

あらゆる毒を汲み尽しては、その精髄だけを保持するのです。」

 

「この言語は、魂から発して魂へと伝わるものとなるでしょう。さまざまな香り、音、色彩など、思考をひっかけて引き寄せるような思考の

要素すべてを要約するのです。詩人は、自分の時代に普遍的な魂のうちで目覚めつつある未知なるものの量を、はっきりさせる

ことでしょう。つまり彼は、より以上のもの―自分の思考の表現形式や、〈進歩〉へと向かう自分の歩みの記録などを超えたものを与える

ことでしょう。規範をはずれたものが規範となり、それが万人に吸収されて、詩人はまさに進歩を増大させる乗数となることでしょう。」

 

 

ヴェルディ『La Traviata 椿姫』@新国立劇場

 

「夕鶴」に続いて、「椿姫」を見てきました。

椿姫といえば、これまた良く知られたオペラで、原作となっているアレクサンドル・デュマによる小説も今に至るまで読み継がれているもの。

ですが小説とオペラの内容は結構違っています。まず主人公二人の名前が全く違う。さらにオペラの方はヒロイン(ヴィオレッタ)と

男(アルフレード)の二人の純愛の世界を描く要素が強くなっています。

 

このオペラ、僕はカルロス・クライバーの録音を昔から愛聴しており、一幕や三幕の前奏曲は大好きな曲の一つ。

師匠がかつて一幕の「ああそは彼の人か」を演奏したこともあってスコアも入手していましたし、有名な「乾杯の歌」もこの間自分で

指揮したばかり。これはという曲をいくつか選んで、スコアを勉強したうえで実演(公演初日です)に臨みました。

 

チューニングが終わり、電気が落ちて(いつもはチューニングしつつ電気が落ちるのですが、今回はなかなか落ちませんでした。

手違いでしょうか)、あのすすり泣くような一幕の前奏曲が始まります。

ですが…うーん、何と言ったらよいのか、あざとい。自然な流れが無く、僕が感じたものとはフレーズの捉え方が違って

(どちらが正しいとかそういう問題ではなく)ちょっと違和感を抱いてしまいました。

オーケストラの音も一幕の間はずいぶん固く、音の伸びが足りない印象。アルフレード役の方も最初はかなり固かったです。

 

二幕になると音から随分と固さがとれ、とくにヴィオレッタとアルフレード役の方々がのびのびと歌っていらっしゃったように感じます。

それにしてもヴェルディの音楽というのは本当に凄い。とくに三幕の最後、ヴィオレッタが自らの死の予感に直面したときの

感情の描き分けなんて天才だと思います。僕はこの部分を聴きながら、エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』という書物を

思いだしました。キューブラー・ロスは200人の末期がん患者に聴きとり調査を行い、死に直面した人たちは

「否認と孤立」「怒り」「取り引き」「抑鬱」「受容」というプロセスを経て死に向き合っていくということを本書で述べていますが、

三幕のヴィオレッタはまさにそうした感情の渦に巻き込まれます。そして一幕・三幕の前奏曲のあのすすり泣くような弦の旋律が何度も

リフレインされる。金管を効果的に用いて不安を表現し、再びピアニッシモで静謐さを満ちさせ、劇的に突き進んでゆく。

死を前にした感情の揺れ動きを音楽で見事に描写しているように思われました。

 

そんなことを考えながら終演後ホワイエに出て窓の外を見ると、世界が白く見えるほど雪が降っており、

そればかりかすでに積もり始めていました。新国立劇場の窓ガラスから雪が見えたのはじめてでしたが、何だかとても綺麗で

静かに感動。結局、その日は夜を通じて雪が降り、東京とは思えないほどの積雪を記録することになったようです。

これから先、「椿姫」を見るたびに雪を、雪を見るたびに「椿姫」を思いだしてしまいそうな気がします。

 

ジャン・コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』 ― 賛辞としてはただ一つ、魔術師。

 

久しぶりに、背筋が震えるような本に出会った。

ジャン・コクトーの『ぼく自身あるいは困難な存在』(ちくま学芸文庫)という一冊だ。ジャン・コクトーについては『恐るべき子供たち』を

読んだだけで彼の他の本は知らなかった。この本はいきなりこう始まる。

 

「語るべきことを語りすぎ、語るべきでないことを充分には語らなかったためぼくは今自分を責めている。しかし、よみがえる様々の

ことどもは、周囲の虚無の中にあまりにみごとに吸収されているから、例えば実際それが列車であったのか、またどれが、

沢山の自転車を積んだ貨車を牽いていた列車であったのか、もはやわかりはしない。…….涙はこぼれんばかり。それは家のことでも、

長く待っていたからでもない。語るべきことを語り過ぎたため、語るべきではないことについては充分に語らなかったからだ。

だが結局すべては解決がつく。ひとつ、存在してゆくことの難しさを除いては。これは決して解決がつくものではない。」

 

そして、次にこう始まる。

「ぼくは五十歳を過ぎた。つまり、死がぼくに追い付くのにそれほど長い道のりを必要としなくなったということだ。」

 

「射撃姿勢をとらずに凝っと狙いを定め、何としてでも的の中心を射抜く」という有名な一文もそうだが、挙げればキリが無いぐらい

コクトーの言葉は凝縮されていて、無駄がないのに詩的なものを失わない。ちょうどいま思っていたこと・思いたかったことが

イメージの豊かさを漂わせつつ明晰に言語化されている。それらはどれも、四月からいくつか身の振り方を考えて悩んでいた

僕にとって一つの選択肢を強烈に推してくれるものだった。今までなぜ出会わなかったのかと不思議になる。

その一方で、今このタイミングで出会えたことに運命を感じている。最後にもう二つだけ引用しておこう。

 

エリック・サティについて述べた部分。

「彼はそこで自分を軽石で磨き、自分に反撃し、自分にやすりをかけ、自分の繊細な力がもはや本源から流出するしかなくなるような

小さな孔をきたえあげたのだった。」

 

コクトーが自身の仕事について書いた部分。

「孤独を願うのは、どうやら社会的な罪であるらしい。一つ仕事が済むとぼくは逃げ出す。ぼくは新天地を求める。

習慣からくる弛緩を恐れる。ぼくは、自分が技術や経験から自由でありたい ―つまり不器用でありたいと思う。

それは、奇人、叛逆者、曲芸師、空想家であることなのだ。そして賛辞としてはただ一つ、魔術師。」

 

 

日曜日のすごしかた。

 

久しぶりに予定の無い日曜日だった。

昼前までゆっくりと寝て、ゆるゆると布団から這い出て家事をし、着替え、Pierre Bourdieu – Agent provocateur -という本一冊と

財布と携帯だけを持って、お気に入りの小さなカフェへ。い つものように、マスターのドリップの手つきが良く見えるカウンターの端に座る。

もう何十回と来ていて顔を覚えられているから、頼まなくても一杯目はブレンドを出して頂ける。

丁寧に蒸らして淹れながら「今日は何の本を?」と初老のマスターが顔を上げずに僕に尋ねる。

「今日はこれです」そう言って持ってきた本 を見せると、マスターはふっと顔をあげて、いつも通り「そうか。ゆっくりどうぞ。」と笑顔で

珈琲をくださる。会話はそれっきりで、時々他のお客さんが入ってくると賑やかにもなるけれど、静かに時間が流れてゆく。

店内にはビゼーの「カルメン」の組曲が控えめな音量でかかっていて耳に心地よい。ブルデューもビゼーもフランス人なんだな、と

とりとめもないことをぼんやりと考える。珈琲の香りが、目の前にある緑と金で縁どられたジノリのカップから、あるいは煎りたての豆が

並ぶカウンターの向こうから、ふわりと豊かに漂ってくる。

 

お客さんが増えてきた三時頃、軽く睡魔に包まれながらそっと店を出る。

起きた頃には高かった陽はもう傾きはじめ、西日が世界を斜めに照らす。ああ、もう一日が終わり始めている、と嘆息する。

眠気の残る頭のまま、予約もせずに美容院へと向かう。うとうとした心地のまま誰か他の人に髪を洗ってもらい、切ってもらう。

そんな幸せなことがあるだろうか。身体に触れる手の温度が心地いい。こうやって人の温度をゆっくり感じたのは久しぶりかもしれない。

そうだ、今日は自分のために一日を使おう。まどろむ思考の中で決意した。

 

そうして、二カ月に一度通っている中国整体へ足を運ぶ。

ここで身体のバランスを見てもらうのが僕にとっては一番の体調管理。疲労もゆがみも身体を見れば一発で分かる。

身体は正直なものだ。しばらく無理を重ねていたから背中に相当な負担が来ていたことを感じつつ、南京で覚えた拙い中国語で先生と

話し、「日本語も中国語も難しいね!」と呵々大笑する。施術が終わると、背中から誰かがはがれたみたいに身体が軽くなっていた。

 

身体が軽くなると、すぐに動きたくなる。じっとしていられない。昔からそうだ。

近くのカフェに入ってフランス語をやり始めたもののすぐに我慢が出来なくなって席を立ち、自宅に走って帰って準備をし、

いそいそとボウリングへ出かけた。もう一つの体調管理。ボウリングは僕にとって禅のようなもので、集中力チェックの意味を

果たしてくれる。日々の音楽の勉強で学んだことがボウリングに影響を与えてくれる。指揮もボウリングも、立った瞬間から

勝負がはじまっていて、背中で語らなければならない。一歩目、二歩目は楔を打ち込むようにしっかりと、しかし擦り足で弱拍。

我慢の限界というほどにゆっくりと歩くと、周りの景色が違って見えてくる。背中に静寂が吸いこまれていく感覚がある。

そして四でがっしりとタメを作り、時間と時間の隙間に無重力の一瞬を生みだして、一気に、しかしリリース・ゾーンを長く取って、

全エネルギーをボールに乗せて放つ。その繰り返し。ひたすら自分の精神と身体に向かい合う。

軽くなった身体で、一心不乱に七ゲーム投げ続けた。

帰ってまた本を開き、疲れたところでフランス語を始める。

そうするうちに夜はどんどん更け行き、日があっという間に変わってしまう。焦りとともに、指揮の課題として勉強しているバルトークの

ミクロコスモスNo.140.141を開き、読み込み、この目まぐるしく移る変拍子をイメージする。運動ではなく、音楽として感じられるように。

少しでも音楽が出来るように。

続けて、5月に指揮するプロコフィエフの「古典交響曲」のスコアを開いてCDを流しながらざあっと読んでみる。

わずか15分足らずの曲なのに、編成もハイドン時代の古典的な編成なのに、がっちりとした枠の中に多くの逸脱がある。

大胆な和声、意表を突く和声、楽器のテクニカルな交差。形式の中に刻み込まれた皮肉とユーモア。プロコフィエフの天才。

どうやったらこれを表現出来るのだろう。

新聞屋さんがポストにカタンと音を立てた。

もう五時だ。一日の終わりに、もう10年近く使っている万年筆を手に取り、原稿用紙に向かう。

書かなければならないことは沢山あって、書きたいこともとめどなく湧き出てくるのに、書けることはほんの僅かだ。

ため息をついて椅子の背もたれに寄りかかる。お風呂上がりに淹れたお茶はすっかり冷めてしまっていた。

朝六時。そろそろ寝よう。世界が動き始める。日曜日を終えるのは怖いけれど、月曜日を始めなくてはならない。

ポール・リクール『記憶・歴史・忘却』(2004,新曜社)

 

最近読んで衝撃を受けたのがこれ。原題はLA MEMOIRE,L’HISTOIRE,L’OUBLI.

上下巻に分かれており、分厚さだけでも衝撃的なのですが、中身はもっと凄いです。まだ理解できたとはとても言い難いので

中身についての細かいレビューは避けますが、フーコーやアラン・コルバンに興味を持っている僕にとって、ポール・リクールの著書は

大いに刺激的なものでした。(それこそ、卒論のテーマ構想に影響してくるぐらい!)

リクールはコレージュ・ド・フランスのポストをフーコーと争った人でもあり、同時にアナール第三世代の影響を強く受けています。

ちなみにポール・リクールの講演はyoutubeで見ることができます。最近のyoutubeではフーコーやドゥルーズの講演も見る事が

出来るので、最近それらをフランス語リスニングの教材にしています。といっても、ほとんど分かりません。読んでも分からないのだから

当たり前といえば当たり前ではあります(笑)

 

リクールの本書を一通り読み終わったので、さっそく今日から再読し始めます。リクールの大著と並んで気になっている本に、

クリストフ・ヴルフの『歴史的人間学事典』があるのですが、こちらは値段が一冊一万円以上するので、簡単には買えそうにありません。

しかし紹介文を見る限りではめちゃくちゃ面白そう。

「歴史的人間学とは、伝統的な規範が拘束力を失った今、人間的な諸現象を多様に、トランスナショナルに学科横断的に研究し続ける

努力、止むことのない思考の活動性である。」

「本書で取り上げられるいずれの事象も、かつて哲学的人間学のように「・・・・とは何か」といった超歴史的・規範的立場からではなく、

ある特定の文化におい て、ある特定の時代において「・・・・はいかに語られてきたか」といった問題設定のもとで論が展開される。

嗅覚や味覚といった、一見超歴史的なものと思え るような事象についてもこうした観点は貫かれ、各文化や各時代の文学作品や

哲学書や民族誌などからその歴史性が明らかにされる。」

「ドイツで展開された歴史的人間学、アングロサクソンの伝統に根ざす文化人類学、フランス歴史学を基盤として、人間の生活様式、

表現様式、叙述形式や、その共通点、相違点を明らかにする。」

 

とあっては読みたくなるのも当然というもの。お酒を呑んだ勢いでAmazonにアクセスしてカートに突っ込もうと思ったのですが、

「在庫切れ」ということでかろうじてストップがかかりました。あぶないあぶない。とりあえずは中古で探してみて、無ければ改めて購入を

考えようと思います。学生には中々この金額は辛い。全頁きちんと読んでレビューを書くという条件で出版社の方が一冊提供して

下さったりしないかなあ、と妄想してみたりしますが、まあそんな美味い話はないですね(笑) 大人しく、いつかどこかで買うとします。